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第9章:需要と供給の法則

第9章:需要と供給の法則


「――銀貨5枚。彼らの『市場価格』の半値だ」


レオンのその一言は、水を打ったような静寂をギルドホールにもたらした。

冒険者たちが、エールのジョッキを口に運ぶのも忘れ、カウンターのレオンと、その隣に積まれた青い小瓶の木箱を凝視している。


銀貨10枚の「下級回復薬」は、この街の「常識」だった。

新人冒険者が、ゴブリンを10匹倒してようやく稼げる金額。怪我をすれば利益が消し飛ぶため、彼らは常に「怪我をしない」という非効率な立ち回りを強いられてきた。


その「常識」が、今、目の前で半値になった。


「……おい、兄ちゃん」

最初に沈黙を破ったのは、ギルドの隅で、使い古した皮鎧を修繕していたFランクの新人冒険者だった。

「今、銀貨5枚っつったか…? その青い水、本当にポーションなのか?」


「『レオン・ポーション(試作品)』だ」

レオンは、感情を排した声で答えた。

「効能は、既存の下級回復薬レッサー・ポーションと同等か、それ以上を保証する。成分分析表は、受付こちらのサラさんが保管している」


サラは、レオンが昨夜のうちに作成していた(スライムの粘液で羊皮紙に穴を開けながら)詳細な分析表を、震える手で掲げた。


「……まじかよ」

Fランクの冒険者が、汚れた財布から銀貨5枚を握りしめ、カウンターに歩み寄る。彼の仲間たちも、固唾を飲んで見守っている。


「一つ、くれ」

「どうぞ」


カラン、と乾いた音がして、銀貨がカウンターに置かれた。

サラが、青い小瓶を差し出す。

男は、コルクを抜き、恐る恐るその匂いを嗅いだ。薬師組合のポーションが持つ独特の薬草臭さではなく、わずかに鉱物的な、無機質な匂いがするだけだ。

彼は意を決すると、それを一気に煽った。


「……どうだ?」

仲間が尋ねる。


男は、数秒間、目を閉じていたが、やがてカッと目を見開いた。

「おお…! おお! 温かい…! 傷が塞がる感覚だ!」

彼は、修繕中だった皮鎧のせいで擦りむいていた腕を掲げて見せた。そこでは、確かに赤黒かった擦過傷が、淡いピンク色の皮膚へと変わっていくのが見えた。


「すげえ! 本当にポーションだ!」

「しかも、銀貨5枚!」


その一言が、引き金だった。


「俺にもくれ! 二つ!」

「こっちは三つだ! これで明日のゴブリン狩り、倍は行けるぞ!」

「やった! いつもなら一つ買う金で、二つ買える!」


それまでギルドの隅で小さくなっていたFランクの冒険者たちが、雪崩を打ってカウンターに殺到した。


ホールは、興奮した男たちの怒号と、銀貨がカウンターに叩きつけられる甲高い音で満たされた。エールの匂いは、彼らの熱気と、わずかに漏れた「レオン・ポーション」の鉱物臭に取って代わられた。


「お、押さないでください! 順番に!」

サラは、殺到する需要ディマンドの濁流に飲み込まれそうになりながら、必死で銀貨を回収し、小瓶をさばいていく。

彼女の頬は、恐怖と、そしてこれまで感じたことのない高揚感で赤く染まっていた。


(これが…これがレオン様の言っていた…『潜在需要の掘り起こし』!)

彼女は、目の前の熱狂を、ギルド職員としてではなく、一人の「経済学者」の助手として目撃していた。

薬師組合の「高価格(独占価格)」が抑えつけていた市場が、レオンの「適正価格(競争価格)」によって解放され、本来あるべき姿へと爆発している。


「レオン様! 在庫が…!」

最初の木箱は、わずか10分で空になった。


「次の箱を」

レオンは、ギルドの壁際で腕を組み、その光景を冷徹に分析していた。

(初期需要は、予測の1.5倍。市場の渇望ニーズは想定以上に強い。この販売速度ベロシティなら、初期投資イニシャル・コストは本日中に回収可能)


彼は祝杯を上げるでもなく、ただ「数字」を見ていた。

「サラさん。購入者のランクと、一人当たりの平均購入数を記録ログしておいてくれ。次の『生産計画プロダクション・プラン』の最適化に必要だ」


「は、はい!」

サラは、興奮で震える手を叱咤し、帳簿にインクを走らせた。


二箱目、三箱目も、瞬く間に消えていく。

Fランク冒険者たちの顔は、借金を返済した日のように晴れやかだ。彼らは、青い小瓶を「未来への投資」として、大切そうに懐にしまい込んでギルドを飛び出していく。


ギルドホールが、活気と希望で満たされていく。

レオン・アストライオスというたった一人の「新規参入者」が、この街の経済構造そのものを、根底からひっくり返した瞬間だった。


その熱狂の片隅で。

二階のテラス席から、冷え切った目でその光景を見下ろす男が一人いた。

豪華な絹の服をまとった、薬師組合ファーマシスト・ギルドの組合長、マルサス・ヴァーン。


彼の指が、握りしめた銀杯を、ミシリと音を立てて歪ませた。

「……Fランクの、雑魚どもが」


低く、煮え滾るような声が、興奮したホールに届くことはなかった。

レオンが仕掛けた「価格競争」は、市場の熱狂デマンドと同時に、既存利権の冷徹な「殺意(サプライ・サイドの反撃)」をも呼び覚ましていた。

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