第6章:非合理的な市場介入
第6章:非合理的な市場介入
翌朝。空気はまだ冷たく、朝露が草の葉を濡らしていた。
レオンは、昨日とまったく同じ時刻に、彼の「ゴブリン部隊」を引き連れて城門を通過した。彼の一日のオペレーションは、時計のように正確だ。
サラは、カウンターの内側から、その無防備な背中を見送っていた。
(ダメだ、レオン様…。あなたの『合理性』は、彼らには通用しない…!)
昨夜、彼女はマルサスが残した金貨をギルドマスターに報告したが、マスターは「薬師組合を敵に回すのは得策ではない」と、曖昧に眉をひそめるだけだった。
(私が、伝えなければ)
サラはカウンターから飛び出そうとした。だが、その足は縫い付けられたように動かなかった。マルサスの冷笑的な目が脳裏に焼き付いている。ギルドの一職員である彼女が、巨大な組合に逆らうことの「リスク」を、彼女自身が一番よく理解していた。彼女の行動は、恐怖によって「合理的」に抑制されていた。
その頃、レオンはいつもの採取区域――湿地帯に到着していた。
だが、彼は入り口で足を止めた。
「ギャ…?」
ゴブリンたちも、主人の異変を察知し、不安そうな声を上げる。
「匂い」が違った。
いつもなら、湿った土とコモンウィードの青々しい香りが混じり合う場所。しかし今、そこから漂ってくるのは、踏みにじられた草の汁の、青臭く苦い匂いと、不自然なほど強い「毒草」の刺激臭だった。
レオンは、無言で湿地帯に足を踏み入れた。
そこは、「嵐」が通り過ぎたかのようだった。
一面のコモンウィードが、ブーツの裏で意図的に踏みつけられ、泥水に押し込まれている。
昨日まで完璧な「生産ライン」だった場所は、ただの荒れ地に戻っていた。
それだけではない。無事だった薬草の株のすぐ隣に、わざとらしく「悪魔の涙」――強い幻覚作用を持つ毒草――が植え替えられていた。
(組織的かつ意図的な、生産拠点への妨害工作)
レオンの思考は、怒りよりも先に、冷静な分析を開始していた。
「ギャウ!」
一匹のゴブリンが、訓練通りに薬草を抜こうとし、隣の毒草のトゲに触れてしまった。ゴブリンは甲高い悲鳴を上げ、指を押さえて転げ回る。
「ギャ! ギャ!」
他のゴブリンたちも、荒れ果てた現場と仲間の負傷を見て怯え、昨日までの統制を失って混乱し始めた。レオンが築き上げた「生産システム」が、物理的な暴力によって音を立てて崩れていく。
「――よう」
その時、背後から下卑た声が飛んできた。
レオンが振り返ると、そこには見覚えのある顔があった。Cランクパーティ『鉄の爪』のリーダー、ボルコフだ。ギルドでいつも酒を煽っている、素行の悪い冒険者グループ。彼らの背後には、薬師組合の紋章をつけた、マルサスの私兵らしき男たちが腕を組んで立っていた。
「ゴブリン・キング様のお仕事は、今日はおしまいみたいだなァ?」
ボルコフは、手に持った棍棒を肩で叩きながら、嘲笑を浮かべた。その棍棒の先端には、緑の草の汁と泥がべっとりと付着している。
「薬師組合からの『市場調整』だ。あんた、やりすぎたんだよ」
私兵の一人が、吐き捨てるように言った。
「コモンウィードは、俺たち組合が『管理』する。Fランクの雑魚モンスターなんぞに荒らされてたまるか」
(既得権益による、新規参入者への非関税障壁…いや、これは物理的な『参入障壁』そのものだ)
レオンは、内心で状況を定義する。
「この湿地帯はギルドの管理区域だ。組合の所有物ではない。お前たちの行動は、ギルドに対する明確な規約違反だ」
レオンは、あくまで「法」に基づいた反論を試みた。
ボルコフは、心底おかしいというように腹を抱えて笑った。
「ルール? 馬鹿か! この街じゃ、マルサス様の言うことが『ルール』なんだよ!」
ボルコフが棍棒を振り上げる。「鉄の爪」の仲間たちも、ニヤニヤしながらレオンと、その後ろで怯えるゴブリンたちを取り囲んだ。
「その役立たずのペットどもごと、スクラップにしてやる!」
(合理的対話の失敗。交渉は決裂。相手の選択は『暴力』)
レオンは、静かに魔力を練った。
彼はSランクパーティにいたが、それは彼の「戦闘力」が高かったからではない。彼は、勇者アレックスのような超人的な剣技も、魔術師のような広範囲殲滅魔法も持たない。
(俺の純粋な戦闘力は、Cランクパーティ相手でも、おそらく不利だ)
それが、彼がパーティ内で「費用対効果が悪い」と断じられた最大の理由だ。
(だが)
レオンの目が、冷たく細められた。
(俺の『ビーストテイマー』としての真価は、戦闘ではない。『効率化』だ)
「――『最適化』」
レオンが呟いた瞬間、彼が背嚢に隠していた「スライム部隊」が、一斉に射出された。
「グェ!?」
ボルコフたちの顔面に、スライムが張り付く。視界を奪われ、窒息しそうになる冒険者たち。
「ギャウ!」
同時に、怯えていたはずのゴブリンたちが、ボルコフたちの足元に一斉に突撃した。彼らは訓練された通り、武器(棍棒)ではなく、相手の「足首」だけを狙って、その錆びた短剣を突き立てた。
「「「ぎゃああああっ!!」」」
戦闘ではない。これは、訓練された「作業」だ。
スライムが視界と呼吸を奪い(デバフ)、ゴブリンが機動力を奪う(足止め)。
レオンがSランクパーティで唯一評価されていた戦術――敵の『無力化』に特化した、最小コストの集団行動。
数秒後。ボルコフたちは、顔をスライムの粘液まみれにし、足首から血を流して地面に転がっていた。
「……これが『市場介入』に対する、俺からの『回答』だ」
レオンは、転がる男たちを一瞥もせず、ゴブリンたちに命じた。
「仕事を変更する。この区域は放棄。次へ行く」
彼は、荒らされた湿地帯を迷いなく捨てた。
薬師組合の妨害は、確かに彼の「生産拠点」を一つ破壊した。だが、それはレオンの計画の「全て」ではなかった。




