ドライフラワー
ドライフラワーは、死んだ花だ。
それでも、人はそれを飾る。
私がその花屋で働き始めたのは、逃げるためだった。
都会の端、古いアーケードの途中にある小さな店。看板の文字は日に焼け、「花」の字だけがかろうじて読める。
生花はほぼなく、ドライフラワーの方が多い店だった。
天井から吊るされた花束が、逆さまにぶら下がっている。
ラベンダー、スターチス、ミモザ。色は褪せているのに、妙に存在感がある。乾いた植物の匂いが、店の奥まで染みついていた。
「水やり、いらないから楽でしょ」
面接のとき、店主の榊さんはそう言って笑った。五十代半ば、眼鏡の奥の目が優しい人だった。
「枯れないんですか」
「もう枯れてる」
即答だった。
「でも、終わらない」
その言葉の意味は、しばらく分からなかった。
私は、以前は別の場所で働いていた。
ウェディング関連の仕事だ。
ブーケを扱い、会場を花で埋め尽くす。
祝福の象徴としての花。
けれど、ある日を境に、花を見るのが辛くなった。
妹が、結婚式の直前に亡くなったからだ。
事故だった。原因は、単純な不注意。
彼女は、純白のドレスを着る予定だった。
私は、彼女のために、ブーケを選ぶ約束をしていた。
その約束は、果たされなかった。
葬儀の日、棺の中に入れられた花を見て、私は吐いた。
生花の匂いが、どうしても耐えられなかった。
だから、枯れた花なら大丈夫だと思った。
命の途中を奪われたものではなく、時間をかけて、終わった花なら。
花屋の仕事は、単調だった。
注文を受け、束ね、包む。
ドライフラワーは脆く、少し力を入れると花弁が崩れる。丁寧さが求められた。
「ドライはね、生きてた頃より、扱いが難しい」
榊さんは言う。
「生きてるうちは、回復する。でも、これは違う」
ある午後、一人の女性が店に入ってきた。黒いコートに、淡い色のマフラー。年齢は、私と同じくらいだろうか。
「ドライフラワー、ありますか」
「はい」
私は店内を案内した。
「贈り物ですか」
「……自分用です」
彼女は、吊るされた花を見上げながら言った。
「生花は、嫌いで」
その言葉に、胸がわずかに反応した。
「どうしてですか」
尋ねると、彼女は少し困ったように笑った。
「生きてるのに、すぐ死ぬから」
私は、何も言えなかった。
彼女は、淡い紫のスターチスを選んだ。
「この花、何ですか」
「スターチスです。色が残りやすいんです」
「じゃあ、これで」
会計を済ませ、彼女は去っていった。ドアベルの音が、乾いた空気に響く。
それから、その女性は、時々店に来るようになった。
毎回、違うドライフラワーを買っていく。少しずつ、部屋を埋めるみたいに。
ある日、彼女は言った。
「ドライフラワーって、ずるいですよね」
「……どういう意味ですか」
「死んでるのに、きれいなまま」
私は、手元の花束から目を離さずに答えた。
「きれい、とは限りません」
「そうですか?」
彼女は首を傾げる。
「私は、安心するんです。これ以上、変わらないから」
その言葉は、私の中に沈んだ。
妹のことを、思い出していた。彼女は、変わる途中で止まってしまった。
ドライフラワーのように、完成した終わりではなかった。
その夜、私は夢を見た。部屋いっぱいに吊るされたドライフラワーが、音を立てて崩れ落ちる夢だ。床に散らばる花弁は、触れた途端に粉になる。
目が覚めると、胸が苦しかった。
数週間後、彼女はいつもより遅い時間に来た。外は雨で、コートが濡れている。
「今日は、何をお探しで」
「全部」
彼女は、疲れた顔で言った。
「……全部?」
「部屋を、片付けることにしたんです」
意味を測りかねていると、彼女は続けた。
「一緒に住んでた人が、出ていきました」
私は、黙って花を選び始めた。ミモザ、ユーカリ、カスミソウ。色も形も違うものを組み合わせる。
「ドライフラワーって、記念品みたいですよね」
彼女が言う。
「終わった時間の記念品」
「……はい」
「でも、増えすぎると、苦しくなる」
私は、手を止めた。
「捨てるんですか、全部」
「分かりません。ただ……」
彼女は、少し言い淀んだ。
「今度は生きてるものを、置いてみようかなって」
その言葉に、胸がざわついた。
「観葉植物とか」
「……水、あげないといけませんよ」
「そうですね」
彼女は笑った。その笑顔は、初めて見る柔らかさだった。
会計を済ませるとき、彼女は言った。
「あなたは、どうしてここで働いてるんですか」
逃げるため、と正直に言うわけにはいかなかった。
「……枯れた花が、好きだからです」
半分は、本当だった。
彼女はそれ以上聞いてこなかった。大きな花束を抱えて店を出た。雨の音が、少しだけ軽くなった気がした。
その後、彼女は来なくなった。
季節が変わり、店に入る光の角度も変わる。私は、相変わらずドライフラワーを束ねていた。
ある日、榊さんが言った。
「ドライもね、ずっとは持たない」
「……そうなんですか」
「崩れる。色も、匂いも。ゆっくりだけど」
私は、天井の花を見上げた。確かに、少しずつ、粉が落ちている。
「それでも、飾る意味はあるんですか」
「あるよ」
榊さんは、迷わず答えた。
「終わったものを、終わったまま、見つめるために」
その言葉は、胸に残った。
数か月後、久しぶりに、彼女が店を訪れた。髪が少し短くなっている。
「お久しぶりです」
「……どうも」
「今日は?」
「返しに来ました」
彼女は、小さな箱を差し出した。中には、以前買ったドライフラワーが入っている。少し色が褪せ、端が欠けていた。
「もう、役目を終えたので」
「処分、しますか」
「いいえ」
彼女は首を振る。
「ここに、置いていっていいですか」
私は、頷いた。
天井の端に、その花束を吊るす。新しい花と、古い花が並ぶ。
「今、生きてる植物、育ててます」
彼女が言った。
「枯らしました?」
「一回。でも……また、買いました」
その言葉に、私は微笑んだ。
彼女が去った後、私は店の奥で、一輪のドライフラワーを手に取った。
妹のために選べなかった、ブーケの代わりに。
ドライフラワーは、死んだ花だ。
それでも、人はそれを飾る。
終わりを否定するためじゃない。
終わったことを、確かにあったと認めるために。
私は、花を吊るす。今日も、静かに。
ご生前のご厚情に深く感謝するとともに、心よりご冥福をお祈り申し上げます。




