第15章:サンクコスト(埋没費用)の罠
第15章:サンクコスト(埋没費用)の罠
深夜。月明かりだけが、街外れの廃倉庫の錆びた輪郭をぼんやりと照らしていた。
空気は冷え切り、時折吹く夜風が、乾いた埃の匂いと、遠くの森の獣の気配を運んでくる。
「……ここだな」
アレックス・ウォーカーは、重い呼気を吐き出した。
Sランクパーティ『紅蓮の斧』のメンバー全員が、彼の背後で息を潜めている。魔力を帯びた剣や斧が、月の光を鈍く反射していた。
「魔法使い(メイジ)は後方支援! 戦士は俺に続け! 目標は、内部にいる『テイムモンスター』の完全掃討だ!」
アレックスは、自らのプライドを傷つけた「工場」を睨みつけた。
(Fランクの雑魚どもが、俺たちSランクの手で死ねることを光栄に思うんだな…!)
「――行け(ブレイク)!!」
アレックスの号令と共に、パーティの重戦士が、巨大な戦斧を廃倉庫の扉に叩きつけた。
Sランクの「物理攻撃」が炸裂する。
凄まじい轟音。
老朽化した木製の扉は、衝撃に耐えきれず、木っ端微塵に弾け飛んだ。
「突入!」
アレックスが、誰よりも早く、粉塵の舞う倉庫内部へと躍り込む。
「どこだ! テイマーもろとも、叩き斬ってやる!」
仲間たちが、戦闘態勢で後に続く。
魔法使いが、指先に「火球」の光を灯し、暗い倉庫内部を照らし出した。
「……………は?」
アレックスの雄叫びが、間の抜けた声に変わった。
倉庫の中は、静まり返っていた。
否。
もぬけの殻だった。
[ImageF of an empty, dusty abandoned warehouse interior]
昨日まで稼働していたはずの「生産ライン」――溶解用のスライムを入れた大釜も、瓶詰作業用のゴブリンが使っていた作業台も、完成したポーションの瓶も、何一つない。
あるのは、床に積もった分厚い埃と、割れた窓から吹き込む冷たい夜風だけ。
「な…んだと…?」
仲間の一人が、呆然と呟いた。
「も、もしかして、情報が漏れて…?」
「馬鹿を言え!」
アレックスが怒鳴り返した。
「俺たちが動くことを、あのテイマーが予測していたとでも言うのか!?」
彼は、怒りに任せて、残っていた壁を蹴り飛ばした。
だが、その行動が、虚しさを増幅させるだけだった。
(あの男…レオン…!)
アレックスは、歯軋りした。
自分たちは、金貨300枚という大金を受け取り、Sランクのプライドをかなぐり捨て、この「害虫駆除」に臨んだ。
その結果が、これだ。
埃まみれの、空っぽの倉庫。
Sランクパーティ『紅蓮の斧』は、存在しない敵を相手に、街で最もみすぼらしい廃墟の一つを「襲撃」した道化に成り下がった。
プライドは、再び、今度は修復不可能なほどに砕け散った。
その頃。
ギルドに併設された、職員専用宿舎の一室。
サラ・マクフィーは、テーブルの上に置かれた金貨105枚の入った袋を前に、落ち着きなく指を組んでいた。
「レオン様…本当に、良かったのでしょうか」
彼女は、窓の外――廃倉庫のある方角――を不安そうに見つめた。
「アレックスさんたちが、もし、あの倉庫に…」
「今頃だろうな」
レオンは、サラとは対照的に、椅子に深く腰掛け、帳簿の数字を検算していた。
その横顔は、戦闘が起きていることなど微塵も感じさせないほど、静かだった。
「なっ…」
サラは息を呑んだ。
「ご存知だったのですか!? マルサス様が、アレックスさんたちを…!」
「『合理的』な予測だ」
レオンは、ペンを置き、冷徹な瞳でサラを見た。
「受付嬢さん。経済学には『サンクコスト(埋没費用)』という概念がある」
「さんくこすと…?」
「すでに支払ってしまい、二度と取り戻せない費用のことだ」
レオンは、指を一本立てた。
「マルサスは、今日、金貨105枚を『損失』として俺に支払った。合理的な経営者なら、ここで『損切り(そんぎり)』をし、戦略を練り直す。なぜなら、その105枚は、もう戻ってこないのだから」
「……」
「だが」
レオンは、二本目の指を立てた。
「『非合理的な(・・・・・)』プレイヤーは、その『損失』を取り戻そう(・・・)として、さらに『追加投資』をしてしまう。金貨105枚の損失が許せないから、金貨300枚の『暴力』を雇い、全てを取り返そうとする。これを『コンコルドの誤謬』と呼ぶ」
サラは、目の前の男の「論理」に、背筋が凍るのを感じた。
この男は、ギルドホールで金貨を受け取った瞬間から、マルサスが「合理的」な経済人ではなく、「非合理的」な感情論者(プライドの高い人間)として行動すること(・・・・・・・・)を、完璧に読み切っていたのだ。
「市場で敗北したプレイヤーが、次に取る行動は『非市場的な手段』。暴力、脅迫、あるいは権力による排除。予測可能な、最も『非合理的』な一手だ」
「だから、あなたは…」
サラは、昼間のレオンの行動を思い返した。
金貨を受け取った後、レオンはゴブリンたちに「獲物(素材)」ではなく、「設備の移転」を命じていた。
「『労働力』も『生産設備(大釜)』も、すでに第二の『工場』――街の地下水道に移転済みだ。アレックスたちが叩き潰したのは、俺が『廃棄』した、価値ゼロの『サンクコスト(廃倉庫)』でしかない」
レオンは、再び帳簿に視線を落とした。
「マルサスは、金貨300枚をドブに捨てた。これで、彼の『損失』は、金貨405枚に拡大した(・・・)」
サラは、もはや何も言えなかった。
彼女は、自分が仕えているこの男が、ただの「風変わりなビーストテイマー」などではないことを、痛いほど理解した。
彼は、人の「戦闘力」も「プライド」も「非合理的な感情」さえも、全てを「計算可能な変数」として扱う、市場の支配者だった。




