第6章 ――お茶の時間(Time for Tea)
1
その日、アビゲイルはまるで私に首輪をつけているかのように、ぴったりと後ろにつけていた。
「今日は逃げ出すんじゃないわよ?」
休憩室らしき部屋で、彼女は腰に手を当てて言った。
「これ以上、私の仕事を増やすんじゃないっての。ホント面倒くさい子なんだから!」
高く上がった鼻、髪で隠れた片目の奥から鋭い視線が向けられる。
この格好も、掃除も、まだどうにも慣れなかった。
家の手伝いは好きだけど、洗濯物の上に寝落ちするタイプの私には、向いていない。
「……」
「何よその顔。黙ってないで、わかったなら返事しなさい。」
私は顔を上げて、すぐに逸らした。
混乱していた。
人殺しの屋敷で働くなんて嫌。
でも逆らったら、何をされるかわからない。
「アンタ、掃いたことあるの? モンキーのほうがまだマシよ!」
アビゲイルは私の手からほうきを乱暴に引ったくった。
「いい? こうやって、埃を端に集めるの。コボルトでもできるわよ、こんなの!」
「……コボルトって何?」
「ちっ。」
ほうきを胸に押しつけられ、また睨まれる。
「はい、掃く!」
「……」
私は黙ってほうきを握り、床を掃きはじめた。
部屋には、壁沿いにランプやキャンドルが灯されていた。
香の匂いは甘く、花のようで、どこか落ち着く。
ただ指示に従うように見えて――本当は、彼らについて考えていた。
この屋敷の異常さも、ここの住人の得体の知れなさも解けないまま。
敵意は向けられていないとはいえ、信じていい理由もなかった。
最悪されたことといえば、鼻に指を突っ込まれたくらい――不快ではあるけど、痛みはない。
だからこそ、あの妙な男については、次に会った時に質問するつもりでいた。
「まだ終わってないの、ハーフスィブ? お茶の時間なのよ、早くしなさい。」
「……」
「何? 声は出るでしょ? 壊れた喉でもあるまいし!
『はい、アビゲイル様!』とか『頑張ります、アビゲイル様!』とか言ってみなさいよ。」
彼女は鼻で笑った。
「ちょっと……頭が痛いだけ……」
彼女は一瞬だけ、じっと私の目を見た。
「それは――」
「“まだ回復中だから”ですよ。」
背後から低い声がした。
背の高いメイド、エリザベスだった。
「エリザベス? 何しに来たのよ。まだ終わってないって言って――」
「お茶の時間です。終わっていようと終わっていまいと、ミストレスには休憩が必要です。まだ“受信中”なのですから。」
「甘やかしたって、この子はここで生き残れないわ。」
アビゲイルはため息混じりにほうきを取り上げた。
「さ、ほら。行きなさい行きなさい。アンタの分はやっとくけど、その分明日は倍働いてもらうからね?」
そして彼女は去っていった。
「さあ、参りましょう、ミストレス。お茶の用意ができております。」
案内された先は、両側の壁が本棚で埋まった書斎。
机の前には――あの男がいた。
「お茶を用意して参ります。どうぞごゆっくり。」
エリザベスは一礼して退室した。
「待って――私、この人と二人きりは――」
言い終わる前に、扉が閉まった。
ノブを回したが、やはりびくともしない。
……くそっ。
振り向けば、男は机で何かを書き続けている。
静かで、落ち着いた部屋。
香りは土のように深い。
カリ…カリ…
ペンの音だけが響く。
「まぁ、座りなさい。休むといい。」
視線は上げずに、手で席を示した。
「さっきの話も途中だっただろう。続きをしようじゃないか?」
足が動かなかった。
喉が熱く、頭の中では矛盾した声が渦を巻く。
座るな。
座れ。
叫べ。
噛みつけ。
逃げろ。
話せ。
ここに来てから、自分が自分じゃないみたいだった。
こんなに感情が乱れていた覚えはない。
欲しいものは、家族の愛情だけだったはずなのに。
「いつまで立っているつもりだ?」
「……」
「座りなさい。」
足が勝手に前へ出る。
私は机の前に座り込んだ。
「いい子だ。」
男はわずかに微笑んだ。
封筒に手紙を入れ、獅子の紋のような印章を押す。
その動きは、何一つ無駄がない。
コツ、コツ。
扉が叩かれ、紅茶とスコーンの乗ったワゴンが入ってきた。
「マスター、ミストレス。紅茶とスコーンでございます。」
二人の前に並べられたあと、エリザベスは一礼する。
「ありがとう、エリザベス。席を外してくれるかな。少し話がある。」
「いつでもお呼びくださいませ。」
静かに扉が閉まった。
男は紅茶をひと混ぜし、目を細めた。
「さて――続きを話そうか。ん?」
2
私は、紅茶の表面をぼんやりと見つめていた。
「飲みなさい。ラベンダーティーだ。頭痛に効く。」
一瞬、ためらう。
「そんなに疑い深いのかい? 仕方ない。」
彼は肩をすくめ、自分のカップを口元へ運んだ。
何度も繰り返してきた動作のように、滑らかで優雅な所作だった。
「……ああ。彼女の入れる茶は、やはり格別だ。」
私は視線を落とし、小さく一口だけ飲んだ。
最初はほろ苦く、けれど喉を通る頃には柔らかく香りが広がる。
「さっきは途中で話が終わってしまったからね。」彼は軽い調子で続けた。
「今日は小さなお茶会だ。……ちゃんと食べているかい? 身なりも整えられているようだね。メイド服もよく似合っている。アビゲイルは実に優秀だ。」
思わず身をすくめ、横を向く。
彼の目を見ると、何か胸の奥がざわつく。名前のつけられない感情。
「茶は口に合うかい?」
「仕事の日に体調を崩されては困るからね。」
「……どうして私は、メイドとして働かされているの?」
私はカップを握りしめた。
「あなたが言ったことを考えれば、こんなの……変でしょ?」
頭は軽くなっていくのに、思考はどこか霞がかっていく。
「あなたは……私に“あなたを殺せ”って言った。でも、メイドの仕事が何の役に立つの?」
「ふむ。」
彼はただ微笑んだ。
その笑みが、胃の奥をひねるように痛い。
「君はここで暮らす。私を殺すか、婚約者になるか――どちらかを選ぶその時まで。
その間、生活の分くらいは働いてもらう。当然だろう?
……希望するなら、お小遣いを渡してもいい。」
お小遣い?
殺す相手にお小遣い?
……この屋敷の人間(?)を思い返せば、驚くべきことではないのかもしれない。
私はもう一口飲んだ。
「……おいしい。」
「うむ。アビゲイルは紅茶に関しては、ちょっとしたソムリエだからね。」
沈黙。
先に話し出したのは私だった。
「………ほんとうに、本気なの?」
「残念ながらね。死ぬほど本気だ。」
私は心の奥から浮かぶ言葉を押し出す。
「……イフリート。」
カチン、と微かな音がした。
彼がカップを置いた音。
「あなた、私の中に……おとぎ話の“それ”があるって言った。」
あれからずっと答えを探していた。
「“種”のことか。」
彼は顎に手を当てた。
「ただの子ども向けの昔話じゃない。四つの始原は実在する。世界各地に散らばっている。そして――君はその一つを宿している。」
イフリート、アエリアル、ゴライアス。
そして最後の一体は――
「始原の中でも強大な存在を宿した君は、私の計画にとても都合がいい。」
彼は指を組み、言った。
「だからこそ、“試練”を受けてもらう。」
「試練……?」
「まさか、遊ぶためだけに君を連れてきたと思ったのかい?
結婚のため“だけ”でもない。
君には、近い未来のための準備が必要だ。」
「……他にできる人がいるんじゃないの?」
「いないよ。君は――百万に一人の逸材だ。」
「またそれ……。私はただの村の女の子よ。魔法だって……」
言いかけて、喉がつまった。
あの日の記憶……家族で出かけた時の、あの“出来事”。
「魔法は気まぐれだからね。初心者でも、努力と胆力さえあれば――英雄にもなれる。」
彼は軽く首を傾けた。
「君には素質がある。世界で最後の、そして――最高の魔導師になれる素質が。」
「……英雄になれって、こと?」
少し馬鹿げている、と眉をひそめる。
「そのくらいじゃないと、私を殺せないからね。」
目を閉じて笑う。
まるで当たり前のことを言ったかのように。
「“最後の”って……他の魔導師は? 首都にはまだ英雄がいるって聞いたけど。」
「魔導師の時代は終わりだ。」
彼は手をひらひらと振り、気怠そうに言う。
「錬金術のせいでね。」
その表情は、妙に優しかった。
優しすぎて薄気味悪いほど。
「魔法は、進歩の前では廃れつつある。」
「……錬金術?」
知らない言葉だった。
「ま、そのあたりはいずれ分かる。君が今回こそ試練を突破できれば、錬金術に頼る必要もなくなる。
……正直、私は錬金術に詳しくはないのだがね。」
彼はおどけて肩をすくめた。
「学ぶ意欲はあるとも。若い君なら――尚更だろう?」
脚を組み、頬杖をつく。
「それで――うちの“従者”たちはどうだい?」
急な話題転換に、思わず返事が遅れた。
「……変な人たち。」
スカートをぎゅっと握る。
「はは。控えめに言っても、癖は強い。」
「……あの人たち、人間?」
小さな声で尋ねた。
魂とか、作り物みたいな仕草とか――全部人間離れしていた。
言ってから、自分が馬鹿みたいに思えたけど。
「人間? まさか。
……彼女たちは“リビングドール”だ。」
私は紅茶を噴きそうになった。
拭う暇もなく、長身のメイドが静かに入ってきて、卓を整え、一礼して退出する。
「ど、ドールって……あの大きさで、喋って、動いて……?」
「だから“リビング”なんだよ。」
「リビング……ドール……?」
「説明はややこしいから省くが――君と同じだよ。話し、感じ、嫌悪し、興味を持つ。時に、非常に偏った興味をね。」
「ピアノの人も……?」
「エライアスだね。あれは音楽狂だ。」
ゆっくり瞬きをして続ける。
「エリザベスは真面目すぎるほど真面目。アビゲイルは――君が一番よく知っているだろう。」
彼の微笑は、どこか懐かしむようで……奇妙なほど柔らかかった。
私はティーカップの縁を指でたどりながら、意識を切り替えようとした。
触覚:陶器の冷たさ、机の木目。
視覚:揺れる蝋燭と彼の輪郭。
嗅覚:香の煙、インク、紙。
聴覚:遠くで鳴るピアノ。
味覚:ラベンダーの香り。
その時、彼が手を伸ばし、私の手を包んだ。
意識が一気に現実へ引き戻される。
「……上の空だね。具合でも悪いのかい?」
またあの微笑。
「怖がる必要はない。私の傍なら、安全だよ。」
「そんな言葉……信じられるわけ……!」
私は反射的に手を引いた。
「や、やめて……触らないで!」
「失礼。どうやら、まだ距離感が必要らしい。」
彼は背もたれに寄りかかった。
「こういうのは、時間をかけるものだ。」
そしてまた紅茶をすする。
「焦ることはないさ。」
どれだけ思い出そうとしても、あの“襲撃”は霧のように曖昧だった。
シモンが死んだことはわかる。
でも――断片しか浮かばない。
温かい血の感触だけが鮮明で、
でも場面は思い出せない。
「……どうして全部思い出せないの?」
呟きは自然と漏れた。
穴だらけの記憶。
私は血に濡れた手を覚えている。
でも、顔も、声も、瞬間も思い出せない。
彼の顔も……どこかで見た気がするのに、思い出せない。
手が震えた。
「どこで……あなたを見たことがあるの?」
視線を落とし、また彼を見る。
静寂。
彼は、微笑んだ。
さらに沈黙。
記憶の空白だけが広がっていく。
――チリン、チリン、チリン。
頭の奥で小さな鐘が鳴り響いた。
扉が開く。
「マスター、次のご予定の時間です。」
エリザベスが淡々と告げた。
カシウスは小さく息を吐いた。
失望のようにも聞こえた。
「また途中か。すまないね。
また話そう、次はもう少し……素直な君と。」
彼は席を立ち、袖を整えた。
「では。――また。」
唇がかすかに笑みの形をつくる。
そして去った。
奇妙で、
丁寧で、
読めなくて――
ぞっとするほど、得体の知れない男だった。
3
「……私の顔に、何かついていますか?」
エリザベスは、ぴくりとも動かなかった。
「ご、ごめんなさい。ただ……あの人、変なユーモアのセンスしてるなって思って。」
リビングドール? 試練?
あの人が企んでいることなんて、本当は一切関わりたくない。
パパが読んでくれた絵本に出てきた“大きな悪いオオカミ”みたい。
獲物を狙う獣の目をしているのに、
焼きたてクッキーを持ったおばあちゃんみたいに笑う。
「ユーモアのセンス……? マスターは冗談を言いません。これまでお話ししたことは、すべて事実です。……もっとも、私は“ジョーク”というものを正しく理解する機能を持ち合わせていませんが。」
あまりにも当たり前のように言うものだから、余計に違和感があった。
「……エリザベスさんって、人間なんだよね?」
恐る恐る聞く。
「いいえ。私はリビングドールです。」
「……え。」
「お嬢様の脚を引っ張るつもりはありません。」
きっぱりと言い切られる。
「からかってるだけでしょ?」
「申し訳ありません。私はそのような悪意のある行為はいたしません。この屋敷の“ミストレス”を傷つけるようなことは、決して。」
「じゃあ、本当に人間じゃないの? あの小さいメイドさんが言ってた“魂がない”って話も、本当……?」
「完全に誤りというわけではありません。ドールにも魂はあります。ただし、有機生命体のそれとは構造が異なります。」
まるで天気の話でもしているかのように、淡々と私の目を見つめてくる。
「じゃあ……誰が、あなたを作ったの?」
「S&Mドールズ社。私の製造番号は六九七六四九一です。」
「えす、あんど、えむ……? S&Mって、なに?」
彼女は一拍の間もなく口を開き、無表情のまま告げる。
「加虐および被虐行為から快楽を得る――という意味を――」
「わーーーっ! 時間だ時間だ、なんてこったい!」
背後から、肩をがしっとつかまれた。
エライアス――あの男の人形が、突然大声を上げる。
心臓が飛び出るかと思った。
彼らは、何かを隠している。
私を信じていないのか――それとも、信じてはいけないのは私の方なのか。
この家。
扉。
匂い。
食べ物。
飲み物。
「人たち」。
そして――S&M。
眉間にしわが寄る。
どんな意味であれ、ろくなものじゃなさそうだ。
知りたい。
全部、知りたい。
そう思った。
4
その後の時間は、ただの掃除と雑用で過ぎていった。
本当に「書くまでもない」どうでもいい仕事ばかり。
「ねえ、あなたもリビングドールなんでしょ? あのS&Mってとこで作られたの?」
何気ないふりをして聞いてみる。
「S&M? なんの話?」
アビゲイルはきょとんとした顔をした。
「勘違いしないで。あたしたちはみんな、出身が違うの。工場も、メーカーも、バラバラ。」
彼女は脚立に乗って棚をはたきながら言う。
「じゃあ、あなたはどこから来たの?」
私は床を掃きながら、手元に視線を落としたまま問いかけた。
「なんであんたみたいな有機体に教えなきゃなんないわけ? 過去なんてどうでもいいの。今のあたしには、マスターとマスターだけがいればいいのよ。ふん。」
頬をぷくっと膨らませる。
「なんでそんなにあの人のこと――」
「待ちな、ハーフィス。さっきお茶のあとに何て言った?」
羽根ハタキの先端が、刃物みたいに私の方を向いた。
「余計なことは聞くな、でしょ……」
「で、今何してる?」
「……質問、してる。」
「それが“余計”なんだよ。」
彼女の片目が細くなる。
「でも、私にやらせたいことがあるなら、ちゃんとした情報があった方がいいんじゃないの?」
せめて、少しでも情報が欲しかった。
「必要なことは、必要になった時に教えてやる。それかマスターが望んだ時だけ。今のところ、あんたと世間話してる暇なんてないの。」
彼女はハタキを私の首にひっかける。
「いい子にして、あたしとマスターの言うこと聞いてればいいの。――生き残りたいならね。」
私はこくこくとうなずいた。
「よろしい。」
彼女はハタキを下ろし、じっとこちらを見てから、くるりと踵を返した。
「さっさと終わらせな。」
何も聞き出せなさそうだ。
他の人たちなら、もっと教えてくれるんだろうか。
無口な長身のメイド。
何でも喋りたがる危険人物。
「心が鍵」――エライアスの言葉を思い出す。
曖昧すぎて、意味なんて分からない。
窓辺まで来ると、やっぱり外は真っ黒だった。
見えるのは、ただの“空白”。
どれだけ目を凝らしても、何も映らない。
「はい、時間。」
アビゲイルが言った。
「え……?」
「“え?”じゃない。はっきり言ったでしょ。あんたら有機体って、ほんと耳悪いんだから。」
「有機体」と呼ばれる方が、まだ「ハーフィス」よりマシに聞こえる自分が悔しい。
「風呂。それから晩ご飯。――マスターの命令。」
そういえば、ここに来てから、食べてはいる。
けれど「お腹がすいた」と感じた覚えはほとんどない。
緊張のせいなのか。
それとも……もっと別の理由なのか。
彼女が開けた扉は、最初に通ったあの廊下ではなく、浴室へとつながっていた。
この屋敷がどういう仕組みで繋がっているのか、やっぱり全然分からない。
この子に聞いても、どうせ嫌味か罵倒が返ってくるだけだろう。
唯一の「ひとりの時間」は、夜、眠っている時だけ。
その時間でさえ、ドアには鍵がかけられる。
――それほどまでに、私が逃げると疑っているんだ。
「もう、こっち見ないでよ……」
ドール相手でも、裸を見られるのは恥ずかしい。
私は十歳――いや、今は十四歳なんだっけ。
「もう自分で洗えるよ。体も動くし、力だって戻ってきたもん。」
「マスターが“ひとりでいい”と言うまでは、あたしが洗うの。はい、さっさと脱いで後ろ向いて。」
本当に最悪だ。
ここの風呂は、村のそれとは違っていた。
ひねると熱い水や冷たい水が出る、金属のつまみ。
触ることは許されていない。
うちでは、たらいと桶だけだった。
正直――この風呂は、ずっと気持ちいい。
気まずい沈黙の中、いつものように洗われる。
その沈黙を、彼女はむしろ好んでいるように見えた。
夜。
食堂に立っているのは、長身のメイドだけだった。
皿とフォークが擦れる音だけが響く。
「あの――」
私は口を開いた。
一番話が通じそうなのは、この人形だと思ったから。
あの男の人と話す時間は、どちらも途中で終わってしまったし。
「わ、私って……ここで“偉い立場”なんだよね?」
おそるおそる水を向けてみる。
「ええ。お嬢様はこの屋敷のミストレスです。マスターにとって大切な方ですので、私にとっても大切な方となります。」
「そっか……じゃあ、少しだけ質問してもいい?」
「もちろん。お答えできるものには、誠心誠意お答えいたします。」
「えっと――」
私は喉をならし、声を整えた。
「ここって、どこなの?」
視線は彼女の腰あたりに落としたまま。
「それは、現時点ではお答えできません。」
「じゃあ……私がここに閉じ込められてる本当の理由は? あなたたちのマスターは、私に何をさせたいの?」
「マスターは嘘をついておりません。お嬢様の役目は、もしそれを受け入れるのなら――マスターの命を終わらせることです。」
本当に、当然のことのように言う。
「じゃあ……この屋敷の扉が全部、違う場所につながるのはなんで? どうやったら出られるの?」
「それは、現時点ではお答えできません。」
がくりと肩が落ちた。
歯を抜かれるみたいだ、と思う。
いらいらする。
あの二人とは違う意味で、すごくやりづらい。
「じゃあ、もう少し個人的なこと。
どうして“人さらいで人殺しのろくでなし”なんかに仕えてるの? おかしいって思わないの?」
ようやく視線を上げて、彼女の淡い瞳を正面から見た。
「私は正義や悪とは無関係です。私はただ、ここに連れてこられたからマスターに仕えています。」
また、空っぽな答え。
「良心とか、人としての感情はないの?
あの人がやったことが間違ってるって、思わない? 気にならないの?」
「私には良心も人間性もありません。私はリビングドールです。」
彼女は穏やかな声で続ける。
「私は命令に従い、マスターの指示通りに動きます。」
「自分で“こうしたい”って思ったりしないの?」
『自分で?』
彼女はゆっくり瞬きをした。
「そのようなことを考えたことはありません。私の命令や機能とは無関係です。」
「……あの人、どこかで見た気がするんだよね。
どこか懐かしいのに、思い出せない。どうして?」
「それは、現時点ではお答えできません。」
「じゃあ、あの緑髪の変な人が言ってた“心を使え”って何のこと?」
「それは、現時点ではお答えできません。」
「じゃあ、せめて――あの人の殺し方くらい教えてよ。」
「……それは、現時点ではお答えできません。」
テーブルから力が抜けた。
スプーンを置く音が、やけに大きく響いた気がする。
何の成果もなし。
その間に、皿の上の料理は冷めていく。
全部、無意味。
本当にただ、疲れただけ。
「お嬢様を不快にさせてしまったのなら、申し訳ございません。」
彼女は深々と頭を下げた。
「期待した私がバカだっただけ。
あなたは私のことなんかどうでもよくて、あの人だけが大事なんだもんね。」
椅子を引き、立ち上がる。
「もうお腹いっぱい。部屋に戻る。」
「かしこまりました。」
彼女は両開きのドアを押し開け、私の部屋へと続く道を示す。
ただ、少しだけ違いがあった。
漂う香の匂いが、前よりほんの少し弱くなっている。
私の鼻が慣れただけなのかもしれないけど。
どっちにしろ、大した違いじゃない。
あとどれくらい、こんな日々が続くんだろう。
あの人の“最終目的”は、一体なんなのか。
胸の中だけで、綱引きみたいな感情が続いていた。
5
どれくらい時間が経ったのか、分かればよかったのに。
四年――そう言われた。
彼の言葉をそのまま信じたわけじゃない。でも鏡に映る自分を見れば……彼が提示するどんな証拠より確かだった。
私は背が伸び、顔立ちは鋭くなり、胸には膨らみができていた。
日が――たぶん、日が――過ぎるごとに、体力が戻っていくのを感じた。
鏡を見ることが許された数少ない機会には、頬に血色が戻っているのが分かった。
今日は浴室の掃除をさせられていた。
あの、恥ずかしい思いをしながら洗われた場所だ。
自分で洗えるのに、なぜか彼女たちは絶対に手伝おうとする。
私が逃げ出さないと信じてないのか……
それとも、私には浴びる能力すらないと思われているのか。
まあ確かに、「蛇口」と呼ばれる仕組みは分かりづらかったけど。
アビゲイルという子は、半分くらい私の存在を無視する。
口を開けば暴言か嫌味。
彼女は床をゴシゴシと磨き、私は浴槽を担当。
掃除に対して異常に真剣で、私が少しでも拭き残すと文句を言う。
嫌だった。
家族にあんなことをしたと語った男のために働くなんて。
そもそも、なぜこんなことをしているんだろう。
脅されたって言うなら分かるけど――
彼らは私を“必要としている”はずなのに。
「んん? 何止まってんの、ハーフィス? まだ終わってないでしょ?」
彼女は鋭い目でにらんだ。
「もうやめる。こんなのうんざり。掃除だの雑用だの、なんで私が従わなきゃいけないの?
あなたたちなんて全員、化物で、心もない殺人者じゃない!」
汚れた雑巾を彼女に投げつけた。
彼女はそれを掴んだ。
「毎日、どんな気分で過ごしてるか分かる? 頭が燃えるみたいに熱いの。
もっと怒ってもいいはずなのに、もっと怖がっていいはずなのに……ずっと冷静で、それが一番怖いんだよ。
全部めちゃくちゃ。
帰りたい。
自分の気持ちが分からない。」
私は怒鳴った。
叫んだ。
罵った。
「また癇癪? はぁ……ほんと飽きてきたわ。」
「あなたなんかに分からない! こんな孤独、分かるはずがない!
だってあなたは――魂もない、中身の空っぽの人形なんだから!」
アビゲイルの手が止まった。
動きが、ぴたりと止まる。
「……」
「ちっ……愚図。あたしたちが化物に見える?
――じゃあ、本物の“怪物”ってのを見せてあげようか?」
指を鳴らした瞬間――
どこからか、三体……いや、五体の小さなぬいぐるみが駆け込んできた。
アビゲイルそっくりで、片目を隠した髪型まで同じ。
「ちょっ……なに、なにして――!?」
彼らはアリのように私を持ち上げた。
力なんか入れても意味がなかった。
体が勝手に運ばれていく。
「ちょ、ちょっと! 降ろして! やめてってば!」
浴槽から引きずり出され、ドアへと向かって運ばれる。
「離して! お願い!」
ドアが勝手に開いた。
アビゲイルは一度だけ振り返り、
小さく、聞き取れないほどの声でこう呟いた気がした。
「……孤独、ね……」
そしてドアは閉まった。




