第10章 ――回廊(Halls)
「……」
「おい、ハーフシー。ぼーっとするなよ。あたしは同じことを二度言うのが嫌いなんだ。一回しか言わない、分かった? ねえ、聞いてるの?」
女の子は細い指で、私の鼻先をぴんっと弾いた。
「いった! なんでよ! なんでこんなことしなきゃいけないの!」
「マスターがそう言ったからに決まってるでしょ。」
私は鼻をしかめた。
「あんた、あの男の言うことなら何でも聞くの? あいつは悪魔よ、殺人鬼――いった! 耳引っ張らないで!」
「いい? ハーフシー。」彼女は耳をぐいっと引っ張ったまま囁く。
「マスターの言葉は絶対なの。あたしはあの方のためなら命を捧げるわ――体も魂も、もし魂があるならねぇ〜。だからあの方の悪口、あたしの前では絶対に言わないこと。」
ようやく手を離した。
「ひとつだけ、聞いてもいい?」私は鼻をさすりながら言った。
「ちっ……いいわよ。早くしなさい。」彼女は腕を組んでそっぽを向く。
「どうしてこの屋敷、どの部屋にもお香が焚かれてるの? 一つも例外がないじゃない。」
彼女は腕をほどいた。
「すぐ慣れるわよ。マスターが全部説明してくださるから。あなたが“やるべきこと”を果たしたらね。」
「ぜんぜん答えてないじゃない……。」私はため息をつく。
「じゃ、見学を始めるわよ。遅れずについてきなさい。勝手にうろつくんじゃないわよ、ハーフシー。」
彼女はくるりと踵を返して歩き出した。
またしても、扉の先はまったく別の部屋――今度は厨房だった。
そこで、私は“それ”を見た。
あの、彫刻ナイフを持った小さな人形。
私は凍りつき、思わず後ずさった。
「どうしたの?」女が振り向く。
「そ、その人形! ナイフを持ってるの! 廊下で見たの! 血がついてたの!」私は声を上げた。
「血? 何言ってるの、ハーフシー。これはあたしの料理用ドールよ。多分、洗ってただけでしょ。」
「……は?」
すると人形が、ちょこちょこと彼女の足元まで歩いてきた。
彼女はそれを抱き上げ、まるで赤子を扱うように手のひらにのせた。
「彼らはあたしの目であり耳よ。くれぐれも粗末に扱わないこと。」そう言って床に下ろす。
可愛い――と言えば可愛い。
でも、目が空洞で、動いているのが気味悪かった。
「さて、厨房の説明ね。」彼女はカウンターに歩み寄る。
「こっちは食器類。」皿やフォーク、ナイフを指差す。
「台所くらい知ってるよ……。」私が小声でつぶやくと、
彼女の片目が鋭く光った。
「口が減らないわね、ハーフシー。その舌、切り落としてやろうか? 人間ってのは、どうしてこうお喋りなのかしら。」
この人、ほんとに問題ありだ……。
「料理は全部この“メイド長”であるあたしがやるから、あなたは掃除と部屋の把握だけ覚えればいいの。」
私は返事もせず黙っていた。
「……ふん。」
彼女はため息をつき、隣の部屋――さっきの食堂へ向かった。
そこはもう、完璧に片づいていた。
「テーブルのセッティングと清掃は、あんたの仕事になるでしょうね。」
「……。」
「ほら、ついてきなさい。ぼーっとしてないで。」
彼女が背を向けた瞬間――それがチャンスだった。
私はくるりと反対方向へ走り出し、扉を乱暴に閉めた。
「はぁ……またか。」
向こう側から彼女のため息が聞こえた。怒っている様子はなかった。ただ、呆れているようだった。
私は椅子を取ってドアノブに立てかけ、息を荒げる。
ここから出なきゃ。
“あの男を殺すか、花嫁になるか”――そんな冗談、あり得ない。
出口を探して、この屋敷から離れなきゃ。誰か、助けを――。
気づけば、そこはもう厨房ではなく、どこまでも続く廊下。
「どうすれば……。」
窓の外はまだ暗く、灯りは壁のロウソクだけ。
階数も分からない。けれど、何かがおかしい。
感情の波がどこか鈍い。
シモンのことを思い出しても、涙が出ない。
頭がぼんやりする。――何かに操られてる?
私は走った。
ただひたすらに、出口を求めて。
けれど、どこまで行っても廊下は続き、最後は行き止まり。
「……戻るしかない?」
ドアノブに手をかけ、祈るように開けた。
「見つけたわ、ハーフシー。どこへ行こうっての?」
バタン!
私は慌てて閉めた。
どうして? さっきの場所から、どうやってここに……?
窓に駆け寄り、下をのぞこうとしたが、ガラスはびくともしない。
まるで封じられているみたいに。
「もうっ、開いてよ!」
叩いても蹴っても無駄だった。
そして――
目の前の扉が、音もなく開いた。
「なにしてるのよ……視野もなくドア開けたら、こっちが迷惑なのよ!」
「わ、私は……!」
「言い訳しない! それに着替えてないじゃない! 本当にイライラするわ、ハーフシー!」
彼女の怒鳴り声が廊下に響いた。
「カリー。」
「……は?」
「私の名前、カリー。ハーフシーじゃない。」
「ふーん、そう。けど、あたしは人間の名前なんて興味ないの。」
彼女は肩をすくめ、唇を尖らせる。
「さあ、さっさと着替えなさい。さもないと初日から地獄を見せてあげる。」
「どうして……どうして私がこんな目に? 悪いことした?」
「ふん。マスターがあんたを拾ってくださっただけでも感謝しなさいよ。本来なら捨てられて当然だったのに。あの方は甘いのよ、ほんと。あんたみたいなのを生かしておくなんて。」
私は手元のボウルを床に叩きつけた。
「感謝? ふざけないで! あいつのせいでお兄ちゃんが死んだのよ! ママもパパもいなくなったの! それで“ありがとう”だって? 冗談じゃない、あいつを殺してやる!」
「……マスターのために働けだなんて、誰がするもんか!」
その瞬間、女は私の襟をつかんだ。
「いいこと? あの方にはあたしがいる。あんたなんか、ただの道具にすぎない。自惚れるな。マスターはもっと大事なことを抱えてるのよ。あたしはずっとあの方の側にいる――あんたなんかより、ずっと長くね。」
彼女は手を離した。
「さあ、着替えるの。さもないと――脱がせるわよ?」
「……わ、分かった。」
「よろしい。十分で戻るから。」
「えっと……すみません。邪魔してたらごめんなさい。出口を探してて……。」
私は舌を噛みながら言った。
男は奇妙な雰囲気を纏っていたけれど、今まで出会った誰とも違う――そんな印象を受けた。
「ほぉ〜う? 出口を探してるとな?」
高い音をポロンと鳴らしながら、彼は歌うように言った。
「まぁまぁ、理由はどうあれ――間違いでも運命でも、ここに来たってことは、君が“特別”ってことだねぇ!」
今度は低い音を鳴らす。
「お願い、助けてください。家に帰りたいだけなんです。こんなの、いやで……!」
痩せた男は柔らかな旋律を紡ぎはじめた。
不思議と心が落ち着いていく。
「焦るな、若き雛鳥。私はここでの“手伝い人”みたいなもんさ。お客様や新しい住人が快適に過ごせるようにね。」
彼は立ち上がり、一歩こちらに近づいた。
「君は出口を探してる。僕は情報が欲しい。――じゃあ、取引しようじゃないか?」
胸に手を当て、にやりと笑う。
「なんでもいいです。教えてくれるなら……家に帰りたい。」
「よし! じゃあ質問をひとつする。それに答えたら出口を教えてあげよう。フェアだろう?」
私はこくりと頷いた。
この人はあの無表情な女や、あの生意気なメイドより話しやすい。
「ごほん。――君、ハーフエルフだろう?」
「え、ええ……そうです。」
「ほぉ〜、これは珍しい! この目で見るのは初めてだ。まるでユニコーンのように神秘的……いや、ユニコーンほど臭くはないがね!」
ユニコーン? どういう意味……?
「耳は尖ってるが短い。瞳は血の海みたいに赤い。そして、周りにいる精霊たちは――怠け者みたいにべったりくっついてる!」
彼は私のまわりをうろつきながら、上から下まで眺めた。
「ところでさ、人間と“うんち”の仕方は違うのかい?」
「……は?」私は眉をひそめた。
「おっと、聞きすぎたね! 失礼失礼!」
彼は胸に手を当て、舞台役者のように大げさに一礼した。
「改めて自己紹介しよう。僕の名はイライアス・モンゴメリー。偉大なる主、カシウス・シンクレア様に仕える忠実なる僕さ!」
右足を後ろに引き、完璧な姿勢で深々とお辞儀をする。
差し出された手を、私はためらいながらも握った。
「……あの化け物に仕えてるの?」私は苦々しく言った。
「仕えてるとも! 長年の忠義だ!」
満面の笑みを浮かべながら彼は言う。
「さて――で、うんちの話だけど――」
「知らないってば! なんでまだその話してるの!?」
彼は私の手をぎゅっと握り、目を星みたいに輝かせた。
「でも握手しただろう? ってことはもう友達だ! 友達は“うんち”の話も共有するものだろう!?」
「どんな友達関係なのよ!」
私は必死に手を引いた。
彼は愉快そうに笑いだす。その笑い声はまるで音楽みたいだった。
――間違いない。この人が一番危険だ。
「普通だってば! ちゃんと出るし! これで満足でしょ!」
思わず怒鳴る。喉が痛い。
「がっかりだなぁ!」
肩を落として嘆く彼。ほんとに落ち込んでる……?
「はぁ、現実ってのはいつも退屈だねぇ。」
悲しげな低音がピアノから響いた。
「……それで、出口はどこなんですか?」
「ん? ああ、そうだったそうだった! 出口は――君の“心の中”にある。」
「……心?」
「そう、ハートさ! 簡単なことだろう?」
彼は軽やかに数音を奏でる。
「全然簡単じゃないですけど!」
その時、扉が勢いよく開いた。
「いたわね、このガキ! ドアを勝手に開け閉めするなって言ったでしょ! まったく、ほんっっとイライラする!」
あのチビメイド――アビゲイルだ。
「イライアス、あんた、こいつを甘やかすんじゃないわよ。」
「え〜? でも彼女、迷子のまま僕の音にたどり着いたんだ。つまり特別だろう? アビゲイル。」
「特別? 冗談。特別なのはマスターだけよ。ほかの奴らなんて安物のまがい物ばっかり!」
彼女はふんっと鼻を鳴らして私の前まで来た。
小さな手が私の手首を掴む。
「さ、戻るわよ、ハーフシー。」
「わ、私は……」
「なに? 怖気づいた? マスターを殺すって言ってたじゃない。あんたの言葉、もう忘れたの?」
彼女は首を傾げ、挑発的に笑う。
「……もう分からない。頭が混乱してる。ここにいるのも、殺すとか言うのも、全部おかしい。私、どうかしてる……。」
スカートの裾を握る手が震えた。
「どうして……どうしてこんなことに? 心が変なんだ。悲しいはずなのに、涙が出ない。感情が――人間じゃなくなったみたい。」
「……。」
「ねぇ、兎ちゃん。」イライアスが鍵盤をなぞりながら言った。
「それを“理解する”ことが、消化への第一歩なんじゃないかい?」
胸に片手を当て、もう片方を宙に掲げてポーズを取る。
「ど、どういう意味……?」
「イライアス!?」
「アビゲイル!」
彼は彼女の声色を完璧に真似て返した。
「舌の減らない音痴野郎! 黙んなさいよ!」
「ちっちっち。こんなに美しいレディが下品な言葉を使っちゃいけないねぇ。婚約者候補が逃げるぞ〜?」
アビゲイルは手を離し、顔を真っ赤にした。
「レディぃ!? ふざけるな! あたしが好きなのはマスターだけよ!」
二人が言い合っている隙に、私はそっと扉の方へ――
「はぁ〜アビゲイル、困った子だ。僕だってマスターを愛してるさ。でも“父性依存症”はちょっと行きすぎだろう?」
「うるっさい!」
もう少しで扉に手が届く――
バァンッ!!
扉が勝手に閉まった。
アビゲイルが片手を伸ばしていた。
「まだ話は終わってないわよ、ハーフシー。」
触れてもいないのに……どうやったの!?
「はぁ……もういい。マスターの計画をぺらぺら喋るんじゃないわよ。全部無駄になるからね。」
「はいはい、了解了解! しばらくは口を閉ざしておくよ。」
イライアスは芝居がかったお辞儀をする。
「よろしい。」アビゲイルは私を見た。
「さ、もう時間の無駄は終わり。掃除は中止。次は夕食と風呂! あんた、走り回って服伸ばしたんじゃないでしょうね? もしそうなら――」
「ご、ごめんなさい……。」思わず目を逸らす。
……なんで誘拐犯に謝ってるの? 本当に変な世界。
「“男”って、マスターのこと? ……また会うの?」
「マスターは忙しい人なの。あんたの面倒を見るのは私たちドールの仕事よ。まったく、なんでか知らないけどね。」
彼女はため息をつき、髪の隙間から覗く青い瞳で私を見た。
綺麗だけど、冷たい。優しさなんて感じない。
「……ドール?」私は思わずつぶやいた。
彼女は素早く私の横をすり抜ける。
「なにボサっとしてんの。行くわよ、ハーフシー。」
扉を開けると、またあの更衣室につながっていた。
――“心の中に出口がある”。
あの変な男の言葉が頭をよぎる。
でも、意味なんて分からない。
まるで夢の中に閉じ込められてるみたい。
もしこれが夢なら、きっとシモンが手を握って起こしてくれる。
あの時みたいに――温かい手の感触を、まだ覚えてる。
……でも、あれはもう叶わない。彼はもういない。
「ほら、さっさと着替えなさい。」
アビゲイルは腕を組み、肩をすくめた。
今回は肩の出たワインレッドのナイトドレスを持っている。
「えっと……その、向こう向いてくれませんか?」
「はぁ? なに照れてんのよ。あたしの心はマスター一筋――」
「マスター一筋、分かってるよ。よくそんな人に尽くせるね。あんな殺人鬼に。」
「……あんたねぇ。」
彼女は指を二本、私の鼻の穴にぐいっと突っ込んだ。
「ぎゃあ! やめて! 痛っ!」
「マスターの悪口はあたしの前で禁止! でなきゃサンドイッチにカビチーズ入れるわよ!」
指を抜かれ、私は鼻を押さえた。
「……他の二人より性格悪いね。」
「イライアスとエリザベスのこと? あんなの子犬みたいなもんよ。あたしほど完璧なドールはいないわ。」
「……自信過剰だね。」小声でつぶやく。
「なにか言った?」彼女はカニの爪みたいに手を構えた。
「な、なんでもない!」
「よろしい。さっさと着替えなさい。」
私はエプロンを外し、メイド服を脱いだ。
鏡を見る。
――知らない子がそこにいた。
痩せた体。けれど、顔つきは大人びて、目は鋭い。
母に似た曲線。嫌だった。見た目も、感じも、そこに映る“自分”の気配も。
笑った記憶なんて、もう何週間もない。
……でも、もし本当に四年も経ってるなら、それも当然か。
ナイトドレスに袖を通し、アビゲイルの後をついて食堂へ向かう。
エリザベス――そう、背の高い方のメイドが、肉の入ったシチューを置いた。
もしこの強すぎるお香の匂いがなければ、美味しそうに感じたかもしれない。
他の食事と違って、これは懐かしい味だった。
家族と食べたことのある――クリーミーな魚のシチューと、柔らかいソーダブレッド。
「どうかしたのですか? お口に合いませんか?」
スプーンを握ったまま、私は息を吐いた。
「……違います。ただ……いろいろ考えることがあって。」
「そうでしたか。申し訳ありません、多く作りすぎましたね。」
「いえ、それはただの言葉のあやで――もういいです。」
説明する気も失せた。
この屋敷の人たちは皆、どこかおかしい。
あの殺人鬼、意地悪なメイド、そして……うんちの変態。
――最悪。
こんなこと考えながら食べるもんじゃない。
味は良かった。
ママの味に似ていた。
パンはしっとりしていて、優しく噛めた。
でも、食卓は静かだった。
ママもパパもいない。
兄たちの喧嘩も笑い声もない。
ただ、私ひとり。
「もういいです。部屋に戻ります。」
「かしこまりました。」
キッチンの扉を開けると――そこは、私の部屋だった。
「何か必要なものがありましたら、ベルを鳴らしてくださいませ、ミストレス。」
彼女は小さくお辞儀して扉を閉めた。
取っ手に手をかける。
ガチャガチャ。
「……やっぱり、鍵がかかってる。」
窓の外を見た。
真っ黒な闇。何も見えない。
まるで――“虚無”。
ベッドに倒れ込み、天井を見つめる。
『出口は、君の“心”の中にある。』
あの奇妙な男の言葉が頭の奥で響く。
胸元を握りしめ、布をねじる。
「心に出口があるなら……」
目を閉じた。
「必ず出てやる。
そして……家に帰るんだ。」




