4月23日(火) ― 2
時刻は19時を回り、商店街は家路を急ぐ人々の灰色の波で埋め尽くされていた。
私はその濁流から逃れるように、商店街の端にあるゲームセンターへと滑り込む。
エスカレーターを下るにつれ、激しい電子音が競り上がってくる。地下のフロアに降り立つと、そこはもう別世界だった。
多種多様な楽曲と打鍵音、歓声がドロドロに混ざり合い、フロア全体を暴力的な「音の壁」が包み込んでいる。
今の私にはこの耳を刺す騒音が、外の世界の悪意を遮断するシェルターのように思えた。
人の波を縫って、休憩用のテーブルを確保する。周囲を見渡せば、鍵盤を叩く者もステップを踏む者も、私と大差ない年齢の若者ばかりだ。
あの脂ぎった男も、お腹に触れてきた「白い顔の少女」も、ここにはいない。
「ふぅ…」
そっと、右手を膝の上に置いた。指先が微かに痙攣している。
怖いからではない。さきほどの反抗の快楽が忘れられず、熱い昂ぶりとして脳に伝わってくるのだ。
私はその醜い本性をねじ伏せるように、拳を握りしめた。
バイト終了時刻の22時までは帰れない。スマホを取り出し、LINEを開く。画面の向こうにある、「平凡で無害な日常」に救いを求めたかった。
『今どうしてる?』
私は鞄から文庫本を取り出し、意味も頭に入らぬまま活字を目で追い始めた。
「いつもの振る舞い」をしていれば、狂いかけた歯車が噛み合って、元の私に戻れると信じて。
「――みぃつけた!」
肩がビクリと跳ね、弾かれたように顔を上げる。そこには電子の光の乱舞よりも眩しい笑顔が、そこにあった。
「えへへ、来ちゃった!」
両手を後ろ手に組み、悪戯っぽく顔を寄せてくる少女。クラスメイトで、私の数少ない友人、伏見桃花。
薄暗い地下のゲームセンターにおいて、彼女の周りだけは華やかに色づいて見える。
「…驚いた。よくここに居るって分かったね」
「司の事なら何だって分かるから!」
得意げに笑う桃花。私は唾を飲み込み、引きつりそうになる口角を無理やり持ち上げる。
そしてテーブルの下で、未だに小刻みに震える右手を太ももの間で強く押しつぶした。
「カラオケ…じゃなかった?」
「抜けてきたー」
そう言うと、桃花が強引に私の首へ腕を回し、体重を預けてきた。
「っ…」
呼吸が止まり、全身が強張る。肌に触れる熱に、男の手の感触がフラッシュバックした。
けれど、ふわりと鼻を掠めたのは石鹸と柔軟剤…そして、白桃のような瑞々しく透明な甘さだった。
その「清潔な香り」が、私にへばりついていた不快な記憶を上書きしていく。
(温かい…)
日向のように温かい熱が、私の芯に巣食っていた「昏い衝動」を塗りつぶしていく。
「こっち見てー!」
私の葛藤など露知らず、カシャッと電子音が響く。
「んー、かーわいっ!」
差し出された画面には、驚きで目を丸くする私と、ぴったりと頬を寄せる桃花がいた。
私の右目を覆うように添えられた彼女の指が、鮮やかなピースサインを作っている。
アプリの加工はあるにせよ、なんというか…そこには『青春』を感じさせる空気が切り取られていた。
「…センスあるね」
「えへへ、でしょ?」
「でも、どうして?」
「さっきのメンツに送るー」
桃花のスマホには『私の親友!』という言葉と共に写真が載っていた。
その文字に胸が締め付けられる。ふと見ると既読マークの横に、『32』という数字が付いていた。
「えっと…これ何のグループ?」
「吹奏楽部!」
「…もしかして、部活のカラオケだったの?」
「そそ、懇親会だって」
桃花の言葉に軽い目眩を覚える。新入生懇親会を途中で抜けるなんて、私にはとても考えられない。
「問題ないの?」
「大丈夫だよー。ほらっ!」
画面には次々とメッセージがポップアップしていた。
そのどれもが好意的なもので、責める言葉は一つもない。彼女が周囲にどれだけ愛されているかが痛いほど分かる。
「ね、大丈夫でしょ?」
「…そう、みたいね」
桃花がニヤリと口角を釣り上げた。彼女はスマホを鞄にしまうと、私の顔を覗き込むようにして言った。
その視線が、私が必死に張り付けていた「平気なフリ」という仮面を、容赦なく剥がしにかかる。
「そんな事よりー。何があったか話してよっ!し・ん・ゆ・う!」
「…っ、ばっかじゃない」
茶化すような口調だが、その瞳は真剣に私を案じてくれている。鼻の奥がツンと痛くなった。
「…でも、ありがと」
気がつけば、手の震えはすっかり治まっていた。




