第2章 出会い
第2章 出会い
亀山大三郎の息子、一郎と知り合ったのはおよそ三年前にさかのぼる。
プロドライバーとして一名を挙げている亀山一郎が世界生命保険相互会社へ彼自身が出場するカーレースのスポンサー依頼に来た時であった。そのときには支社長が本社の会議に出張中で今成誠治が代わりに応対したのであった。
当時、亀山大三郎は地元千葉では不動産業界で大成功を納め三指に入る程の実権と金を持っていた。世界生命保険相互会社千葉中央支社の営業課長と言う肩書きの名刺を持つ今成誠治ではあったが、実祭には一保険外交員に過ぎない今成誠治にとって大きなターゲットとしてチャンスを待っていた相手である。
何も社会的に揉まれていない、しかも車とレースと女にだけしか話題を持っていない金持ちのぼんぼんが懐に飛び込んで来た。
今成誠治にとってはどんな客よりも楽なタイプである。
「神山支社長さんはいらっしゃいますか」
痩せた小さな男であるが、頭の先から足下までブランドで固めた身なりの若い男と、背広の襟に台座の付いたバッチを光らせた50がらみの男が7階の受付の前に立った。
「今週一杯支社長は出張いたしておりますが、御予定を戴いておりましたでしょうか」
この事務所は営業部門がメインなので受付嬢はいない。ちょうどそこを通りかかった女性営業社員が聞いた。
「いやぁ、別にアポは取っていなかったが。そうか出張中か」
バッチの男が落胆した様に言った。
「どの様なご用件かは存じませんが、もしよろしければ営業課長が居りますのでお会いになられますか」
今成誠治の部下であるこの女性は、いつものクレームを持ち込んでくるタイプと違う様子なので、持ち前の営業勘を働かせ今成誠治と会わせる事を考えた。
「どうせ来たんだから会っていくか」
バッチの男が若い男が聞いた。
「そうですね、先生にも結果を報告しなくちゃなりませんから、とりあえず会いましょう」
「じゃ、その人に会わせてくれますか」
バッチを一段とよく見える様に肩をいからせて小太りの男が言った。
「では少々お待ち下さい」
「代理さん、受付にバッチをつけたどっかの議員さんだと思う人と、お金持ち風な若い男の人が支社長さんに面談に来ていますがどうしましょう」
今成誠治は支社長が不在の時は自分の事を代理と呼ばせている。
「バッチってどっかのやくざじゃぁないのか」
「いえ、どっかの議員さんだと思いますが」
「どうだ、お前の勘では客になりそうか」
「そうですねぇ、あのバッチのおじさんでは…でも若い方は結構上から下までブランドですから、代理さんなら落とせるのではないですか」
彼女から見ると今成誠治は息子程の年齢差が有るにも関わらず、今まで、今成誠治に渡して落とせなかった客がいなかっただけに彼女も自分の成績になる事だし、出来無くて元々。
なんとか今成誠治の能力を手足に使いたいのでへりくだって持ち上げた。
「じゃぁ、支社長室に通してくれ、そして3分後にお茶を出す様にね」
今成誠治はいつもの営業勘で、客にならない訪問者は3分以内に切り上げて帰しているので、今回も3分と指示をしたものだった。
「お待たせを致しました。私が支社長代理の今成誠治です。」
通された支社長室の応接セットに座っていた二人に向き合って、今成誠治は営業用の笑顔と共に90キロの巨体を革貼りの大きなイスに降ろした。
黒光りした下駄の様な厳つい顔に頭は角刈りで、大学時代はK館大学の柔道部でインターハイまで行った程だから肩幅が人一倍あり、更にその声が大きい。
ついこの前もクレームで訪れた顧客が、本社へ
「お宅の会社はやくざを雇っているのか」
と新たなクレームが届いた程だ。
実際、夜の銀座では本物のやくざが道を譲る程だから一般の人が見たら確実に避けて通られるタイプだ。 出身地の川越では高校時代に警察に来ないかと誘われた事もあった。
「今週は研修などが有りまして、支社長の神山が出張致しておりまして、せっかくお越し頂いたのに誠に申し訳ございません。わたしで判る事でしたら何なりとお申し出下さい。もし神山の意見が無ければ出来得ない事柄でしたら、わたしの方からお伝えいたしますが。」
今成誠治の言葉にバッチの男が少し腰を浮かせて言った。
「いやぁ、そんなに難しい事では無いが、ここに居る亀山一郎君が出るカーレースのスポンサーに成ってくれないかとの話しで僕の事務所にきたものだから、前運輸大臣の崎山先生がお宅の神山さんを紹介してくれてな。」
今成誠治は横で小さくなっている若い男に目を移して言った。
「亀山さんて、あの亀山不動産のご子息ですか」
「なんだ君も知っているのか」
「いえいえ、お名前だけですが、息子さんにレーサーが居るとは知りませんでした。」
「どうかね、君の所も知り合っておいても損にはならないとおもうがね」
今成誠治は仕事でよく会う議員連中にありがちな押しつけがましさをこの議員からも感じたが、千葉でも指折りの資産家の息子を逃がす手は無いと割り切った。
「いくら先生の御紹介と言えども、我々のお客様からの依頼と、全くの無縁の方からの依頼では会社の上層部への稟議が書けません。もし先生が上層部へ掛け合われたとしたら逆に底辺では動かなくなります。一つ提案ですが、レーサーをやられているのでしたら生命保険には既に加入していると思いますが、一つ当社の契約に変えて貰う事は出来ますか、そうすれば稟議書が書きやすくなるのですが。」
今成誠治は亀山一郎に目を遊ばせながら議員先生に聞いた。
「一郎君、どうかね」
バッチの声で初めて一郎が口を開いた。
「生命保険なんて今まで考えた事も無かったんでどこにも入っていないと思いますよ」
「そんな事は無いでしょう。お父さんが加入していると言う事も有るでしょう。」
「いや、うちの親爺は保険が嫌いですから」
その一言で今成誠治は腹を決めた。
「では、一口だけ我が社の保険に加入してください。そうしたらスポンサーになる件は、わたしの命をかけてでも約束します。」
「そうら、良かったじゃないか一郎君」
「そうですね。ありがとうございます。」
一郎は部屋に入って以来緊張していた顔をほころばせ今成誠治に礼を言った。
タイミング良く、と言うかドアの外でタイミングを計っていた先程の女性営業部員がお茶を運んで来た。
「とりあえず、契約のお見積もりをさせますので」
今成誠治は茶を出しに来た女性に目配せをして、5億円の契約見積もりを書く様に指示をした。
支社長にも本社にも何の相談も無く、その場で5億円の保険契約と引き替えにスポンサーを引き受けた。今成誠治のいつもの営業トークである。
「10億円も契約を取れば支社長を口説いてどうにでもなるさ」
契約の成績を貰った女性営業部員が満面の笑みを浮かべているのに言葉を投げかけた。
そして、今成誠治は翌日から一郎の父である大三郎に照準を絞り営業攻撃を開始した。
「昨日は、御子息さまからご依頼を受けまして、レースのスポンサーを拝命させて戴きました世界生命保険相互会社の今成誠治でございます。本来、本社の者が御挨拶に伺うのが筋ではございますが、何分にもこの様なレース業界のスポンサーと言うものに不慣れなものでして、地元千葉の中央支社に勉強しろとの命を受けました。本日は支社長が出張中でもございますので取り急ぎわたくしごときが御挨拶に参上致しました次第です。」
千葉駅前にでんと構えた亀山不動産の本社ビル8階にある社長室で亀山大三郎を前に今成誠治は立て板に水を流すごとく言葉を並べた。
「それはご丁寧に、ぼんくら息子が仕事をしないで夢中になっている事でな、早くあんな事から卒業してくれる事を願っているのだが、ま、長い目で付き合って色々と勉強させてやってください。」
亀山大三郎は総白髪で頬が落ち、何かの病の性か痩せていて、調べてきた60歳と言う年齢よりか10歳は老けて見える。
「はい、それはもう」
「ところで、今成誠治君と言ったね、失礼だが君は幾つになったかね」
「は、年齢ですか、今年で38になりますが」
「いやいや、失礼な事だが、ついつい息子と同年代の人が来ると自分のぐうたら息子と比べてしまうものでねぇ」
「息子さんはわたしより2歳下と聞いておりますが、なかなかしっかりとした考え方をされておられますし、何にもまして一つの事を突き詰めて行動されている事にはわたしも頭が下がります。私の様なセールスマンには彼の様な最終目標が定められませんので、本当の意味で羨ましい程です。」
今成誠治は亀山大三郎の心の片隅を得た感じなので、更に丁寧な言葉を選んだ。
「そう言って貰えると親としては嬉しいものだが、いつまでも子供であって、なかなか親の思う様には育ってくれないものだよ」
「それは誰でも同じだと思いますよ。現にわたしも自分では一人前だと思っていても、母親かにしてみれば、いつもガミガミ言って私を困らせます。特に父親を早くに亡くしまして母親一人で育ててくれましたものですから、社長さんよりかもっとそう言う概念を持っているのではないでしょうか。」
「そうかね、これは悪いことを話させてしまったね。ところで、いつもは暇を持て余しているのだが、今日は来客が来る予定で前もって調べ物をしなくてはならないから、次回いつでも近くを通った時には立ち寄ってください。今日は悪いね。」
「ありがとうございます。ちょうどわたしもこの地区を担当致しておるものですから立ち寄らせて戴きます。それでは御貴重な時間を割愛していただきましてありがとうございました。支社長が出社致しましたら改めて御挨拶に参上させますので今後ともよろしくお願い致します。」
今成誠治が出ていったドアをしばらく眺めていた亀山大三郎は大きくため息をつきつぶやいた。
「息子があの者の様になっていたならなぁ」
「先日はどうも失礼を致しました。本日は支社長が御挨拶に参りましたので社長様のお言葉通りわたしも又々参上させて戴きました。御紹介します。弊社千葉支社長の神山忠則です。」
のっそりとした体格の今成誠治からどうしてこんなにスマートな言葉が流れ出るのかと不思議に思いながら亀山大三郎は自分と変わらない様な年齢の、これ又同じ様な総白髪の小振りではあるがグレーのスーツを上手に着こなした紳士に目を移した。
「お初にお目にかかります。支社長を拝命致しております神山忠則です。ご高名は重々耳には致しておりましたが、なかなかお目もじ戴ける機会が無く今まで疎遠で有りました事、心からお詫び申し上げます。この今成誠治から御子息様の事を聞きまして末永くお付き合い戴けましたらと御挨拶にお伺いさせて戴きました。」
「いやいや、ご丁寧にありがとうございます。こちらこそ近くに居ながら御挨拶もせず失礼をば致しました。どうぞお気楽に今後ともよろしくお付き合い下さい。それにしてもお宅には良い社員がおりますなぁ。」
「あっ、これはどうも恐れ入ります。おかげさまで我が社には数万人の社員が居りますが、中でもこの今成誠治は私にとって当たりでした。」
「ははは、そうですな、当たりですなぁ。ははは、、」
横で今成誠治は頭をかきながら
「みなさんにそう言って戴けますと営業冥利に尽きます。ありがとうございます」
と、恥ずかしそうに言葉を出した。
「そうそう、支社長さんにお会いしたら聞こうと思っていた事ですが、お宅の会社では兼職と言うのをお認めですか。」
「は、社員のアルバイトですか」
「えぇ、そうです」
「我が社の社風ですが、セールスは女性が中心ですから、あまりうるさくは言われません。基本的に女性は家庭と言う大きな仕事を持っている訳ですから、考え様に依りますと兼職になりますから、規制は出来ませんねぇ。まぁ営業ですから、実際は本人の成績さえ全うしてくれれば会社としては言う事無しですしねぇ。」
「ほほう、随分と緩やかな社風ですなぁ。我が社などそんな事が発覚したら即首ですわ。私も考え方を変えなければなりませんなぁ。いや勉強になりました。」
「いえいえ、これは我が社が他社と違ってと申しますか他業種と違って、逆に行政書士だとか、司法書士だとか事務所を持たれて本業を全うされておられる方々などが、副業にされる程の業種だからかも知れません。本来は、御社の御方針が一般的なものです。」
「なるほど良く判りました。そこでものは相談ですが、実はそろそろ息子を会社の取締役に入れて本格的に勉強をさせ様と考えていますのじゃ。で、この今成誠治君を息子の教育係にお借りする訳には参りませんかな。」
今成誠治は横で聞きながら話しが本来の営業から横道にそれつつあるのをどの様に軌道修正をするべきかと考えていた矢先、自分の事になり一瞬戸惑いを覚えたが
「息子さんが仕事を覚えられる。それは、良い事です。しかしわたし程度の人間が教育係などとは大任過ぎます。」
と、言葉に出した。しかし、彼の営業勘は既に馬車馬の様に走り出していた。
「なるほど、それは良いアイデアかも知れませんねぇ。この今成誠治は弊社でも既に数百人の営業ウーマンを育て挙げて居りますから、私が言うのもなんですが、彼は適任かも知れません。しかし社長さん、これだけは約束してください。本人とは後で話し合いますが、彼は我が社にとっても必要な人材ですのでそのまま引き抜く様な事だけはしないで戴けますか。」
支社長も元々営業で慣らした勘でこのまま営業として入り込めると考えたのか、大まかに快諾の返事を出した。
「ははは、それは百も承知の上でお願いするものですから御心配の無いようにしてください。」
亀山大三郎も突飛な申し出と思いながら話したものだが、好進展したので満面の笑みを浮かべながら今成誠治の顔を眺め支社長に言った。
「では、この話は後日今成誠治を伺わせますので、本人とよくご相談下さい。本日は御挨拶だけにと思いましたが、なかなか良いお話を賜りまして本当にありがとうございました。一度我が社へも足をお運び下さい。」
「今成君、今夜は飲むか」
亀山不動産のビルから出た時、神山支社長は満面の笑みで言った。
「いいですねぇ、前祝いですか。久し振りに銀座ですか」
「勿論だよ、そのぐらいの成果は期待しているよ、頼むよ今成君。」
「それは支社長、期待を裏切らない様にがんばります。じゃ、7時に終礼を終わらせて車を手配しておきます。」
「そうしてくれ、でも今日は専用車はやめてタクシーの方が良いかもな。」
「判りました、その後があるのですね。」
「まぁ、野暮はよそう」
(作者より)
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