婚約破棄されたので、王宮の「お礼状係」になりました
婚約破棄を告げられたとき、エレノア・ベルクールが最初に考えたのは、帰りの馬車の手配だった。
王宮の小広間には、王太子ジェラルドと彼の新しい婚約者、それから立会人として呼ばれた貴族たちがいた。
エレノアは彼らの顔を順番に見た。誰もが、彼女の反応を待っている。
泣くか。怒るか。取り乱すか。
そういうものを期待されているのだろう。
「エレノア。君との婚約を解消したい」
ジェラルドは、用意していた文面を読み上げるように言った。
「理由をお聞きしても?」
「君は、私に対して冷淡すぎる。王太子妃となる者には、もっと人を思いやる心が必要だ」
エレノアは少し考えた。
思いやりがない、と言われるのは初めてではない。少なくとも、ジェラルドの言葉に驚きはなかった。
「承知いたしました」
「……それだけか?」
「ほかに、私から申し上げることがございますか?」
ジェラルドは答えなかった。
エレノアは礼をして、広間を出た。
廊下に出ると、窓の外では雨が降っていた。馬車の手配を急がせる必要がある。濡れた道を走らせるなら、帰り着くのは予定より遅くなるだろう。
それから、父に手紙を書かなければならない。
婚約が解消されたこと。
王宮からの帰宅が遅れること。
それと、今後の生活について相談したいこと。
考えるべきことはいくつもあった。
泣くのは、それらが片付いてからでいい。
*
ベルクール家に戻ってから、エレノアは父と話し合った。
婚約解消に伴う慰謝料は支払われる。家の名誉に大きな傷がつくこともない。父は彼女に、しばらく領地で休んでいてもよいと言った。
「お前が望むなら、それで構わない」
父はそう言った。
エレノアは、窓辺に置かれた古い花瓶を見た。母が生きていた頃から使っているものだ。口の部分に小さな欠けがある。母はそれを直そうとして、結局そのまま使い続けていた。
「お父様。私、仕事を探そうと思います」
「仕事?」
「はい。王宮で」
父は眉を寄せた。
「今さら、あの場所に戻るのか」
「戻るというほどの場所でもありません。私の仕事があるなら、そこで働きたいだけです」
婚約者を失ったからといって、働く場所まで失う必要はない。
エレノアは、そう考えた。
数日後、王宮から届いた求人票の中に、彼女の目を引くものがあった。
未処理礼状整理室。
王宮に届いた礼状のうち、宛先不明、受取人不在、差出人不明、その他の理由で処理できなかったものを整理する部署だった。
募集人数は一名。待遇は平凡。勤務場所は王宮本館の裏手にある旧文書棟。
華やかさとは縁のない仕事である。
エレノアは応募した。
*
「ここが未処理礼状整理室です」
案内役の男は、ルカン・ヴァイスと名乗った。年齢は二十代後半ほど。身なりは整っているが、袖口にインクの染みが残っている。
部屋には棚が並び、大小さまざまな封筒が箱に収められていた。
「未処理というのは、届かなかった手紙ですか?」
「それだけではありません。宛先の人物がすでに亡くなっているもの、受取拒否されたもの、届け先の住所が変わっているもの。差出人が転居して、確認できなくなったものもあります」
「かなりの量ですね」
「王宮は人の出入りが多いですから」
ルカンは一つの箱を机に置いた。
「こちらが現在の未処理分です」
箱の中には、封筒がぎっしりと詰まっていた。
エレノアはその量を見て、少しだけ安心した。
仕事がある。
少なくとも、ここでは自分の存在理由を誰かに説明する必要がない。
「最初に申し上げておきます。すべての礼状を届けられるわけではありません」
ルカンは言った。
「届け先がないものもあります。受け取る意思のない方もいる。差出人の意図が不明なものもあります。そうした手紙を無理に届けようとすれば、かえって迷惑になる場合もある」
「分かっています」
「それでも、できるだけ届けたいと?」
「届けられるかどうかを決めるのは、調べてからでよいと思います」
ルカンはエレノアの顔を見た。
「なるほど。では、お願いします」
彼が最初に渡したのは、庭師宛ての礼状だった。
差出人は、王宮を去った元侍女。宛先には、庭園管理主任の名が記されている。
文面は短かった。
庭園の隅にある小屋で、冬の間、毛布を貸してもらったことへの礼だった。
「これなら、すぐに届けられそうですね」
エレノアが言うと、ルカンは首を横に振った。
「問題は、本人がそのことを覚えているかどうかです」
「毛布を貸したことを?」
「十年近く前の話ですから」
「覚えていないなら、手紙を渡せば思い出すかもしれません」
「そういうものですか」
「そういうものかどうかも、渡してみなければ分かりません」
庭園管理主任は、礼状を受け取ると、しばらく封筒を眺めていた。
「ああ。あの子か」
彼は手紙を開き、読み終えると、鼻の頭を指でこすった。
「覚えているよ。冬に熱を出して、仕事場で倒れた子だ。あのまま放っておいたら、凍えていたかもしれん」
「毛布を貸しただけだと、書いてあります」
「毛布を貸しただけ、か」
男は封筒を丁寧に畳んだ。
「その子は、ちゃんと礼を言ってくれたんだな」
「はい」
「なら、私からも返事を出そう。今どこにいるか分かるかね?」
「差出人の住所は確認できます」
「そうか。では、これを渡してくれ」
男は机の引き出しから、小さな木箱を取り出した。中には、古い毛糸で編まれた手袋が入っていた。
「これも一緒に。あのとき、あの子が編んでくれたものだ。返す機会を逃していた」
エレノアは木箱を受け取った。
手紙は、届けるだけで終わらないことがある。
そのことを、彼女は初めて知った。
*
数日後、エレノアは二通目の礼状を担当した。
今度の宛先は、王宮の厨房に勤めていた元料理人だった。差出人は、現在も王宮に仕える若い騎士である。
文面には、幼い頃に厨房で食べさせてもらった焼き菓子の礼が書かれていた。
ただし、礼状の末尾には、少し奇妙な一文があった。
――あのとき、私に何も聞かず、食べさせてくださったことを、今でも覚えています。
エレノアはその一文を二度読んだ。
「何か気になりますか?」
隣で書類を整理していたルカンが尋ねた。
「この方は、焼き菓子そのものに礼を言っているのではないと思います」
「では、何に?」
「何も聞かなかったことに、です」
ルカンは手紙を受け取った。
「確かに、そう読めますね」
「それなのに、焼き菓子の話しか書いていない」
「何か事情があったのでしょうか」
「分かりません。本人に尋ねるしかありません」
元料理人は、王都の外れで小さな食堂を営んでいた。
手紙を見せると、彼はしばらく黙っていた。
「この子か。騎士になったのか」
「ご存じなのですね」
「ああ。昔、よく厨房に来ていた。まだ子供だったな」
彼は手紙を読み終えると、少し困ったように笑った。
「この子は、母親を亡くしたばかりだったんだ」
エレノアは黙って聞いた。
「厨房の裏で泣いていた。何があったかは聞かなかった。聞かれたくないこともあるだろうと思ってな。焼き菓子を一つ渡した。それだけだ」
「それだけ、ですか」
「そうだ。それだけだよ。私は料理人だったから、食べ物を渡した。それ以上のことはできなかった」
彼は手紙を机に置いた。
「でも、覚えていてくれたんだな」
「お返事を書かれますか?」
「いや。今度、王宮に行く用事がある。そのとき本人に会って、直接礼を言うよ」
「礼状を受け取った方が、礼を言うのですか?」
「おかしいかね」
「いいえ」
エレノアは首を横に振った。
「手紙は、そういうこともできるのですね」
食堂を出ると、ルカンが言った。
「あなたは、手紙を読むのが上手ですね」
「文章を読むことと、書いた人を理解することは別です」
「では、どうして分かったんです?」
「分かったのではありません。気になっただけです。確かめるまでは、何も決められません」
「慎重ですね」
「間違えたまま届ける方が、よほど無責任ですから」
ルカンは小さくうなずいた。
「そうですね」
*
未処理礼状整理室の仕事は、思っていたよりも地味だった。
手紙を分類し、差出人の住所を調べ、受取人の所在を確認する。古い台帳をめくり、王宮の人事記録を照合する。届け先が分かれば、配達の手続きを取る。
時には、何日もかけて調べた手紙が、結局届けられないこともあった。
受取人がすでに亡くなっていた。
差出人が消息を絶っていた。
手紙の内容が、受け取る者を傷つける可能性があった。
そのたびに、エレノアは記録を残した。
届けられなかった理由。
確認した事実。
今後、再調査する必要があるかどうか。
「几帳面ですね」
ある日、ルカンが言った。
「記録がなければ、同じことを何度も調べることになります」
「以前は、そこまでしていませんでした」
「では、私が来る前はどうしていたのです?」
「箱に戻していました」
「それは効率が悪いですね」
「ええ。私もそう思います」
エレノアは記録簿を閉じた。
「でも、箱に戻すだけなら、誰でもできます」
「それでは仕事になりませんね」
「そうですね」
二人は、しばらく黙って書類を整理した。
*
ある日、エレノアは古い封筒を見つけた。
宛名は、マリア・ベルクール。
母の名前だった。
差出人は、王宮。差出人欄には王家の紋章が押されている。
封筒の裏には、二十年前の日付があった。
エレノアは、しばらくそれを見つめていた。
母が王宮に勤めていたことは知っている。若い頃、文書の整理をしていたらしい。父と結婚してからは領地で暮らしていた。
手紙が届かなかった理由は、封筒の隅に記されていた。
――転居先不明。差出人へ返送。
しかし、返送されたはずの手紙が、なぜ未処理の箱に残っているのか。
「ルカンさん」
彼は書類から顔を上げた。
「これを見てください」
「ベルクール家……ですか」
「私の母です」
ルカンは封筒を確認した。
「王家からの手紙ですね」
「差出人は、当時の王太子殿下。現在の国王陛下です」
「確認が必要ですね」
「はい」
エレノアは封筒を机に置いた。
母が王宮を去った頃、父は領地の管理に忙しく、母もまた、新しい生活に慣れることに精一杯だったと聞いている。
手紙を受け取っていれば、何かが変わっていたのだろうか。
そんなことを考えても、仕方がない。
ただ、手紙がここにある以上、調べる必要があった。
*
国王アルベルト二世は、エレノアの申し出を聞くと、少しだけ目を細めた。
「マリア・ベルクール」
「はい。私の母です」
「覚えている」
国王は窓の外を見た。
「私は若い頃、父を亡くした。王太子としての仕事は山ほどあったが、何をしても気持ちが追いつかなかった。周囲の者は、私を励まそうとした。だが、誰もが王太子としての私に話しかけていた」
「母は違ったのですか」
「彼女は、私に報告書の修正を命じた」
エレノアは、思わず顔を上げた。
「命じた、のですか?」
「そうだ。私が執務室でぼんやりしていたら、未決裁の書類を机に置いてな。『陛下になるおつもりなら、まずこちらを片付けてください』と言った」
国王は苦笑した。
「慰めるでもなく、励ますでもなく、仕事をさせた。私は腹を立てたが、彼女の言う通りだった」
「母らしいです」
「そうか」
国王は机の引き出しから、古い記録を取り出した。
「この手紙は、私が彼女に書いたものだ。礼を言いたかった。だが、彼女はすでに王宮を去っていた。返送されたことは知っていたが、そのままになっていた」
「どうして、再び送らなかったのですか」
「理由はいくつもある。忙しかった。住所を調べる機会を逃した。いずれ、何かの折に伝えればよいと思っていた」
国王は、手紙の封筒を見た。
「結局、そのまま二十年が過ぎた」
エレノアは、返す言葉を探さなかった。
国王の後悔を慰める必要はない。母が生きていた頃に届かなかった事実も、今さら変えられない。
「手紙の中身を、確認してもよろしいでしょうか」
「構わない」
封を切ると、短い文章が現れた。
王太子としての職務を続けられたこと。
あの日、報告書を机に置いてくれたこと。
自分を一人の人間として扱ってくれたこと。
そして最後に、
――あなたがいてくれたことに、感謝しています。
と書かれていた。
エレノアは読み終えた手紙を、丁寧に畳んだ。
「陛下」
「何だろう」
「母に届けることは、できません」
「そうだな」
「ですが、母の娘である私が受け取ることはできます」
国王は、しばらく彼女を見つめた。
「君に渡してよいのだろうか」
「母の代わりにはなれません。ただ、母が受け取るはずだった手紙を、娘として預かることはできます」
「……そうか」
国王は手紙を差し出した。
エレノアは両手で受け取った。
「二十年か」
「はい」
「遅すぎたな」
「手紙は、二十年かけて届きました」
国王は何も言わなかった。
それで十分だった。
*
未処理礼状整理室に戻ると、ルカンが机の上に書類を積んでいた。
「お帰りなさい」
「ただいま戻りました」
「どうでした?」
「母への手紙でした」
「そうですか」
ルカンはそれ以上、尋ねなかった。
エレノアは、受け取った手紙を引き出しにしまった。
それから、机の上に残っていた未処理の箱を開けた。
「今日は、これを片付けます」
「まだ仕事をするのですか」
「明日に回す理由がありません」
ルカンは、少しだけ笑った。
「あなたらしいですね」
「そうでしょうか」
「ええ」
彼は書類を一枚、エレノアの前に置いた。
「こちらは、受取人の所在が確認できました。差出人の住所も残っています。届けられそうです」
「ありがとうございます」
「礼を言われるほどのことではありません」
「それでも、言っておきます」
ルカンは一瞬、返事に困ったようだった。
エレノアは、彼の手元を見た。
インクの染みがついた袖口。何度も使われたペン。角の擦り切れた記録簿。
彼は長い間、この部屋で仕事をしてきたのだろう。
誰にも気づかれないような仕事を。
「ルカンさん」
「はい」
「この部屋の記録簿、整理し直した方がよさそうですね」
「……そうですね。私も、以前からそう思っていました」
「では、明日から始めましょう」
「明日からですか」
「今日の分は、今日のうちに終わらせます」
ルカンは、今度こそ笑った。
「分かりました」
*
その夜、エレノアは自室で一通の手紙を書いた。
宛名は、母。
もう届けることのできない相手だった。
母が亡くなってから、何年も経つ。伝えたいことは、いくらでもあった。婚約が解消されたこと。王宮で働き始めたこと。父が以前よりもよく笑うようになったこと。
それから、母宛ての手紙が二十年も遅れて届いたこと。
エレノアは、書き終えた手紙を読み返した。
感謝を伝える文章は、思っていたより難しかった。
何を書いても、足りない気がする。
結局、彼女は最後に一文だけ書き足した。
――お母様。私は、もう少しこちらで働いてみようと思います。
封筒に入れ、封をする。
届け先のない手紙だった。
それでも、書いておきたかった。
翌朝、エレノアはいつも通り旧文書棟へ向かった。
扉を開けると、ルカンがすでに仕事を始めていた。
机の上には、昨日の続きの書類が並んでいる。
「おはようございます」
「おはようございます」
エレノアは外套を脱ぎ、袖を整えた。
今日も手紙が届く。
届かないものもある。
それを調べ、分類し、届けられるものは届ける。
彼女は机に座り、最初の封筒を手に取った。
それを届けるのが、彼女の仕事だった。




