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4月23日(火) ― 3

 近くのカフェに場所を変えて、私は今日の出来事―「暴力への渇望」以外―を桃花に話した。


「なるほろねー…」


 ストローを咥えたまま、桃花が低く唸る。氷がカランと音を立て、彼女は不機嫌そうに眉を寄せた。


「時給1,200円だっけ?その程度で変な客の相手とか、割に合わなくない?」


「…そう、だよね」


 正論だ。けれど、私にはバイトを辞めるという選択肢は与えられていない。

 私が肩を落とすと、桃花はスッと目を細め、鋭い視線を突き刺してきた。


「てか、何でバイトしてんの?初耳なんだけど」


 桃花の言葉に、隠しようのない苛立ちが混じっている。


「…マックと比べて時給が良かったのと、学校の人が来ないから、かな」


 そう答えると彼女は思案気に瞳を揺らす。


「ん、内緒な感じ?」

「学則だと禁止になってるから」

「あーね」


 桃花は納得したように頷くふりをして――次の瞬間、私の逃げ道を塞いだ。


「じゃなくて。そもそもの『バイトしなきゃいけない理由』って何さ」


 心臓が嫌な音を立てた。彼女の黒眸が、私の内側にある惨めな生活を見透かそうとしている。

 私は顔を伏せ、冷えたアイスティーの液面を見つめた。


「…お小遣い、少ないから」


 嘘、ではない。けれど、真実の十分の一も伝えていない。桃花がじっと私を見る。沈黙が長い。

 やがて、彼女は大きく息を吐き出した。


「ふぅん…」


 桃花がつまらなそうにストローを指で小突く。彼女はそれ以上、私の秘密に踏み込んでくることはなかった。


「まあ要するに、客のウザ絡みを無くしたいってことっしょ?」


 桃花がニヤリと、悪戯を思いついた猫のように口角を吊り上げた。


「なら、バッチリな方法があるよぅ」

「…ホント?」

「任せてっ!」


 桃花が自信満々に薄い胸を張る。


「明日話す。ちょっち準備が要るからさ!火傷じゃ済まないとびきりの『仮面』を用意してあげる!」

「なにそれ、大げさ」


 昔からそうだ。彼女はいつだって無鉄砲なほどに行動力の塊となって、私の手を引いてくれる。

 抱え込んでいた重りが、ふわりと軽くなる気がした。


「ねえ、桃花」

「んぅ?」

「今日はありがと。来てくれて…嬉しかった」


 さっきのような嘘ではない。心からの真実の言葉だ。桃花はピタリと動きを止めて、パチパチと瞬きをした。


「もうっ…そんなの、当たり前でしょ」


 桃花はふいと視線を逸らし、ストローをくるくると回し始めた。

 照明に照らされた彼女の耳が、少しだけ赤く見えた。


「…ふ」


 私の口から力が抜けたような吐息が漏れた。

 私の安堵は、溶けかけの氷と一緒に、夜のカフェに静かに吸い込まれていった。




「ごめんね、話し込んじゃって」

「ううん、あーしが引き止めただけだし」


 見上げた電光掲示板は、22時の電車を示していた。

 駅のコンコースは、残業帰りのくたびれたサラリーマンや、赤ら顔で千鳥足の酔客たちでごった返している。

 桃花が上書きしてくれた「清潔な世界」が、急速に現実の灰色に塗りつぶされていく。


「てかさ、マジで送ってくって!」


 改札の前で立ち止まり、桃花が私の腕を掴んだ。その瞳には、隠しきれない心配の色が滲んでいる。


「大丈夫だよ。帰り道は明るいし、バスも有るから」

「あーしも一緒に行くよ。帰りはパパに迎えに来てもらうし」


 桃花が強い口調で食い下がる。彼女の手の温もりに、心が揺らぐ。

 桃花についてきてもらえたら、どんなに心強いか。


(…でも、駄目だ)


 万が一にも、桃花を新しい母に会わせる訳にはいかない。


「…気持ちは嬉しいけど、ごめんね」


 私は桃花の指を、一本ずつ剥がすようにして、そっと解いた。


「新しいお母さん、厳しい人だから。こんな時間に友達が来たなんて知れたら、怒られちゃう」


 また嘘だ。母は私になど興味はない。

 いま私の顔には、きっと張り付けたような笑顔が浮かんでいるだろう。

 桃花が私の瞳をじっと見つめる。その視線の鋭さに、心臓が早鐘を打つ。


「…ん、りょーかい」


 桃花は開きかけた口を無言で閉じてから、短く息を吐いた。

 そして、空気を変えるようにビシッと私を指差した。


「その代わり!家着いたら絶対連絡すること!即レスなかったら突撃するからね!」

「…うん、分かった」


 私は短く答えると、桃花の背中をぽん、と優しく叩いて改札へ促した。


「またね」


 尚も名残惜しそうに振り返る親友に、私は努めて明るく手を振った。


「また明日!」


 桃花は太陽のような笑顔で大きく手を振り返すと、改札の向こうへと吸い込まれていった。




 桃花の明るい声が消えた途端、世界から彩度が失われたような錯覚を覚える。

 極彩色の青春は改札の向こうへ消え、残されたのは湿ったアスファルトと、薄暗いナトリウム灯の光だけ。


 私はロータリーに並ぶバスの列を横目に、足早に通り過ぎる。

「バスも有るから」桃花にはそう言ったが、私の財布にはバスに乗る余裕は与えられていない。


 信号を越え、商店街の出口に向かう。

 すり減ったローファーの底から、アスファルトの冷たさが直接骨に響く。

 私の懸念をよそに、あの「白い顔の少女」は見当たらない。あるのは、死に絶えたような夜の静寂だけ。


 自分の足音だけが、やけに大きく響く。

 その時、鞄の中でスマホが短く震えた。恐る恐る画面を確認すると、表示されているのは『桃花』の名前だった。


『バス乗った?変な人いない?』


 張り詰めていた糸が、ふっと緩む。

 過保護で、心配性で、少しだけ重い親友。今の私には、その束縛すら心地よい。


『うん、今乗ったよ。大丈夫』


 私は寒風吹きすさぶ歩道で立ち止まったまま、罪悪感と共に嘘のメッセージを打ち込む。

 送信ボタンを押すと、即座に既読がついた。


『そっか!良かった。家入るまで油断しないでね!』


 液晶に浮かぶのは、無機質な文字の羅列に過ぎない。

 けれど淡い光は、暗い夜道に1人立つ私に、確かな桃花の温もりを運んでくれた。

 私はスマホをカイロのように両手で包み込み、再び歩き出した。


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