4月23日(火) ― 4
商店街を抜けて5分ほど歩くと、前方に自然公園の深い緑が現れた。
道路標識を飲み込むように枝を垂らす厚い垣根。その奥には、見上げるほど高い木々が墓標のようにそびえている。
園内に街灯がないのか、木々の向こう側は、底のない沼のように深い闇に沈んでいた。
その隣に併設された図書館も、閉館して久しい今は、ただの巨大なコンクリートの塊だ。
昼間の平和な空気は微塵もなく、窓ガラスは冷たく黒光りして、私の不安を映し出していた。
さらに十分ほど歩いて、ようやく古びたマンションに辿り着いた。
エントランスを抜け、エレベーターのボタンを押す。
ガコン、と重たい駆動音が響き、ゆっくりと扉が開いた。住人の暗黙のルールなのか、箱は一階に止まっていた。
4階の中央の部屋。鍵穴を慎重に回し、静かに玄関ドアを開く。
途端、鼻腔を掠めたのは、ねっとりとした甘く官能的な匂いと、ツンと刺すアルコールの気配。
私は息を詰め、泥棒のように忍び足で玄関をまたいだ。
まっすぐに伸びた廊下は、一つの明かりも点いておらず、黒い口を開けて待っていた。
荷物を自室に置き、脱衣所の扉をあけた。
服を脱いで洗濯機に放り込もうとして――手が止まった。
朝には空だった洗濯槽が、母の服で埋め尽くされていたのだ。
濃厚で淫らな香りと、強烈なアルコール臭が鼻を突く。
「…う」
吐き気が込み上げる。
見なかった事にするのと、夜中に洗濯機を廻す事――どちらが「安全」か、天秤にかける。
(…大丈夫。潰れて寝てるはず)
私は覚悟を決めて、震える指を伸ばした。
電子音が、静寂な空間にやけに甲高く響く。
続いて、グウン…とモーターが重たく唸り声を上げ始めた。
「っ…」
反射的に身を強張らせる。心臓の音が、洗濯機の音と競うように早くなる。
暗い廊下の奥――母の寝室へ神経を研ぎ澄ませる。
幸い、聞こえてくるのは水が注がれる音だけだ。
安堵の息をついて洗面台の鏡を見ると、そこには罪人のように肩を縮こまらせ、恐怖に引きつった私の顔が映っていた。
「ふぅー…」
吐き出した息が白い湯気となり、換気扇へと吸い込まれていく。
浴槽に溜まっているのは、母が数時間前に使ったであろう残り湯だ。
私は、生温かく粘り気のある水面に、ゆっくりと身を沈めた。
冷え切った体には、この「ぬるい羊水」のような液体でもありがたかった。
――ゴウッ、ゴウッ…。
薄い壁の向こうで、洗濯機が暴れる音が響いている。
その振動が背中を伝うたび、心臓が跳ねる。
母が起きないか。ドアが突然開かないか。
芯まで凍りついていた緊張は溶けるどころか、冷たい塊となって胃の底に沈殿していく。
私はチャプ、と水面から右腕を持ち上げる。
白く、細い、ありふれた女子高生の腕だ。
あの熱、そして破壊衝動は何処から出てきたのだろうか。
白い顔の少女が言った『サナギ』という言葉が、呪いのように脳裏を掠める。
私は首を振って思考を追い出し、スマホを開き桃花とレインにメッセージを送る。すぐに返事が来た。
「ふふっ」
小さく笑いが漏れる。
このぬるいお湯よりも、画面越しの2人とのやり取りの方がよほど温かい。
他愛ない、生産性もない2人との繋がり。私にとって、それが何もよりも大切だった。
スマホを風呂蓋に置いて、肩まで深く湯に沈める。
洗濯機の低周波音が、子守唄のように脳を揺らした。
じんわりと広がる鉛のような疲労感が、思考回路を物理的に遮断していく。
眠い、のではない。限界を超えた脳が、強制的に電源を落とそうとしている。
重い瞼が閉ざされ、私の意識は、母の匂いがする水の中へと沈んでいった。
――ピーッ。
「…っ」
無機質な電子音が、鼓膜を突き刺す。
私は溺れかけた人のように、大きく息を吸い込んで飛び起きた。
お湯はすっかり熱を失い、浴室の寒さが濡れた肌を容赦なく刺してくる。
慌てて風呂場を飛び出し――異変に気づいた。
脱衣所の空気が変わっている。微かなアルコール臭と、退廃的な芳香。
(…あの人、起きたんだ)
心臓が早鐘を打つ。
震える手で慌ただしく身体を拭い、半乾きの肌に無理やり下着とパジャマを通す。
濡れた布が皮膚に張り付く不快感を堪えながら、私は息を殺して脱衣所の扉を数ミリだけ開けた。
廊下の突き当たり――暖簾の奥の暗闇から、脳を痺れさせる毒気が漂ってくる。
絶望感にガクリと膝が折れそうになる。
けれど、彼女の服を干さなければ、明日の私の居場所はなくなる。
私は湿ったシルクやレースが入った重いかごを抱え、覚悟を決めて暖簾をくぐった。
スマホの心許ない明かりが切り取るリビングは、深海のように重苦しい静寂に沈んでいた。
その闇の底に、白くなめらかな肢体が浮かび上がっている。
3シートソファに優雅に投げ出された、高級ルームウェア姿の母。
テーブルには飲みかけのワインと、手つかずのオードブル。
彼女はピクリとも動かず、ただ虚ろな瞳で天井のシミを見つめ続けていた。
うっ、と息が詰まる。
漂ってくるのは、枯れる寸前の百合の花粉のような、爛熟したフェロモンの匂い。
働かず、悩みもせず、ただ他者から搾取することだけで磨かれた、不気味なほどに完璧な美貌。
その圧倒的な「カリスマ性」が、呼吸するたびに私の肺を圧迫し、思考を支配していく。
(…静かに。空気のように)
気配を殺し、ソファの横を通り過ぎようとする。
その瞬間。
――ヒュンッ。
風を切る音。
視界の端、彫像のように静止していた母の手首だけが、早送りのようにぶれた。
――ガッ!
「…っく…」
硬質で鈍い衝撃。
私の額に、黒い塊――テレビのリモコンが直撃した。
彼女は私の方を見もしない。まるで羽虫を叩き落とすような、無造作で、けれど正確無比な一撃。
リモコンが床に転がり、電池蓋が弾け飛ぶ。
遅れて、焼けるような痛みが額から広がり、視界がジーンと滲んだ。
――ドクリ。
その時、痛みの奥で『何か』がどろりと熱く脈打った。
胃の腑の底で目覚めた獣が、理性の首輪を引きちぎろうとしている。
(だめッ!!)
私は抱えていた洗濯かごを、下腹部に力いっぱい押し付けた。
物理的に「蓋」をしなければ、腹を食い破って何かが飛び出してきそうだった。
脳裏に、血まみれで倒れる父の姿がフラッシュバックする。
「はぁ、っ、く……」
脂汗が噴き出す。
自分の中から生まれる殺意に抗っていると、母が気怠げに口を開いた。
「…せんたく、うるさい」
私を一瞥もせず、天井に向かって呟く。
「…すいません」
私が消え入るような声で答えた時、机の上から電子音が流れ始めた。
点滅する着信ランプが、暗い部屋の中で母の美しい横顔を青白く照らし出す。
それでも彼女はピクリとも動かない。
光と影が明滅する中、母の瞳だけがガラス玉のように死んでいた。
生命力の欠落したその姿を直視できず、私は逃げるようにベランダの窓から、夜の闇へと滑り出した。
「…っ」
大通りを吹き抜ける夜風が、濡れた髪を冷たく撫でる。
沸騰しかけていた血が、強制的に冷やされていく
。額の熱い痛みが、遅れて嗚咽を連れてきた。
(…早く干さないと)
母の残り香が染み付いたシルクを、ハンガーにかけていく。
その作業は、私の指先を物理的にも精神的にも凍らせていく。
ふと、パジャマのポケットに入れていたスマホが震えた。
『急用が入った。明日は休む』
レインからの素っ気ないメッセージ。
それでも今の私には、その無機質な光は大きな救いだった。
『そうなんだ。大変だね』
白く凍える息を吐きながら、震える指で返信を打つ。
『何か有ったら、いつでも相談してね』
私はスマホを強く握りしめたまま、空を見上げる。
広い闇夜の中で、月がたった独り、私と同じように凍えて光っている。
(…嘘だ。相談したいのは私の方だ)
新しい母、生活保護、父を死なせた過去。
何もかもぶち撒けて、桃花とレインに嫌われたい。
そうすれば、このどうしようもない人生から降りられるのに。
洗濯物を干し終えた私は、汚れた手で顔を覆い、コンクリートの床にうずくまった。
湿った髪と体が深夜の外気を吸い込み、痛いほどに冷えていく。
世界から切り離されたような狭いベランダで、私はただ、夜の闇に溶けてしまいたかった。




