終章:見えざる手(インビジブル・ハンド)
第17章:見えざる手
翌日。
ギルド広場は、昨日までの「革命」が嘘だったかのように、新たな「日常」が始まっていた。
いや、日常そのものが、作り変えられていた。
「『レオン・ポーション Mk-Ⅱ』! 3本セットで銀貨2枚! 卸売も歓迎だ!」
「こっちは『ゴブリン・スライム式研磨剤』! 鈍ら剣もピカピカだぜ!」
「Fランクパーティ『泥すすり』、新メンバー募集! ポーション支給!」
かつて広場の隅で日銭を乞うていたFランク冒険者たちが、今や自ら「商人」となり、レオンが生み出した「製品」を生き生きと販売している。
彼らはもはや、ギルド(マルサス)の「搾取」の対象ではなく、自ら「利益」を生み出す、独立した「経済主体」となっていた。
レオンは、その広場を見下ろせる、ギルドホールのテラス席(旧マルサス席)に座っていた。
彼は、熱狂の中心にいながら、その熱狂には関心がないかのように、ただ静かに「数字」を読んでいた。
市場の取引量、価格の変動、在庫の回転率。
彼にとって、この広場は「勝利の証」ではなく、観測すべき「市場」でしかなかった。
「…………レオン様」
静かな声に顔を上げると、そこにサラ・マクフィーが立っていた。
彼女は、いつも身につけていた「ギルド職員」の制服ではなく、簡素な旅人の服を着ていた。
「受付嬢さん。業務時間のはずだが」
レオンが問いかけると、サラは小さく首を振った。
「もう、違います」
彼女は、テーブルの上に、一枚の「職員証」を置いた。
ギルドの紋章が刻まれた、彼女の「昨日までの価値」を証明する板。
「私…昨日、辞表を出しました」
サラは、まっすぐにレオンの目を見た。
その瞳に、昨日までの「常識」に縛られた怯えは、もうない。
「私は、ギルドという『閉鎖された市場』しか知りませんでした。アレックスさんの『戦闘力』や、マルサス様の『権力』こそが、絶対の『価値』だと信じていました」
彼女は、広場の熱狂に視線を移す。
「でも、あなたは『価値』を『発見』するのではなく、『創造』できるのだと教えてくれた。Fランクのゴブリンからでも…いいえ、ギルドから『追放』された、あなた自身からでも」
彼女は、深く息を吸った。
「レオン様。私も、あなたの『新しい市場』で、働かせていただけませんか。あなたの『経済学』を、学びたいんです」
レオンは、数秒間、サラの顔を無表情で見つめた。
そして、帳簿の端に、ペンで短く書き込んだ。
「『人材』:サラ・マクフィー。採用。研修コストは、今後の『労働力』で相殺する」
「…はいっ!」
サラの顔が、太陽のように輝いた。
彼女は、自らの「意志」で、「過去」を捨て、「未来」を選んだのだ。
その頃。
昨日まで、この街の「経済」と「権力」の中心だった場所。
ギルドホール。
そこは、まるで巨大な「墓標」のように、静まり返っていた。
「音」がしない。
カウンターに冒険者が殺到する「怒号」も、金貨が飛び交う「喧騒」も、酒場で交わされる「自慢話」も。
何もかもが、広場に吸い取られてしまった。
アレックス・ウォーカーは、その「空っぽ」の空間の真ん中で、一人、酒を飲んでいた。
Sランクの『紅蓮の斧』の仲間たちは、もういない。
「割に合わない」――そう言って、彼らは、より「効率的」な『レオン・ポーション』を仕入れられる、別の街へと去って行った。
「……Sランク」
アレックスは、自分の「拳」を見つめた。
ダンジョン深層部のドラゴンさえ屠る、この街最強の「戦闘力」。
だが今、その拳は、銀貨一枚のポーションを買うことさえ「非効率」だと嘲笑われる。
彼の「絶対的価値」は、「市場」によって「相対的価値」へと引きずり下ろされ、そして、無価値と断定された。
彼は、もはや「勇者」ではなかった。
ただの、「旧いシステム」に取り残された、高コストな「不良債権」だった。
二階のテラス席。
マルサス・ドルンもまた、その「空虚」を見下ろしていた。
だが、彼が感じていたのは、アレックスのような「絶望」ではなかった。
それは、自らの「計算」を遥かに超えた『現象』を目の当たりにした、「畏怖」に近い感情だった。
(…完敗だ)
彼は、広場にいるレオンの姿を、窓越しに睨んだ。
(あの男は、『商品』で私に勝ったのではない。『システム』で勝ったのだ。私が『ギルド』という『壁』の中で独占を守っていた間に、あの男は『広場』という『新しいルール』そのものを作ってしまった)
マルサスは、自嘲するように、乾いた笑いを漏らした。
「見えざる手、か…」
皮肉なことに、彼は、この街で唯一、レオンが何をしたのか(・・・・・)を、経済学的に「理解」できる人間だった。
夕暮れ。
熱狂が去り、広場が片付けられていく。
レオンは、サラと共に、街の高台から、眼下に広がる「新しい市場」を眺めていた。
「レオン様は…これから、どうなさるのですか?」
サラが尋ねた。
「マルサス様は、もうあなたには手出しできません。ギルドの『独占』は崩壊し、あなたは、この街の『勝者』です」
「『勝者』?」
レオンは、初めて、その言葉を「理解できない」という顔で聞き返した。
「何故だ?」
「え…?」
「市場は、まだ『非効率』だ」
レオンは、眼下の街を指差した。
「Fランクの『販売網』は、情熱には依存しているが、合理的ではない。在庫管理も、物流も、最適化されていない。無駄が多すぎる」
彼は、懐から「地図」を取り出した。
この街だけが描かれた、小さな地図ではない。
大陸全土が描かれた、巨大な「市場」の地図。
「受付嬢さん。この大陸には、いくつの『非効率なギルド(・・・)』があり、いくつの『不当な独占』があり、いくつの『未開拓な市場』があると思う?」
「……」
サラは、その問いに答えることができなかった。
レオンは、地図の上で、この街の隣にある「領地」を、指でなぞった。
「俺の『Want(欲望)』は、俺を追放したアレックスへの『復讐』だった。それは、昨日で終わった」
彼は、立ち上がり、西の空を見つめた。
「だが、俺の『Need(必要性)』は、違う」
「……あなたの、『必要性』?」
「ああ」
レオンは、経済学者の冷たい瞳で、世界を見つめた。
「全ての『非効率』を排除し、全ての『資源』を最適化し、全ての『市場』を、あるべき『均衡』へと導くこと」
「それこそが、俺の『ビーストテイマー』としての、唯一の『比較優位』だ」
彼という「見えざる手」による、「市場」の『最適化』は、今、始まったばかりだった。
(了)




