第7章:ブルーオーシャン戦略
第7章:ブルーオーシャン戦略
その日の午後、冒険者ギルドの扉が荒々しく蹴破られた。
「ぐあっ…! ポーションを…早くしろ!」
「足が…足が動かねえ!」
運び込まれてきたのは、Cランクパーティ『鉄の爪』のリーダー、ボルコフたちだった。
彼らは数時間前、意気揚々とギルドを出て行ったはずだ。だが今、その全員が足首から血を流し、顔はスライムの粘液で青白くふやけ、地面を惨めに這っている。ギルドホールは、彼らが放つ血と泥、そして酸っぱい粘液の匂いで満たされた。
「ひどい怪我だ…! 回復術師を呼べ!」
「いったい誰にやられたんだ!?」
カウンターの内側で、サラは帳簿を握りしめたまま凍りついていた。
(レオン様は…? まさか、返り討ちに…?)
彼女の脳裏に最悪の事態が浮かぶ。ボルコフたちは素行が悪いとはいえ、Cランクの実力者だ。テイムモンスター(Fランク)しか持たないレオンが、彼らに勝てるはずがない。
「…おい、見ろよ」
冒険者の一人が、入口を指差した。
ホールが、再び静まり返った。
そこに立っていたのは、レオン・アストライオスだった。
彼は、負傷したゴブリンたち(戦闘要員ではない)をすでに隠し、スライム部隊だけを背嚢につけ、一人で立っていた。
彼の衣服には、泥一つ、返り血一つついていない。
まるで早朝の散歩から帰ってきたかのように平然と。
彼は、床でうめくボルコフたちに一瞥もくれず、まっすぐカウンターに向かった。
「……レオン、様」
サラの声は、自分でも気づかぬうちに震えていた。
「ご無事、だったのですね…? あの、ボルコフたちが…」
「ああ、彼らか」
レオンは、まるで道端の石ころについて語るかのように、温度のない声で言った。
「俺の『生産活動』に対する、非合理的な『市場介入』を試みてきた。だから、『排除』した」
「ひ…」
サラは息を呑んだ。
(排除…)
彼は、Sランクパーティを追放された最弱のテイマーだ。だが、その瞳は、勇者アレックスのそれよりも冷徹な「力」を宿していた。それは、暴力を暴力で制圧する力ではない。システム(体制)そのものを無力化する、知性の力だ。
「ですが、採取区域は…!」
「放棄した」
レオンは、こともなげに言った。
「あの市場は、既得権益による妨害(参入障壁)が常態化している。生産性を維持するための防衛コスト(防衛費)が、利益を上回った。もはや『レッドオーシャン』だ。投資する価値はない」
「で、では…薬草の供給は…」
サラは、マルサスの冷笑的な顔を思い出し、安堵と失望の混じった複雑な溜息をついた。彼が撤退すれば、組合との衝突は避けられる。だが、彼の「改革」はここで終わってしまうのか。
レオンは、サラの葛藤を見透かすように、カウンターに一枚の羊皮紙を滑らせた。
それは、ギルドの依頼書ではなかった。
彼が昨夜、宿屋で書き上げた、膨大な計算式と分析が記された「事業計画書」だった。
「受付嬢さん。君の知識が借りたい」
「え…?」
「このギルドで、長期間『未達』のまま放置されている依頼。あるいは、買い取り価格が設定されているにもかかわらず、供給が『ゼロ』の素材は?」
サラは、彼の言葉の意味が理解できず、瞬きをした。
「そのようなもの…ですか? ああ、それなら…『ロックリザードの鱗』とか、『鉄カブトガニの甲羅』とか…硬すぎて加工できず、用途がないので、誰も採ってきませんが…」
「それだ」
レオンの目が、初めて微かな光を宿した。
「薬師組合は、『コモンウィード』の独占で利益を上げている。なぜなら、ポーションの主原料だからだ。彼らのビジネスモデルは、その『一点』に依存している」
レオンは、計画書の最後の行を指差した。
そこには、サラが今口にした『鉄カブトガニの甲羅』の文字と、謎の精製手順が記されていた。
「俺は、新しい『市場』を作る」
サラは、その計画書を読んで、全身の血が逆流するような衝撃を受けた。
(まさか…! この素材の組み合わせは…『下級回復薬』の…代替品!?)
レオンの狙いは、薬草市場での価格競争ではなかった。
彼は、薬師組合が独占する「ポーション市場」そのものを、Fランクモンスターの「特殊能力(比較優位)」を利用した「新製品」で、根底から破壊するつもりなのだ。
「受付嬢さん」
レオンは、顔を上げた。
「俺は、この非効率で不合理な『独占市場』を、破壊したい。君は、どちらの『正義』を選ぶ?」
それは、ギルド職員に対する、悪魔の勧誘だった。
サラは、震える唇を噛みしめた。目の前には、この街の秩序に反逆しようとする、最も合理的な「狂人」。
「……私は」
サラは、意を決して顔を上げた。
「ギルドの正規職員です。レオン様の『事業計画書』が、この街の経済発展に寄与すると『合理的』に判断した場合、全力で支援いたします」
彼女は、マルサスが昨日置いていった金貨を、レオンの計画書の隣に、カツンと音を立てて置いた。
「これは、マルサス様からの『情報提供料』です。ギルドの雑収入として計上しておきます」
レオンの口元に、初めて表情らしきもの――満足げな、薄い笑みが浮かんだ。




