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私、恵まれていますので

作者:

思っていたよりも、長くなりました(汗)


私の名はエリス・ヴァルティア。ヴァイラルド家に長年仕えるベテラン使用人です。名門の館で、朝早くから働くのが私の務め。食事の支度では、銀の皿に豪華な料理を並べ、貴族らしい食卓を整えます。




必要なら、当主バルドリック卿やカイラン様の装いを整え、宝石の輝く上着を用意します。朝食が終われば片付けを済ませ、使用人たちが一室に集まるのです。




定刻になると、最古参のグレタ・モルガナが前に立ち、その隣にはベテランのリリア・セレンディスが不機嫌そうに構えています。この時間は本日の予定や伝達事項を告げる場所。




今日、集まった使用人は全部で10名ですが、グレタとリリア以外の顔は皆、曇っているのです。




「あなたたち、集まるのが遅い。集合時間の10分前には来るべきでしょう?」




グレタの声は冷たく響きます。




「まったく。最近の若い娘は時間にルーズで困りますね。」




リリアが嫌味を重ね、鋭い視線を投げます。 そこへ、最後に駆け込んできたミラ・フェルウィンが震える声で口を開きました。




「す、すみません……片付けに手間取ってしまいまして……」




ミラはここに来てまだ1週間の新人です。慣れない仕事に戸惑うのは仕方のないこと。それなのに、グレタとリリアは容赦しません。




「あなた一人が遅れると、皆の予定が狂うのです。仕事が滞れば、館の秩序まで乱れます。わかりますか?」




グレタの言葉は刺すように鋭く、




「若いなら、もっとテキパキ動いてほしいものです。」




リリアが追い打ちをかけます。




「す……すみません……」




ミラは涙目で謝り、肩を縮こませました。この二人の新人いびりは毎度のことで、新しく来た使用人のほとんどは耐えきれず、1か月も経たずに辞めていくのです。




ゆえに、使用人の数は増えることなく、わずかな人数で休日もほとんどないまま、ヴァイラルド家の広大な屋敷を維持しています。清掃やその他の途方もない業務に追われ、皆、疲れ果てているのです。






「ミラさんを責めないでください。私の指導が不足していたのが原因です。」




私は静かに口を挟みました。ヴァイラルド家でグレタとリリアに次ぐ古株である私は、多少の発言力を持っています。この言葉に、二人は一瞬、ミラへの追及を止めました。




だが、それは一時的なものにすぎません。責められる相手が変わるだけで、この光景は過去にも何度となく繰り返されてきたのです。




「まあ、いいでしょう。」




グレタが冷ややかに言い放ち、部屋に重い空気が漂います。




グレタが目の前の羽ペンを手に取り、大きな木製のボードに本日の予定を書き込んでいきます。今日は特別な行事もないはず。いつも通りの業務だけで済むと、私はそう思っていました。




だが、グレタの書いた文字を見た瞬間、背筋に冷や汗が走ったのです。




「庭の剪定ですか?」




私が静かに尋ねると、グレタは平然と答えます。




「ええ、そうですよ。」




今日の使用人は全部で10名。通常の業務なら十分な人数のはずです。だが、そのうち二人はグレタとリリア。実質、業務には加わらず、指示を出すばかり。




そして、ミラ・フェルウィンは入ってまだ1週間の新人で、私の後について仕事を覚える必要があります。実質、7人半で屋敷を回しているようなものなのです。




リリア・セレンディスが口を開きました。




「本日、アルバート卿がいらっしゃいます。」




アルバート卿は、ヴァイラルド家と古くから親交の深い貴族です。現当主の跡取りであるカイラン様と親しく、私とも面識があります。



「最近、庭の手入れが疎かでした。アルバート卿にみっともない庭を見せるわけにはいきません。使用人の働きが疑われますわ。午後には到着しますから、午前中に剪定を済ませましょう。」



リリアの言葉に、私は内心で皮肉を覚えました。この炎天下でヴァイラルド家の広大な庭を整えるなど、グレタとリリアは、さぞ活躍してくれることでしょう。



「ただし、人員は割けません。庭の剪定は一人でやってもらいます。2時間あれば十分でしょう。」




グレタが涼しい顔で言い放ちます。




私は静かに息を飲みました。一人で、ですって? この暑さの中、2時間で広大な庭を整えるなど、熱中症を覚悟しなければなりません。それに、急いでも間に合うかどうか怪しいものです。誰がその役目を負うのか、気がかりでなりません。




「エリスさん、庭の剪定はお願いしますよ。安心してください。ミラさんの教育と屋敷の雑務は、私とリリアさんで引き受けますから。」




グレタが嫌味たっぷりに言い、最後に付け加えます。




「まだ事務作業が山ほど残っていますが、皆のためですもの。」




リリアがうんうんと頷き、薄い笑みを浮かべます。 私は表情を変えず、ただ拳を握りしめました。頭の中では、グレタとリリアを何度も叩きのめしています。だが、仕える者として、与えられた務めを果たすほかありません。




「承知しました。」




私は静かに答え、内心の波を押し隠しました。



☆☆☆


私はヴァイラルド家の広大な庭で剪定作業に追われています。炎天下の太陽が容赦なく照りつけ、全身から汗が滴ります。




だが、休む時間はありません。少しでも手を止めれば、2時間で終えるのは不可能です。全力で動き続けなければなりません。




1時間が経つ頃、汗は滴るのをやめ、衣服にべったりと張り付きました。




まとわりつく感触が不快です。せめて終わればシャワーを浴びたい――そんなことを考えながらハサミを動かしていました。




ですが、突然、視界が揺らぎ始めます。足元がふらつき、倒れそうになったその瞬間、誰かが私の体を支えてくれました。



「大丈夫か、エリス!」



ぼやける視界の中で、必死にその姿を捉えます。




そこにいたのはアルバート様でした。貴族らしい装いの彼が、心配そうに私を見つめているのです。




「アルバート様……お久しぶりです。お元気でしたか?」




私は力を振り絞り、敬意を込めて尋ねました。




「今は挨拶などいい! こんな炎天下で、一人で何をしているんだ! これを飲め。さあ、あの日陰で体を休めるぞ。」




アルバート様はそう言い、力強く私の腕を支え、庭の古木の日陰へと連れて行きます。そして、塩気のある冷たい飲み物を手渡してくれました。




使用人相手にも気遣いを見せる、優しいお方です。 だが、アルバート様のご到着は午後の予定のはず。まだ時間があると思っていました。




「ん? 時間か? 実は予定が一つ急に無くなってな。エリスに挨拶がてら、早めに来たというわけだ。」




アルバート様は笑みを浮かべ、気さくに答えます。




「左様でしたか。」




私は貴族ではありませんが、アルバート様とは幼い頃から縁があり、よく一緒に遊んだものです。貴族と平民の垣根を気にしない気さくなお方で、周囲から慕われています。私がヴァイラルド家で仕えるようになったのも、アルバート様のご助力のおかげです。




それから私は庭の剪定を中断し、アルバート様に促されて屋敷に戻りました。作業を再開しようとしたところ、アルバート様に制され、半ば強引に館の中へと連れていかれたのです。 屋敷の涼しい回廊に足を踏み入れると、グレタ・モルガナと目が合いました。




彼女は呑気に羽ペンを動かし、魔法の輝く書類を整理する軽い作業に勤しんでいます。汗一つかかず、涼しげな顔のままです。私を鋭く睨みつけましたが、隣にアルバート様がいるのを見て、言葉を飲み込みました。




「ごきげんよう、アルバート様。」




グレタは丁寧に頭を下げ、そそくさとその場を去りました。 アルバート様と別れ、私は急いでシャワーを浴び、通常業務に戻ります。そろそろ昼食の準備を始める時間です。




食事の間へと急ぎますが、広間に足を踏み入れた瞬間、目を疑いました。 銀の食器が乱雑に並べられ、料理はおろか飲み物の準備さえ整っていません。




他の使用人たちは別の業務に追われ、慌ただしく動き回っています。ミラ・フェルウィンは一人、広間の隅で困惑した顔を浮かべ、あたふたと立ち尽くしているのです。何をすべきか分からず、ただオロオロしているのが見えます。




グレタが言った「ミラの教育と屋敷の雑務は任せなさい」とは、いったい何だったのでしょうか。




ミラは私の顔を見るなり、涙を浮かべて駆け寄ってきました。聞けば、具体的な作業内容も伝えられず、広間の準備を丸ごと押し付けられていたのです。 私はポケットからハンカチを取り出し、ミラの涙をそっと拭いました。




「ミラさん、落ち着いてください。これから二人で昼食の準備をします。私の指示をよく聞いて、しっかり動いてください。」




ミラは情けない声で「はい……」と答え、肩を震わせました。 私は冷静に指示を出します。




「まず、銀の食器を整列させ、テーブルクロスを均等に広げてください。次に、魔法の燭台に点火の呪文をかけます。『ルミナス・イグニス』と唱えてください。飲み物は水差しに清涼の魔水を満たし、客用の杯に注ぎます。手早く、ですが丁寧に。」




ミラは必死に頷き、私と共に動き始めました。慌ただしくも、なんとか10分前には準備を整えることができたのです。銀の食器が輝き、燭台の炎が穏やかに揺れ、広間はようやく貴族らしい姿を取り戻しました。 その時、リリア・セレンディスが現れました。




「グレタさんからいわれ、様子を見に来ましたが、もう終わっているようですわね。」




涼しげな顔で、汗一つかいていない彼女。私は先ほどシャワーを浴びたばかりなのに、すでに新たな汗が額に滲んでいます。内心で皮肉を覚えつつ、表情には出さず静かに見つめました。




少しして休憩の時間となり、私はミラを連れて休憩室に向かいました。石造りの小さな部屋に足を踏み入れると、グレタ・モルガナがテーブルに腰かけ、魔法の羊皮紙とにらめっこしています。




手に持った銀の杯から漂うコーヒーの香りと、甘い魔法の菓子の香りが、部屋に広がっていました。 彼女は難しい顔をしていますが、いつもの人員調整でしょう。




この屋敷では、毎週7日分のシフトを組むのですが、グレタの調整はいつも直前まで決まりません。以前は不公平を防ぐため、現場の使用人とは別の者がこの役目を担っていました。




ですが、グレタとリリアの執拗な圧力に耐えかね、その者はすぐに辞めてしまったのです。後任が見つからず、「なら私がやりましょう」とグレタが名乗り出たのでした。




グレタは表向き、「他の使用人のため」と繰り返しますが、それは建前にすぎません。以前の担当者は数時間でシフトを完成させていましたが、グレタは6日間もかけて、魔法の羊皮紙にじっくりと書き込むのです。




使用人たちが働きやすいように配慮していると主張しますが、皆の不満は絶えません。羊皮紙を一目見れば、グレタとリリアが自分たちの都合を優遇しているのは明らかだからです。




他の使用人たちが慌ただしく働く中、グレタは銀の杯でコーヒーを飲み、甘い魔法の菓子を口に運びながら、羊皮紙とにらめっこしていたのでしょう。私は意を決し、グレタに声をかけました。




「グレタさん、ミラさんの教育をお引き受けくださると伺いましたが、彼女は食事の間で一人、困惑して立ち尽くしていました。」




私は抑えた口調ながら、僅かに嫌味を込めて言いました。グレタは何食わぬ顔で、菓子の欠片を指先でつまみながら答えます。




「まあ、ごめんあそばせ。急に大事な書類の整理を思い出しましてね。代わりにリリアさんに任せましたわ。」





リリアが広間の様子を見に来たのは、ほんの10分前のことでした。普段なら、バルドリック卿やカイラン様が昼食のために広間にいらしてもおかしくない時間です。



なのに、グレタとリリアはミラの教育を放棄し、屋敷の雑務はもちろん、魔法の燭台を整え貴族の食卓を準備する主要な職務さえ怠り、自分たちの我儘を優先しているのです。



私は呆れ果て、言葉も出ません。これ以上、何を言っても無駄でしょう。



業務終了の10分前、使用人たちは朝と同じ石造りの会議室に集まりました。壁に刻まれた魔法の紋章が薄く輝く中、夜勤の者に伝達事項を伝え、引継ぎを行います。そして、勤務終了前の反省会が始まるのです。 第一声はグレタ・モルガナからでした。彼女はいつもより不機嫌そうな顔で口を開きます。



「本日の反省点の一つ目は、業務の遅延です。昼食の時間が迫っているというのに、他の雑務に追われて使用人が集まらず、危うく間に合わないところでした。」



私は思わず目を見開きました。あなたがそれを言うのですか、と内心で叫びます。 次にリリア・セレンディスが言葉を重ねます。



「本日、午前に清掃した部屋を点検しましたが、窓の隅に埃が残っていました。昼食の準備を怠った割に、清掃も行き届いていませんわ。」



さらに彼女は続けます。



「洗い物にも汚れが残っていました。銀の食器に傷がつき、食中毒の原因にもなりかねません。」



グレタとリリアは次々と反省点を挙げますが、私は心の中で反発しました。あなた方の怠惰と我儘が人手不足を引き起こしているのに、その責任を使用人に押し付けるなんて。最低限の人員も揃わない中で、完璧な業務など望めないのです。



そして最後に、グレタ・モルガナが庭の剪定の話題を持ち出しました。


「エリスさん、あなたは私にミラさんの教育を放棄したと嫌味を言いましたが、庭の剪定が途中で中断され、放置されていました。これはどういうことですか? 先ほど、バルドリック卿から私が厳しくお叱りを受けたのですよ。」


私は内心で納得しました。グレタの不機嫌の理由はこれだったのです。


バルドリック卿は使用人を気遣う温厚なお方です。決して無茶な命令を下すようなことはなさいません。庭の剪定の件も、グレタが以前から命じられていたものを今朝まで失念していたのでしょう。


それでも、与えられた務めを全うできなかった私にも責任があります。アルバート様に未完成の庭を見られてしまった後、残りは午後から再開するつもりでしたが、午前の他の業務に追われ、間に合わなかったのです。


「その件につきましては、誠に申し訳ございません。私の至らなさが招いた結果です。」


私は深く頭を下げ謝罪しました。グレタ・モルガナは冷ややかな視線を投げ、言葉を続けます。


「あなたの怠惰で庭の剪定が終わらなかったのですから、明日は休憩時間を削って残りを完成させなさい。」


私はグレタの言葉に内心で反発しましたが、「承知しました」と答えるほかありませんでした。




☆☆☆


翌朝、事件が起きました。いつものように使用人たちが石造りの会議室に集まると、バルドリック卿からの緊急の呼び出しがかかりました。



使用人全員が、パルドリック卿の書斎に集まるよう命じられたのです。 書斎に足を踏み入れると、普段温厚なバルドリック卿が厳しい表情で立っています。その傍らには、カイラン様が不安げな顔で佇んでおられました。グレタが、僅かに震える声で尋ねます。



「いかがなさいましたか、バルドリック卿?」



パルドリック卿は布に包まれたものをゆっくりと解き、割れた水晶の壺を掲げました。その欠片は、かつて微かな魔力を放ち、書斎に神秘的な輝きを添えていたはずのものです。



「これが何か、わかるか?」



私は息を呑みました。あれは、バルドリック卿の書斎に飾られていた高価な魔術の壺です。以前、卿から「書斎の壺がどこにいったか知らないか」と尋ねられたことがありました。


私は「存じ上げません」とお答えしましたが、卿は「誰かが別の場所に移動させたのかもしれない」と静かにつぶやいておられたのです。



「これは私の書斎にあった壺だ。今朝、物置の隅で割れた状態で発見された。」


バルドリック卿の声は低く、書斎の空気を震わせます。私は心当たりがないわけではありません。ただ、確証はないのです。 以前、グレタとリリアが書斎の清掃を二人で入念に行っていた際、部屋からガシャンと何かが割れる音が響きました。



しばらくして二人が書斎から出てくると、冷や汗をかき、辺りを警戒するようにきょろきょろしながら、何かを布に包んで急いで立ち去ったのです。



私には気づいていない様子でした。それがこの壺だったかどうかはわかりませんが、バルドリック卿が割れた壺を掲げた瞬間、グレタとリリアの肩が一瞬ピクリと震えたのを、私は見逃しませんでした。 バルドリック卿は割れた水晶の壺を手に握り、書斎の魔法の紋章が不穏に瞬く中、厳しい声で語りました。



「これは私の父、先代から譲り受けた大切な魔術の壺だ。カイランに爵位を継承する際、これを譲るつもりだった。代々受け継がれてきた、唯一無二の宝だ。世界中を探しても同じものは見つからぬ、計り知れぬ価値を持つ。」



パルドリック 卿は一瞬、目を伏せ、静かに言葉を続けます。



「だが、この際、壺が割れたのはどうでもよい。物はいつか壊れるものだからだ。そのような物を書斎に無防備に置いていた私にも責任がある。しかし、ヴァイラルド家に仕える者が事実を隠蔽するなど、断じて許されん。」



パルドリック卿の目は使用人たちを鋭く見据えます。



「そんな者に信頼の務めは任せられん。今日中に犯人を見つけ出せ。さもなくば、全員を減給する。」



カイラン様が慌てて進み出て、柔らかな声で訴えます。



「父上、それはあまりにも厳しすぎます。どうかお考え直しを。」


だが、バルドリック卿は聞く耳を持たず、書斎の重い扉を閉め、足音を響かせて去っていきました。私は静かに息を呑み、グレタとリリアの肩が震えた瞬間を思い出しながら、胸の中で疑念が渦巻くのを感じました。



私は他の使用人たちと共に、会議室に戻りました。重い空気が漂う中、グレタとリリアは一言も発せず、互いに視線を交わしながら歩いていました。



私は胸の中で疑念を抑え、彼女たちの不自然な沈黙を観察しました。どうやって犯人を見つけ出すべきか、頭を巡らせていると、グレタが突然、鋭い声で口を開きました。



「エリスさん、そういえば、あなたは少し前にバルドリック卿の書斎の清掃に入っていましたよね?」



私は一瞬、息を呑みました。まさか、彼女たちは私に罪を着せようとしているのでしょうか。冷静に言葉を選び、答えます。



「私が最後に書斎に入室したのは一か月ほど前です。その際、魔術の壺は確かに書斎の台座に飾られていました。記憶に誤りはございません。」



私の否定に、グレタの目が一瞬細まりました。すると、リリアがすかさず口を開きます。



「いいえ、エリスさんが少し前にバルドリック卿の書斎に入るのを見ましたわ。私、確かに目撃しております。」



彼女の声は自信に満ちていましたが、その瞳には微かな動揺が揺らめていました。



私は内心で反発しながらも、表面上は冷静さを保ち、グレタとリリアの策略にどう対処すべきか考えを巡らせました。 私が冷静に否定しても、グレタとリリアの猛攻は止まりません。


すると、ミラが震える声で進み出ました。



「あ、あの……私、ずっとエリスさんと行動を共にしておりましたが、そのようなことはございませんでした。」



ミラの怯えた声が会議室に響きます。グレタが鋭い視線でミラを睨みつけると、ミラは小さく身を縮め、私の背後に隠れました。私は内心で彼女の勇気に感謝します。



グレタは冷ややかに笑い、言葉を続けます。



「ミラさん、あなたはエリスさんと常に一緒でしたね。肩を持つのは当然でしょう。あなたの言葉など、信用に値しません。」



その瞬間、会議室に静かなざわめきが広がりました。普段、グレタやリリアに逆らうことのない使用人たちが、意外にも声を上げたのです。 ティア・ルナリスが控えめに、しかしはっきりと口を開きます。



「私も、エリスさんが壺を割って隠蔽するような方だとは思えません。」



続いて、ソフィア・ヴェールが落ち着いた声で付け加えます。



「証拠がないのに、エリスさんを決めつけるのは早計ですわ。バルドリック卿の信頼の務めを裏切るような方は、エリスさんではないと信じます。」



しかし、その反発は一瞬でした。グレタが鋭い視線をティアとソフィアに向け、冷たく言葉を投げかけます。



「では、ティアさん、ソフィアさん、あなたたちのどちらかが犯人ではありませんか? お二人とも最近、書斎に入っていましたよね? 確かにエリスさんが犯人だという証拠はありません。ですが、エリスさんやお二人が犯人ではないという証拠もないでしょう?」



ティアが顔を青ざめ、震える声で訴えます。



「私はしておりません!」



ソフィアも落ち着きを保ちつつ、毅然と応じます。



「私もです。濡れ衣は受け入れられません。」



だが、グレタは嘲るような笑みを浮かべ、言葉を続けます。



「ふふ、でも、証拠はないのでしょう? バルドリック卿の信頼の務めを裏切る者が、この中にいるのですよ。」



「それは…」



ティアとソフィアが同時に声を上げ、言葉に詰まりました。リリアもすかさず言葉を続けます。



「あら、もしかして単独ではなく、あなたたち四人が共犯なのですか?」



「確かに、それなら肩を持つ理由も納得できますね。では、バルドリック卿にはそのようにお伝えしましょう。」



リリアが微笑みを深め、軽やかに言葉を重ねます。



「これで事件は解決しましたわ。無実の罪で減給にならずに済みましたもの。」


このままではまずいと悟った私は、胸の中で激しい葛藤を抑え、仕方なく決断しました。



「私が…壺を割りました。申し訳ございません。」



言葉を絞り出すと、会議室が一瞬、静寂に包まれました。グレタとリリアの口角がはっきりと上がり、彼女たちの目には勝利の光が宿ります。リリアが軽やかに笑い、グレタが冷たく頷きました。



「ほら、やっぱりね。エリスさんが正直に話してくれて助かりましたわ。」



グレタが言葉を重ねます。



「これでバルドリック卿に報告できます。信頼の務めを裏切ったのはエリスさん一人で済みましたね。」



ティアが震える声で呟き、ソフィアが信じられないという表情で私を見つめました。


「エリスさん…そんな…」


ミラは私の背後から小さく声を上げ、怯えた目で私を見上げていました。



☆☆☆


私はバルドリック卿のもとへ謝罪に向かうことを決意しました。書斎の重い扉の前で一瞬立ち止まり、扉を軽くノックすると、低く穏やかな声が中から響きます。



「入れ。」



扉を開くと、書斎の空気は重く、割れた水晶の壺の魔力がまだ微かに漂っていました。バルドリック卿が厳かな表情で書斎の机に立ち、その傍らにはカイラン様が心配そうに佇んでおられました。私は敬意を込めて一礼し、言葉を絞り出します。



「バルドリック卿、カイラン様、突然のお伺いを申し訳ございません。」



バルドリック卿が鋭い視線を向け、静かに尋ねます。



「エリス、どのような用件だ?」



カイラン様が柔らかな声で付け加えます。



「エリスさん、どうかされましたか? 何か…お困りのことが?」



「バルドリック卿、魔術の壺の件につきまして…私が割ってしまったと申し上げます。誠に申し訳ございません。」



「それは本当か?」



カイラン様が驚愕の表情で私を見つめ、急いでバルドリック卿に進み出ます。



「父上、エリスさんが壺を割って隠蔽するような方ではありません! どうか…彼女の言葉を疑ってください!」



カイラン様の声は切実で、書斎の重い空気をわずかに揺らしました。しかし、バルドリック卿は険しい表情を崩さず、静かに私を見据えます。



「私も、長年忠実に尽くしてきたエリスが犯人だとは信じたくはない。だが、本人が割ったと告白した。これは事実だ。」



バルドリック卿が一歩踏み出し、厳かに宣言します。



「エリス・ヴァルティア、ただいまをもって、ヴァイラルド家での使用人の任を解く。」



「父上、待ってください! エリスさんの言葉には何か裏があるはずです!」



こうして、私の長かったヴァイラルド家での務めは終わりを迎えることとなりました。


☆☆☆


翌朝、荷物をまとめ終えた私は、ヴァイラルド家の書斎へ別れの挨拶に向かいました。



バルドリック卿は、昨日までの険しい表情が嘘のように穏やかで、机の前に立ち、私を温かく見つめます。カイラン様はそばで柔らかな笑みを浮かべ、どこか悲しげな瞳で私を見ていました。



私は深く一礼し、敬意を込めて言葉を紡ぎます。



「バルドリック卿、カイラン様、長きにわたりお世話になりました。小娘だった私を立派な侍女に育ててくださったヴァイラルド家、そしてマロイ・グランベル様には、心より感謝申し上げます。」



バルドリック卿が静かに頷き、意外なほど優しい口調で応じます。



「エリス、今までよく尽くしてくれた。君の働きには、私もカイランも、そして使用人たちも感謝している。」



カイラン様が一歩進み出て、声を震わせながら言葉を重ねます。



「エリスさん、こんな形での別れになってしまい、申し訳ありません。どうか…ご無事で。」



私は胸の中でカイラン様の温かさに感謝しつつ、グレタとリリアの勝利の笑みを思い出し、悔しさを押し隠しました。すると、バルドリック卿が一通の手紙を差し出します。



「エリス、この手紙をアルバート卿に直接届けてくれないか?」



私は一瞬、驚きを隠し、敬意を保ちながら応じます。



「アルバート様にでございますか? …承知いたしました。」



バルドリック卿が頷き、さらに分厚い封筒を渡してきました。



「これは?」


「今月の給金と退職金だ。今回の手間賃も加えてある。」



私は封筒を手にし、その重さに息を呑みました。壺の件は私が割ったわけではないですが、バルドリック卿の厚意に胸が熱くなります。本来なら私の給金では到底補えない額の損失です。それなのに、退職金まで加えてくれるとは。



「バルドリック卿、このようなご厚情を…心より感謝申し上げます。」


私はバルドリック卿とカイラン様への挨拶を終え、使用人たちが集まる会議室へと向かいました。会議室の扉を静かにノックし、声をかけます。



「失礼いたします。」



扉を開けると、部屋にはいつものように使用人たちが集まり、魔法の紋章が薄暗く輝いていました。グレタ・モルガナが中央に立ち、羽ペンを手に魔法の羊皮紙を整理しています。



リリア・セレンディスはその隣で、薄い笑みを浮かべながら私を一瞥しました。 グレタが冷ややかな声で口を開きます。




「まあ、エリスさん、どうかされましたか? もうヴァイラルド家の使用人ではないのでしょう?」



私は静かに息を整え応じます。



「皆様に最後のご挨拶に参りました。」



グレタが鼻で笑い、嫌味たっぷりに言葉を投げかけます。



「そうなのねぇ。でも、私たちは無職のあなたと違って、この後も仕事が山ほどございますの。手短にお願いしますわ。」



リリアがくすくすと笑い、グレタの言葉に同調するように頷きます。彼女たちの勝利の笑みが、胸に刺さりますが、私は表情を変えず、部屋を見渡しました。



ミラ・フェルウィンが広間の隅で涙を浮かべ、震える肩で立ち尽くしています。ティア・ルナリスとソフィア・ヴェールも、悲しげな瞳で私を見つめていました。私は深く一礼し、言葉を紡ぎます。



「皆様、今日まで長きにわたりお世話になりました。本日をもって、ヴァイラルド家の務めを終え、屋敷を去らせていただきます。」



ミラが小さな声を上げ、涙をこぼしながら駆け寄ってきました。



「エリスさん…まだ教えていただきたいことがたくさんありました。あなたがいなくなったら、私…どうすれば…」



彼女の声は震え、純粋な信頼が私の心を締め付けます。私はポケットからハンカチを取り出し、ミラの涙をそっと拭いました。



「ミラさん、あなたの努力は必ず報われます。どうか自信を持って務めを続けてください。」



ティアが控えめに、しかしはっきりとした声で口を開きます。



「エリスさん、私…あなたを尊敬しています。どうかお元気で。」



ソフィアが落ち着いた口調で、しかし瞳に熱を込めて続けます。



「エリスさん、ヴァイラルド家の信頼の務めを体現したのはあなたです。どこへ行っても、その姿勢を貫いてください。」



他の使用人たちも次々と声を上げ、別れを惜しみました。



「エリスさん、いつも助けてくれてありがとう!」



エレナ・シルヴァが力強く言うと、若手の使用人たちが頷きます。



「あなたがいなかったら、この屋敷はもっと辛い場所だったよ」



年配の使用人が目を潤ませました。



リリアが冷たく割り込み、薄い笑みを浮かべます。



「では、そろそろお仕事の時間ですので、無関係の方には退室していただけましょうか?」



グレタが嘲るように付け加えます。



「ええ、忙しい私たちには、暇な方と話す時間はございませんの。」



私は静かに一礼し、応じます。



「失礼いたしました。皆様、ご無事で。」


会議室を後にし、ヴァイラルド家の重い門をくぐりました。背後で門が閉まる音が響き、朝の光が私の荷物を照らします。手に持つ封筒の微かな魔力が温かく脈動し、アルバート様への最後の務めを思い出させました。



これからどうしましょう。給金と退職金が手元にあり、しばらくは身体を休めることもできます。だが、その前に、バルドリック卿から預かった手紙をアルバート様に届け、信頼の務めを果たさなければなりません。


☆☆☆



エリスが会議室を後にするのを見届け、私こと―――グレタ・モルガナは冷ややかに鼻を鳴らしました。あの女がようやく屋敷を去り、ヴァイラルド家の秩序は私の手に戻りました。私は羽ペンを手に、堂々と使用人たちを見渡しました。



「では、再開しましょうか。」



今日の使用人は、リリアさんと私を入れて10人。本来ならエリスがいて、ミラが休みの予定だったのに、エリスが辞めることになり、急遽ミラに出動を命じました。



ミラは不服そうに顔をしかめていたけど、普段は半人前の仕事で皆に迷惑をかけるばかり。これぐらいして恩を返してもらわないとですわ。



私は羊皮紙に目を落とし、今日の予定を告げる。



「今日はエリスさんが放棄した庭の剪定の残りを終わらせなければなりません。」



まあ、10人もいれば余裕で終わるわ。ミラが半人前なのは、私とリリアさんでカバーすればいいだけです。



「ソフィアさん、お願いしますよ。残りは半分ほどと聞いているので、1時間もあれば終わるでしょう。」



私がそう言うと、ソフィア・ヴェールが生意気にも顔を上げ、落ち着いた声で返してきました。



「いえ、私はカイラン様より命を受けた仕事がございますので、そちらを優先させていただきます。」



私は反射的に舌打ちしてしまいました。なんてはしたないことを! 深呼吸して冷静さを取り戻し、次にティアを指名しました。



「では、ティアさんにお願いします。」



ティア・ルナリスが怯えた目で私を見上げ、震える声で答えました。



「私も…ミラさんの教育を優先するようカイラン様に言われていますので…」



何!? ティアまで私の命令に逆らうなんて! エリスならどんな無茶な命でも黙って従ったのに。この小娘たち、再度教育が必要のようですね。私は苛立ちを抑え、部屋を見渡しました。



「では、他に手の空いている者はいるかしら?」



だが、誰も手を挙げない。一人ずつ指名していくが、エレナ・シルヴァは「書斎の清掃が残っています」、他の若手は「厨房の準備が」、年配の使用人は「魔道具の点検が」と、次々に断ってきます。



ついに我慢の限界ですわ!  リリアさんに目をやり、鋭く命じました。



「リリアさん、ならあなたでいいですわ!」



リリアさんが驚いたように目を丸くし、すぐに薄い笑みを浮かべた。



「まあ、グレタさん、私、本日はパドリック卿から客人への屋敷案内やお茶出しの任を受けてまして。さすがに無理ですわ。」



私は拳を握りしめ、歯を食いしばった。この屋敷の使用人たちが、揃いも揃って私の命令を無視するなんて!



仕方ないわ、こうなれば自分でやるしかないですわね!



「わかりました。では、庭の剪定は私がやりますわ! 他の者は通常業務に注力するように!」



私が鋭く言うと、使用人たちが一斉に「はい」と小さく返事をした。ミラ・フェルウィンは不服そうに顔をしかめ、ティア・ルナリスは目を伏せ、ソフィア・ヴェールは冷静な視線を投げてきた。



ふん、エリスがいなくなった今、誰も私に逆らえないはずよ。 話が終わると、私は早速庭の剪定に向かおうとしたけど…あら、まだ少し時間に余裕があるわね。剪定は1時間もあれば終わるはず。ならば、先にコーヒー…ではなく、人員調整を済ませましょう。



気分を落ち着かせ、業務効率を上げるため、温かい飲み物をお供に作業に取りかかったわ。魔法の羊皮紙にペンを走らせ、人員を調整する。ミラには雑務を多めに、リリアさんと私は大事な事務業務時間を確保。これで完璧ね。



それから1時間ほど経ったかしら。ふと時計を見ると、私は、はっとした。



「ありゃ、はりきりすぎましたわね。もうこんな時間!」



剪定に向かわなきゃ。急いで庭に移動したけど、今日も暑いこと! こんな炎天下で作業するなんて、いつぶりかしら? ヴァイラルド家の庭に足を踏み入れると、私は思わず目を疑いました。



「残り半分程と聞いてたのに…思っていたより多いじゃない!」



エリスが放棄したなんて聞いてたけど、この量は予想外ですわ。仕方なく作業を開始します。日光が燦々と打ち付け、肌がヒリヒリ焼ける。滝のような汗が衣服にまとわりつき、なんとも不快です!



「ふぅ、少し休憩を挟まなければ、倒れてしまいますわ。」



私は庭の古木の日陰に移動し、持ってきた飲み物を一口飲んだ。少し落ち着いたけど、パドリック卿もお人が悪いわね。こんな大して伸びていない庭を剪定しろだなんて。



見た目はそれなりに整っていますし......でも...ちょっとおかしいですわね。最後にちゃんと手入れしたのはいつだったかしら?確か...... 数か月前のはずなのに、こんなに整ってるなんて…。



ふと、私は思い出した。そういえばエリスが事あるごとに庭に通っていました。あの女、いつもハサミを持って何かしていましま。まさか、こっそり手入れしてたのですか?



...いいえ......そんなわけないですわ、エリスにそこまでする義理はないはず…。



休憩を終え、作業を再開しました。1時間で終わらせるつもりでしたが、この暑さじゃ無理ですね。休憩を挟みながらだから、なかなか進みませんわ。ですがら屋敷内はリリアさんが指揮をとってるから、問題ないはずです。



それからしばらくして、ようやく庭の剪定が終わりました。エリスが手入れしていた場所に比べれば、多少不格好ですが、まあ許容範囲ですよね。



「ふぅ、それにしても、まさか2時間もかかるなんて…。」



汗でずぶ濡れの服がまとわりつき、髪も乱れて最悪の気分ですわ。



庭の剪定を終え、汗にまみれた私は、ヴァイラルド家の石造りの廊下を急いで進みました。



早くシャワーを浴びて、この不快感を洗い流さないと。 ですが、広間の入り口に差し掛かった瞬間、リリアさんが慌てた様子で私に声を掛けてきました。



「グレタさん! こっちを手伝ってください! 食事の間の準備がまだ整っていません!」



私は耳を疑いました。



「なんですって? あと30分もすればパドリック卿とカイラン様がお越しになるというのに! どういうことですか、リリアさん? あなたがいながら、なぜそのような事態に?」



私は声を荒げ、続けて問いただしました。



「他の者はどこに行ったんですか?」



リリアさんが焦った顔で、薄い笑みを浮かべながら答えました。



「それが、緊急の要件がいくつも重なりまして…ミラは急遽食材の買い出しに、ソフィアとティアは客人のご対応をしていますわ!」



「なんですって!?」



私は拳を握りしめました。



まだシャワーも浴びていないのよ!?



「なぜもっと早く言わないのです! 準備が整っていなければ、私とあなたの責任になるのですよ!」



もうっ! エリスがいれば、あの女に全て押し付けて済ませられたのに!



なのに、今はこんな体たらく! 私とリリア、そして残りの数人の使用人で急いで食事の間に駆け込み、準備に取りかかりました。銀の食器を並べ、魔法の燭台に「ルミナス・イグニス」の呪文をかけ、水差しに清涼の魔水を満たしました。



ですが、時間が足りない! 汗にまみれたまま、慌ただしく動く私の姿は、まるで下働きの使用人そのものです。こんな屈辱、いつ以来かしら! 結局、準備は間に合わず、パドリック卿とカイラン様が広間に現れた時、テーブルクロスは乱れ、飲み物の杯は半分しか揃っていなかった。



パドリック卿が厳しい視線を私に向け、低く響く声で言いました。



「グレタ、リリア、食事の間の準備がこの状態とはどういうことだ? 」



私とリリアさんは冷や汗をかき、頭を下げました。



「誠に申し訳ございません、パドリック卿。急な要件が重なり、準備が遅れました。」



カイラン様が心配そうに口を挟んだ。



「父上、皆、精一杯やっております。どうか…」



「今日の反省会で、原因をはっきりさせなさい。」



私は歯を食いしばり、内心で叫びました。エリスがいなくなった初日に、こんな目に遭うなんて! これではエリスがいないと何も出来ていないと思われますわ。反省会では、絶対に皆にきつく言及してやりますわ。


.

反省会の時間となり、石造りの会議室に使用人たちが集まりました。私は羽ペンを手に、鋭い視線で部屋を見渡し、早速日中の失態を切り出しました。



「今日のお昼、食事の間が整っていませんでした。これで私とリリアさんがパドリック卿よりお叱りを受けました。新人のミラさんはともかく、他の皆さんはこのことについてどうお考えなのですか?」



私の声が会議室に響くと、リリアさんがいつものように、すかさず同調してきました。



「本当ですわ。私たちの身にもなってほしいものです。」



ですが、正直言って、リリアに対しても腹が立っていますのよ。彼女がきちんと指揮をとっていれば、私が汗まみれで庭を剪定した後、シャワーも浴びられずパドリック卿に叱られる羽目にはならなかったのです。



古株としての責任感が足りないんじゃない? そう思って、私は少し語気を強めて言ってやりました。



「リリアさん、あなたもです。あなたは私に次ぐ古株の方ですよね。それなのに、急なアクシデントが起きたからといってこの体たらく。あなたは仕事ができる方と思っていましたが、私の買い被りでしたね。」



少し言い過ぎたかしら? でも、これを機に、皆にしっかり自覚を持ってもらわないと。ですが、意外にもリリアさんがむっとした表情で私を睨み、生意気にも言い返してきました。



「そういうグレタさんも、1時間で終わるといった剪定作業に随分と時間がかかっていたようですわ。」



なんですって!? この女、よくもそんな口を! 私は拳を握り、声を荒げました。



「炎天下の中で、私は一人で屋敷の半分の庭の剪定作業をしたのですよ? 褒められたとしても、そのような言い方をされる筋合いはありませんわ!」



リリアが薄い笑みを浮かべ、声を低くして反撃してきた。



「ですが、剪定が始まる前、私たちが通常業務に追われる中、グレタさんは一人で人員調整の仕事に精を出されていたようですね。それを後回しにすれば、剪定作業も早く終わり、食事の準備も余裕を持ってできていましたわ。」



そして、リリアさんは小声で、まるで私を嘲るように付け加えた。



「どうせ今からしたって、週末まで完成しないのですから。」



私はカッとなって、思わず羽ペンを握り潰しそうになりました。この女、私を公然と侮辱するなんて! あなたも私の人員調整で恩恵を受けてる身でありながら!



ミラ・フェルウィンが隅で縮こまり、ソフィア・ヴェールとティア・ルナリスが冷ややかな視線を向けてくる。他の使用人たちも、静かにざわめき、誰も私の味方をする気配がない。 私は深呼吸して、なんとか冷静さを取り戻した。



「とにかく、今日の失態は全員の責任です。次はこんなことがないよう、しっかり務めを果たしなさい!」



その時、会議室の重い扉が勢いよく開き、パドリック卿が厳かな表情で入ってきました。



「今日、庭の剪定を行ったのは誰だ?」



私は胸を張り、自信満々に答えた。炎天下で2時間もかけて剪定したんだもの、さぞ褒められるはずですわ!



「パドリック卿、私が剪定を行いました。エリスが放棄した庭を、私が責任を持って仕上げましたわ。」



だが、パドリック卿の顔がみるみる険しくなり、声を荒げました。



「グレタ、あれは一体なんだ!? あのような不格好な庭を晒し、今日、客人に笑われ、私が恥をかいたぞ!」



私は耳を疑い、言葉を失いました。



「し、しかし…パドリック卿、私は最善を尽くし…」



「最善だと? エリスが手入れしていた庭は、 魔植物は輝くように整い、魔法の紋章と響き合い、花壇は色鮮やかに咲き誇っていた。君の剪定は枝を不揃いに切り刻み、花壇を乱し、魔植物の輝きを曇らせた! 今日の客人はその惨状を見て、ヴァイラルド家の庭を笑いものにしたのだ!」




使用人たちがざわつき、ソフィアが小さく頷き、ティアが目を伏せ、ミラが涙ぐんだ目で私を見た。私は顔が熱くなり、羞恥で真っ赤になるのを感じました。皆の前で、こんな屈辱を受けるなんて! パドリック卿が厳しい視線を私に突き刺し続けました。




「明日、庭をやり直してくれ。」


そう言い残し、パドリック卿は会議室を去りました。



反省会を終えたその夜、私は興奮と屈辱でほとんど眠れませんでした。



この私が、皆の前でパドリック卿に叱られ、庭の剪定を笑いものにされるなんて! なぜこんな目に遭うのよ?



こうなったら、明日からはすべて完璧にこなして見せますわ。



エリスがいなくても、私たちだけで十分だと、パドリック卿に証明してみせます!



翌朝、リリアさんと顔を合わせた私は、昨日の言い争いを水に流すことにしました。今は敵対するより、協力してパドリック卿や他の使用人を見返さなきゃ。私は少し頭を下げて言いました。



「リリアさん、昨日は言い過ぎましたわ。ごめんなさい。」



リリアも意外に素直に、薄い笑みを浮かべて応じた。



「私の方こそ、ついカッとなってしまいましたわ。申し訳ありません。」



私は胸を張り、決意を込めて続けました。



「エリスさんがいなくなった以上、私たちで力を合わせれば、十分仕事をこなせることを証明しましょう。」



「えぇ、そうですわね!」



リリアさんが力強く頷きました。 そうして業務が始まりました。私とリリアさんは指揮をとりながら手分けして動きました。朝の清掃、書斎の整理、魔道具の点検…今のところ、すべて順調ですわ。



食事の準備も無事に終わり、パドリック卿とカイラン様から特に指摘はありませんでした。魔法の燭台が穏やかに輝き、屋敷に一時の平穏が戻ったかに見えました。



ですが、午前の部を終え、午後に入ると、状況は一変しました。まるで嵐のように、様々な緊急要件が舞い込んできたのです! パドリック卿が厳かな声で私に命じます。




「明日、また客人が来る。それまでに質の良いお茶菓子を用意しておいてくれ。」



続けて、カイラン様が軽やかな口調で言いました。



「今日の夕方、急遽友人と出かけることになりました。なので、街まで送迎をお願いします。」



さらに、門番が慌てて知らせてきました。



「パドリック卿に会いに来た客人です。昔の知り合いだそうで、ご案内いただけますか?」



私は頭を抱えた。あぁ、またお茶と菓子を用意しなきゃ! 庭の剪定のやり直しもできていないのに! あと少しで夕食の準備も始めなきゃいけませんのに。



時間も人手も足りないわ! エリスが休みの日でも、こんなに忙しいことはなかったのに! 休憩室で一人、汗と疲れにまみれて座り込み、思わず呟いた。



「何故こんなに…エリスさんが休みの時でも、ここまで忙しいことは今までなかったわ。」



その時、休憩室の隅で羊皮紙を整理していたティア・ルナリスが、静かに、しかしはっきりと口を開きました。



「エリスさんは通常業務に加えて、その他の雑務もほとんど一人で担っていました。緊急に備えて食材の買い出しや、使用人の教育、的確な指示も…。」



私は言葉を失い、ティアを睨みました。エリスが…そんなに多くのことをしていたの? 私が気づかなかっただけで、あの女が屋敷を支えていたとでもいうの?



それから数日、屋敷はまるで呪われたかのように混乱が続いた。緊急要件が次々と舞い込み、食事の準備が遅れ、庭の剪定のやり直しは進まず、客人の対応でミスが重なります。



リリアさんと協力して何とか回そうとしたけど、時間も人手も足りないですわ。



ついに私は音を上げ、意を決してパドリック卿の書斎に足を運んだ。私は頭を下げ、声を震わせながら訴えました。



「パドリック卿、エリスさんを連れ戻していただけませんか?」



パドリック卿が重厚な机の向こうで眉を上げ、静かに問いました。



「何故だ?」



私は拳を握りしめ、屈辱を飲み込んで答えました。



「今の使用人だけでは、現場が回りません。エリスさんの不在で、すべてが乱れているのです。」



パドリック卿が目を細め、深い溜息をつきました。



「ふむ、それは私も薄々気づいていたが、それはできない。」



「何故ですか!?」



私は思わず声を荒げ、パドリック卿が落ち着いた声で続けました。



「エリスはここを辞めた翌日に、次の働き口を見つけているからな。」



「そ、そんな…一体どこにですか?」



私は息を呑み、胸が締め付けられる思いでした。エリスがそんなに早く新たな務めを見つけているなんて! パドリック卿が穏やかに、しかし重々しく答えました。



「アルバート卿の屋敷だ。だが安心してくれ、エリスは連れ戻せないが、代わりに一人助っ人を呼んでいる。」


私は内心で舌打ちしました。助っ人? 一人新人が来たところで、教育に手間がかかるだけですわ! 今必要なのは即戦力ですのに! ですが、パドリック卿の次の言葉に、私は耳を疑いました。



「マロイ・グランベルが、暫くの間、屋敷で再び働いてくれるようになった。」



マロイ・グランベル。その名前を聞いた瞬間、私の身体が一瞬硬直しました。



マロイは元々ヴァイラルド家の使用人で、既に引退した身です。ですが、彼女がこの屋敷で勤めた年数は、私よりも遥かに長い。彼女は私とリリア、エリスを育てた、私以前の使用人頭だった人です。



「マロイ様が戻られるなら、確かに助かりますわ。」



「マロイの指導の下なら、屋敷はすぐに秩序を取り戻すだろう。だが、君とリリアには、彼女の期待に応える働きを期待する。」


その言葉に、私は冷や汗をかきました。マロイの期待に応える? あの完璧主義者が、私の仕事ぶりを監視するなんて



☆☆☆


次の日の朝、いつもの会議室に集まると、一人の年老いた女性が立っていました。腰が少し曲がり、しわしわの顔に穏やかな微笑みを浮かべています。使用人たちが不思議そうに彼女を見つめる中、私は一瞬でわかりました。



あれはマロイ・グランベルだ。リリアさんも気づいたようで、顔色が明らかに悪いです。ふん、彼女も私と同じく、マロイの登場に動揺しているようですわ。 マロイがゆっくりと口を開き、落ち着いた声で言いました。



「パドリック卿に頼まれて、少しの間ですが、またヴァイラルド家でお世話になります。何人かは顔を合わせたことがございますね。」



彼女のしわが刻まれた顔に、軽い微笑みが広がりました。ミラ・フェルウィンやティア・ルナリスたちが丁寧に挨拶を交わし、ソフィア・ヴェールも静かに頭を下げます。確かに、昔のマロイは厳格で恐ろしかったけど、今は随分穏やかになっていますわね…。 私は一歩前に出て、なんとか平静を装って声をかけました。



「お久しぶりですわ、マロイさん。」



「お久しぶりですね、グレタさん。」



マロイが柔らかく答えた。 リリアさんも続けて、明らかに無理した笑顔で言いましたり



「お会いできて嬉しいです。」



ふん、リリアさんったら、思ってもないことをよくも平気で口にできますわね! 私も内心では複雑でしたが、表面上は微笑みを浮かべました。



「私も嬉しいですよ。教え子とまた働くことができて。」



だが、マロイが次の言葉を口にした瞬間、私の心臓が跳ねました。



「ただ、私も歳をとりました。昔のように体を動かすことも、声を張り上げることもできません。ブランクもあります。」



私はほっとし、すかさず提案した。



「そ、そうですね。では今日はベテランのソフィアさんについて…。」



だが、マロイが静かに、しかしきっぱりと言い放ちました。



「なので、今日1日はグレタさんとリリアさんに同行させてもらいます。」



その言葉に、頭の中で昔のマロイの声が響きました。



「グレタさん! お部屋の掃除が全然行き届いてないです! やり直し!」



私は思わず身を固くし、リリアの方を見ました。彼女の顔も引きつり、目が泳いでいます。きっと、同じことを思い出しているようですわね。あの恐ろしい指導、完璧を求めるマロイの視線…。私は喉を鳴らし、なんとか声を絞り出しました。



「わ、わかりました。では午前は私と同行しましょう。」



マロイが穏やかに、しかしどこか鋭い目で私を見つめ、言いました。



「よろしくお願いしますよ、グレタさん。なんだか変な気分ですね。昔と立場が入れ替わって、当時は私はあなたに怒ってばかりでしたね。」



その言葉に、胸の奥で冷や汗が滲じました。


朝の会議が終わり、マロイ・グランベルが私と同行することになった瞬間、胸の奥で苛立ちが湧き上がりました。なんで私なのよ! この方がとても苦手ですのに!



内心で愚痴をこぼしながらも、顔には出さず、なんとか平静を装いました。



「で、では行きましょうか?」



「えぇ。」



マロイが短く答えると、彼女の顔から先ほどの穏やかな笑みが消えました。代わりに、かつての使用人頭の厳格な目が私を捉えます。魔法の燭台が廊下で薄暗く揺れ、まるでこれから始まる試練を予感させるようでした。今日は絶対に失敗はできませんわ。



マロイが何か見つければ、即座にパドリック卿の耳に入るはずですわ。 仕事が始まると、私はいつも以上に神経を尖らせました。客間の清掃、魔道具の点検、食事の間の準備…すべてを完璧にこなさなきゃ。



マロイ鋭い視線が背中に突き刺さる中、私はリリアさんと連携して仕事を進めていきました。



失敗は許されません。マロイがパドリック卿に報告すれば、私の立場はさらに危うくなります。



「リリアさん、客室を綺麗にお願いしますわ!」



最近、アポなしの来客が多いです。今日もその可能性を考えて、予め部屋を完璧にしておかなきゃ。お茶菓子は昨日のうちに買い溜めてありますし、客人が来ても抜かりはないですわ!



これまでのアクシデントで、私も学習したのよ。同じ轍は二度と踏まないですわ!



「わかりましたわ!」



リリアさんが素早く頷き、客室へ向かった。



「ミラさん、食事の間の準備を始めて頂戴!」



「は、はい!」



ミラ・フェルウィンが少し緊張した声で答えました。 しばらくして、案の定、門番が客人の来訪を告げてきました。だが、今回は準備万端ですわ!



「ティアさん、客人のご案内を! 既に客室の清掃は済ませてあります!」



「はいっ! わかりました!」



ティア・ルナリスが軽やかに応じ、客人を案内しに行きました。



「ミラさん、食事の間の準備はどうですか?」



「完了まであと10分ほど時間をください!」



ミラが慌てながらも答えました。




午後からは、マロイがリリアさんについて業務を回っていました。リリアさんもミスなく、夕食の準備を時間通りに終わらせましたわ。魔法の燭台が穏やかに揺れる中、屋敷は一見順調に見えました。



なのに、マロイの表情は相変わらず険しいまま。ですが、口出しはありませんでした。許容範囲内ってことですよね! 私は内心でほっとしながら、反省会の時間を迎えました。



会議室に集まり、私は胸を張って宣言しました。



「皆様、今日は嬉しいことに反省点は一つもありませんわ! 業務の遅延もなく、失敗もありませんでした! パドリック卿のご指摘もなしです!」



リリアも自信満々に同調した。



「えぇ、その通りですわ!」



ミラ・フェルウィンやティア・ルナリスが静かに頷き、ソフィア・ヴェールも無言で視線を下げました。ふん、これでマロイも文句はつけられないはずですわ! 私は内心で勝利を確信しました。 ですが、その時、マロイが落ち着いた、しかし冷たく響く声で口を開きました。



「いいえ、反省点はあります。」



私はビクリと身体を震わせました。反省点? 何よ、今日はずっと何も言わなかったじゃない! 私は唇を噛み、リリアさんを見ると、彼女も顔を引きつらせています。



マロイがゆっくりと、しかし鋭い視線で私たちを見据えました。



「まず、グレタさんとリリアさんの仕事には無駄が多すぎます。客室の清掃も、食事の準備も、動きに計画性がなく、時間がかかりすぎです」



私は息を呑みました。



「次に、指示が曖昧で具体性に欠けます。『客室を綺麗に』だけでは、受け取る側が解釈に迷い、大きなミスに繋がる危険があります。」



リリアさんが小さく咳払いし、目を逸らしました。マロイが続けました。



「そして、清掃後の客室が汚れている。窓枠の埃、床の隅の汚れ…見逃している点が多すぎます。今日の客人が気づかなかったのは、単に運が良かっただけです。」



さらに、マロイが声を低くして付け加えました。



「特に問題なのは、ミラさんに食事の間を一任したことです。働き始めて間もない者に、貴族の食事を任せるのはおかしい。貴族の食事は神聖なもの。全体的に準備はできていましたが、食器の並びが不揃いで、テーブルクロスに乱れがあり、グラスに注がれた飲み物の量も不均等でした。厳しい貴族なら、怒られていてもおかしくありません。パドリック卿とカイラン様は気づいていましたが、今日はあえて何も仰らなかっただけです。」


私は拳を握りしめ、なんとか反論しようとしたが、言葉が出てきませんわ。



「パドリック卿は寛大でしたが、こうした小さな不備が積み重なれば、ヴァイラルド家の名誉に傷がつきます。明日からは、もっと厳密に管理してください。」



反省会の屈辱的な指摘を胸に抱えたまま迎えた翌朝、会議室に集まると、マロイ・グランベルが穏やかだが威厳ある声で口を開きました。



「おはようございます。昨日は初日ゆえに口を控え、様子を見ておりましたが、屋敷の流れは思い出しました。今日からは私も本格的に業務に加わり、指導させていただきます。グレタさん、リリアさん、よろしいですね?」



私は喉が締まる思いで、なんとか声を絞り出しました。



「はい、もちろんですわ。どうぞよろしくお願いします。」



リリアさんも硬い笑みを浮かべ、ぎこちなく頷きました。こうして、私とリリアさんにとって地獄のような日々が幕を開けました。



洗濯物の山を前に、私は必死で布を畳んでいました。ですが、マロイが隣に現れ、まるで魔法のように素早く、完璧に洗濯物を片付けていく。みるみるうちに山が消え、彼女の動きは引退したとは思えないほど鮮やかでした。



私は圧倒されながら手を動かしましたが、マロイの鋭い声が響きました。



「グレタさん! 動きが遅すぎます! 若いあなたが私より遅くてどうするんですか!」



「ひっ、すみません!」



私は慌てて手を動かしたが、布の端が乱れ、マロイの視線に縮こまりました。リリアさんも客室の清掃中、マロイの容赦ない指摘を受けました。



「リリアさん、家具の隙間に埃が残っていますよ! 全体を広く見て、細部まで気を配りなさい!」



リリアさんが顔をこわばらせ、黙って雑巾を握り直すのが見えました。 食事の間の準備でも、マロイの追及は止まりません。



「グレタさん、テーブルクロスの端が折れています! リリアさん、グラスの飲み物の量が少なすぎます! 」



私は冷や汗を背中に感じ、必死でテーブルクロスを整えました。ですが、マロイが共に準備していたミラ・フェルウィンに視線を移すと、彼女の身体がビクンと震えました。私は内心、ミラも叱られると思っていましたが、マロイの声が一変し、穏やかに響きました。



「ミラさん、昨日指摘した点をしっかり直していますね。動きも良く、素質がありますよ。」



ミラが目を丸くして答えました。



「ありがとうございます!」



マロイが柔らかい微笑みを浮かべ、続けます。



「昨日は厳しく言いましたが、あなたは一人前になれば立派な使用人になる。きっと、指導してくれた方も優秀な方だったのでしょう。」



その言葉に、私の胸が締め付けられた。



ミラを指導したのは…エリスだ。




マロイ・グランベルの厳しい指導が始まってから、1週間が過ぎました。毎日が地獄でしたわ。洗濯物の畳み方、客室の清掃、食事の間の準備…何をしてもマロイの鋭い指摘が飛んできます。



「グレタさん、布の折り目が揃っていません!」



「リリアさん、埃を見逃すなんて論外です!」



マロイの指導は、私達だけではなかったですが、ティア・ルナリスやソフィア・ヴェールは、マロイから「基盤は完成していますね」「少しの改善で十分です」と他の使用人達も軽い指摘を受けるだけで、みるみる効率を上げていきました。



とうとう、私とリリアさんはまた音を上げました。業務時間中にもかかわらず、会議室の片隅で、魔法の通信水晶を使ってアルバート卿の屋敷に連絡を取りました。



「リリアさん、もう耐えられませんわ…エリスさんを連れ戻すしかない!」



リリアさんが青ざめた顔で頷きました。



「えぇ、こんな屈辱…マロイさんの監視も我慢できないわ!」



水晶が微かに光り、まるで私たちの敗北を映すようでした。




私は拳を握りしめ、魔法の通信水晶の微かな発信音を聞きながら、内心で叫んだ。



「エリス、どうか戻ってきて…!」



☆☆☆



私―――エリス・ヴァルティアは今、アルバート・シルヴァンス様が当主を務めるシルヴァンス家の屋敷で、正式に使用人として新たな務めを始めています。ヴァイラルド家の喧騒とは異なり、静かで秩序ある空気に満ちています。


執務室の扉が急に開き、使用人のアルカ・ポヨーンが慌てた様子で駆け込んできました。



「アルバート卿! 急ではございますが、客人がお見えになりました! 卿にお会いしたいと仰っています!」



アルバート様が目を軽く見開き、落ち着いた声で応じます。



「客人か! ならば客室に通してくれ。お茶と菓子の用意を頼むぞ。」



アルカが気まずそうに顔を曇らせました。



「そ、それが…先日の来客でお出ししたため、菓子の準備がまだ整っておりませんで…」



私はすかさず口を開きました。



「問題ございません。菓子のストックは私が準備済みです。客室の清掃も完了しておりますので、すぐにご案内ください。」



アルバート様が満足そうに頷き、笑みを浮かべます。



「さすがエリスだ! アルカ、頼んだぞ。客人を客室に通してくれ。」



「は、はい! ただいま!」



アルカは慌てて一礼し、急いで引き返しました。 その様子を見ていたもう一人の使用人、マナ・セルカが、感嘆の声を上げました。



「エリスさん、素晴らしいです! まだこちらに来て一週間ほどなのに、まるでずっと仕えてきたようです!」



私は穏やかに微笑み、丁寧に答えました。



「皆様にご迷惑をおかけせぬよう、業務をいち早く熟知しようと努めております。ですが、まだ至らぬ点も多いですので、ご指導をお願いいたします。」



私がここに務めることとなった、事の始まりは、数日前、パドリック卿から預かった手紙をアルバート様に届けた時のことでした。



「エリス! 君がこの屋敷に来るのは久しぶりだな!」



アルバート様の朗らかな声に、私は丁寧に頭を下げました。



「アルバート様、突然の訪問をお許しください。パドリック卿よりお手紙をお預かりしております。」



「パドリック卿からか! どれ、見せてくれ。」



私は封筒を恭しく差し出し、アルバート様がその場で開封して中身を確認するのを見守りました。封筒には微かな魔力が宿っているようで、開封の瞬間、魔法の紋章が一瞬強く輝きました。読み終えたアルバート様が、穏やかに微笑みながら言いました。



「ふむ、なるほど。エリス、ご足労を感謝する。」



「いえ、務めを果たしたまでです。」



私は静かに答えます。 すると、アルバート様が突然、思いがけない提案をされました。



「エリス、早速で悪いが、シルヴァンス家で使用人として働いてくれないか?」



その言葉に、私は一瞬驚き、目を軽く見開きました。



「私が…シルヴァンス家でお仕えするのですか?」



ヴァイラルド家を離れた後、しばらく貯金で体を休め、改めて仕事を探すつもりでした。ですが、シルヴァンス家で働けるなら、仕事を探す手間が省け、信頼ある貴族家での務めは願ってもない機会です。



それでも、なぜ急に私に? アルバート様が、まるで私の内心を見透かしたように続けました。



「パドリック卿の手紙には、君がここに来るまでの経緯が記されていた。詳しくはこれを読んでくれ。パドリック卿から君への手紙も同封されている。」



「私への…?」



私は驚きつつ、アルバート様から差し出されたもう一通の手紙を受け取りました。封筒を開け、中身を確認すると、パドリック卿の丁寧な筆跡が目に飛び込んできました。



  エリス・ヴァルティアへ


『君には申し訳ないことをした。長年、ヴァイラルド家に尽くしてくれた君を、私は不当な扱いで解雇してしまった。父上から預かった壺が割られ、その事実を隠した者がいると知り、怒りに任せて冷静な判断を欠いていた。



君を信用できなかった私を、どうか許してほしい。 解雇の夜、偶然カイランがグレタ・モルガナとリリア・セレンディスの会話を耳にした。二人が清掃中に壺を誤って割り、処罰を恐れて隠蔽し、君に冤罪を着せたと話していた。



さらに、君に罪を着せ、処罰を免れたことを喜び合っていたという。君が去った後、グレタとリリアを除く使用人たちが私の部屋に集まり、ミラ・フェルウィンやティア・ルナリスらが証言した。これまで辞めていった使用人たちも含め、多くがグレタとリリアによる不当な扱いを受けていたことが明らかになった。



私は深く後悔した。古株であるグレタとリリアを特別視しすぎ、不自然な退職の原因を深く追及してこなかった。君の解雇は取り消すつもりだったが、君のような優秀な者がヴァイラルド家に残れば、二人はまた君に甘え、怠惰な日々を送るだろう。



それは君にとって重荷だ。 そこで、カイランや使用人たちと話し合い、信頼できるシルヴァンス家に君を推薦することにした。勝手な決断だ。



もしシルヴァンス家で働くことが不本意なら、断ってくれて構わない。私は何の抵抗もなく、アルバート卿に頭を下げに行くつもりだ。 エリス・ヴァルティア、君の幸せと健康を心から祈っている。』


パドリック・ヴァイラルド より


手紙を読み終えた私は、胸に温かいものが広がるのを感じました。パドリック卿の後悔と誠意、ミラさんやティアさんの行動、そしてグレタさんとリリアさんが私を陥れて喜んでいた事実に、心が震えます。



ですが、感情を抑え、私は静かに封筒を閉じました。 アルバート卿が穏やかな声で尋ねました。



「エリス・ヴァルティア、シルヴァンス家では新たな使用人を必要としている。君の力が必要だ。この屋敷で働いてくれないか?」


私は深く頭を下げ、答えます。



「光栄です、アルバート様。謹んでシルヴァンス家でお仕えいたします。」



こうして私は、シルヴァンス家で勤めることとなりました。



そして今日、執務室で作業中、使用人のマナが急ぎ足でやってきて告げました。



「エリスさん、ヴァイラルド家のグレタさんという方から通信水晶でご連絡が入っております!」



「グレタさんが? どのようなご用件でしょうか?」



私は穏やかに尋ねました。



「とにかくエリスさんに代わってほしいと、切羽詰まった様子で…」



マナが少し困惑した顔で答えます。


 

「承知しました。」



私は静かに頷き、通信水晶が置かれた部屋へと移動しました。私は水晶に触れ、落ち着いた声で応じました。

 



「お電話代わりました。エリス・ヴァルティアでございます。」



水晶の向こうから、グレタの震える声が響きます。



「エリスさん! 今まで酷いことをして、本当にごめんなさい! 私たちにはあなたが必要なの! どうかヴァイラルド家に戻ってきてください!」



続けて、リリアの声が必死に割り込みます。



「お願い、エリスさん! 戻ってきて!」



私は一瞬、胸に複雑な感情が湧きましたが、すぐに抑えました。私はすでにシルヴァンス家に忠誠を誓った身。答えは決まっています。



「グレタさん、リリアさん、ご連絡ありがとうございます。ですが、私は今、シルヴァンス家での信頼の務めに全身全霊で励んでおります。ヴァイラルド家に戻ることはできません。」



水晶の向こうで、グレタが息を呑む音が聞こえました。彼女が食い下がろうとしたその瞬間、懐かしい声が割って入ります。



「グレタさん! リリアさん! 勤務中に他の者の目を盗んで通信水晶を使うとは何事ですか! 貴族の使用人としてあるまじき行為です!」



グレタとリリアが小さな悲鳴を上げ、怯えた様子が伝わってきます。私は思わず声を大きくしました。



「マロイ様!? マロイ様でいらっしゃいますか?」



水晶が一瞬光を放ち、マロイの落ち着いた声が響きます。



「その声…懐かしいですね。エリスさん、でしょうか?」



「はい、エリス・ヴァルティアです。お久しぶりでございます。」



私は丁寧に答え、胸に温かいものが広がるのを感じました。



マロイ様が穏やかながら決然とした口調で続けます。



「お久しぶりですね、エリスさん。使用人たちから話は聞いています。ヴァイラルド家で大変な思いをされたそうですね。グレタさんとリリアさんは私が厳しく再教育することになりましたので、ご安心ください。もっとも、貴女はすでにシルヴァンス家の使用人ですから、関係ない話かもしれませんが。」



私は静かに微笑み、答えます。



「いえ、ミラさんやティアさん、ソフィアさん、そして他の皆様の身を案じておりました。マロイ様がご指導にあたられていると伺い、安心いたしました。」



マロイ様の声に温かみが加わります。



「そうですか、それは良かったです。エリスさん、たまにはヴァイラルド家に顔を見せに来てください。グレタさんとリリアさんは、私が一人前の使用人に教育し直しますので。ミラたち皆が、貴女に支えられていたことに心から感謝していましたよ。」



「とんでもございません。私は当然の務めを果たしたまでです。」



「エリスさんは昔から謙虚ですね。では、業務が残っていますので、ここで失礼します。」



「はい、お仕事お励みください。」



私は丁寧に返し、水晶の光が静かに消えるのを見届けました。




内心で思う――支えられてきたのは、私も同じです。



通信水晶の光が消えた後、私は静かに執務室に戻りました。



マロイ様の言葉――ミラさんやティアさん、ソフィアさんが私を支えてくれたことへの感謝――が胸に響き、ヴァイラルド家での試練を思い出します。グレタとリリアの策略、壺の冤罪、そして彼らが私の解雇を喜び合った事実。



それでも、ミラさんたちの勇気ある証言とパドリック卿の誠意ある手紙が、私をこの新たな務めへと導いてくれました。 今、シルヴァンス家で、アルバート卿の信頼に応え、アルカやマナと共に働く日々は、まるで新たな光に浴しているようです。


ヴァイラルド家で最後まで務めは終えられませんでしたが、後悔は少しもありません。






何故なら――――私、恵まれていますので。

ありがとうございました!

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― 新着の感想 ―
ヴァイラルド家、使用人に良いようにやられて無能さが際立ってます。
グレタやリリアより誰より(元)主人が無能だろ…と思ってたらさすがに自覚があった。 縁故採用か何かであの二人をクビにできないのかしら。新人雇い直した方がマシでしょうに。
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