エピローグⅠ ――イゼキアル
雨の降る中、俺は縁側に腰を下ろし、育った村を見下ろしていた。
この場所には友達も、良い思い出もほとんどない。
明日からは一人だ。
もう大人の男なんだ。
いつまでもここに閉じこもってはいられない――俺の居場所じゃない。
人間の俺が、エルフだらけの村で生きる理由なんて最初からなかった。
父さんがほんの少し理性を抑えられなかったせいで、俺はずっと針のような孤独を感じながら生きる羽目になった。
兄貴も同じだ。けど、あいつは鈍すぎて何も気づいちゃいなかった――あの町での事件までは。
カリーはハーフエルフ。
俺たちにとって、彼女の誕生はまさに奇跡だった。
けれど外の世界にとっては、それは不吉な前兆にすぎなかった。
「……大丈夫なの、イゼキアル?」
背後から聞こえた女性の声。聞き覚えのある声だった。
「……あ、すみません、カイリーさん。起こしてしまいましたか?」と慌てて振り返る。
礼儀と作法だけは、俺の生母が幼い頃に教えてくれた唯一のものだった。
声も顔も匂いも、もう覚えていないけど、それだけは覚えている。
「いいのよ。起こされたわけじゃないの。ただ……少し、外の空気を吸いたくなって」
彼女の目は俺を避けるように彷徨っていた。どこか落ち着かず、怯えたような目。
「……明日、行くのよね。騎士団に。すごいことだと思うわ。あなたの父さんも、誇りに思ってるはず」
小さく息を吐いて、彼女は微笑んだ。
「そうそうできることじゃないもの。人を守って、弱い人たちを助けるなんて……あなた、やっぱりお父さんにそっくりね」
指先で袖口をいじりながら、ぴくりと耳を動かした。
カリーにもある癖だった――何か言いたいことがある時の合図。
「カイリーさん、どうかされましたか? もし俺が何か失礼を――」
「ち、違うの。ただ……」彼女は唇を噛んだ。
「もう十六歳なのよね、あなた。なのに、私は……ずっと母親らしいこと、何もできなかった気がして。落ち着きがなくて、何をしていいかも分からなくて。あなたやサイモンにどこまで踏み込んでいいのか、怖かったの」
驚きはなかった。
いつかは彼女がこのことを打ち明けるだろうと思っていた。
叱ることも教えることも、ずっと躊躇しているのを感じていたから。
「ただ……どうしても、こう思っちゃうの」
言葉を切って、彼女は手すりを強く握りしめた。
「あなた、私たちから逃げようとしてるんじゃないかって」
その言葉に、息が止まった。
逃げる? 俺が?
どういう意味だ……?
「カイリーさん、あなたは十分やってくれましたよ」
無理に笑みを作る。
「俺は逃げてなんかいません。ただ、自分の道を見つけただけです」
「……そういう笑い方、やめた方がいいわ」
「え?」
「あなたのお父さんと同じ顔をするの。優しそうに見えて、心の奥を隠す笑顔。正直に答えて。嘘は、なしよ」
彼女の声は、いつになく真剣だった。
「……わかりました」
「私やカリーのこと、嫌いになったの?」
胃が沈んだ。
遠慮なしに核心を突いてきた。普段のおっとりした彼女からは考えられない。
「そ、そんなことは――」
「じゃあ、どうしていつも距離を取るの? 私たちと話す時だけ、他人みたいな顔をするのはどうして? 何か、私があなたを怒らせるようなことをしたの?」
彼女の声が少し震える。
「……」
「なんでもないです」
「目を見て言って」
遮られた。
「無視するし、避けるし……まるで一緒にいるのが嫌そう。もし私が何か悪いことをしたなら言って! 直したいの。あなたのこと、大切だから。私の子供たちだから!」
――いつになく強気だった。どうしたんだ、今日は。
「……俺は……」
言葉が出ない。
嘘をつくのは、サイモンの方がずっと上手かった。
「ふんっ!」
頬を膨らませるカイリー。怒ってるというより、まるで白髪で赤目のリスみたいだった。
ため息が漏れた。
こういうの、苦手だ。全部。
「意味がないんですよ」
「意味?」
首を傾げる。
「この関係も、この家族ごっこも……全部、無意味です」
「……そう。そういうふうに思ってたのね」
彼女の声は静かだった。
「誰のせいでもない。ただの現実です。あなたとカリーはエルフだ。長く生きるし、いずれ俺もサイモンも父さんも先に死ぬ。そうなったら、あなたたちはきっと俺たちのことを忘れて生きていく。それが自然です。だから、お互いに距離を取った方がいい。結局その方が傷つかない」
それが俺の本音だった。
これでわかってくれる。そう思った。
「……本気でそう思ってるの?」
小さく呟いた声は、風に紛れて消えそうだった。
「長く生きれば、忘れるのが自然でしょう?」
「イゼキアル・フィリップス!」
思わず肩が跳ねた。
彼女の怒鳴り声を聞いたのは、初めてだった。
「私はね、あなたの好き嫌いも、癖も、全部知ってるの! ピーマンが嫌いで、芽キャベツが大好き! 左利きで、雨の日は本を読むのが好き!」
「そんなこと関係ないだろ! 言ってる意味が違う! そのうち別の男と出会って、子供を作って、俺たちはただの思い出になる! そんな些細な記憶を覚えてたって、意味なんかない!」
息を吸って、彼女は言った。
「母親は、子の顔を一生忘れないの」
「――」
「たとえ再婚しても、あなたたちとお父さんを愛してる。私にとって、あなたたちは特別。最初で、唯一の息子たちよ。何があっても守るわ」
「で、でも俺たちは人間ですよ?」
「ええ。私の大好きな人間たち」
「そんな、知りもしないで――」
「関係ない!」
何を言ってるんだ、この人は。どうして分かってくれない。
「いい? イゼキアル。私のことを嫌いでも構わない。でもあなたの態度はカリーにも伝わってる。彼女は何も悪くない。ただ兄たちを尊敬してるだけ。家族なんて、人生でそう多く作れるものじゃないの。せめて行く前に……一言でいいから、さよならを言ってあげて」
「あなたは、あの子の一番上のお兄ちゃんなんだから」
「……わかりました」
「愛してるわ、イゼキアル。あなたがどう思っていても、間違っても。誰かを想うことは怖い。心を開くのはもっと怖い。でもね、私はここにいる。いつだってあなたの味方だから」
そう言って、彼女は家の中へ戻っていった。
しばらくしてから、俺は深く息を吸い、家の中へ戻った。
カリーの部屋の前でノックをして、そっと扉を開ける。
彼女は眠っていた。サイモンと作ったあの不気味な人形を抱きしめながら。
「……あれ、やっぱ気味悪いよな」
小さく呟いて、膝をつく。
髪をそっとかき分ける。
「サイモンみたいな兄貴にはなれねぇけど……俺なりに頑張るよ。二人のこと、俺が守る」
そう誓って、扉を静かに閉じた。
サイモンの部屋を通る。
まだ意識は戻っていなかった。
「……」
荷物を背負い、玄関へ向かう。
必ず帰ってくる。
もっと強く、謙虚な人間になって。
あの二人にふさわしい兄になって。
そして――きっとまた会える。
その時は、胸を張って。




