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4月24日(水) ― 1

 4月24日(水)


 寝不足の脳みそは鉛のように重く、視界の隅にはノイズが走っていた。

 ベランダで凍えた体の芯がまだ冷たい。

 鼻腔の奥には、自宅に澱む朽ち百合の幻臭がへばりついている。


「…ふぅ」


 教室のドアを開けた瞬間、暴力的なまでの陽光が私を射抜いた。

 もし私が吸血鬼なら、間違いなく燃え尽きているだろう。


「はろはろー!」


 鼓膜が震えるほど明るい声。

 目を細めると、私の席を陣取った桃花が、逆光を背負って手を振っていた。

 その笑顔は、今の私には直視できないほど眩しく、そして痛い。


「おはよう。…こんなに早くに珍しいね」

「でっしょ?頑張って早起きしたんだから!ほら、早くこっち来て!」


 私の返事も待たず、桃花は鞄から掌サイズの小袋を取り出した。

 金糸で「狐」が刺繍された、和風のポーチ。彼女はそこから、手品師のように鮮やかに、次々と中身を広げ始めた。


「アイシャドウ、ルージュ、あとエクステね。っで、これがリムーバー!」


 ずらりと並んだのは、黒と金を基調とした高級感のあるボトルたちだ。

 よく見ると、パレットには一筋の痕跡があり、ルージュの先端も僅かに丸まっている。


「はい、あげる!」


 再び化粧品をポーチにしまうと、彼女は「ん!」と私の胸元へ押し付けた。

 桃の花が舞ったような甘くパウダリーな香りが漂ってくる。


「…待って。こんな高いの貰えないよ」

「のーぷろ!使ったやつだからさ!」


 どう見ても、私のために揃えてくれたものだ。

 けれど、桃花は「気にするな」と言わんばかりの満面の笑みを浮かべている。


「…ありがとう。この狐さん、可愛いね」


 彼女がくれた不器用で優しい嘘を、胸の奥へ仕舞い込み、私はポーチの刺繍を指でなぞった。

 金色の糸で描かれた狐は、どこか人を食ったような目をしている。


「でっしょ?私もその子好きなんだぁ」


 桃花はそう言って、くふふと喉の奥で笑う。

 一瞬、彼女の瞳が、刺繍された狐のように悪戯に輝いた気がした。


「それで、どういうこと?」


 桃花は人差し指を立て、私の唇の前にそっと差し出す。

 優しく儚い香りが、鼻先をくすぐる。


「それはね、司を守る『仮面』だよ」

「…仮面?」

「そう。女の子はね、化粧をするだけで何にでもなれるし、何からも隠れられる。泣き腫らした目も、眠れない夜も、全部なかったことにできる魔法の仮面」


 彼女の指先が、私の目の下の隈を優しくなぞる。

 その体温に、心臓が跳ねた。

 彼女は知っているのだろうか。家のことも、昨夜のことも。


「司はタッパ有るし迫力あるから、そうそう絡まれないと思ったんだけどね」


 私は小さく頷く。

 170という身長と鋭い目つき。その『可愛げのなさ』が、他人を拒んでいたはずだ。


「だから、思いっきり化かすの。そのクールな雰囲気を活かして、誰も近寄れない『孤高の狼』になっちゃえばいい」


 桃花の言葉は、雷のように私の脳を打った。

 私の中で燻っていた、行き場のない黒い衝動に『狼』という美しい名前が与えられた気がした。


「…ありがとう、桃花」


 私は震えそうになる声で告げると、狐のポーチを鞄の底、一番大切な場所にしまった。


「で、今朝も宿題やるんでしょ?」


 私は目を白黒させてコクリとうなずいた。


「そう、だけど。色々と聞きたいことが…」


 その時、ガラガラとドアが開き、脳天気なほど明るい声が響いた。


「おっはようー!」


 教室の空気を一瞬で塗り替えるその声の主は、白縫繭さんだった。

 亜麻色の巻き髪に短いスカート。桃花とはまた違う、騒がしい華やかさを持つ少女だ。


「はろはろー!」


 桃花の返事に、白縫さんが驚いてこちらを見た。


「ええ、とうかぁ!どしたん、こんな早く?」

「ふっふー、司とラブラブしてたんだよ」


 驚いて隣を見ると、桃花が挑発的な笑顔を浮かべていた。


「ちょっと…」

「ええ、ずるいぃー!マユも混ぜてよぅ!」


 白縫さんが子犬のように走り寄ってくる。私の背骨が反射的に強張った。


「どうする、司?」


 桃花が楽しげに私を覗き込む。

 目が合うと怖がれてしまう、そう思った私は顔を伏せてしまった。

 白縫さんがしゅんと肩を落とすのが視界の端に映り、胸の奥がちくりと痛む。


「繭、どうせ宿題終わってないんしょ?」

「そうだけどぉー…」

「あーしが手伝ってあげるからさ」

「あぁーん、司ちゃん…」


 桃花は「やれやれ」と肩をすくめて私にウィンクを飛ばすと、しっぽを振る白縫さんの手首を掴んで、自分の席へと誘導していった。


「…ありがとう、桃花」


 騒がしくも温かい日常の音を聞きながら、私は静かにノートを開いた。



 少しすると桃花から動画を送られてきた。


 再生ボタンを押すと、画面の中で鏡越しの桃花が不敵に笑った。

 先ほど譲り受けたパレット。その粒子が、ぱっちりとした桃花の瞼に、鋼のようなスモーキーグレーの陰影を落としていく。

 さらに、目尻をナイフで切り裂くように鋭角なアイラインを引く。

 仕上げに唇を染め上げたのは、艶を消したマットなボルドー。血を啜った直後のような、獰猛な赤だった。


(…うわぁ)


 そこに顕現したのは、いつもの太陽のように明るい桃花ではなかった。

 グレー・黒・赤の三色のみで構成された、鋭利な「捕食者」。

 最後に、凍てつく月光をひと筋垂らすように、銀のエクステをパチンと差すと、画面の中の彼女はとびきり冷ややかな「横ピース」を作り、バチリとウインクを決めた。


『あの、色々聞きたい事あるんだけど…』


 戸惑いながら送ったLINEに、食い気味で返信が飛んでくる。


『良く撮れてたでしょ!』

『…うん。良く撮れては、いたね』


 顔を上げ、離れた席を見る。

 そこには、「うぅ~」と唸り声を上げている白縫さんと、シャーペンを回しながら私にニヤリと笑う桃花の姿があった。


『でっしょう?司はスタイル良いからさ。その格好で見下ろしたら迫力満点!』


 先程の桃花の格好をした自分を思い浮かべる。

 …客の絡みと一緒に、バイト自体も無くなりそうだった。


『…まあ、ね。ありがとう』


 思うことは色々有るが、私のためにここまで頑張ってくれたのは素直に嬉しい。


『そういえば…私が早くに登校するの知ってたの?』

『うんうん、繭が良く司の話してるからね』


 予想外の名前に指が止まる。


『白縫さんが?』

『そ。「司ちゃんと仲良くなりたくて早起きしてるのに、お話出来る空気じゃない!」って嘆いてたよ』


 もう一度、白縫さんを見る。

 彼女はまだ眉間に皺を寄せてノートを睨んでいる。彼女と私ではカーストが違うのだが…


『司とレインの近くだけ空気が凍り付いてるからね!』

『そんなつもりは無いのだけど…』

『まあ、繭も怖がってるわけじゃないよ。あの子、司のこと大好きだからさ』


 その言葉が、胸の奥でくすぐったく跳ねる。

 そんな真っ直ぐな言葉を向けられた記憶は、もう随分と昔に置き忘れた気がする。


『…今度、白縫さんと話してみる』


 少し勇気を出して、そう打ち込んだ。

 顔を上げると、桃花が満足そうに親指を立てたのが見えた。


『ね、今日はわざわざ早く来てくれたの?』

『ん、休み時間はレインが居るし、放課後はあーし部活だからさ』

『そっか…。色々ありがとう』

『ふふ。感涙に咽び泣いても良いよ?』

『いつも感謝してる、親友』


 送信ボタンを押して顔を上げると、桃花は教科書を片手に頬杖をつき、私を見ていた。

 視線が絡む。彼女はふわりと優しく微笑むと、口元だけで動かした。


 ――『ばーか』


 音のないその言葉が、どんな励ましの言葉よりも温かく響いた。

 私はクスリと笑って、胸の前で小さく手を振る。


『今日、レインお休みなの』

『そうなん?じゃあお昼は一緒に食べよ!』


 ガラガラと教室のドアが開き、クラスメイトたちが雪崩れ込んでくる。

 あっという間に桃花の周りには賑やかな輪ができ、私たちの視線は物理的に遮断された。


 私は鞄の底に指を這わせ「狐のポーチ」の感触を確かめる。

 その確かな重みと、画面越しの親友の温かさを噛み締めた。

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