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4月25日(木) ― 5


繭は居たたまれなくなったのか、視線を泳がせて、唐突に話題を切り替えた


「そ、そういえば!ここ、すっごくお洒落なお店だよね!」

「…ふふ、そうね」


私は彼女の視線を追って、天井を見上げた。飴色に燻された太い古木が、頭上を交差している。

アンティークランプの仄かな灯りが、梁に刻まれた年輪と傷跡を優しく撫でていた。


「ここ、お父さんに連れて来て貰ったの」

「そうなんだ?司ちゃんのお父さん、センス良いんだね!」


私はカップの縁を指でなぞりながら、懐かしい記憶の蓋をそっと開けた。


「…父はデザイナーだったから、こういう『構造』が好きだったの」

「こうぞう?」

「うん。釘を使わずに木を組む技術が好きだったみたい」


合理主義で、無駄を嫌い、食事すら「給餌」で済ませようとした父。

けれど、機能美を語る時の父の瞳には、確かな情熱が宿っていた。


「えーっ、なんかカッコいい!」


繭が感嘆の声を上げ、そして無邪気な笑顔で、私に決定的な一言を放った。


「司ちゃんのお家は、みんな仲良しなんだね!」


――ドクン。


瞬間、心臓が早鐘を打ち、胃の底からどろりとした熱い泥がせり上がってきた。

彼女の言葉が鋭利な刃物となって、私の内臓を抉る。


(…違う)


脳裏にノイズが走る。思い浮かぶのは穏やかな父の顔ではなく、床一面に広がる鮮血の赤。あの色が、新しい「母」を狂わせた。


「…繭のご家族は?」


私は今にも剥がれ落ちそうな「笑顔の仮面」を貼り付け、どうにかそう聞き返した。

私の問いに繭が長い睫毛を伏せる。カップの縁をなぞる指先が、微かに震えていた。


「うちはずっと、ママだけなの」


感情の混ざらない、高く澄んだ声だった。


「ママ、前はいつも笑ってたんだけど…」


そこまで言って、繭がはっと顔を上げる。


「あっお父さん居ないのは最初からだし、良くしてくれる人は居るから、哀しいとかは全然無いやつ!」


繭が慌てて笑顔で両手を振った。けれど、私には見えてしまった。

張り付けた笑顔の端が、微かに引きつっているのが。

その時――私の中で、探していたピースが『カチリ』と嵌まった気がした。


(…なんだ)


胸の奥で、どろりとした安堵が湧き上がる。彼女は、完璧なお姫様ではなかった。

大きな「欠落」を抱え、笑顔という薄い膜で必死にそれを隠している。


「…辛い事とか嫌な事があったら、言ってね」


(…そうすれば、私も気兼ねなく、貴女に愚痴を吐ける)


「司ちゃん…ありがと!」


私の醜い本心など露知らず、繭が花が咲いたような笑顔を向けてくる。

その純粋な光を浴びた瞬間、黒い安堵は、粘着質な罪悪感へと変質した。

彼女を助けたいという清らかな想いなど、欠片もない。単に、心の底に溜まった汚泥を撒き散らすに適任と思ったに過ぎない。


菓子パンの甘さを際立たすためには苦いコーヒーが良い。

では、幸福になる簡単な方法は何か?私のような小者は所詮、相対的な判断でしか自己を測れないのだ。


「…ん」


冷めたプレッチェルを口に運ぶ。あんなに香ばしかった小麦色のパン。けれど今は、湿気ってしまい、砂を噛むように味気なかった。




「それじゃ、またね?」


別れ際、繭が捨てられた子犬のように不安な瞳で私を見つめる。


「良かったら…明日も一緒に、宿題をしよう」

「うん…うんっ!絶対だよ!」


その提案が良かったのか、繭は夏空に咲く向日葵のような、目の眩む笑顔を弾けさせた。

弾むような足取りで商店街へと消えていく彼女の後ろ姿。

それを見送った瞬間、私の表情から温度が抜け落ちて、肺の奥から鉛のようなため息がこぼれ落ちた。

あんなにも無垢な無防備さに触れていると、彼女の欠落を自分の安寧のために啜った根源的な浅ましさが露呈する。


(…もう、消えてしまいたい)


繭に触れた右手が、ジンジンと不快に脈打っている。

その人間らしい熱が、冷え切った私には、出来損ないの命を焼く毒のように感じられた。

自己嫌悪と空虚さに耐えかねて、私は縋るようにスマホを取り出した。

桃花とレインに必要とされている時間だけが、この醜悪な人生に「意味」という名のメッキを施してくれる。

私は震える指でLINEを開く、その時だった。


――すん。


夕暮れの商店街に漂うパンの香ばしい匂いや、湿ったアスファルトの匂いが、一瞬で掻き消えた。

鼻腔を焼き、脳髄を直接掴んでくるような、あの重苦しい「熟れた林檎」と「鉄錆」の臭気。

背筋が総毛立ち、周囲の雑踏の音が、まるで水底に沈んだかのように遠のいていく。


「…っ!」


私は弾かれたように顔を上げ、周囲を見回した。夕闇に沈む商店街。

家路を急ぐ人々の影。何一つ変わらない、平和な光景――のはずだった。


けれど、決定的な違和感がある。

行き交う人々が、私の背後の空間だけを――まるでそこに見えない壁があるかのように、無意識に避けていく。


(…まさか)


逃げろ、と理性が警報を鳴らす。しかし、あの日暴発した生存本能はピクリとも動かない。

私の足は完全に氷結し、彫像のようにその場に固着するしかなかった。


――トン


氷柱のような指先が、私の肩を叩いた。


「――はぁい」


舌で鼓膜をなぞったような、背徳的に甘い声。

心臓が鷲掴みにされたように跳ね上がり、全身の血液が逆流して凍りつく感覚。

油の切れたブリキ人形のような動きで、私は恐る恐る後ろを振り返った。


そこに、世界から色彩を奪い取ったような「空白」が立っていた。

切り揃えられた前髪と、サイドツインに結われた漆黒の髪。

毛穴の一つもない病的なまでに白い肌。

その無機質なキャンバスの中で、唇だけが鮮血を啜った直後のように、毒々しい朱色に濡れている。


「……あ、……」


喉が引き攣り、声にならない。

間違いない。今朝、物理法則を無視して私を助けた少女だ。

彼女が赤い唇をぺろりと舐めた。とろりとした、粘着質な視線。


「キミ…ツカサ、だよね」


名前を呼ばれただけなのに、蛇に睨まれたように体が縮こまる。

お香のように濃厚で、肺を腐らせるような林檎の甘い香りが、脳の芯を麻痺させていく。


「…け、けさは…ありがとう…ございました」


本能的な恐怖を「礼儀」という仮面で覆おうとする。けれど、私の声は震え、あまりに無力だった。


「いいよぉ。それよりさぁ」


少女が身を屈めるようにして、私の顔を覗き込んでくる。

サイズオーバーなパーカーの襟元がはらりと広がり、骸骨のように華奢で白い鎖骨が露わになった。

あまりにも無防備で、だからこそ毒々しいほどに蠱惑的。


「僕、すっごく『お腹空いてる』んだぁ…」


少女は商店街を行き交う人々に視線をやると、嬉しそうに喉を鳴らした。

にぃ、と朱色の唇が三日月型に釣り上がり、真珠色の犬歯が覗く。

それは吸血鬼のように、鋭く尖っていた。背筋を冷たい汗が伝い落ちる。私の脳内で、最大級の警報が鳴り響いていた。


「――あそびにいこう?一緒に、さ」


無邪気な誘い文句が、死刑宣告のように響く。


「…ようじが…あります」


私は顔を俯かせて、精一杯の拒絶を示す。瞬間、ふわりと甘い風が吹いた。


「――うそつき」


耳元で、湿った吐息と共に甘い声が囁く。


「っ!?」


弾かれたように顔を上げる。

鼻先が触れ合うほどの至近距離に、彼女の「真っ白な顔」があった。


「真っ暗な部屋で、ただ息を殺してるだけなのに?」


ビクリと肩が跳ねる。


「あは、図星だ」


少女がクスクスと喉を鳴らしていたが、ふいに視線を逸らした。

そのガラス玉のような瞳が、私の肩越しに――先ほど繭が消えていった方向へと、ゆっくり動く。


「あーあ、キミが遊んでくれないなら…『代わり』を探さないとなぁ」


その言葉に、とてつもなく嫌な予感が走る。


「なにを…するつもりですか」


恐怖で強張る喉から、必死に声を絞り出す。

濃密な沈黙が落ちる。

やがて彼女は蜜が滴り落ちるような、蕩けた愉悦の表情を浮かべた。


「…まさか、あなた…!」


言いかけた私の言葉は、唇に押し当てられた氷のような指によって遮られた。


「あはっ、そんなに怖がらなくていいよ」


少女は満足げに目を細めると、くるりと背を向けた。


「またね。ツ・カ・サ」


彼女は歌うような足取りで、夕闇に溶け込んでいった。

残された私は、足元から這い上がる悪寒に縛られ、指一本動かすことができなかった。



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