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婚約破棄されたので、王宮の「お礼状係」になりました

作者: 久世 律
掲載日:2026/11/06

婚約破棄を告げられたとき、エレノア・ベルクールが最初に考えたのは、帰りの馬車の手配だった。


王宮の小広間には、王太子ジェラルドと彼の新しい婚約者、それから立会人として呼ばれた貴族たちがいた。


エレノアは彼らの顔を順番に見た。誰もが、彼女の反応を待っている。


泣くか。怒るか。取り乱すか。


そういうものを期待されているのだろう。


「エレノア。君との婚約を解消したい」


ジェラルドは、用意していた文面を読み上げるように言った。


「理由をお聞きしても?」


「君は、私に対して冷淡すぎる。王太子妃となる者には、もっと人を思いやる心が必要だ」


エレノアは少し考えた。


思いやりがない、と言われるのは初めてではない。少なくとも、ジェラルドの言葉に驚きはなかった。


「承知いたしました」


「……それだけか?」


「ほかに、私から申し上げることがございますか?」


ジェラルドは答えなかった。


エレノアは礼をして、広間を出た。


廊下に出ると、窓の外では雨が降っていた。馬車の手配を急がせる必要がある。濡れた道を走らせるなら、帰り着くのは予定より遅くなるだろう。


それから、父に手紙を書かなければならない。


婚約が解消されたこと。

王宮からの帰宅が遅れること。

それと、今後の生活について相談したいこと。


考えるべきことはいくつもあった。


泣くのは、それらが片付いてからでいい。


     *


ベルクール家に戻ってから、エレノアは父と話し合った。


婚約解消に伴う慰謝料は支払われる。家の名誉に大きな傷がつくこともない。父は彼女に、しばらく領地で休んでいてもよいと言った。


「お前が望むなら、それで構わない」


父はそう言った。


エレノアは、窓辺に置かれた古い花瓶を見た。母が生きていた頃から使っているものだ。口の部分に小さな欠けがある。母はそれを直そうとして、結局そのまま使い続けていた。


「お父様。私、仕事を探そうと思います」


「仕事?」


「はい。王宮で」


父は眉を寄せた。


「今さら、あの場所に戻るのか」


「戻るというほどの場所でもありません。私の仕事があるなら、そこで働きたいだけです」


婚約者を失ったからといって、働く場所まで失う必要はない。


エレノアは、そう考えた。


数日後、王宮から届いた求人票の中に、彼女の目を引くものがあった。


未処理礼状整理室。


王宮に届いた礼状のうち、宛先不明、受取人不在、差出人不明、その他の理由で処理できなかったものを整理する部署だった。


募集人数は一名。待遇は平凡。勤務場所は王宮本館の裏手にある旧文書棟。


華やかさとは縁のない仕事である。


エレノアは応募した。


     *


「ここが未処理礼状整理室です」


案内役の男は、ルカン・ヴァイスと名乗った。年齢は二十代後半ほど。身なりは整っているが、袖口にインクの染みが残っている。


部屋には棚が並び、大小さまざまな封筒が箱に収められていた。


「未処理というのは、届かなかった手紙ですか?」


「それだけではありません。宛先の人物がすでに亡くなっているもの、受取拒否されたもの、届け先の住所が変わっているもの。差出人が転居して、確認できなくなったものもあります」


「かなりの量ですね」


「王宮は人の出入りが多いですから」


ルカンは一つの箱を机に置いた。


「こちらが現在の未処理分です」


箱の中には、封筒がぎっしりと詰まっていた。


エレノアはその量を見て、少しだけ安心した。


仕事がある。


少なくとも、ここでは自分の存在理由を誰かに説明する必要がない。


「最初に申し上げておきます。すべての礼状を届けられるわけではありません」


ルカンは言った。


「届け先がないものもあります。受け取る意思のない方もいる。差出人の意図が不明なものもあります。そうした手紙を無理に届けようとすれば、かえって迷惑になる場合もある」


「分かっています」


「それでも、できるだけ届けたいと?」


「届けられるかどうかを決めるのは、調べてからでよいと思います」


ルカンはエレノアの顔を見た。


「なるほど。では、お願いします」


彼が最初に渡したのは、庭師宛ての礼状だった。


差出人は、王宮を去った元侍女。宛先には、庭園管理主任の名が記されている。


文面は短かった。


庭園の隅にある小屋で、冬の間、毛布を貸してもらったことへの礼だった。


「これなら、すぐに届けられそうですね」


エレノアが言うと、ルカンは首を横に振った。


「問題は、本人がそのことを覚えているかどうかです」


「毛布を貸したことを?」


「十年近く前の話ですから」


「覚えていないなら、手紙を渡せば思い出すかもしれません」


「そういうものですか」


「そういうものかどうかも、渡してみなければ分かりません」


庭園管理主任は、礼状を受け取ると、しばらく封筒を眺めていた。


「ああ。あの子か」


彼は手紙を開き、読み終えると、鼻の頭を指でこすった。


「覚えているよ。冬に熱を出して、仕事場で倒れた子だ。あのまま放っておいたら、凍えていたかもしれん」


「毛布を貸しただけだと、書いてあります」


「毛布を貸しただけ、か」


男は封筒を丁寧に畳んだ。


「その子は、ちゃんと礼を言ってくれたんだな」


「はい」


「なら、私からも返事を出そう。今どこにいるか分かるかね?」


「差出人の住所は確認できます」


「そうか。では、これを渡してくれ」


男は机の引き出しから、小さな木箱を取り出した。中には、古い毛糸で編まれた手袋が入っていた。


「これも一緒に。あのとき、あの子が編んでくれたものだ。返す機会を逃していた」


エレノアは木箱を受け取った。


手紙は、届けるだけで終わらないことがある。


そのことを、彼女は初めて知った。


     *


数日後、エレノアは二通目の礼状を担当した。


今度の宛先は、王宮の厨房に勤めていた元料理人だった。差出人は、現在も王宮に仕える若い騎士である。


文面には、幼い頃に厨房で食べさせてもらった焼き菓子の礼が書かれていた。


ただし、礼状の末尾には、少し奇妙な一文があった。


――あのとき、私に何も聞かず、食べさせてくださったことを、今でも覚えています。


エレノアはその一文を二度読んだ。


「何か気になりますか?」


隣で書類を整理していたルカンが尋ねた。


「この方は、焼き菓子そのものに礼を言っているのではないと思います」


「では、何に?」


「何も聞かなかったことに、です」


ルカンは手紙を受け取った。


「確かに、そう読めますね」


「それなのに、焼き菓子の話しか書いていない」


「何か事情があったのでしょうか」


「分かりません。本人に尋ねるしかありません」


元料理人は、王都の外れで小さな食堂を営んでいた。


手紙を見せると、彼はしばらく黙っていた。


「この子か。騎士になったのか」


「ご存じなのですね」


「ああ。昔、よく厨房に来ていた。まだ子供だったな」


彼は手紙を読み終えると、少し困ったように笑った。


「この子は、母親を亡くしたばかりだったんだ」


エレノアは黙って聞いた。


「厨房の裏で泣いていた。何があったかは聞かなかった。聞かれたくないこともあるだろうと思ってな。焼き菓子を一つ渡した。それだけだ」


「それだけ、ですか」


「そうだ。それだけだよ。私は料理人だったから、食べ物を渡した。それ以上のことはできなかった」


彼は手紙を机に置いた。


「でも、覚えていてくれたんだな」


「お返事を書かれますか?」


「いや。今度、王宮に行く用事がある。そのとき本人に会って、直接礼を言うよ」


「礼状を受け取った方が、礼を言うのですか?」


「おかしいかね」


「いいえ」


エレノアは首を横に振った。


「手紙は、そういうこともできるのですね」


食堂を出ると、ルカンが言った。


「あなたは、手紙を読むのが上手ですね」


「文章を読むことと、書いた人を理解することは別です」


「では、どうして分かったんです?」


「分かったのではありません。気になっただけです。確かめるまでは、何も決められません」


「慎重ですね」


「間違えたまま届ける方が、よほど無責任ですから」


ルカンは小さくうなずいた。


「そうですね」


     *


未処理礼状整理室の仕事は、思っていたよりも地味だった。


手紙を分類し、差出人の住所を調べ、受取人の所在を確認する。古い台帳をめくり、王宮の人事記録を照合する。届け先が分かれば、配達の手続きを取る。


時には、何日もかけて調べた手紙が、結局届けられないこともあった。


受取人がすでに亡くなっていた。

差出人が消息を絶っていた。

手紙の内容が、受け取る者を傷つける可能性があった。


そのたびに、エレノアは記録を残した。


届けられなかった理由。

確認した事実。

今後、再調査する必要があるかどうか。


「几帳面ですね」


ある日、ルカンが言った。


「記録がなければ、同じことを何度も調べることになります」


「以前は、そこまでしていませんでした」


「では、私が来る前はどうしていたのです?」


「箱に戻していました」


「それは効率が悪いですね」


「ええ。私もそう思います」


エレノアは記録簿を閉じた。


「でも、箱に戻すだけなら、誰でもできます」


「それでは仕事になりませんね」


「そうですね」


二人は、しばらく黙って書類を整理した。


     *


ある日、エレノアは古い封筒を見つけた。


宛名は、マリア・ベルクール。


母の名前だった。


差出人は、王宮。差出人欄には王家の紋章が押されている。


封筒の裏には、二十年前の日付があった。


エレノアは、しばらくそれを見つめていた。


母が王宮に勤めていたことは知っている。若い頃、文書の整理をしていたらしい。父と結婚してからは領地で暮らしていた。


手紙が届かなかった理由は、封筒の隅に記されていた。


――転居先不明。差出人へ返送。


しかし、返送されたはずの手紙が、なぜ未処理の箱に残っているのか。


「ルカンさん」


彼は書類から顔を上げた。


「これを見てください」


「ベルクール家……ですか」


「私の母です」


ルカンは封筒を確認した。


「王家からの手紙ですね」


「差出人は、当時の王太子殿下。現在の国王陛下です」


「確認が必要ですね」


「はい」


エレノアは封筒を机に置いた。


母が王宮を去った頃、父は領地の管理に忙しく、母もまた、新しい生活に慣れることに精一杯だったと聞いている。


手紙を受け取っていれば、何かが変わっていたのだろうか。


そんなことを考えても、仕方がない。


ただ、手紙がここにある以上、調べる必要があった。


     *


国王アルベルト二世は、エレノアの申し出を聞くと、少しだけ目を細めた。


「マリア・ベルクール」


「はい。私の母です」


「覚えている」


国王は窓の外を見た。


「私は若い頃、父を亡くした。王太子としての仕事は山ほどあったが、何をしても気持ちが追いつかなかった。周囲の者は、私を励まそうとした。だが、誰もが王太子としての私に話しかけていた」


「母は違ったのですか」


「彼女は、私に報告書の修正を命じた」


エレノアは、思わず顔を上げた。


「命じた、のですか?」


「そうだ。私が執務室でぼんやりしていたら、未決裁の書類を机に置いてな。『陛下になるおつもりなら、まずこちらを片付けてください』と言った」


国王は苦笑した。


「慰めるでもなく、励ますでもなく、仕事をさせた。私は腹を立てたが、彼女の言う通りだった」


「母らしいです」


「そうか」


国王は机の引き出しから、古い記録を取り出した。


「この手紙は、私が彼女に書いたものだ。礼を言いたかった。だが、彼女はすでに王宮を去っていた。返送されたことは知っていたが、そのままになっていた」


「どうして、再び送らなかったのですか」


「理由はいくつもある。忙しかった。住所を調べる機会を逃した。いずれ、何かの折に伝えればよいと思っていた」


国王は、手紙の封筒を見た。


「結局、そのまま二十年が過ぎた」


エレノアは、返す言葉を探さなかった。


国王の後悔を慰める必要はない。母が生きていた頃に届かなかった事実も、今さら変えられない。


「手紙の中身を、確認してもよろしいでしょうか」


「構わない」


封を切ると、短い文章が現れた。


王太子としての職務を続けられたこと。

あの日、報告書を机に置いてくれたこと。

自分を一人の人間として扱ってくれたこと。


そして最後に、


――あなたがいてくれたことに、感謝しています。


と書かれていた。


エレノアは読み終えた手紙を、丁寧に畳んだ。


「陛下」


「何だろう」


「母に届けることは、できません」


「そうだな」


「ですが、母の娘である私が受け取ることはできます」


国王は、しばらく彼女を見つめた。


「君に渡してよいのだろうか」


「母の代わりにはなれません。ただ、母が受け取るはずだった手紙を、娘として預かることはできます」


「……そうか」


国王は手紙を差し出した。


エレノアは両手で受け取った。


「二十年か」


「はい」


「遅すぎたな」


「手紙は、二十年かけて届きました」


国王は何も言わなかった。


それで十分だった。


     *


未処理礼状整理室に戻ると、ルカンが机の上に書類を積んでいた。


「お帰りなさい」


「ただいま戻りました」


「どうでした?」


「母への手紙でした」


「そうですか」


ルカンはそれ以上、尋ねなかった。


エレノアは、受け取った手紙を引き出しにしまった。


それから、机の上に残っていた未処理の箱を開けた。


「今日は、これを片付けます」


「まだ仕事をするのですか」


「明日に回す理由がありません」


ルカンは、少しだけ笑った。


「あなたらしいですね」


「そうでしょうか」


「ええ」


彼は書類を一枚、エレノアの前に置いた。


「こちらは、受取人の所在が確認できました。差出人の住所も残っています。届けられそうです」


「ありがとうございます」


「礼を言われるほどのことではありません」


「それでも、言っておきます」


ルカンは一瞬、返事に困ったようだった。


エレノアは、彼の手元を見た。


インクの染みがついた袖口。何度も使われたペン。角の擦り切れた記録簿。


彼は長い間、この部屋で仕事をしてきたのだろう。


誰にも気づかれないような仕事を。


「ルカンさん」


「はい」


「この部屋の記録簿、整理し直した方がよさそうですね」


「……そうですね。私も、以前からそう思っていました」


「では、明日から始めましょう」


「明日からですか」


「今日の分は、今日のうちに終わらせます」


ルカンは、今度こそ笑った。


「分かりました」


     *


その夜、エレノアは自室で一通の手紙を書いた。


宛名は、母。


もう届けることのできない相手だった。


母が亡くなってから、何年も経つ。伝えたいことは、いくらでもあった。婚約が解消されたこと。王宮で働き始めたこと。父が以前よりもよく笑うようになったこと。


それから、母宛ての手紙が二十年も遅れて届いたこと。


エレノアは、書き終えた手紙を読み返した。


感謝を伝える文章は、思っていたより難しかった。


何を書いても、足りない気がする。


結局、彼女は最後に一文だけ書き足した。


――お母様。私は、もう少しこちらで働いてみようと思います。


封筒に入れ、封をする。


届け先のない手紙だった。


それでも、書いておきたかった。


翌朝、エレノアはいつも通り旧文書棟へ向かった。


扉を開けると、ルカンがすでに仕事を始めていた。


机の上には、昨日の続きの書類が並んでいる。


「おはようございます」


「おはようございます」


エレノアは外套を脱ぎ、袖を整えた。


今日も手紙が届く。


届かないものもある。


それを調べ、分類し、届けられるものは届ける。


彼女は机に座り、最初の封筒を手に取った。


それを届けるのが、彼女の仕事だった。

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