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4月23日(火) ― 1

 

「…という事があったの」


 昼休み。教室の隅、埃っぽいカーテンの陰で、私はスーパーのお弁当を広げていた。

 冷え切って脂が白く浮いたハンバーグを、割り箸の先で突き崩す。口に運ぶと、ジャリッとした脂の感触が舌に残り、不快感が喉を這い上がった。


「どんな人?」


 問いかける声は、静かで温度がない。レイン・スターリング。私の向かいに座る彼女は、今日も彫像のように美しく、そして異質だった。

 夜闇を煮詰めたような褐色の肌。長い睫毛に縁取られた瞳は、琥珀を溶かしたように深い褐色。

 彼女は固形物を口にしない。銀色のパウチに入ったゼリー飲料をストローで吸い上げながら、じっと私を見つめていた。


「うーん。サイドツイン?で、背は私より大分低い…140くらいかな。それで、顔が…」


 脳裏に焼き付いた「白い顔」が、フラッシュバックする。同時に、鼻の奥で腐臭が蘇る。


「陶器の人形みたいに真っ白で…。それと、酷い匂いがした。腐った林檎みたいな…」


 言いながら、こみ上げる嘔吐感に喉が引き攣る。口元を押さえた――その時だった。

 ふわり、と風が動いた。気配が近づく。顔を上げると、レインの顔が至近距離にあった。


「…ん」


 その瞬間、私の鼻腔を満たしたのは、甘い香水でも、石鹸の香りでもなかった。ツンと鼻を刺す消毒液と古びた鉄。そして、雨に濡れた瓦礫のような、冷たく無機質な匂い。

 普通の女子高生からは決してしない、けれど今の私には救いとなる「現実」の匂い。


「…ゆっくり呼吸をして」


 その冷ややかな声と匂いを吸い込んだ瞬間、暴れだそうとしていた胃の腑が嘘のように静まり返った。

 脳髄にこびりついていた「甘ったるい腐敗臭」が、レインのまとう「冷徹な清潔さ」によって、洗浄されていく。


「…落ち着いた?」


 私の顔色が戻ったのを見てとったのか、レインが静かに顔を引く。


「…うん、ありがと。レインが居ると落ち着く」


 私の言葉に、彼女は微かに口元を緩めた――ように見えたが、すぐに能面のような表情に戻った。


「怪我は?」

「それは大丈夫。…でも、気持ち悪いこと言ってた。『サナギ』とか…」


 言いながら、制服の上から下腹部をさする。あの冷たい指に撫でられた感触が、まだへばりついている気がした。


「今夜のバイト、行きたくないなぁ…」


 私が独り言のように弱音を吐くと、レインは静かに私を見つめ返した。

 その瞳には、同情も励ましもない。ただ、私の苦痛を受け止めてくれる静寂だけがあった。


「レインは?放課後どうするの?」

「予備校」


 即答だった。あまり聞きたくない単語。


「…そっか。受験終わったばっかりなのに、大変だね」


 レインはコクリと頷いた。その評定は凍りついた湖面のようで、何を考えているのか読み取れない。

 ただ、窓の外を見つめるその横顔は、勉強に向かう学生とは思えないほどに冷え切っていた。




「おまたせしました」


 テーブルを囲んでいたのは、すでに顔を赤らめた4人の中年男性だった。煮え切った鍋の湯気と、酒と汗の混ざりあった臭気が鼻をつく。


「…あ?」


 上座に座っていた男が、私を見上げて動きを止める。脂ぎった顔。濁った眼球。その目が、私の顔を舐めるように上下し――そして、不愉快そうに歪んだ。


「なんだ姉ちゃん、その目は」


(――またか)


 内心でため息を付く。私はただ、注文の品を置こうとしただけだ。けれど、私のこの愛想のない「三白眼」は、しばしば相手に威圧感や不快感を与えてしまう。


「…申し訳ありません。白鶴をご注文のお客様は」


「客を睨んでんじゃねえよ。別嬪が台無しやな」


 男が音を立ててグラスをテーブルに置いた。四方から突き刺さる視線。それは集団で醸成される粘着質な加虐心を含んでいるように感じ取れた。


「ごゆっくりどうぞ」


 そう言って私は背を向けようとした――その時だった。


「姉ちゃん、酌してくれや」


 油膜が張ったような濁った声。男がグラスを揺らしながら、ニタニタと下卑た笑みを浮かべている。


「…申し訳ありません。当店では、お酌は禁止されておりまして…」


「堅いこと言うなや!減るもんじゃなし!」


 ドッ、と同席していた連中が一斉に卑猥な笑い声を上げた。逃げ道を封じるような、重苦しい視線の包囲網。

 脂とアルコールの匂い、そして嘲笑の圧力に、肺が押し潰されそうになる。

 その時、下腹部の底で黒い熱が低く唸りを上げた気がした。


「はよせんかい!」


 男の怒号が鼓膜を打ち、理性の鎖を揺らす。これ以上騒がれては他のお客様に迷惑がかかる。


(…我慢。我慢だ)


 私は唇を強く噛み、破壊衝動を無理やりねじ伏せる。そして、ゆっくりと徳利へ手を伸ばした。


 ――ガシッ。


 次の瞬間、手首を鷲掴みにされた。分厚く湿った男の手の平。そこから伝わる生暖かい熱と滲んだ汗が、ナメクジのように私の皮膚にへばりつく。


「…っ!」


 汚い。生理的な嫌悪で思考が凍りついた。―その刹那。


 ――ドクンッ!


 理性の制止を無視して、下腹部の底で黒い熱が爆ぜた。

 内側に潜む「何か」が、拒絶の牙を剥いた。脳のブレーキが間に合わない。思考より速く、神経より鋭く、熱が右腕の筋肉をショートさせる。


「ッ――!!」


 空気を切り裂く音。私は信じられないほどの力で、汗ばんだ男の腕を弾き飛ばしていた。


 ――バシャッ!


 持っていた徳利の中身が、スローモーションのように男の顔と服を濡らしていく。


「…てめぇっ!」


 一瞬の沈黙の後、男が激昂して立ち上がった。男の真っ赤に充血した目を見た瞬間、私の右手がギリリと握りしめられた。

 あの眼窩に指を突き立て、鮮血で視界を塞いでしまえば――脳髄が痺れるほど、それは甘美で抗いがたい快楽だった。


(ッ、ちがう!)


 次の瞬間、私は脱兎のごとく逃げ出した。ここに居たら、自分が何をするか分からない。

 背後で怒号が上がるが、それも一瞬で遠ざかる。「出力」がおかしい。

 坂道を転げ落ちる岩のように、足が勝手に回転し、重心が制御できないほど前へつんのめる。


(まずい、止まれない!)


 通路の正面。大柄な男性店員が横を向けて立っているのが見えた。

 私は慌てて足に力を込める。けれど、勢いの乗った運動エネルギーを、ローファーのグリップ力では殺しきれない。


 ――ドンッ!


 衝撃。けれど、相手はよろめきもしなかった。

 まるで地面に根を張った大木か、岩に激突したような感覚。ぶつかった私の方が、反動で後ろに転げそうになる。


「…っち」


 地を這うような、低く、不機嫌な舌打ちが頭上から降ってくる。


「す、すいません!」


 私はまともに相手の顔も見ずに謝ると、転がるように更衣室に駆け込んだ。

 扉をしめ、余りの疲労に椅子に崩れ落ちる。


「はぁ、はぁ、はぁ……ッ」


 酸欠の魚のように喘ぎながら、更衣室の天井を仰ぐ。


(…なに、これ)


 震える手で、自分の顔を覆う。客に酒を浴びせ、店員にぶつかり、逃げてきた。取り返しのつかない事態。けれどそれ以上に――私は自分が抱いた殺意への渇望がどうしようもなく怖かった。




「大神さん、大丈夫?」


 どれくらい経ったろうか。控えめなノックの音と共に、店長が更衣室に顔を覗かせた。

 その目元には隠しきれない疲労の色が滲んでいたが、うずくまる私を見る瞳は穏やかだった。


「これ飲んで。糖分を取ったら落ち着くわよ」


 差し出されたグラスには、鮮やかな橙色が揺らめいている。


「…ありがとうございます」


 受け取ろうとした指先が、カチカチとグラスに当たって音を立てる。

 両手で包み込むようにして一口飲むと、冷たい柑橘の甘さが広がった。口に残っていた「鉄錆の幻味」が、酸味に上書きされていく。


「変なお客さんの相手させちゃってごめんね」


 彼女は私の隣にしゃがみ込み、申し訳なさそうに眉を下げた。


「…ちがうんです。私が…お客さんに乱暴して」

「お客さんの事は気にしないで。少し『大人の話し合い』をして、納得してもらったから」

「納得…って、あんな目にあったのに、ですか?」


 酒を頭から浴びたのだ。警察沙汰になってもおかしくはない。けれど店長は、口元に人差し指を当てて悪戯っぽく微笑んだ。


「ええ。向こうも酔ってセクハラした自覚があったし、余り大事にはされたくないみたい」


 彼女がどうやってあの怒り狂う男たちを黙らせたのかは分からない。けれど、その華奢な背中が、今は何よりも頼もしく見えた。


「さ、今日はもう上がっていいわ。あんな事があったんだもの、心細いでしょう」

「…本当に、すいません」

「そんなに気にしないで。大神さんは何も悪くないんだから」


 店長は優しく私の背中をさすった。その無防備な体温に、喉の奥が引きつる。


(私は悪くない…?)


 そんな訳はない。逃げ出さなければ、私は嘲笑いながら客の目を潰していたかもしれないのだ。


「…はい、ありがとうございます」


 込み上げる罪悪感と、無事に済んだという卑屈な安堵。相反する感情をジュースと共に飲み込み、私は逃げるように頭を下げた。




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