3.友人の見習い兵士
ああ、そっか。
昨日の特別警戒令は、外から城に入ってこさせないためではなくて。
城から外へ出さないため、だったんだ。
アガサはギイとベッドが軋む音とともに、重たい身体を起こした。
少し開いた戸の隙間から、力強い光が差し込んできている。
どうやら朝、より、昼のほうに近い時間帯らしい。
昨日は横になるのが遅くなったからしょうがないか、と言い訳を思う。
ベッドの下、足の裏で床の感触を確かめて、はっとした。
アガサは神妙な気持ちでベッドの上に正座して、床を凝視する。
靴は、なかった。
ぼろぼろでぶかぶかの靴。
今ごろ、それは、姫、そして友人の見習い兵士の上着ともに城の中にあるはずだ。
いや、もう今ごろはごみ箱の中だろうが。
…… そんな寂しい想像の信憑性は高くて、アガサは後でこっそりごみ捨て場をあさってみようと思った。
「夢、じゃなかったんだなぁ」
ぼさぼさになった後ろ髪を掻きながら、声に出すと、ますます現実のものとして濃さを増すような気がした。
夜の空気をしっかりと吸い込んだ我が家の床はしっかり冷たくて、足の裏から染みてくる。
アガサは我慢して、窓の、いらなくなった服などの布を縫い合わせて作ったカーテンを開けた。
確認したところ、もう太陽はかなり高い位置にある。
(しまった)
アガサは慌てて、近くにあった棚をずるずると引きずり寄せた。透明張りにした箱が乗っている。
箱の底にはアガサ特性の栄養満点の土が、中指を付け根まで埋まる深さで敷き詰めてある。
昨日採取した新顔たちも今はこの中で眠っているはずだ。
しばらくは、固形エサは与えずに、十分に日光を当ててやる。
上手くいけば、一週間ほどで自分で動けるようになるので、そうしたら、また環境を変える。
アガサは棚に頬杖をついて、土をじいっと見つめた。正確に言えば、土の中にいる妖精たちを。
「ノリ、よーく育てよー」
「のり?」
いや、それは白いご飯に乗っけて食べるとおいしいやつで。
アガサは驚いて、後ろを振り返った。
アガサの生活用品がすべて集約されている机の隅、かろうじてご飯を食べるスペースとして確保してあるところで椅子に座って突っ伏している人影が。
盗人の可能性をちらりとでも疑えるほど、アガサの家に高価な物はなかった。
「いつからいたんだ?」
アガサの声に反応して、人影がむくりと起き上がる。
せっかく、太陽の光を独占するように輝く金色の髪と、それに似合うだけの華やかな顔立ちをしているのに。
ぶわっと大口を上げてあくびをして、すべてを台無しにした。
おそらく、昨日はほとんど眠っていないのだろう。
「お前が帰ってきたころにはちゃんといたんだけどね。なんつーか、俺は正当な持ち主を差し置いてベッドを借りるわけにはいくめえ、せめて一言許可をもらってから、と思って、ここで椅子に座って、帰りを待っておったわけよ。眠いのをこらえて」
友人の見習い兵士は、もう一度あくびをして、今度は目をこすった。
少し意識がはっきりしてきたようだ。
「したらお前は、帰ってきた途端に、その変てこな虫の世話を始めてだな。やり終わったらすとんとベッドで寝ちまったんだよ。俺は結局、おかえりさえも言わせてもらえなかったわけ」
「それは…… ごめんなさい」
「うん。お前もう少し、人間にも関心を持ったほうがいいと思うよ」
友人の忠告をありがたく受け止めて、アガサはお詫びにお茶をいれることにした。
幸い、副業のおかげで茶葉の種類は豊富だ。寝不足にききそうなものを選んでやる。
「で、のりってなに?」
「のりじゃなくて、ノリ」
「のりじゃなくて、ノリってなに?」
「こいつら、じゃなくて、この者たちのこと」
お茶のカップを手渡しながら、アガサは窓辺の透明箱を指す。
友人は露骨に嫌な顔をした。虫の類が苦手なのだ。
「外見も変てこなのに、名前まで変てこにするのか?」
「変てこって言うな。せっかくとある人から名前をもらったんだから」
カップの中身がおどろおどろしい緑色だったので、友人は引き続き嫌な顔。
疑わしさで満面にしながら一口飲んで、ぱっと顔を輝かせた。どうやらお気に召したらしい。
「変てこな名前とは言え、お前の口から俺以外の人間の名前が出るのは珍しいね。ちょっと妬けるな」
「…… チタってのも、変てこさでは負けてないと思うんだけど」
「アガサもね」
友人の見習い兵士ことチタは、腰に手を当て、ぐぐっと一気にカップの中身を飲み干した。
「ノリ、ノリねえ……」
ぶつぶつと繰り返しながら、想像上のあごひげを指で弄んでいる。
そういえばあんな高いところに太陽があるのに、何、のんびりしてんだろう。
窓の向こう側を覗いてみる。青い空に白い雲、いい天気だった。
今日は休みなのだろうか。
と、推理していたら、今から仕事に行く、とのことで。
見習い兵士のくせして重役出勤なんてしていいのか、という言葉はごくりと飲み込んだ。
そのまま身に染み込んでいく。
「じゃ、俺はもう行くわ」
と、チタが立ち上がる。ぐん、と一伸びして、長身を屈めた。
相変わらず、城の雰囲気にはちっとも合わない恰好をしている。
布のあちこちに穴が開いているのは流行であって、資金不足ではなく。街中を歩いても浮かないため、なのだろう。
着る服を選ばなくてすむというのは、羨ましい性質だ。
身長はわずかに負けるが、ほぼ体格も、給料も一緒なはずなのにどうしてこう差が生まれるのかな。
姿勢がいいっていうのもあるな、と横目で見送りながらアガサは思う。
職業の違いもあるのかもしれない。
アガサが毎日、背を丸めて土いじりをしているのに対して、チタは毎日背を伸ばして行進の訓練をしているのだから。
「あ、そうだ、チタの上着……」
「ん?」
「ごめん、制服の上着、昨日汚しちゃったんだ。だから弁償で許してもらってもいい?」
「弁償って…… そんな殊勝な単語が、お前の口から出てくるほうがびっくりだよ」
両手を広げて、肩をすくめる。こういう大袈裟な動きも友人がやると様になるから不思議だ。
確かに、金勘定に対しては少し神経質になる自覚はあるけれど。そんなに、普段からがつがつして見えるだろうか。
少しだけ、日頃の自分を省みる。
「いいよ、制服ぐらい、いくらでも支給してもらえるし」
「でも……」
「いいって。お前のおかげで、あんな大層な警戒の中、外に出られたんだから」
昨日の夜は楽しかったしね。
片目をつぶってみせた友人の笑顔が、開かれた戸から入り込んできた太陽光にかぶる。眩しくて、アガサは目を細めた。
なんでこんなに、違うんだろう。みんな、同じ種から育ったはずなのに。
冬の庭師と春の庭師の違いはわかりやすい。それは、庭を見れば、すぐにわかることだからだ。
でも、育った場所があまりにもかけ離れていると、月のように遠く感じられるだけで。
手を伸ばしても届かない、たとえ触れることができたとしても、夢のように不確かで。
月夜の露を浴びた花に触れたような、冷たさだけを残して。
「アガサ」
変てこな名前を、変てこな名前の友人の見習い兵士が呼んだ。
ああそっか、ちゃんと、みんな同じところもある。
もうすっかり見慣れた、友人の端正な顔を見ながら、思い出す。
「また、あとでな」
「? ああ」
たいして深く考えもせず、アガサはこくりと頷いた。
家の戸が完全に閉じられるまで見送って、アガサも本来の仕事に出なければ、と思った。
少し遅くなったけれど、まずは靴の調達から、いつもの一日を始めよう。
そして、いつものように終わろう。そう、思っていた。
再び家の戸が開かれたのは、太陽がとっぷりと沈み、空に星と月が輝き始めたころだった。
昨夜よりもびりりとした空気は若干緩み、柔らかなヴェールにすっぽりと覆われたような今夜だった。
アガサの家の戸を開いたのは、見慣れた友人の、端正な顔ではなかった。
びっしりとあごひげを生やした強面で、比べようもないくらい堂々たる兵士ぶりをした、確か、チタの先輩の先輩の先輩の、……
「主門守備兵隊長のマイヤスクドールと申します」
名前と苗字の切れ目がない名乗りをして、敬礼をした。
ならって、後ろの二人の兵士も同じようにする。さすがに毎日訓練しているだけあって、びしりと決まっている。見習い程度とは二味ぐらい違っていた。
アガサはどうも、と軽く頭を下げて、突然の訪問者に遅ればせながら、手のひらに汗をかいた。
しまった、城の庭で育てた薬草で小金を稼いでいるのがバレたんだろうか。
それとも、庭への手入れ費用を節約して、こっそり貯金してるのがバレたんだろうか。
それとも、昨夜のあれが何か、問題になったんだろうか。
身に覚えがありすぎて困った。
「なんかご用事、ですか?」
それでもいちおうの社交辞令を通す。
たくましいあごひげを揺らしながら、隊長のマイヤなんとかの口が動く。
「冬の庭師のアガサどの、で間違いありませんか?」
「はい、そうです」
「一つのお届けものと、一つ、いや二つほどのご伝言を、お預かりして参りました」
まさか、新手の配達屋だったとは。
さすがに想像を軽々と飛び越えられ、アガサはしばし、その場で固まっていた。
死刑宣告を、なんてにやりと笑って付け足されても、いまだ似合ってしまう状況なので、気を抜くことはできない。
なんとか隊長は立派なあごひげをぐいっと前方に突き出した。後ろの兵士はすぐに読み取り、そそくさと隊長の前に回り込み、片膝をついて、持っていた四角い箱をアガサに差し出した。
恐る恐る手にしたものの、それほどの大きさではなく、重さでもなかった。
お届けもの。今度は、身に覚えがなさすぎて困った。
それでも隊長のあごひげに無言で先を促されて、アガサはおそるおそる箱の蓋を外した。
右足と左足、左右対称に揃えられた一足の靴が、四角い箱の中にきっちりと収まっていた。
アガサは驚いて、思わずマイヤなんとか隊長を見上げた。
そこに先ほどまでの恐ろしい顔はなく、代わりにひげに覆われた口で思い切りのいい笑みを結んだ顔があった。
「冬の庭師のもてなしに深く感謝いたします、一生忘れません。とのご伝言でした」
夢、じゃなかったんだ。
さっき新しく移されたごみ捨て場をあさってみたら、それらしいものは見つからなくて、やっぱり夢だったのかと思ったばかりだったのだけれど。
けれど、こんなはっきりとした形で示されるとは思ってもみなくて、だから。
ありがとうございます、とアガサは、なんとか頭を下げてから、慌てて、そう、伝えてください、と続けた。
承知いたしました。と、力強い声が応じる。
会ってまだほんの少ししか経っていないけれど、この人に任せておけばすべて大丈夫、という気がした。
さすがは多くの命を預かるだけはあるというか、さすがに見習い兵士とは違っていた。冬の庭師と春の庭師の違いと同じものを感じた。
そして、アガサは、名前をしっかり覚えなかったことを後悔した。
(マイヤ、なんと言ったっけこの人の名前は……)
あとで友人に探りを入れようとこそりと思う。主門の守備兵隊長だと言った、役職名だけは忘れないように、と空に繰り返す。
隊長はそんなアガサの内心の葛藤は露ほども気にせずに、さらに豪快に笑み、もう一つ、と太い人差し指を立てた。
「それをはいて、とある場所にお連れするようにとの、ご指示もお預かりしております」
誰から、などとは恐ろしくて口にできるはずもなかった。
さすがに、いくら人間関連に鈍いアガサといっても、この靴から思い浮かぶ人物は、たった一人きり。
けれどそんなことは事実だというだけで、恐ろしくて口にできるはずもなかった。
「アガサ殿。我々とご同行願えますかな?」
どこへ、などとは。
地獄まで、と洒落て答えられても、気の利いた返しもできそうもなかった。
ただ従順に、アガサはこくりと頷いた。
アガサは、冬の庭師と任命を受けた以来、初めて踏み入れた足をまじまじと見つめた。
ちゃんと、歩けているのかいまいち、自信が持てなくて。
服は、いつもの服だった。
アガサは同じようなデザインの服をニ着しか持っていないので、一方を洗濯している間にもう一方を着る、という方法を採用していた。いちおう、きれいなほうを選んで着てはみたものの。
マイヤなんとか隊長に先導されながら、高級そうな絨毯の上を歩く。
なんの素材でできているのか、さきほどから、ふわふわとアガサの足の裏を押し上げては、根底から不安げを煽いでくる。
すれ違う人たち(ほとんど城内の召使いばかりだった)が、脇に寄り道を開け、軽く頭を下げる。そして、隊長の後ろにひっついていく庭師を映した目は決まって、真ん丸になっていた。
さすがに鈍いアガサにも、自分がひどく場になじんでいないのが理解できた。
唯一の救いは、お届けされた一足の靴だけだった。
木と土の中間の色合いをした靴は、なんの素材でできているのか、綿のように軽く、アガサの足に合っていた。アガサにはわからないが、きっとそれなりに高価なものだろう。
おかげで、高級そうな絨毯を汚す心配だけはしなくていい。その事実はかなり、アガサの負担を少なくした。
マイヤなんとか隊長は、大きな扉の前で立ち止まり、厳かな声で入室を宣言した。
どうやらここが目的地らしい。
向こう側から声が応じるのを確認して、扉が真ん中から割れる。
現れたのは、広い部屋だった。これだけでアガサの家よりも広そうだ。
豪華な装飾がほどこされた机やベッド、生活に必要そうな調度品が上品に配置されている。客室、だろうか。
その部屋の真ん中に、一人の人間が立っていた。
よう、と片手を上げて、その人物は太陽のような、晴れやかな笑みを浮かべた。
天上からは、夜空の星を真似ているのだろうか、ガラスを散りばめた照明がぶらさがっている。そのおかげで、夜の室内だというのは忘れてしまうほど明るく、金色の髪は、朝の光に照らし出されたような輝きを今も失っていなかった。
靴のつま先から頭のてっぺんまで見事に全身、白一色の衣装だ。
普通なら気障、と一笑されてしまいそうなものでも、例えば、アガサが着ればたちまち笑いが起こりそうなものでも、彼ならば、たちまちため息が漏れるに違いない。実際、アガサがそうしたように。
重たそうな素材でできた白いマントを華麗に翻して、固まってその場から動けずにいるアガサに近づいてきた。
アガサの後ろに控えていたマイヤなんとか隊長に、ちらりと視線を寄越す。
隊長は深々と頭を下げ、退室していく。背後で扉が閉じられたのがわかった。
「またあとで、って言ったろ?もう忘れてたのか?」
「いや、覚えてたけど。お前がうちに来るもんだとばっかり」
「ああ? そっか、悪かったな。今日はさすがに仕事サボるわけにはいかなくてさ」
「別にいいけど……」
誰もいなくなった途端、いつものくだけた感じの、アガサの知っている雰囲気に戻った。
アガサはほっとして、頭の混乱を沈める努力をする。
まず、何を言ったらいいんだろう。
思案しているアガサの顔を見て、ぶっと、せっかくの諸々を台無しにする音が響いた。
続けて、広い部屋を飛び越えて、城中に響き渡りそうな笑い声が溢れ出した。
アガサは友人の突然の奇行に眉をひそめ、そっと扉から外に出ようとして捕まった。
「悪い悪い。もう笑わない。約束するから」
「別にいいけど……」
涙目になりながら、ふーっと一つ、息を吐き出す。
もう一度向き合ったときにはもう、いつものくだけた雰囲気さえ飛び越えていた。
アガサはさらに頭を悩ませながら、とりあえず一番最初に浮かんだ言葉を口にした。
「…… そういえばさっきの、あごひげの隊長さん」
「ん? ああ、マイヤスグドールのことか?」
「あ、それだ。マイヤスクドール。一回聞いただけじゃ覚えられなくてさ」
忘れないうちに、と空に繰り返す。
そんなアガサを下から上までじろじろと眺めながら、ふーむ、と想像上のあごひげを弄んだ。
そういえばこれは癖だった。友人の。
「さすがにその恰好は難しいかな。靴はともかくとして」
「何のこと? もしかしてまた何か頼みごとなのか?」
ぽん、と手が打たれた。白い手袋をしているので、実際に音は鳴らなかったが。
「実はそうなんだよ。引き受けてもらえるかい?」
「内容によるよ。いったい今度はなに」
「たいしたことはないよ、昨日のやつよりははるかに簡単さ」
さらに笑みを深くする。いつもの何か企んでいる友人の笑い方に似ていた。
アガサは一瞬、目の前にいるのに見失ったような、妙な感覚を味わった。
「賭けは最後まで見届けないと、だろ? やっぱり」
賭けとは。
銀月の姫君は誰とも結婚なんてしない、と、そう賭けたことぐらいしか、アガサには身に覚えがなかった。
しかし今夜、婚約の儀がある、とそう本人の口から聞いていた。
だからもう、アガサには勝ち目が残っていなくて。
というか確か、昨日の身代わりの仕事を引き受けたらチャラにすると言ってくれなかったっけ、この目の前の人物は。
「チタ?」
自分と同じように、変てこな名前を呼んでみる。
いつのまにか呼びつけていた召使いに、何かを指示を与えていた彼が振り返った。
白いマントを翻して。金色の髪を輝かせて。
見慣れた端正の顔で、なに、アガサ? と、変てこな自分の名前を呼び返す。
こんな人間は知らなかった。
そこにいたのは、アガサのよく知る友人の見習い兵士ではなかった。