表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
12/12

第6章 ――お茶の時間(Time for Tea)


その日、アビゲイルはまるで私に首輪をつけているかのように、ぴったりと後ろにつけていた。


「今日は逃げ出すんじゃないわよ?」

休憩室らしき部屋で、彼女は腰に手を当てて言った。

「これ以上、私の仕事を増やすんじゃないっての。ホント面倒くさい子なんだから!」


高く上がった鼻、髪で隠れた片目の奥から鋭い視線が向けられる。


この格好も、掃除も、まだどうにも慣れなかった。

家の手伝いは好きだけど、洗濯物の上に寝落ちするタイプの私には、向いていない。


「……」


「何よその顔。黙ってないで、わかったなら返事しなさい。」


私は顔を上げて、すぐに逸らした。

混乱していた。

人殺しの屋敷で働くなんて嫌。

でも逆らったら、何をされるかわからない。


「アンタ、掃いたことあるの? モンキーのほうがまだマシよ!」

アビゲイルは私の手からほうきを乱暴に引ったくった。


「いい? こうやって、埃を端に集めるの。コボルトでもできるわよ、こんなの!」


「……コボルトって何?」


「ちっ。」


ほうきを胸に押しつけられ、また睨まれる。


「はい、掃く!」


「……」


私は黙ってほうきを握り、床を掃きはじめた。


部屋には、壁沿いにランプやキャンドルが灯されていた。

香の匂いは甘く、花のようで、どこか落ち着く。


ただ指示に従うように見えて――本当は、彼らについて考えていた。

この屋敷の異常さも、ここの住人の得体の知れなさも解けないまま。

敵意は向けられていないとはいえ、信じていい理由もなかった。

最悪されたことといえば、鼻に指を突っ込まれたくらい――不快ではあるけど、痛みはない。


だからこそ、あの妙な男については、次に会った時に質問するつもりでいた。


「まだ終わってないの、ハーフスィブ? お茶の時間なのよ、早くしなさい。」


「……」


「何? 声は出るでしょ? 壊れた喉でもあるまいし!

『はい、アビゲイル様!』とか『頑張ります、アビゲイル様!』とか言ってみなさいよ。」

彼女は鼻で笑った。


「ちょっと……頭が痛いだけ……」


彼女は一瞬だけ、じっと私の目を見た。


「それは――」


「“まだ回復中だから”ですよ。」


背後から低い声がした。


背の高いメイド、エリザベスだった。


「エリザベス? 何しに来たのよ。まだ終わってないって言って――」


「お茶の時間です。終わっていようと終わっていまいと、ミストレスには休憩が必要です。まだ“受信中”なのですから。」


「甘やかしたって、この子はここで生き残れないわ。」

アビゲイルはため息混じりにほうきを取り上げた。


「さ、ほら。行きなさい行きなさい。アンタの分はやっとくけど、その分明日は倍働いてもらうからね?」


そして彼女は去っていった。


「さあ、参りましょう、ミストレス。お茶の用意ができております。」


案内された先は、両側の壁が本棚で埋まった書斎。

机の前には――あの男がいた。


「お茶を用意して参ります。どうぞごゆっくり。」

エリザベスは一礼して退室した。


「待って――私、この人と二人きりは――」


言い終わる前に、扉が閉まった。

ノブを回したが、やはりびくともしない。


……くそっ。


振り向けば、男は机で何かを書き続けている。

静かで、落ち着いた部屋。

香りは土のように深い。


カリ…カリ…


ペンの音だけが響く。


「まぁ、座りなさい。休むといい。」

視線は上げずに、手で席を示した。


「さっきの話も途中だっただろう。続きをしようじゃないか?」


足が動かなかった。

喉が熱く、頭の中では矛盾した声が渦を巻く。


座るな。

座れ。

叫べ。

噛みつけ。

逃げろ。

話せ。


ここに来てから、自分が自分じゃないみたいだった。

こんなに感情が乱れていた覚えはない。

欲しいものは、家族の愛情だけだったはずなのに。


「いつまで立っているつもりだ?」


「……」


「座りなさい。」


足が勝手に前へ出る。

私は机の前に座り込んだ。


「いい子だ。」

男はわずかに微笑んだ。


封筒に手紙を入れ、獅子の紋のような印章を押す。

その動きは、何一つ無駄がない。


コツ、コツ。


扉が叩かれ、紅茶とスコーンの乗ったワゴンが入ってきた。


「マスター、ミストレス。紅茶とスコーンでございます。」


二人の前に並べられたあと、エリザベスは一礼する。


「ありがとう、エリザベス。席を外してくれるかな。少し話がある。」


「いつでもお呼びくださいませ。」


静かに扉が閉まった。


男は紅茶をひと混ぜし、目を細めた。


「さて――続きを話そうか。ん?」


私は、紅茶の表面をぼんやりと見つめていた。


「飲みなさい。ラベンダーティーだ。頭痛に効く。」


一瞬、ためらう。


「そんなに疑い深いのかい? 仕方ない。」

彼は肩をすくめ、自分のカップを口元へ運んだ。

何度も繰り返してきた動作のように、滑らかで優雅な所作だった。


「……ああ。彼女の入れる茶は、やはり格別だ。」


私は視線を落とし、小さく一口だけ飲んだ。

最初はほろ苦く、けれど喉を通る頃には柔らかく香りが広がる。


「さっきは途中で話が終わってしまったからね。」彼は軽い調子で続けた。

「今日は小さなお茶会だ。……ちゃんと食べているかい? 身なりも整えられているようだね。メイド服もよく似合っている。アビゲイルは実に優秀だ。」


思わず身をすくめ、横を向く。

彼の目を見ると、何か胸の奥がざわつく。名前のつけられない感情。


「茶は口に合うかい?」

「仕事の日に体調を崩されては困るからね。」


「……どうして私は、メイドとして働かされているの?」

私はカップを握りしめた。

「あなたが言ったことを考えれば、こんなの……変でしょ?」


頭は軽くなっていくのに、思考はどこか霞がかっていく。


「あなたは……私に“あなたを殺せ”って言った。でも、メイドの仕事が何の役に立つの?」


「ふむ。」

彼はただ微笑んだ。


その笑みが、胃の奥をひねるように痛い。


「君はここで暮らす。私を殺すか、婚約者になるか――どちらかを選ぶその時まで。

その間、生活の分くらいは働いてもらう。当然だろう?

……希望するなら、お小遣いを渡してもいい。」


お小遣い?

殺す相手にお小遣い?


……この屋敷の人間(?)を思い返せば、驚くべきことではないのかもしれない。


私はもう一口飲んだ。


「……おいしい。」

「うむ。アビゲイルは紅茶に関しては、ちょっとしたソムリエだからね。」


沈黙。


先に話し出したのは私だった。


「………ほんとうに、本気なの?」


「残念ながらね。死ぬほど本気だ。」


私は心の奥から浮かぶ言葉を押し出す。


「……イフリート。」


カチン、と微かな音がした。

彼がカップを置いた音。


「あなた、私の中に……おとぎ話の“それ”があるって言った。」


あれからずっと答えを探していた。


「“種”のことか。」

彼は顎に手を当てた。

「ただの子ども向けの昔話じゃない。四つの始原は実在する。世界各地に散らばっている。そして――君はその一つを宿している。」


イフリート、アエリアル、ゴライアス。

そして最後の一体は――


「始原の中でも強大な存在を宿した君は、私の計画にとても都合がいい。」


彼は指を組み、言った。


「だからこそ、“試練”を受けてもらう。」


「試練……?」


「まさか、遊ぶためだけに君を連れてきたと思ったのかい?

結婚のため“だけ”でもない。

君には、近い未来のための準備が必要だ。」


「……他にできる人がいるんじゃないの?」


「いないよ。君は――百万に一人の逸材だ。」


「またそれ……。私はただの村の女の子よ。魔法だって……」


言いかけて、喉がつまった。

あの日の記憶……家族で出かけた時の、あの“出来事”。


「魔法は気まぐれだからね。初心者でも、努力と胆力さえあれば――英雄にもなれる。」

彼は軽く首を傾けた。

「君には素質がある。世界で最後の、そして――最高の魔導師になれる素質が。」


「……英雄になれって、こと?」

少し馬鹿げている、と眉をひそめる。


「そのくらいじゃないと、私を殺せないからね。」

目を閉じて笑う。

まるで当たり前のことを言ったかのように。


「“最後の”って……他の魔導師は? 首都にはまだ英雄がいるって聞いたけど。」


「魔導師の時代は終わりだ。」

彼は手をひらひらと振り、気怠そうに言う。

「錬金術のせいでね。」


その表情は、妙に優しかった。

優しすぎて薄気味悪いほど。


「魔法は、進歩の前では廃れつつある。」


「……錬金術?」

知らない言葉だった。


「ま、そのあたりはいずれ分かる。君が今回こそ試練を突破できれば、錬金術に頼る必要もなくなる。

……正直、私は錬金術に詳しくはないのだがね。」

彼はおどけて肩をすくめた。


「学ぶ意欲はあるとも。若い君なら――尚更だろう?」


脚を組み、頬杖をつく。


「それで――うちの“従者”たちはどうだい?」


急な話題転換に、思わず返事が遅れた。


「……変な人たち。」

スカートをぎゅっと握る。


「はは。控えめに言っても、癖は強い。」


「……あの人たち、人間?」

小さな声で尋ねた。

魂とか、作り物みたいな仕草とか――全部人間離れしていた。


言ってから、自分が馬鹿みたいに思えたけど。


「人間? まさか。

……彼女たちは“リビングドール”だ。」


私は紅茶を噴きそうになった。


拭う暇もなく、長身のメイドが静かに入ってきて、卓を整え、一礼して退出する。


「ど、ドールって……あの大きさで、喋って、動いて……?」


「だから“リビング”なんだよ。」


「リビング……ドール……?」


「説明はややこしいから省くが――君と同じだよ。話し、感じ、嫌悪し、興味を持つ。時に、非常に偏った興味をね。」


「ピアノの人も……?」


「エライアスだね。あれは音楽狂だ。」


ゆっくり瞬きをして続ける。


「エリザベスは真面目すぎるほど真面目。アビゲイルは――君が一番よく知っているだろう。」


彼の微笑は、どこか懐かしむようで……奇妙なほど柔らかかった。


私はティーカップの縁を指でたどりながら、意識を切り替えようとした。


触覚:陶器の冷たさ、机の木目。

視覚:揺れる蝋燭と彼の輪郭。

嗅覚:香の煙、インク、紙。

聴覚:遠くで鳴るピアノ。

味覚:ラベンダーの香り。


その時、彼が手を伸ばし、私の手を包んだ。

意識が一気に現実へ引き戻される。


「……上の空だね。具合でも悪いのかい?」


またあの微笑。


「怖がる必要はない。私の傍なら、安全だよ。」


「そんな言葉……信じられるわけ……!」


私は反射的に手を引いた。


「や、やめて……触らないで!」


「失礼。どうやら、まだ距離感が必要らしい。」

彼は背もたれに寄りかかった。

「こういうのは、時間をかけるものだ。」


そしてまた紅茶をすする。


「焦ることはないさ。」


どれだけ思い出そうとしても、あの“襲撃”は霧のように曖昧だった。

シモンが死んだことはわかる。

でも――断片しか浮かばない。


温かい血の感触だけが鮮明で、

でも場面は思い出せない。


「……どうして全部思い出せないの?」

呟きは自然と漏れた。


穴だらけの記憶。


私は血に濡れた手を覚えている。

でも、顔も、声も、瞬間も思い出せない。


彼の顔も……どこかで見た気がするのに、思い出せない。


手が震えた。


「どこで……あなたを見たことがあるの?」

視線を落とし、また彼を見る。


静寂。


彼は、微笑んだ。


さらに沈黙。


記憶の空白だけが広がっていく。


――チリン、チリン、チリン。


頭の奥で小さな鐘が鳴り響いた。


扉が開く。


「マスター、次のご予定の時間です。」

エリザベスが淡々と告げた。


カシウスは小さく息を吐いた。

失望のようにも聞こえた。


「また途中か。すまないね。

また話そう、次はもう少し……素直な君と。」


彼は席を立ち、袖を整えた。


「では。――また。」


唇がかすかに笑みの形をつくる。


そして去った。


奇妙で、

丁寧で、

読めなくて――


ぞっとするほど、得体の知れない男だった。



「……私の顔に、何かついていますか?」


エリザベスは、ぴくりとも動かなかった。


「ご、ごめんなさい。ただ……あの人、変なユーモアのセンスしてるなって思って。」


リビングドール? 試練?

あの人が企んでいることなんて、本当は一切関わりたくない。

パパが読んでくれた絵本に出てきた“大きな悪いオオカミ”みたい。


獲物を狙う獣の目をしているのに、

焼きたてクッキーを持ったおばあちゃんみたいに笑う。


「ユーモアのセンス……? マスターは冗談を言いません。これまでお話ししたことは、すべて事実です。……もっとも、私は“ジョーク”というものを正しく理解する機能を持ち合わせていませんが。」


あまりにも当たり前のように言うものだから、余計に違和感があった。


「……エリザベスさんって、人間なんだよね?」


恐る恐る聞く。


「いいえ。私はリビングドールです。」


「……え。」


「お嬢様の脚を引っ張るつもりはありません。」

きっぱりと言い切られる。


「からかってるだけでしょ?」


「申し訳ありません。私はそのような悪意のある行為はいたしません。この屋敷の“ミストレス”を傷つけるようなことは、決して。」


「じゃあ、本当に人間じゃないの? あの小さいメイドさんが言ってた“魂がない”って話も、本当……?」


「完全に誤りというわけではありません。ドールにも魂はあります。ただし、有機生命体のそれとは構造が異なります。」


まるで天気の話でもしているかのように、淡々と私の目を見つめてくる。


「じゃあ……誰が、あなたを作ったの?」


「S&Mドールズ社。私の製造番号は六九七六四九一です。」


「えす、あんど、えむ……? S&Mって、なに?」


彼女は一拍の間もなく口を開き、無表情のまま告げる。


「加虐および被虐行為から快楽を得る――という意味を――」


「わーーーっ! 時間だ時間だ、なんてこったい!」


背後から、肩をがしっとつかまれた。

エライアス――あの男の人形が、突然大声を上げる。


心臓が飛び出るかと思った。


彼らは、何かを隠している。

私を信じていないのか――それとも、信じてはいけないのは私の方なのか。


この家。

扉。

匂い。

食べ物。

飲み物。

「人たち」。

そして――S&M。


眉間にしわが寄る。


どんな意味であれ、ろくなものじゃなさそうだ。


知りたい。

全部、知りたい。


そう思った。



その後の時間は、ただの掃除と雑用で過ぎていった。

本当に「書くまでもない」どうでもいい仕事ばかり。


「ねえ、あなたもリビングドールなんでしょ? あのS&Mってとこで作られたの?」


何気ないふりをして聞いてみる。


「S&M? なんの話?」

アビゲイルはきょとんとした顔をした。

「勘違いしないで。あたしたちはみんな、出身が違うの。工場も、メーカーも、バラバラ。」


彼女は脚立に乗って棚をはたきながら言う。


「じゃあ、あなたはどこから来たの?」


私は床を掃きながら、手元に視線を落としたまま問いかけた。


「なんであんたみたいな有機体に教えなきゃなんないわけ? 過去なんてどうでもいいの。今のあたしには、マスターとマスターだけがいればいいのよ。ふん。」


頬をぷくっと膨らませる。


「なんでそんなにあの人のこと――」


「待ちな、ハーフィス。さっきお茶のあとに何て言った?」

羽根ハタキの先端が、刃物みたいに私の方を向いた。


「余計なことは聞くな、でしょ……」


「で、今何してる?」


「……質問、してる。」


「それが“余計”なんだよ。」

彼女の片目が細くなる。


「でも、私にやらせたいことがあるなら、ちゃんとした情報があった方がいいんじゃないの?」

せめて、少しでも情報が欲しかった。


「必要なことは、必要になった時に教えてやる。それかマスターが望んだ時だけ。今のところ、あんたと世間話してる暇なんてないの。」


彼女はハタキを私の首にひっかける。


「いい子にして、あたしとマスターの言うこと聞いてればいいの。――生き残りたいならね。」


私はこくこくとうなずいた。


「よろしい。」

彼女はハタキを下ろし、じっとこちらを見てから、くるりと踵を返した。

「さっさと終わらせな。」


何も聞き出せなさそうだ。

他の人たちなら、もっと教えてくれるんだろうか。


無口な長身のメイド。

何でも喋りたがる危険人物。


「心が鍵」――エライアスの言葉を思い出す。

曖昧すぎて、意味なんて分からない。


窓辺まで来ると、やっぱり外は真っ黒だった。

見えるのは、ただの“空白”。

どれだけ目を凝らしても、何も映らない。


「はい、時間。」

アビゲイルが言った。


「え……?」


「“え?”じゃない。はっきり言ったでしょ。あんたら有機体って、ほんと耳悪いんだから。」


「有機体」と呼ばれる方が、まだ「ハーフィス」よりマシに聞こえる自分が悔しい。


「風呂。それから晩ご飯。――マスターの命令。」


そういえば、ここに来てから、食べてはいる。

けれど「お腹がすいた」と感じた覚えはほとんどない。

緊張のせいなのか。

それとも……もっと別の理由なのか。


彼女が開けた扉は、最初に通ったあの廊下ではなく、浴室へとつながっていた。

この屋敷がどういう仕組みで繋がっているのか、やっぱり全然分からない。

この子に聞いても、どうせ嫌味か罵倒が返ってくるだけだろう。


唯一の「ひとりの時間」は、夜、眠っている時だけ。

その時間でさえ、ドアには鍵がかけられる。


――それほどまでに、私が逃げると疑っているんだ。


「もう、こっち見ないでよ……」


ドール相手でも、裸を見られるのは恥ずかしい。

私は十歳――いや、今は十四歳なんだっけ。


「もう自分で洗えるよ。体も動くし、力だって戻ってきたもん。」


「マスターが“ひとりでいい”と言うまでは、あたしが洗うの。はい、さっさと脱いで後ろ向いて。」


本当に最悪だ。


ここの風呂は、村のそれとは違っていた。

ひねると熱い水や冷たい水が出る、金属のつまみ。

触ることは許されていない。


うちでは、たらいと桶だけだった。

正直――この風呂は、ずっと気持ちいい。


気まずい沈黙の中、いつものように洗われる。

その沈黙を、彼女はむしろ好んでいるように見えた。


夜。

食堂に立っているのは、長身のメイドだけだった。


皿とフォークが擦れる音だけが響く。


「あの――」

私は口を開いた。

一番話が通じそうなのは、この人形だと思ったから。

あの男の人と話す時間は、どちらも途中で終わってしまったし。


「わ、私って……ここで“偉い立場”なんだよね?」


おそるおそる水を向けてみる。


「ええ。お嬢様はこの屋敷のミストレスです。マスターにとって大切な方ですので、私にとっても大切な方となります。」


「そっか……じゃあ、少しだけ質問してもいい?」


「もちろん。お答えできるものには、誠心誠意お答えいたします。」


「えっと――」

私は喉をならし、声を整えた。


「ここって、どこなの?」


視線は彼女の腰あたりに落としたまま。


「それは、現時点ではお答えできません。」


「じゃあ……私がここに閉じ込められてる本当の理由は? あなたたちのマスターは、私に何をさせたいの?」


「マスターは嘘をついておりません。お嬢様の役目は、もしそれを受け入れるのなら――マスターの命を終わらせることです。」


本当に、当然のことのように言う。


「じゃあ……この屋敷の扉が全部、違う場所につながるのはなんで? どうやったら出られるの?」


「それは、現時点ではお答えできません。」


がくりと肩が落ちた。

歯を抜かれるみたいだ、と思う。


いらいらする。

あの二人とは違う意味で、すごくやりづらい。


「じゃあ、もう少し個人的なこと。

どうして“人さらいで人殺しのろくでなし”なんかに仕えてるの? おかしいって思わないの?」


ようやく視線を上げて、彼女の淡い瞳を正面から見た。


「私は正義や悪とは無関係です。私はただ、ここに連れてこられたからマスターに仕えています。」


また、空っぽな答え。


「良心とか、人としての感情はないの?

あの人がやったことが間違ってるって、思わない? 気にならないの?」


「私には良心も人間性もありません。私はリビングドールです。」

彼女は穏やかな声で続ける。

「私は命令に従い、マスターの指示通りに動きます。」


「自分で“こうしたい”って思ったりしないの?」


『自分で?』

彼女はゆっくり瞬きをした。

「そのようなことを考えたことはありません。私の命令や機能とは無関係です。」


「……あの人、どこかで見た気がするんだよね。

どこか懐かしいのに、思い出せない。どうして?」


「それは、現時点ではお答えできません。」


「じゃあ、あの緑髪の変な人が言ってた“心を使え”って何のこと?」


「それは、現時点ではお答えできません。」


「じゃあ、せめて――あの人の殺し方くらい教えてよ。」


「……それは、現時点ではお答えできません。」


テーブルから力が抜けた。

スプーンを置く音が、やけに大きく響いた気がする。


何の成果もなし。

その間に、皿の上の料理は冷めていく。


全部、無意味。

本当にただ、疲れただけ。


「お嬢様を不快にさせてしまったのなら、申し訳ございません。」

彼女は深々と頭を下げた。


「期待した私がバカだっただけ。

あなたは私のことなんかどうでもよくて、あの人だけが大事なんだもんね。」


椅子を引き、立ち上がる。


「もうお腹いっぱい。部屋に戻る。」


「かしこまりました。」

彼女は両開きのドアを押し開け、私の部屋へと続く道を示す。


ただ、少しだけ違いがあった。

漂う香の匂いが、前よりほんの少し弱くなっている。

私の鼻が慣れただけなのかもしれないけど。


どっちにしろ、大した違いじゃない。


あとどれくらい、こんな日々が続くんだろう。

あの人の“最終目的”は、一体なんなのか。


胸の中だけで、綱引きみたいな感情が続いていた。


どれくらい時間が経ったのか、分かればよかったのに。

四年――そう言われた。

彼の言葉をそのまま信じたわけじゃない。でも鏡に映る自分を見れば……彼が提示するどんな証拠より確かだった。


私は背が伸び、顔立ちは鋭くなり、胸には膨らみができていた。

日が――たぶん、日が――過ぎるごとに、体力が戻っていくのを感じた。

鏡を見ることが許された数少ない機会には、頬に血色が戻っているのが分かった。


今日は浴室の掃除をさせられていた。

あの、恥ずかしい思いをしながら洗われた場所だ。


自分で洗えるのに、なぜか彼女たちは絶対に手伝おうとする。

私が逃げ出さないと信じてないのか……

それとも、私には浴びる能力すらないと思われているのか。


まあ確かに、「蛇口」と呼ばれる仕組みは分かりづらかったけど。


アビゲイルという子は、半分くらい私の存在を無視する。

口を開けば暴言か嫌味。

彼女は床をゴシゴシと磨き、私は浴槽を担当。

掃除に対して異常に真剣で、私が少しでも拭き残すと文句を言う。


嫌だった。

家族にあんなことをしたと語った男のために働くなんて。


そもそも、なぜこんなことをしているんだろう。

脅されたって言うなら分かるけど――

彼らは私を“必要としている”はずなのに。


「んん? 何止まってんの、ハーフィス? まだ終わってないでしょ?」


彼女は鋭い目でにらんだ。


「もうやめる。こんなのうんざり。掃除だの雑用だの、なんで私が従わなきゃいけないの?

あなたたちなんて全員、化物で、心もない殺人者じゃない!」


汚れた雑巾を彼女に投げつけた。


彼女はそれを掴んだ。


「毎日、どんな気分で過ごしてるか分かる? 頭が燃えるみたいに熱いの。

もっと怒ってもいいはずなのに、もっと怖がっていいはずなのに……ずっと冷静で、それが一番怖いんだよ。


全部めちゃくちゃ。

帰りたい。

自分の気持ちが分からない。」


私は怒鳴った。

叫んだ。

罵った。


「また癇癪? はぁ……ほんと飽きてきたわ。」


「あなたなんかに分からない! こんな孤独、分かるはずがない!

だってあなたは――魂もない、中身の空っぽの人形なんだから!」


アビゲイルの手が止まった。

動きが、ぴたりと止まる。


「……」


「ちっ……愚図。あたしたちが化物に見える?

――じゃあ、本物の“怪物”ってのを見せてあげようか?」


指を鳴らした瞬間――

どこからか、三体……いや、五体の小さなぬいぐるみが駆け込んできた。


アビゲイルそっくりで、片目を隠した髪型まで同じ。


「ちょっ……なに、なにして――!?」


彼らはアリのように私を持ち上げた。

力なんか入れても意味がなかった。

体が勝手に運ばれていく。


「ちょ、ちょっと! 降ろして! やめてってば!」


浴槽から引きずり出され、ドアへと向かって運ばれる。


「離して! お願い!」


ドアが勝手に開いた。


アビゲイルは一度だけ振り返り、


小さく、聞き取れないほどの声でこう呟いた気がした。


「……孤独、ね……」


そしてドアは閉まった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ