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第2章:狂気の初期投資

第2章:狂気の初期投資


ギルドホールの喧騒が、分厚いカウンター一枚を隔てて遠くなる。レオンは剥がした依頼書を、受付嬢の前に静かに置いた。


依頼クエストの受注を。この『野生スライム討伐』。それと、あちらの掲示板にあった『薬草採取』と『下水道の清掃』、すべてお願いします」


「……はい、承知いたしました」


受付嬢のサラは、一切の感情を表情に出さず、完璧な笑顔で応対した。彼女の栗色の髪が、手続きのために動くたびにさらりと揺れる。ギルドのインクと、彼女が使う安価だが清潔な紙石鹸の匂いが、ふわりと混じった。


彼女はレオンの顔を一度ちらりと見た。Sランクパーティ『竜の牙』に所属していた、あの無口なビーストテイマー。パーティが昨日、ドラゴン・ゾンビ討伐から凱旋したことはギルド中の噂になっていた。

(Sランクの方が、どうしてまた銅貨数枚の依頼を…?)

サラは疑問を完璧な業務用の笑みで覆い隠し、手元の水晶板に依頼番号を打ち込んでいく。


「確認いたしました。スライム討伐、銀貨1枚。薬草採取、銀貨3枚。下水道清掃、銀貨5枚。計、銀貨9枚の依頼ですね。……ん?」


彼女の手が止まった。レオンが、懐からなけなしの金貨――おそらく『竜の牙』から手切れ金代わりに投げつけられた(と噂の)金貨――を取り出し、カウンターに置いたからだ。


「追加で。このギルドが管轄する、すべての『ゴブリン討伐依頼』も受注したい。ただし、条件がある」

「……条件、でございますか?」

「ああ。討伐ではなく、『テイム(調教)』する。俺は報酬を放棄する代わりに、テイムしたゴブリンの所有権を主張する。ギルドはこれを許可できるか?」


サラの完璧な笑顔が、わずかに、だが確かに引きつった。

彼女の視線が、レオンと、彼が置いた金貨との間を行き来する。


(おかしい)

彼女の思考が警鐘を鳴らす。

(ゴブリンのテイム? 危険なだけで、何の『便益』もない。ゴブリンはスライム以上に大食らいで、知能が中途半端に高くて反抗的。テイムを維持する『費用』が、彼らを使役して得られる『利益』を遥かに上回る。Sランクパーティを追放された(という噂の)彼が、最後の金貨をはたいてまで、そんな『不良債権』を抱え込むなんて…)


「お客様…レオン様。失礼ながら、申し上げます」

サラは意を決し、トーンを一段落として言った。

「その選択は、経済合理性を著しく欠いております。ゴブリンの維持費は、これらの雑務依頼で得られる銀貨を瞬時に食い潰すかと。あなたは……破産なさいます」


彼女の言葉は、純粋な善意からだった。この元Sランク冒険者が、プライドの崩壊から自暴自棄になっているのだと、彼女は判断した。


だが、レオンは微動だにしなかった。彼は、サラの整った顔をまっすぐに見つめ返す。

(経済合理性。良い言葉だ。彼女は少なくとも、『費用』の概念を理解している)


レオンは内面で分析する。

(彼女の言う通り、ゴブリンは『費用』のかかる存在だ。だが、それは彼らを『消費財』として見た場合だ。俺は彼らを『労働力』、すなわち『生産財(資本)』として見ている)


(俺は今、金貨を払ってゴブリンという『資本』を仕入れているのではない)


レオンの口角が、初めてわずかに上がった。

(俺は、『ギルドが報酬を払ってでも処分したがっている』ゴブリンを、合法的に譲り受けている。つまり、俺は『資本』を手に入れると同時に、ギルドから『初期投資』まで受け取っているんだ)


この街の「市場」は、Fランクモンスターの「真の価値」を誰も理解していない。だからこそ、その「市場価格」は、ほぼゼロ――いや、マイナス(金を払ってでも処分したい)にまで下落している。


(今が『買い』だ。市場がこの歪み(バグ)に気づく前に、俺はすべての『資本』を独占する)


「問題ない。手続きを」


レオンの短く、揺るぎない言葉に、サラは息を呑んだ。


このやり取りは、静かだったが、耳聡い冒険者たちの注意を引くには十分だった。

カウンターの周囲で酒を飲んでいた屈強な冒険者たちが、ゲラゲラと下品な笑い声を上げた。


「おい、聞いたかよ! 『竜の牙』をクビになったテイマー様が、全財産でゴブリン集めだってよ!」

「マジか! ついに頭がおかしくなったか!」

「Sランクからゴブリン・キングにジョブチェンジかよ! 似合ってるぜ!」


嘲笑がホールに響き渡る。それはナイフのように鋭利だったが、レオンの厚い「合理主義」の鎧には、傷一つ付けられなかった。


彼は、周囲の雑音ノイズには一切反応せず、ただサラの手続きが終わるのを待っていた。

緊張している癖も、リラックスしている仕草も、彼にはない。あるのは、次の「タスク」に向けた冷徹な集中だけだ。


「……手続き、完了いたしました」

サラは、震えそうになる指で羊皮紙をレオンに差し出した。彼女の目には、哀れみと、理解不能なものを見る恐れと、そしてほんのわずかな「好奇心」が混じっていた。


(この人は、何を考えているの?)


レオンは羊皮紙を受け取ると、スライムたちを背嚢にしまい、音もなくギルドを去っていった。


ホールには、「Fランクテイマー、ここに極まれり」という嘲笑だけが残された。

だがサラだけは、カウンターに残されたインクの染みを見つめながら、背筋に走った奇妙な感覚を打ち消せずにいた。


あの男の目は、狂人のそれではなかった。

それは、誰も見ていない「獲物」を見つけた、冷徹な狩人の目だった。

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