88:始まりの日
アリアが神殿に来てからかなり経ち、神殿での生活はアリアの一部となっていた。
朝起きて支度をして礼拝に行ってからの朝食。
午前中は公務の無い日は自室でのんびりハンナと過ごす。
午後からは巡礼に来る人々へ祝福を授ける。
と言っても簡単に声を掛ける程度。
治療を希望する者には治療を行う。
日が沈む頃になると自室へ戻り食事を取り、就寝。
そんな日々が続いていた。
アリアはいつも通り礼拝が終わり、朝食を食べて自室でのんびりしていた。
部屋にはハンナ、サリーンもいる。
フィンラルは明日の公務の準備で終日街へと出向いていた。
「明日は二月に一度の治療訪問です。しっかり治療して下さい」
「分かってるよ、サリーンさん」
「アリアは最近、気が緩んでいる気がするから念の為です」
アリアはそんな事は無いと言わんばかりに口を膨らます。
「アリア様、サリーン様の言う通りですよ。最近はぼーっとされている事が多いのですから気を付けて下さい」
ハンナはアリアが心がここに在らずと言った状態が気に掛かっていた。
が、そんな心配を他所にアリアは春の訪れによる眠気に勝てないでいるだけだった。
一人暢気に後でヒルデガルドの所に行ってお茶を楽しもうと思っていた。
「分かったよー」
やる気無い感じで返すアリアにハンナとサリーンは溜息を吐く。
「後でマイリア様の所に行こうかな、と思ってるんだけど、マイリア様って今日はいるかな?」
「今日は確か終日、街の代表と打ち合わせがあるとかで神殿にはいらっしゃらない筈ですよ」
サリーンがさらっと答える。
「サリーンさん、よくマイリア様の行動を知っているね?」
サリーンは一瞬、心臓が止まりそうだった。
ガリアからマイリアの行動を聞いていたのだ。
「フィンラルが同行しているからですね」
ふと頭にフィンラルの事が過ぎった。
「へぇ~、フィンラルも大変だね」
サリーンはアリアに勘ぐられたのかと思ったが気付いていない様で安堵した。
そんなサリーンの様子を訝しげにハンナが見ていた事には気が付かなかった。
「それにしてもあのお転婆なアリアがどうやったら聖女になるのか不思議です」
「それは私も分かんないよ。私自身望んでなった訳じゃないし」
サリーンの言葉にアリアは周りを気にせず答える。
だがその言葉がサリーンにとっては苦々しく聞こえた。
「アリア、他の人の前ではそう言う事を言っては駄目ですよ」
やんわり窘めるサリーンだが、本心では少し苛立ちがあった。
自分には無い物を何故か持つアリアへの嫉妬だった。
にこやかに笑顔を浮かべながらアリアへの黒い気持ちが抑えが効かなくなってきていた。
「大丈夫だよ。愚痴とかはここでしか言わないから」
アリアは自室以外では本音を言う事は無かった。
神殿の中では常に周囲を警戒していた。
特にボーデンには注意を払っていた。
あれから仲直りしたとは言っても考え方が合わないのは明らかで有り、アナスタシアと派閥上対立している相手と言うのもあった。
更にボーデンの派閥からアリアに対する声が厳しいものが増えてきているのも耳に入っていた。
曰く、聖女は人より獣を優先する。
曰く、聖女は人では無い。
曰く、聖女は獣に操られている。
曰く、聖女は偽者である。
様々な噂が飛び交っている。
これはアリアの行動がカナリス派の思惑と反対の方向へ繋がる行動が多い所為で反目を買っている状態だからだ。
それに加えてアリアの傍にいるハンナも反発を招いている要因だった。
聖女の傍に常に獣がおり汚らわしいと言う声が多いのだ。
アナスタシアからすれば種族融和の象徴として見ており、その効果かバンガ共和国への訪問が成立しそうな形だ。
この事にカナリス派は猛反発しているが、神教内の趨勢がアナスタシアとアリアが握っており、バンガ共和国訪問へ向けて現在、調整が目下行われている。
万が一でもバンガ共和国訪問が行われた場合、人間至上主義を掲げるカナリス派にとっては大きいダメージだ。
更に訪問先でバンガ共和国での布教が認められた場合、派閥の権威は地に堕ちる。
これは何としても避けなければいけない状況だった。
アリア自身、派閥との関わり合いは強くは無いが、考え方がアナスタシアと一緒なのでアナスタシアと一緒に見られている。
本人は派閥は関係無いと公言はしているが、カナリス派から見れば変わりは無い。
アリアは派閥争いなんて下らない事を何故やっているのか理解し難かった。
「そう言えばサリーンさんは何処かの派閥に入るの?」
「……いきなりどうしたのですか?」
サリーンはアリアの質問に心臓が飛び出しそうだった。
「いやー、最近、派閥争いが激しくなったから何処かに身を寄せておいた方が安全だから」
「私はどちらに就くつもりも無いですね。巻き込まれるのは勘弁して欲しいですから」
アリアは単純にサリーンが心配だったから聞いただけなのだが、カナリス派に身を寄せているサリーンは勘付かれたのかと思った。
「アリアはどうするのですか?」
「私はアナスタシア様寄りかな。人間自体そんなに立派だとは思ってないし。私は家族が大切にされる方が良い」
アリアの家族の範囲には当然、ハンナが入る。
「でもボーデン枢機卿を蔑ろにしている訳じゃ無いよ。あの人は凄く神教全体の事を考えている人だから上手くバランスを取る様に考えているよ」
考え方はアナスタシア寄りだが、だからと言ってボーデンに対して冷たい態度を取る事は無かった。
一時は喧嘩していた訳だが、アリアも反省した所があり、時折ボーデンの所に話に行ったりしているのだ。
行動の結果としてはボーデンの思いとは反対の結果を出しているので余り効果は無かったりする。
不意に扉がノックされた。
『アリア様、教皇猊下がお呼びです』
「分かりました。直ぐに行きます」
アリアは椅子から立ち上がる。
「ハンナはここで待ってて。サリーンさんと少し行ってくるから」
「畏まりました」
アナスタシアの所に呼び出された時は基本的にハンナはアリアの自室で待機だ。
理由は簡単でボーデンが一緒にいる可能性が高いからだ。
アリアの公務の取り仕切りや祭事全般を管理をボーデンが行っているからだ。
「サリーンさん、行こう」
「はい」
アリアとサリーンが部屋を出ると呼びに来た神官が部屋の外で待機していた。
「どうしたんですか?」
「いえ、教皇猊下から自室へ案内する様にと仰せつかりましたので」
アリアは不思議に思った。
呼ばれる時は執務室でアナスタシアの自室へ呼ばれた事が今まで無かったのだ。
「執務室じゃないの?」
「はい。何でも自室でとの事でしたので」
神官はアリアの質問に困った顔をする。
伝言役でしか神官に聞いても仕方が無いと思い、諦める。
「アナスタシア様の自室って、行った事が無いんだよね」
「私はありますね。一度だけ前を通った事があるので」
「サリーンさん、お願いしていい?」
「分かりました。アリア様は私が連れて行くからあなたはもう良いですよ」
サリーンはそう言って神官を帰す。
そして二人でアナスタシアの自室へと向かう。
アナスタシアの自室はアリアのいる部屋から離れているので意外と距離がある。
目的地へ到着すると部屋の前に騎士が二人立っていた。
「アナスタシア様がお呼びと聞き参りました」
「教皇猊下からアリア様が来られたらお通しする様に仰せつかっております」
騎士は扉を開ける。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
アリアとサリーンは騎士に一礼し、部屋の奥へと進む。
アナスタシアの部屋は入り口から部屋の中が直接見えない作りになっていた。
アリアはアナスタシアの部屋へ入るのは初めてなので少し楽しみだった。
そして部屋の奥へ入ると信じられない光景が目の前に広がっていた。
「え……何で……?」
アリアはその場に立ち尽くした。
そこにはベッドの上に横たわり胸を剣で貫かれたアナスタシアの姿がそこにあった。
アリアは何が起きているか理解出来なかった。
部屋に入れば何故かアナスタシアが胸を貫かれて死んでいるのだ。
余りにも突然の事で立ち尽くすしか出来ない。
「きゃぁぁぁぁぁぁぁ!?」
サリーンが目の前の光景に悲鳴を上げる。
その声は神殿の廊下を響かせた。
アリアはサリーンの声が耳に入ってこなかった。
部屋にたくさんの足音が近づいてくる。
サリーンの悲鳴を聞きつけた者だろう。
神殿に常駐している騎士の一人、教皇警護任されている騎士達がサリーンの悲鳴を聞き部屋へ入ってくる。
「どうされましたか!?」
黒毛の流麗な風貌の騎士が壁に寄り掛かっって倒れそうなサリーンを抱き抱える。
「ヘ、ヘンリー様……」
サリーンは教皇と立ち尽くすアリアを指差す。
「何があった!?」
「ア、アリア様が教皇猊下を……」
サリーンの言葉にアリアは振り返ってサリーンを見る。
「サ……リーン……さん?」
アリアはサリーンが何を言っているのか分からなかった。
部屋には遅れて到着した騎士達が入ってくる。
「聖女アリアを捕まえろ!!教皇猊下殺害の下手人だ!!」
ヘンリーは息を合わせたかの様にアリアが殺害犯だと言い、騎士達に命令した。
「ち、違うよ……サリーンさん……何で?」
アリアは信じられない者を見る目でサリーンを見る。
しかし、サリーンは何も答えない。
騎士がアリアへ近寄ってくる。
「私じゃ……私じゃない……」
アリアは首を横に振りながら後ずさる。
しかし、騎士は強引にアリアを捻り上げ、地面に押さえつける。
「い、痛い!!やめて!!私は何もしてない!!」
アリアは何もしていないと主張するが誰もそれを聞く素振りが無かった。
「聖女を騙った極悪人め。縛って牢屋へ連行しろ!!」
アリアは必死に抵抗するが騎士の力には敵わない。
「私はやってない!!サリーンさんも言ってよ!!ねぇ!?」
サリーンに必死に訴えかけるがサリーンは沈痛な面持ちでアリアから目を逸らす。
「何で!?何で、サリーンさん!!」
アリアは必死に叫ぶがサリーンは何も答えない。
「五月蝿い!罪人は静かにしろ!!」
アリアを縛り上げた騎士が強引にアリアを静かにさせる為に口に無理矢理布を噛ませる。
「んぐぅー!!んんんっ!!」
アリアは無理矢理立たせられ半分引き摺られながら連れて行かれた。
サリーンは小声でごめんなさい、と呟きながらその場に崩れ落ちた。
彼女は自分の為にアリアを売ったのだ。
「さぁ、君も一応、事情聴取があるから行こうか」
サリーンはヘンリーの助けを貰いながら立ち上がる。
その表情は何とも言えない程、憔悴した表情だった。
サリーンの心は罪悪感で一杯だった。
孤児院で一緒に育った妹の様に思っていたアリアを嵌めたのだ。
その後姿は何処か悲しげだった。




