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1.銀月の姫君

 その夜。

 晒した肌がびりりと痛むほど澄みすぎた空気が、黒い空から月と星だけを克明にしていた夜。

 アガサは友人の見習い兵士に頼まれて、とある城の警備についていた。

 ふわっと身体の底から溢れてくる眠気を口元で押さえ、高い城壁を下から上まで眺めた。

 いったいこの城壁を越えて、誰が侵入してくるというんだろうか。

 今、城内には特別警戒令なるものがしかれている。

 そのせいで、非番だったはずの見習い兵士まで緊急に駆り出されるハメになって、今、アガサがここにこうしているわけである。

 今ごろ友人は、じっくりと恋人との逢瀬を楽しんでいるはずだった。


 まぁ謝礼金ははずむと言っていたし、その点について文句を言うつもりはアガサにはなかった。

 この間の賭けに負けた分もチャラにしてくれると言っていたし。

 常にお金が欠乏している身としては、臨時の収入はありがたいものだ。


 城壁にぶち当たったので、元の道を引き返すことにした。

 振り分けられた警備区間は、さすがは見習い兵士というべきもので、城壁が一番高くそびえ立ち、高貴な身分の方々が住む本城区画からは一番遠い。

 城が抱えている、様々な職種の召使いたちが住む居住区だった。

 アガサの家もこの中にある。

 家、と呼ぶにはそれこそ高貴な方々の高い鼻で笑われてしまいそうな、お粗末なものではあったが。

 それでも何よりも、一から十まで自分の手で得ることができた家なので、アガサにとっては十分に満足のいく小さな城なのである。


 今は、見習い兵士の制服に身を包み腰には剣を下げてはいるものの、アガサの本来の身分は、庭師だ。

 庭の景観を整えるのがもっぱらの仕事だ。夜は寝て、昼に活動する。

 もちろん、夜の間に咲く花も、日が昇らないうちに手入れを終えなければいけないわがままな木も多数、あるが、とりあえず今の時期において、アガサの担当する庭で夜に気にかけなければいけないものは一つしかない。

 他は下準備の段階だ。だからこんな、見習い兵士の身代わりの仕事なんてものも引き受けられるわけで、けっしていつも暇なわけではない。


 アガサは、友人の先輩兵士に指定された道順から一歩もはみ出すことなく歩いていた。

 十往復、を越えたところだったろうか。ふと不良心がわいて、アガサは本城へとくるりと向きを変えた。

 壁ぎわにまでたどり着き、窓の向こうは厨房だったはずと中を覗きこんで確認する。

 常にいい匂いを漂わせてくるそこも、とっくに火が消えて冷たくなっていた。

 下働きの、しかも庭で仕事をしているアガサにとって、本城の中の様子はさっぱり想像の及ばない場所だ。

 けれど、一歩外に出た庭のことなら想像できないことは一つもなかった。


 厨房の周りの壁に手をつくようにして、裏側に回り込む。

 建物と建物の狭い隙間、例え夜でなくとも光の差しこみそうにない、湿った場所があった。三方の壁にはびっしりとコケが生えている。

 人目につかないことから、以前は主に、厨房の一時的なごみ捨て場として利用されていた場所だ。

 料理のときに使った生ごみが、かなり無造作な状態で捨てられていたりした。

 今は、アガサが頼み込んで、別の場所に捨てるようにしてもらったのだが。

 アガサはその場にしゃがみこんで、土をわずかに摘み上げ、ぺろりと舐めた。


「うん、おいしい」


 いい感じに育っている。

 アガサは満足げに笑って、その場に座りこんだ。

 コケの壁を背にして、しばしのおさぼりを決行した。


 特別警戒令がしかれている夜にしては、あまりに静かで穏やかだった。

 何かが起こる前には必ず兆しがあるなんて考えるのは、平和ぼけの極まった感覚なのかもしれない。

 でも、多少の寒さを除けば、家の中にいるときと何一つ変わらない夜に思えた。


 庭師とは、自然相手の職業であるため、天災に関しては、アガサはかなり敏感だった。

 大規模なものでなくても、ささやかな雨や風の匂いまで嗅ぎ分けられる。

 ただ対象が人災になると途端、鼻の穴がつまってしまうようで。

 そういう意味で、アガサはかなり、警備兵という任務に適していないと言えた。


 建物に挟まれた、狭い空の中でも、月と星はきちんと配置されていた。

 アガサはしばし寒さも忘れて、その光に魅入った。


(――― 銀月の姫君がさ、)


 ぼんやりと、今朝、友人がこの頼みごとを持ちこんだときのことを思い出していた。



 


「銀月の姫君が結婚するらしいよ」


 庭師と見習い兵士を比べてみると、給料は似たようなものだが、身分の壁はある。

 そんなことを気にするふうもなく、友人は今朝もアガサの家の戸を叩いた。

 そして、アガサの入れたハーブティを口にしながら、にやりと笑って言ったのだ。

 アガサがすっかり忘れていた賭けのことを。 


 銀月の姫君。

 この国の、第一王女の容姿を称えた呼び名。

 愛しい恋人の存在も忘れたように、友人の語りは熱っぽさを帯びる。

 なんでも、月の雫で染めたかのような銀糸の髪、同色の瞳、雪が溶けこんだ白い肌の持ち主なんだそうだ。

 今年、姫が十五を迎え、成人した祝いの儀式の一環として、大衆の前に姿を現したことがあった。そのときの豆粒のようなものしか、アガサの記憶の中にはない。

 同じ城の中に住んでいるのに、一度たりとも会ったことはない。

 こんなに近くにいるのに、月のように遠い人。

 アガサにとっては、だからの、銀月の姫君だった。


 目下、成人を迎えた姫の婚礼の話は、国の最大の関心事と言えた。

 結婚相手は誰か。

 大臣の息子だとか、隣国の王子だとか、色々な候補が憶測として上げられていて、それに便乗して賭け、をしたのだ。

 なんでそのことを覚えていないかと言えば、まったく飲めない酒をたらふく胃に流しこんだあとに、賭けをしたせいだと推測される。


「銀月の姫君は誰とも結婚なんてしない」


 妙に確信をこめて、アガサは言い切ったらしい。


 本人としてはまったく記憶にないのが、それにしたってどうしてあんな大金を、姫が結婚しないほうに賭けてしまったのか。

 アガサはそのときのアガサに首をひねってしまう。

 まあ、それも今夜を過ぎればどうでもいいことだけれど。

 友人は、この身代わりを引き受けてくれれば、賭けの負けはチャラにすると約束してくれた。

 何も心配することはない。

 そう、例えば、厳戒態勢に引っ掛からずに忍びこめるような、とんでもない輩でも出ないかぎりは大丈夫。

 アガサはその夜まで、自分の下にある揺るぎのない大地や、自分の上でいつも輝く星や月を信じて生きていた。


 目に映っていた月がゆらり、と横揺れした。

 風が吹いたとしても、月は揺れない。第一、音も立てずに天候は変化しない。

 アガサは当たり前のことを確認してから目をこすった。すると今度は、一秒前まであったはずの月が消えた。

 吹き飛ばされるはずはない。第一、……

 アガサはきょろきょろと空を見回して、月を探した。


 銀色の光を揺らして、もう一度、狭い、黒い空の中にぽっかりと月が現れた。

 そして、もっと違うものも現れた。

 一瞬、月が長く細く伸びたようにも見えた。


「は?」


 アガサの呟きは、夜の澄みすぎた空気の中にあって、よく響いた。

 ふわりと、音を立てて飛び立ったそれは、見る見るとその形を大きくした。

 ぽかんと口を開けて、その数秒後を思い浮べてみる。

 湿っぽい、今もまだ生ゴミの匂いが抜けていない土地が見えた。

 それに気付いた途端、おそらく、アガサは今までの人生の中で一番素早く身体を動かした。

 

 どすん。

 

 危うく、腕の中に落ちてきたそれごと、地面にひっくり返るところだった。

 アガサはかかとと腹筋に力をいれ、なんとか体勢を維持する。

 最初の衝撃ほど、それが重たくなかったことが幸いした。

 というか、それがいったい何であるのかわからなくなるほどに軽かった。

 アガサは、それを少し離れた場所に立たせて置いて、先ほど自分がつけてしまった足跡を、しゃがみこんでしげしげと観察した。

 無事であることを確認し、ふうと息を吐き出す。

 どうやら、当初の予想ほど荒らさずにすんだようだ。これなら少し手を入れてやれば大丈夫。

 やれやれ、とアガサは頭を掻いた。


「…… あの」


 澄んだ大気の中にあって、さらに澄む。

 ときどき城の方から漏れてくる、なんとかという楽器の音色を思い出させた。

 高く、遠く、優しく、甘い。

 アガサは振り返り、月の光を頼りにそれを見た。

 薄い、肌の色を透かしそうな薄布でできた衣装を着ている。おそらく寝間着、だろう。

 高価なものだろうし、よく似合っていて、何よりも魅惑的だが。

 外の空気に触れるには決して適していないし、しかも所々が破けていた。

 そしてよく見てみれば、服も、足も手も顔も、全身が黒くすす汚れている。

 アガサは慌てて近寄り、ポケットを探ったが何も見つからない。仕方なく袖口で、頬に触れた。

 びくり、という震えが伝わってきた。


「あー、できれば動かないでください、ね?」


 頬の汚れをぬぐう。

 黒いすすをどけると、噂どおりの、雪が溶けこんだような白い肌が現れる。

 顔全体を一通り拭き終えると、ぎゅっと閉じられていた目が、ゆっくりと開かれた。


 どんなに汚れたとしても、髪と目の色をごまかすことはできない。

 確か、月の雫で染めたような銀糸の髪と、同色の瞳、だっけ?

 アガサはしばらくそれに見惚れたあと、彼女が小刻みに震えていることに気がついた。


「あー、すみません。気が利かなくて」


 アガサは羽織っていた見習い兵士の上着を脱いで、彼女の細い双肩へとかけた。

 友人からの借り物だったが、まあこの際仕方がないだろう。

 彼女はきょとんとして、アガサを見つめていた。

 今夜の月のような、真っ直ぐな銀色の光を持つ瞳で。


 アガサはその場に片膝をついて、深く頭を垂れた。

 慣れないせいか、カチャと腰に帯びた剣が地面にぶつかって間抜けな音を立ててしまった。が、まあこの際仕方がないだろう。


「…… あの」


 ためらいがちな、困惑に満ちた声を、許しの印と受け取って、アガサは顔を上げる。

 月の光が眩しい。アガサは目を細めた。

 元ごみ捨て場、という場所にはじめて光が差しこんだ瞬間だ。


「あの、数々の非礼なふるまいをお許しください。あなたはいったい?」

「はい。私は庭師です」

「庭師……?」


 彼女は肩にかかった上着を見て、細い首をかしげた。

 それは友人のものなんですよ。と、アガサは説明した。


「ああ、……ごめんなさい。私のせいで汚れてしまいましたね」

「平気ですよ。友人はあなたのファンですから。よかったら使ってやってください」


 アガサがにっこりと笑うのとは対照的に、彼女の顔がゆがむ。

 冷ややかに、美しく、月に似る。


「ところで銀月の姫君、今宵はどちらまでお出かけですか?」



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