第三話
僕、観平緋露が私立森ノ宮学園高等部に編入したのは当然ながら理由がある。
午前の授業が終わり昼休みに入った直後、持たされていた携帯電話が鳴っていたのに気がついた。
授業中は電源を切るよう言われているので、電源を落としていたのだが、そのあいだに溜まっていた着信履歴に溜息が漏れる。
仕方なく、かけ直すために外に出るべく教室を後にする。
校舎内での通話は禁止なのだ。
外に出ると同時に再び鳴り始めたそれに通話ボタンを押すとともにすぐに男の人の声が聞こえた。
『緋露!無事か!』
「無事だけどね、兄さん。」
電話の相手は兄である観平雲英だ。
僕と異なる腰に響く低音ボイスの持ち主だ。
兄はたったひとりの僕の家族だ。
『なんで、出なかった!何度も電話したのに』
普段冷静で感情的になるところのない兄の声が珍しく焦ったように上ずっている。
その変化に罪悪感と同時に溜息が漏れた。
「兄さん、時間を考えてよ。兄さんがかけてたの授業中だよ」
『え?そ、そうなのか。…すまない。
でも電源を消していたのはなんでだ!GPSも反応なくて…』
「授業中は電源消すよう言われてるんだよ。マナーモードでも没収されるから切ってたの」
『なんだって!そんな!じゃあ授業中に誰かにさらわれたら携帯を持たせている意味が…!
あ、いや。じゃあ、携帯とは別のGPS端末を送るからそれを…』
「兄さん、落ち着いて。休み時間はちゃんと電源入れるようにしてるし、どう考えても人の大勢いる教室でさらわれることないから」
『わからないぞ!
そんなこと言って、またお前が父さんや母さんみたいに突然帰ってこなくなったら……』
それを言われると本当に弱い。
僕は幼い頃両親を亡くした。
両親を死んだとき、僕は六歳、兄は十七歳。
兄とは年がかなり離れており、その頃兄は既に高校生だった。
高校の友達と遊びに行った兄を置いて、僕たち家族三人はドライブに出かけてそこで事故にあった。
僕だけが生き残り、両親は死んだ。
母親が僕を庇ったらしい。大怪我を負ったが僕は死ななかった。
その事故の影響か、僕には両親の記憶は一切ない。
まあ、そのおかげか不思議と両親がいない寂しさというのはあまり感じていない。
ただ体中に残った傷跡が事故を僕に事故の存否を教えている。
それからは兄が働きながら僕を養ってくれている。
とてもよく出来る人だ。
顔は身内の欲目でもなんでもなくそのへんのアイドル並に整っているし、街を歩けばスカウトマンの名刺が積み上がる。常に冷静沈着で頭も切れる。僕を養いながら、なんとこの国の最高学府を主席で卒業している。
その後、学生時代に立ち上げたベンチャーが急成長し、二十代ながら代表取締役などについている。
顔もよく、学歴もあって、優しく、さらには小さいながらも会社の社長だ。
こんな人がモテないはずはなかった。
兄はとっても女性にもモテる人だ。だがなぜか長続きはしない。
何人かいた過去の彼女たちから兄のいない時に何度となくなじられた。
兄と結婚できないのは僕がいるかららしい。
兄は僕が結婚するまでは、自分の結婚はできないと歴代の彼女たちに言っては待ちきれない彼女たちが別れるということを繰り返している。
兄には悪いとは思うが、これにはなんというか過保護を通り越して迷惑でしかない。
成人するまでならともかく結婚するまで、なんて僕が結婚しなかったらどうするつもりなのか。
というより過去の事故の影響で結構僕が結婚できる可能性って一般の人より低いと思う。
僕の体には無数の傷がある。事故で僕は無傷ではいられなかった。
だから、もし結婚するとなったら、傷だらけのこの体を気持ち悪がらない相手でなければならない。
そんな奇特な人が見つかればいいが、と思うが期待はしていない。
大抵の人は僕の体の傷を見ると、視線をそらすから。
だが、この話をすると兄の機嫌が悪くなるので話はふらない。
兄は僕には優しい。
どんなわがままだって聞いてくれる。
でもそれを兄の彼女から指摘されてからは普通のことじゃないってわかったからあまり言わないようにしている。
もっと自分の人生を考えて欲しいと思うのだが、その話だけは聞いてくれない。
僕と兄は実はあまり似ていない。
写真で見る限り、父と母も美形と言える造作なのだが、いったい誰に似たのだか僕だけが平凡顔だ。
そこがさらに兄の彼女たちには気に入らないらしい。
平凡顔の僕が兄の横にいるのが、一緒に暮らして一番大切にされるのが腹立たしいとのこと。
そんなことを言われても僕らは兄弟だ。しかも僕は兄に養ってもらっている学生の身だ。
どうしろと言うのか、と思っていた時にあの事件は起こった。
僕は気づけば、薄暗い部屋に動けないように縛られ転がされていた。
目の前には危険な目の色をした女の人。
その人が兄の何代か前の彼女だったことを僕は後で目覚めた病院で知った。
その人は兄に心底惚れており、兄が彼女と別れたのは僕のせいだと僕を詰った。
どうやら僕は彼女に誘拐されて監禁されて暴力を振るわれていたらしい。
らしい、というのはあまりそのへんの記憶が曖昧だからだ。
両親の事故の事といい僕はどうやら自分の都合の良くないことは記憶を消すようにできているようだ。
僅かに覚えているのは薄暗い部屋と狂気に満ちた女の笑い顔。
どうやら学校帰りに襲われて、そのまま半日、近所の人の通報を受けて警察が踏み込むまで暴力が続けられていたらしい。
女は僕への暴力に刃物を使っていたらしく、失血のため僕は瀕死でそれからまる三日生死の境をさまよった。なんとか命はとりとめた。
幸いなのはたくさん傷をつけられていたけど、重要な神経は無事だったので、体に特別後遺症はなかったことだ。
ただ、一つ重大な精神におった後遺症を除いて。
『…で?そちらはどうだ?なんとかやれそうか』
一瞬槇森から聞いた話に不安を感じたと言いかけたが、やめた。
心配させると面倒だ。
「うん。大丈夫。周りは男だらけだし、病院や前の学校にいるよりずっといい。
女の先生も何人かいるみたいだけど、少ないし、近寄られなければ平気」
『そうか。…お前が落ち着いていられてるくらいだものな』
安心したように息を吐く音を聞き、罪悪感が湧く。
目覚めた僕は女性恐怖症になっていた。
近づかれるだけで、体が無意識に震え、過呼吸の症状がでる。
老人やまだもののよくわかっていない幼児は大丈夫なようだが、大人や思春期を迎えた女はダメなようだ。
そのため病院にいる間は辛かった。
世話をしてくれる看護師さんは当たり前だが女性が多くて、僕は近づく彼女たちに常に怯え続けなくてはならなかった。
学校もそうだった。
それまで通っていた学校は共学で、もちろん女子生徒が半数を締める。
体の傷はなんとか癒えたが、カウンセリングを受けても女性恐怖症の症状は消えなかった。
しかし、僕は学校に通いたかった。はやく学生の身分から独立して兄に負んぶに抱っこの生活を脱したかったが、今の世の中、中卒で就職ができるほど、甘くはない。
せめて高校は出たかった。
しかも、それまでの治療等で出席日数はかなりぎりぎりだった。
できる限り早い段階で復帰しなければ、留年してしまう。
兄は別に急ぐ必要はないと言ってくれているが、一年でも早く僕は独立したかった。
兄に自分という呪縛から逃れて、自分の幸せを考えて欲しかった。
だが現状はなかなか難しい。どうしようかと悩んでいた時に兄が持ってきてくれたのが森ノ宮学園への転入の話だった。
森ノ宮学園は敷地内に寮がある学園で男子校だ。
こちら側の事情を学校側に話したところ、僕を受け入れてくれるとの話で僕は一も二ももなく飛びついた。
まさか転入して早々、こんな問題のある学園だとは思っていなかったが、僕がいられる場所は限られているし贅沢が言える状況ではない。
とりあえず、女性の少ない今の環境で徐々にリハビリしていけば、ここを卒業する頃には少しは女性恐怖症を克服できているといいと思う。
この件で大きな迷惑をかけた兄には申し訳ない気持ちでいっぱいだ。
「ごめんね。兄さん。こんなわがままで…」
『何を言ってるんだ!もともと俺のせいだ!まさか、あの女がお前にこんなことするなんて。
出来うることならこの手で殺してやりたいくらいだ!』
その言葉は何度も聞いた。
その度にほの暗い光をたたえた兄の姿も如実に思い描ける。
病院にいる間、目覚めた時に必ず兄がそばにいた。
最初は嬉しかったが、流石に何日かすると一体仕事はどうしているのかと不安になった。あまりに長時間いる兄を不審に思っていたら、やはりサボってきていたらしく、僕が兄の部下たちに電話して連行してもらった。
幸い男性にも人望があったようで、サボったことで特別社長を解任ということもなかったが、あまり僕のことで自分を削らないで惜しいと思う。
それに正直あの犯人に対する僕の感情はさほどでもない。治療中痛かったし、女性恐怖で泣きそうな時は恨みそうになるけど、思い出そうとすると頭が痛くなって、意識が飛ぶので思い出そうとしないようにしたのが良かったみたいだ。
考えても恨みしかないし、考えたら意識飛ぶので、考えない。
だから犯人に関してさほど興味も憎悪もない。そんなことして痛いのもしんどいのも自分だけだ。
だが、兄は違う。兄の犯人に対する憎悪の方がよほど強い。
たまに本当に殺しに行っちゃうんじゃないかと不安に思うほどだ。
「そんな風に言うものではないよ。僕は無事だっただし」
『そんなわけあるか!体中に消えない傷を付けられたんだぞ。顔にだって…』
またその話か、と思って少しだけうんざりした。
暴力によって傷は確かに残ったけど、もともと僕の体には過去の事故で全身に消えない傷跡はある。
もともと真夏でも長袖常備だ。今更少し増えようと関係ない。
まあ死んでないからいえることだけどさ。
「顔の傷なんて包帯取れれば、髪で隠せるものだ。問題ないでしょ?」
『そんなわけあるか!お前は…!』
お説教が長くなりそうな気配に僕は溜息を吐いた。
兄には悪いが付き合っていられない。
「ああ、もう!用件がそれだけなら切るよ。じゃあね」
『え?あ、緋露、待て!』
だが僕はさっさと通話を切って、溜息を吐いた。
「…で、立ち聞きは流石に良くないと思うけど?」
横目で校舎に通じる通路の影に声を投げかけると槇森が跋が悪そうに立っていた。
「あ、ごめん!教室にいないから…」
「別に僕がどこにいようと槇森には関係ないと思うけど?」
「そんな!ひーちゃん、俺は言ったよね?一人にならないようにって」
言われて確かにそんな話だったと思い出す。
だがここは校内だ。大げさな、と思わないでもない。
「電話が終わればすぐ教室に帰るつもりだったよ」
「その気の緩みが危険なんだって…!」
ぱしゃっ
突然聞こえたシャッタ―音に思わず振り返ると、そこに男が立っていた。
「いやー、転校生同士の白昼堂々の痴話喧嘩!スクープやね」
にやにやとどこか意地の悪い笑みを浮かべる眼影をかけた男がこちらに向かって来る。
いったい誰なのかと思っていたら、槇森が驚いたように目を見開いたのが見えた。
「…伊切」
知り合いなのか、名前を呼んだ槇森に、しかし溜息を付きながら伊切は首を降った。
「…伊切先輩やろ?最近の一年生は名前の呼び方がなってないなあ?」
笑う伊切、先輩?に槇森が半眼でにらみあげている。
二人の関係がわからない僕はただその光景を傍観するのみだ。
それより気になることがある。
「……槇森も転校生なのか?」
「あれ?話してへんの?」
「朝出会って、今ですよ?…伊切先輩?」
溜息を吐く槇森に伊切が目を見開いた。
「えー、仲良さそうなのにな?まだ話してないんか。
まあ、せやなあ。俺が話たってもええけど、せっかくやし、その辺は本人に聞き?」
「はあ…」
そう言われればこの場では聞きにくい。
それよりとばかりに伊切が僕の目の前に立つ。
どことなく不安そうな槇森の視線に不安感が増す。
一体なんだというのだろうか?
「ええっと、転校生の…観平緋露くんやったね」
聞かれて答えないわけにも行かず、頷く。
「…そうですけど、貴方は?」
「俺の名前は伊切修平言うんや。
君たちより一学年上の先輩やね。ちなみに報道部やねん」
どうでもいい情報を紡ぐ軽い口に困惑する。
槇森の知り合いなのはわかったが、どうもこちらに用があるような気配の彼に思わず警戒心を抱く。
だがそれに気づいた様子もなく伊切の話は続く。
「いや、なんやえっらい可愛いのが入った言うけど。ほんまやね」
ジロジロと頭の先からつま先まで見られているようで、落ち着かない。
お世辞というのかなんなのか。
男としてどう考えても馬鹿にされているとしか思えない内容だが、相手の真意がわからないので口を噤んでいると、横から槇森が口を出してきた。
「伊切先輩?かわいいって…男に対してそれって褒め言葉じゃないですよ」
「おお!そうかすまんな!
思いがけず、出会ってもうたから浮かれてもうたわ」
ごめんな、と軽く会釈する彼に困惑する。
疑惑に視線を向けていたら、伊切がポケットから何か白い物を取り出し、こちらに差し出す。
訳も分からずそれを受け取ると名刺サイズのそこに書かれていた文字に目を見開いた。
こちらの驚きに気を良くしたのか、微笑みを浮かべながら流暢な標準語で伊切は再び会釈した。
「ようこそ転入生。森ノ宮学園へ、派閥管理委員会です」