第四話
※暴力表現、血みどろ表現ありです。
苦手な方はバック。
伊切が現れたのは派閥に関連する事項とそれに伴うどちらの派閥に所属するのか決めること、その期限と手続きについてだった。
ほとんど槇森に聞いていた内容と被っていたので、別に驚きはしなかった。
結局伊切が近づいてきた理由は顔合わせと事務的なことだけだった。
拍子抜けだが、派閥管理委員はどちらの派閥にも属することができないので、余計なことは言ってはいけないらしい。
中立の存在だということでふと、自分がそれに所属すれば選ばなくてもいいのではないかと思ったのだが、委員は一年の期限付きの役職で途中参加も途中脱退もできないらしい。
がっかりしたが仕方なかった。
そんな出会いを経て昼休みが終わり、夕刻の告白騒ぎだ。
僕はだんだん薄暗くなる廊下を走り抜けながら、さてどこに逃げようか思案する。
流石にまだ転入初日だ。
校舎内どこにいけばいいのかわからない。
さっさと寮に戻ればいいとは思うのだが、実は教室に忘れ物をしてしまったことを思い出してしまったのだ。
明日提出のプリントで、うっかりしてしまった。
ただでさえ出席日数が足りないので、少しでも教師の覚えを良くしておかなければ留年になってしまう。
教室に戻ろうとウロウロしているうちに道に迷ってしまった。
途方に暮れていると背後からバタバタと足音が聞こえる。
どうやらまだ追いかけることを諦めていないらしいその音に、軽く舌打ちをしてわからない廊下を止まることなく進む。
どれだけ鬼ごっこをしたのだろう。
とうとう日が暮れ、当たりを夜の帳が包む。
さっさと諦めて帰ればいいのにと思うが、相手もなかなかにしつこい。
歩き回った結果、だんだん校舎の間取りがわかってきた。
教室を探り当て、プリントはちゃんと回収してある。
しかし、それから寮に帰ろう外に出た時だった。
昇降口に向かう廊下の中程、僕は前方と後方に聞こえる足音に気がついてぎくりとした。
耳をすませば複数の足音が反響するように聞こえた。
やばい、このままでは挟み撃ちだ。
どこかに隠れようと思ったが、あいにく隠れられそうな教室につながる扉はない。
もう片側は運動場に面した窓がある。
二階だが、場合によってはそこから逃げられるか、と思って外を見た。
その時、月が見えた。
鋭利な角度のそれに、逃げられないというどこか追い詰められた感情と相まって僕の記憶を揺さぶった。
フラッシュバックするように赤い記憶が蘇る。
窓の外には鋭利な細い月が浮かぶ。
光に反射する白銀の刃。
『やめて』
『助けて』
『痛い』
何度泣き叫んでもやめてくれなかった。
皮膚を切り裂かれ、ただ痛みを与えることだけに振るわれる刃。
言われる言葉はただ一つだ。
『お前が悪い』
髪を振り乱し狂気と愉悦に歪む女という化物の姿。
ただ痛めつけるためだけに振るわれる刃に泣けど叫べど助けは来ない。
「あ、くっ…」
呼吸が苦しくなって、思わず反対の壁に沿ってズルズルと座り込む。
完治したはずの傷が一斉に開いたかのように、全身が痛い。
なぜ僕はこんな目にあわなければならなかった?
『お前さえいなければ』
僕が悪かったんだろうか?僕がいるから、僕がいなければ。
『そう、お前が悪い。お前さえいなければわたしは死なずに済んだのに…』
背後から突然別の女の声がする。
振り返った僕は悲鳴すら上げることができなず固まった。
血まみれの女の姿、それはかつて兄に見せてもらった家族写真で微笑む女性の姿で。
『お前さえ庇わなければ私は生きていられた!』
亡者の声に耳を塞ぐ。
ああ、本当にそうだ。なんで僕はここにいるんだろう?
僕さえ庇わなければお母さんは生きていたかもしれない。
あの事故の時咄嗟に覆いかぶさった温かい体。
抱きしめてくれた時に薫る優しい匂いと体温。
全て失った。僕が、あの日ドライブに行きたいなんて言わなければ。
僕が殺した。僕が、両親を死に追いやった。
僕は。
僕は!
と、突然壁だった背後の感触が消えた。
壁に凭れていた僕は呆気なく背後に倒れこむ。
だが、そこに冷たい床の感覚はない。
背後から抱きすくめられるように誰かの体温を感じた。
肩に回る腕から薫るタバコの匂い。
兄と同じ銘柄の匂いに思いがけず安心する。
両親の事故の後もあの事件の後も不安になる夜ずっと兄が抱きしめてくれた。
両親を奪ったのは僕だったのに、一度だって僕を責めない。
ずるいと思った。ずるい僕。
兄さんの優しさにただ甘えてきた。
その腕の中にいるときだけが安心できた。
あの場所だけは安全なんだと信じられた。
幼い頃からの刷り込みなのか、思わずぼろぼろと涙が出た。
背後の存在が、誰だかわからないのに僕はただその暖かさにすがりついた。
相手は突然のことに驚いたみたいに身じろいだが、僕には気にする余裕はなくただその暖かさを求めるようにしがみつく。
怖かった。寂しかった。悲しかった。
帰りたかった。
ただ安心できるあの家に、あの兄の腕の中に帰りたかったに。
許してくれなかった。何度懇願しても笑われるだけだ。
痛くて冷たくて寒くて悲しくて。
何度も振るわれる冷たい刃が僕の心を削った。
頼っちゃダメだっていつも思っていた。
だけどずっと呼んでいたんだ。
怖いよ!こわい。
助けて、兄さん!助けて!
にいさん、兄さん!!お兄ちゃん!
助け出されて、病院にいて。
ダメだってわかっていたけどそばに兄さんがいるときだけ安心出来た。
頼っちゃだけだってわかっていたけど、求めることしかできなかった。
ずるい、ずるい僕。
あの女に刺されたって文句なんて本当は言えないんだ。
相手の胸にすがるように泣き続ける僕の背にゆるゆる腕が回され抱きすくめられる。
暗がりの教室のような場所、誰だかわからない相手だというのに嫌悪感はない。
たださらに深く感じる暖かさと懐かしい匂いに涙腺ばかりが刺激され僕はただ声を押し殺し泣き続けた。
その間、すがりついた相手はずっと僕の背をなでてくれていた。
どれくらいそうしていただろう。
ゆるゆると揺り篭のようなリズムのそれにだんだん泣き疲れた僕の意識は闇に沈む。
さらには「……おやすみ。良い夢を」の低い声。
兄に似た大人の声に僕は安心して目を閉じた。
最後に額に柔らかななにかが触れたのを感じた。
それが唇なんだと感じるより前に、僕の意識は闇に完全に堕ちた。