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第9章 最後通牒(Ultimatum)

1


火の熱さ。

指の隙間から伝わる、ぬるくて粘つく血の感触。


すべてが一瞬で押し寄せてきた。

悪夢のような光景が、頭の奥に一気に蘇る。


視界はぼやけ、何も見えない。

横になっているのは分かるが、それ以外は何も分からなかった。

耳鳴りがして、吐き気がこみ上げる。


部屋がやけに近く感じるのに、同時に遠い。

輪郭の定まらない影がゆらゆらと揺れて、気分がさらに悪くなる。


声を出そうとした。

「す、み……」


喉が乾いて言葉にならない。

体を動かそうとしても、腕も脚もゼリーのようで動かない。


恐怖と混乱が頭の中を渦巻く。


――ここはどこ?

――何が起きたの?

――お兄ちゃんは?


首を動かそうとすると、木が軋むような音がした。


視界の隅に机とタンスらしきものが見える。

この暗い部屋の中で、何か見覚えのあるものを探した。


何度も、何度も探した。

今この瞬間に欲しいのは、

お兄ちゃんと、ママと、パパの姿だけだった。


みんなが無事でいてほしかった。

あの人たち――あの男たちは……一体。


これは夢だ。

現実なわけがない。


こんな酷い世界、あるはずがない。


カチ、カチ――と、何かの音が聞こえた。

水の中にいるように、遠くてくぐもった音。


トン、トン、トン……


ヒールの音のようなそれが、だんだんと近づいてくる。

ベッドの足元にぼんやりと人影が見えた。

白い髪の女性のように見える。


「マ、ママ……?」

思わず声が漏れる。

ママも白い髪だった――まさか。


目を凝らそうとするほど、世界が歪む。

呼吸が浅くなり、声が出ない。

その影はゆっくりと後ずさった。


「ま、っ……」


気づけば、もういなかった。


永遠のように長い一分が過ぎ、

ようやく部屋の形と光が輪郭を取り戻していく。


暗い部屋。

机の上の一本の蝋燭だけが、頼りない明かりを灯していた。


サンダルウッド……? 何かの香を焚いている匂いがする。


体を横に向けようとしたが、袋に詰められた石のように動かなかった。


唾を飲み込み、改めて部屋を見回す。

窓が一つ。夜だった。

月明かりは差し込んでいない。


「……だ、れか……」


声を絞り出す。

起き上がろうとした、その瞬間――


ドンッ。


床に落ちた。


痛みが脇腹に走る。

冷たい木の床が肌に触れた。


「お……にい……」


ドアが勢いよく開かれ、誰かが駆け寄ってくる。

世界がぐにゃりと歪み、視界が波打つ。


そして――意識が、また途切れた。


2


二度目に目を覚ました時、少しだけ頭がはっきりしていた。

部屋はまだ薄暗いが、前よりも形や匂いが分かる。


視線を動かし、周囲を確認する。


そして、彼女が目に入った。


「筋肉が衰えております。無理に動くと耐えがたい痛みを感じるでしょう」


女の声だった。優しいけれど、感情のない声。


目が慣れてくると、ぼやけた輪郭が形を結ぶ。

白い肌、黒と灰の髪――人形のような女。


いや、「人間」なのか……?


「うっ……」

体を起こそうとしたが、まるで言うことを聞かない。


彼女の顔に目が止まる。


……ひび割れていた。

陶磁器のような肌。

右頬に走る亀裂が蛇のように頬を這っている。


恐怖が喉の奥で膨らんでいく。

混乱と不安で胸が締めつけられた。


ママは?

パパは?

お兄ちゃんは?


怖い。

怖い。

怖い。


「や、やめ……」


目をぎゅっと閉じた。


……


気づくと、俺は起き上がっていた。

彼女に支えられていた。


「喉は渇いていますか? 空腹ですか? それともお手洗いに行きたいですか?」


「……」


「失礼。まだ言葉がうまく出せませんね。では一つずつ伺います。水は必要ですか?」


灰色の瞳が、まっすぐ俺を通り抜けるように見ていた。

俺は小さく頷いた。


「承知しました」


彼女は机の上の水差しを手に取る。

そんなもの、さっきまではなかった気がする。


戻ってくると、表情は無機質で、声も淡々としていた。

だが、手つきは優しかった。

それが「親切」なのか「作業」なのかは分からない。


医者の家だろうか。

でも、俺の知る医者や村の癒し手とは違う。


彼女の口元は一度も笑わなかった。


頭を支えられ、水を口に含む。


「けほっ……けほっ」


「申し訳ありません」

彼女はハンカチで口を拭ってくれた。


今度はゆっくりと。水が喉を流れていく。


「お腹はすいていますか?」


俺は頷いた。


「では、少々お待ちください。食事を用意いたします。今は休んでください」


そう言って、彼女は俺をベッドに寝かせた。


――どれくらい眠っていたのだろう。


再び目を覚ますと、粥を食べさせられた。

味はほとんどしない。

けれど、それが食事だった。


スプーンで一口ずつ。まるで雛鳥のように。


次は金属と革でできた奇妙な椅子に乗せられ、トイレへ連れて行かれた。

恥ずかしかったが、自分では何もできなかった。


風呂はなく、濡れた布で体を拭かれた。


気づいたら、思っていた出口の扉は実は浴室への扉だった。

あの扉から彼女が入ってきたはずなのに――。


……じゃあ、廊下に出る扉はどこ?


時間の感覚が狂っていた。

水を飲み、食べ、眠る。

その繰り返し。


彼女――「エリザベス」はほとんど話さない。

ただ、必要なことだけを告げ、淡々と出入りする。


声が出るようになったのは五日ほど経ってからだった。


その無表情が怖かったが、ようやく聞けた。


「……ここは、どこ?」


皿を拭きながら、彼女は言った。

「それは申し上げられません。今は安静と回復だけを考えてください」


何を考えているのか読めない女だった。

俺を助け、世話をしてくれてはいるが、何も分からない。


「……名前だけでも教えて」


「……そうですね」

皿を手に取りながら、彼女は言った。


「エリザベスです」


「きれいな名前だね」

微笑むと、彼女は小さく会釈をした。


「ありがとうございます、お嬢様」


……お嬢様?


首を傾げた瞬間、彼女は静かに部屋を出ていった。


「わ、私、自分で着替えられるもん!」

抗議するように言ったけれど、エリザベスは一歩も引かない。


「きちんと着られるように、私が確認いたします。」


今、私は更衣室にいた。

ラックにはたくさんの綺麗な服が並んでいる。

隅の方で、小柄な女の人が腕を組み、じっとこちらを見ていた。

その視線が肌を刺すように重い。


用意された服は――見たこともないようなものだった。

淡い茶色のミドル丈のドレス。ワインレッドと紫のリボン、繊細なレース、首元まで閉じたハイカラー。

足元には小さなブーツ、首には控えめなチョーカー。


上品で、控えめで……そして、不気味なくらいぴったりだった。


鏡に映るのは、知らない女の子。

肩まで伸びた髪。頬の丸みが消えた顔。

少しだけママに似た体つき――細く、柔らかい曲線。

肌はまるで幽霊みたいに白い。


指先で、鏡の中の自分の輪郭をなぞった。


「ちょっと、何してるの? 鏡が汚れるでしょ。掃除するのは誰だと思ってるのよ?」

短髪のメイドが大声を上げ、私はびくっと体を震わせた。


「あ、ご、ごめんなさい……ただ……」


「さあ、行きましょう。ご主人様がお待ちです。」

エリザベスが静かに告げた。


私は従い、部屋を出た。

だが、来たときと同じ扉の先は、まったく違う場所につながっていた。

そこは長いテーブルのある広間――食堂だった。


「ここが食堂です。これからの食事は、すべてこちらで。」

エリザベスが言い、椅子を引いて私を座らせる。


部屋は他と同じく薄暗く、窓の外は闇。

強い香が焚かれていて、甘く、けれども落ち着かない。


私は落ち着かず、テーブルの上を見つめていた。


「“これから”って……。でも、私、帰りたい。いつ――」


「ご主人様が来れば、すべてお話しされます。」


「……」


その時、扉が静かに開いた。


入ってきたのは、一人の男だった。

彼が“マスター”――この屋敷の主であり、医者のようにも見えた。


「こんばんは。」

柔らかく滑らかな声。まるで絹を撫でるような口調。


琥珀色の髪に金色の瞳。

穏やかに微笑みながら歩いてくるその姿に、一瞬、心が落ち着く気がした。


白いシャツに茶色のベスト。灰と黒の柄が入ったスラックス。

襟元には、二つの小さな指輪が揺れている。


「お帰りなさいませ、ご主人様。ご旅行はいかがでしたか?」

二人のメイドが声を揃える。


彼の服も、彼女たちと同じく紫と金の装飾が施されていた。


まだ若い。二十代前半――とても“医者”には見えなかった。


「ようやく目を覚ましたんだね。心配したよ。でも、よく頑張ったね。」

彼は穏やかに笑った。


「こ、ここは――」

そう言いかけた瞬間、彼は手を上げ、制した。


「質問はあとで。まずは腹ごしらえだ。」


指を鳴らすと、二人のメイドが一礼して奥の扉へ消えていった。


「彼女たちは……あなたの部下なの?」


「部下、というより“恩返し”かな。」

「……?」

「いずれ分かるさ。」


沈黙が、痛いほど重く響く。


やがて、メイドたちが銀のワゴンを押して戻ってきた。


「さて、二週間も粥ばかりじゃ退屈だったろう。今日はちゃんとした食事を。」


「に……二週間……?」

口の中でつぶやく。

そんなに……? もっと長く感じたのに。


「どうぞ、ご主人様……お嬢様。」

メイドたちは料理を並べた。

懐かしい香り――焼きたてのソーダブレッドと、クリーミーな魚のシチュー。

故郷の味だ。


小柄なメイドがカップに淡い液体を注ぐ。

花の香り――リンゴのような甘さ。


「カモミールティーだ。心を落ち着ける効果がある。」

彼が微笑んだ。


おそるおそる口をつける。

昔、草原で噛んで遊んだ花の味がした。


食事の間、私は彼を盗み見るように見ていた。

そのたびに、彼は目を細め、優しげに笑う。

まるで、私の心を覗き込んでいるように。


「顔色が良くなってきたね。血色も戻ってきた。ただ……もう少し体重を増やさないとね。」

柔らかい口調。

一音一音を丁寧に選ぶような喋り方。

けれどその優しさが、逆に怖かった。


ナイフが皿を擦る音が耳に刺さる。

時計の針が心臓の鼓動と重なり、時間が引き延ばされるように感じた。


家での食卓を思い出す。

お兄ちゃんの変顔、パパの小言、ママの笑顔。

――あの、あたたかい時間。


「どうしたの? 口に合わなかったかな?」

「い、いえ……ただ、ちょっとお腹がいっぱいで……」


「そうか。」

彼はまた、あの“目の笑っていない笑顔”を浮かべた。


「アビー、片付けを頼むよ。」

「はぁい、マスター♡」

短髪のメイドが軽く歌うように答えた。


食事が終わると、空気が変わった。

音が消えたように静まり返る。


「さて――質問に答えようか。」

彼は肘を組み、顎を指に乗せた。

「何でも聞いていいよ。約束しよう。」


「じゃあ……まずは、ここがどこか教えて。あなた、お医者さんなんでしょう?」


「医者――ではないね。」

軽く笑う。

「資格はないけど、人を治す方法はいくつか知っている。」


「……じゃあ、いつ帰れるの?」

手をいじりながら尋ねる。


「……残念だけど、それは無理だ。当分――いや、永遠にかもしれない。」


「……え?」


思わず立ち上がる。

「な、なんで!? もう元気だもん! ママとパパとお兄ちゃんに会いたい!」


短髪のメイドの目が一瞬、氷のように冷たく光った。


「ご主人様にその口の利き方は――!」


「やめなさい。」

男が手を上げると、メイドは頭を下げた。


「申し訳ありません、マスター。」


「説明しよう。」

彼は片目を閉じ、優しく微笑む。

「君はもう“帰れない”。いや――」

少し声の調子を落とす。

「“帰る場所”がもう、存在しないんだ。」


エリザベスが私の肩にそっと手を置いた。


「お掛けください。」


私は椅子に沈み込む。


「嘘……。そんなわけ……。私の家は――クルアンティアン・ネイム族の村、ラオナッハの草原に――」


「そうだったね。」

彼の声は静かで、残酷だった。

「“あった”んだ。昔は。」


「昔……? まだあるわよ! だって――」


「もう、ないんだ。赤の子。」


“赤の子”。

優しく呼ばれたのに、心臓を掴まれたみたいに痛かった。


「地図からも消えた。黒い染みのようにね。完全に、この世から。」


息が詰まる。

胸が焼ける。


「うそ……嘘よ……!」

叫ぶ。

「あるの! ちゃんと! クルアンティアン・ネイム族の村は――!」


彼は腕を組み、冷ややかに言った。

「見に行ってもいいよ。ただ、残っているのは“黒い悪魔の球体”だけだ。」


「な、に……悪魔……?」


「覚えていないのか。」

金色の瞳が細められる。

「君が――“悪魔を召喚した”んだ。」


脳裏に、あの夜の映像が閃く。

黒い影。

燃える家。

血。悲鳴。


「違う! 私は……ただ隠れてて……!」


あの光景。あれは悪夢のはずだった。

現実じゃない――はずだった。


「怒ってほしいわけじゃない。」

彼の声は淡々としていた。

「ただ、現実を受け入れてほしいんだ。」


「……お兄ちゃんは? シモンは……どこ!?」


「人間の男の子か。ああ、あの子は……もういないよ。襲撃で死んだ。」


世界が音を失った。

頭の奥が焼けるように熱い。

血の匂い、ぬるい感触。

首に伸ばしたあの手。


――お兄ちゃん。


「……っ」


心臓が破裂しそうになった瞬間、エリザベスが香を振った。

甘い香りが鼻をくすぐる。

意識が遠のく。

鼓動が落ち着いていく。


……なに、これ。


「君は特別な子だ。文字通り、“百万に一人”の存在。」

彼は静かに微笑んだ。

「君の“力”を知る者は、君を高値で買うだろう。」


「ママとパパは……?」


「心配はいらない。」

彼は言葉を選ぶように口にした。

「彼らを襲った男たち……あれを動かしたのは、僕だ。」


「……え?」


「怒らないでよ。僕にも目的があった。」

軽く笑いながら、手をひらひらと振る。


「君の中に眠る“力”は、逃せない。あの厄介な妖精を避けるためにも、軍を利用するしかなかった。」

腕を組み、淡々と続ける。

「手間はかかったけど、君を手に入れた。それで十分だ。」


怒りも、涙も出なかった。

心が――静かすぎた。


なんで。

なんで。

なんで。


頭がぐらぐらする。

信じられないはずなのに、体は落ち着いていく。


「……帰りたい。」

絞り出すように言うと、彼は微笑んだ。


「ここが、君の“家”だよ。」


その笑みが、怖かった。


「僕が欲しいのは金じゃない。」

「……じゃあ、何を……?」


「未来を変えることさ。」

金の瞳が細められる。

「君にしかできないことがある。」


「……?」


「“イフリートの種”を継ぐ者としてね。」


「イフリートの……種? そんなの知らない! 私は十歳なの! 子供だよ、そんな――!」


「十歳?」

彼は笑った。

「もう四年だよ。村が滅びてから。」


「よ、四年……?」

喉が乾く。


「今は十四歳だ。体を見れば分かるだろう?」


脚、髪、顔――すべてが変わっていた。

……本当に?


「うそ……」


「嘘はつかないよ。」

彼の声は静かで、残酷だった。


「僕はね――」


立ち上がる。

「もう嫌! 帰る! ママとパパが――!」


「連れて行かれた。そうだね。」

彼は遮った。

「だが、落ち着いて。深呼吸だ。」


その声はやけに優しかった。

「君が本当に家族に会いたいなら……僕の“提案”を受けるといい。」


ロウソクの炎が、金の瞳を揺らす。


「選択肢は二つ。」

一拍置いて、微笑む。


「僕を殺し、家族と村を救うか――」

人差し指を唇に当て、囁くように言った。


「僕の“花嫁”になるか。」


「……え?」

「き、聞き間違い……? 花嫁? なに言ってるの……?」


「決断の期限は、君の十八歳の誕生日までにしておこう。もしそれまでに選ばなかったら――その時は永遠に、僕と一つになるだけだよ。」


「ば、ばかげてます!」私は叫んだ。

「お願い、家族に会いたいだけなの!」拳をぎゅっと握りしめる。


その瞬間、あの甘い香りが喉の奥を這い上がってきて――気づいた時には、震えが止まっていた。胸の鼓動もゆっくりになる。感情だけがぐちゃぐちゃにかき回される。


「残念だけど、それは無理だよ。今、彼らは軍の管理下にある。僕が許可を出さない限り、誰も近づけない。」


「結婚するか、あなたを殺すかって……そんなの、できるわけ――」


「そうかい? 君の“お兄さん”を殺した張本人が僕でも?」

彼は頬杖をついた。


「サイモン……」私は小さくつぶやいた。


「彼はちょっとドジでね――」


「情報を流したのは僕だ。彼の名前も、階級も、どこに座ってどこで眠るかも知っている。だけど、彼に復讐したいなんて思わないことだ。憎しみも怒りも、全部僕に向けなさい。そうすればお父さんとお母さんに会える可能性が出てくる。」


「わ、私……」言葉が出てこない。


「全部……私に会うために……? あんなにひどいことして……みんなを傷つけて……?」


「理由は他にもあるよ。でも、そこは重要じゃない。大事なのは――君が僕の苦しみを終わらせるってことだ。」


「……苦しみ?」


「僕は“不死”の呪いを受けていてね。この世界を永遠に歩き続けなきゃいけない。もううんざりなんだ。次の世界に送ってもらいたい。」


「不死……? そんなの、ありえない。永遠に生きるなんて、ただ一人しか……」


パパが昔話してくれた伝承が頭をかすめる。

まさか、この人が――?


「……家族に、会いたい。」


「……」彼は片目だけでこちらを覗き込んだ。


全部夢みたいだった。

夢の中でだけ成立する理不尽。

でも、これは夢じゃない。

サイモンはもういない。

ママとパパもここにはいない。

助けてくれる大人も、もういない。


お腹の奥がぐらぐらと煮える。

くらくらして、視線が部屋の中をさまよう。

こんな感情、知らない。

誰かの命を、自分の手で終わらせたいなんて――そんな気持ち、私は一度も持ったことがなかった。


爪でテーブルをこすった。木に細い傷がつく。

もし、本当に彼が全部の元凶だとしたら――

私が憎むべき相手は、目の前のこの男なんだ。


「……その顔だよ。ずっと待ってた。」

彼は私の表情を観察するように言った。

「さて。今のうちに何か聞きたいことはあるかな?」


「お……お兄ちゃんは、本当に――」


「もちろん。首を撃ち抜かれていた。あの傷じゃ助からない。奇跡でも起きない限りね。」


喉の奥でごくりと唾を飲み込む。やっぱり、本当だった。


「さっき私のこと“特別”って言った。百万に一人で、体に何か“種”があるって……」


彼はまっすぐ私の目を見た。視線を外さずに。

「そうだね。君には大きく二つの強みがある。ひとつは“ハーフエルフ”であること。そしてもうひとつは――」


「ご主人様、お客様がお見えです。」

大人びた声が会話を遮った。


「そうか。ありがとう、エリザベス。」


彼は立ち上がり、テーブルのこちら側へ回ってくる。


「すぐにまた、ゆっくり話せるよ。」


私の耳にかかった髪を、彼は指先でそっと耳の後ろへ払った。

ぞわっと鳥肌が立つ。

嫌悪。

不安。

私はテーブルのフォークに手を伸ばした。


バンッ。


私の手の上から、彼の手が覆いかぶさる。

カップが倒れて、熱いお茶がテーブルを伝った。


「ふふ、そんなに急がなくてもいい。君にはいくらでも機会をあげるよ。……でも今は呼ばれてるんでね。」


すっと手を離す。


「部屋に戻しておきなさい。明日からテストだ。」


彼はドアへ向かう。私は思わず叫んだ。


「ぜ、絶対殺すから! 家族を取り戻すために!

死ね!

お兄ちゃんを殺した!

死ね!

絶対に許さない!

死ね――!」


「あなたなんか、ぜったいに殺す!!」

唇を噛んだ。血の味がした。


彼は振り返らなかった。片手をひらりと上げて、

「またあとで。」

と言い残して出ていった。


メイド二人がスカートをつまんでお辞儀する。


「さ、行くわよ、チビ半分。」

小さい方のメイドが言って、私を部屋へと連れていく。

でも私は、ほとんど歩けなかった。頭が真っ白で、何も考えられなかった。


部屋に戻ると、ベッドの上には別の服が置かれていた。


「ふん、正直わたしには分からないのよね。あんたのどこがそんなに特別なのかとか、どうしてご主人様がそこまで気に入ってるのかとか。いい? 勘違いして天狗にならないことね。ふん。」


腕を組んでそう言うと、彼女はドアを閉めた。


私はベッドまで歩こうとして、膝が抜けるたびに何度もつまずき、そのまま足元で崩れ落ちた。


「そんな……嘘だよ……」

「どうして……どうして私が……」震えながらつぶやく。

「ずっと守るって言ってたのに……強いって言ってたのに……」

「くそっ……」

「なんで私が生きてるの。私が……」膝を抱え込む。

「サイモンは死んだ……世界一強いお兄ちゃんだったのに……」

「ごめんね、ごめんね。言うこと聞いてればよかったのに。私が悪いんだ……」

「お、お兄ちゃん……なんで、なんで……」


涙はぐちゃぐちゃだった。

鼻もぐずぐずで、声も潰れて、みっともない泣き方。

息ができなくなる。


大きく息を吸うと――香の匂いが鼻を満たす。

少しだけ、心が静かになった。

頭が冴えていく。


――絶対殺す。

――あいつだけは、私の手で。

――たとえこれが最後の最後でも。


5


血で濡れた涙が頬を伝う。

男たちの悲鳴が耳を裂く。

村が、家が、すべてが闇に飲まれていく。

お兄ちゃんが腕の中で死んでいく――何度も、何度も。


絶望だった。


次の夢では、真っ白な部屋だった。

私はガラスの箱の中にいた。

体は動かない。声も出ない。

天井には燭台がぶら下がっている。


助けて――叫ぼうとするのに、出ない。

首を振っても、動かない。

ただ、見ているだけ。


そこで目が覚めた。


ベッドの上だった。毛布がかけられている。

同じ薄暗い部屋。


ドアが開いて、小柄な人形――いや、メイドが入ってくる。


「ほんっとによく寝るわね、ハーフちゃん。」

食事の乗ったワゴンと、制服らしきものを持っている。

「食べたら仕事始めるから。足引っ張らないでよね。」鼻を鳴らした。


「し、仕事……?」かすれ声で聞き返す。

言ってる意味はよく分からない。正直、どうでもよかった。さっきまでの悪夢が、現実より濃かったから。


「仕事よ仕事。ご主人様のご厚意で養ってもらえると思わないことね?」


「ご、ごこうい……? あの人は――」


「はいストップ。あんたの泣き言には興味ないの。わたしが興味あるのはご主人様だけ。あんたみたいな厄介な子に、これ以上お世話焼かせないで。」


ワゴンを部屋に押し込む。

「食べて、着替えて。終わったらベル鳴らす。」


それだけ言って出ていった。


全然優しくない。

あの男に心底仕えてるのが伝わってきた。


今日のご飯は粥だったけど、肉が入っていた。


食べ終わって服を見る。

二人が着ていたものと同じメイド服――でもこれは濃い赤だった。


「……本気なの?」と私はつぶやく。


あんなことをした男のところで、働く?

サイモンを殺した男の?

冗談じゃない。


私はドアに向かった。

自分が何なのか、どんな存在なのかを知らなきゃ、誰かに助けてもらうこともできない。


深く息を吸い、香の匂いを吸い込む。心拍が落ち着く。

ドアノブを掴んで――


「……開かない?」


外側に鍵なんてなかったはずなのに。


「ちょっと、開いてよ……開いてってば……!」


ガチャガチャと回すが、びくともしない。


その時、突然ドアが内側に開いた。


「なに勝手に開けようとしてんのよ。ビジョンなしで出ようとしたら困るって言ってるでしょ!」


「わ、私はただ……」


「ただじゃないでしょ! 人を疲れさせたいの?! しかもまだ着替えてないし! ほんっと最初から気に入らないわ、ハーフちゃん!」


女の人――さっきの小さいメイドがまくしたてる。


「……カリー。」


「は?」


「カリーっていうの。ハーフちゃんじゃない。」


「ふぅん? そう。名前なんてどうでもいいのよ、人間のは。」


ふんっと鼻で笑う。

「さっさと着替えなさい。じゃないと初日から地獄見るわよ?」


「どうして私なの? 悪いことした? どうしてこんなことされてるの?」


「んー? ご主人様があんたを拾ってあげたことに感謝したら? 本来なら捨てられてたわよ。あんたを気に入ってくださっただけでもありがたいと思いなさい。言わせないで、こっちが恥ずかしいでしょ。」


私はカッとなって、ボウルを床に叩きつけた。


「感謝? あの人に? お兄ちゃんを殺したのに? ママとパパを奪ったのに? それで“ありがとう”って言えって? 冗談でしょ! 大っ嫌い! 絶対殺すんだから!」


「そんな人のために働くわけないでしょ!!」


人形のメイドはずいっと近づき、私の胸ぐらを掴んだ。


「させないわよ。ご主人様にはわたしがいるんだから。勘違いしないことね――あんたはたかが“道具”。特別でもなんでもないの。わたしの方がずっと長くそばにいるんだから。ご主人様はあんたみたいな我儘なガキより、大事なものがいくらでもあるの。」


ぱっと手を離す。


「さ、着替える。着ないなら脱がす。」


「……わかった。」


「よろしい。十分後に来るわ。」


――その後。


私はメイド服を着ていた。

寝てる間に置いていったのだろう、部屋の隅には姿見まで置かれていた。

服はぴったりだった。


深い赤に紫の縁取り。肩は少し開いていて、白いコルセット風の前身頃。上にはリボンのついた高い襟。銀色のボタンがまっすぐ並んでいる。

頭にはフリルのカチューシャ。赤い髪が、まるで光輪みたいに見えた。


ドアが開く。

エリザベスだった。


「とてもお似合いです。」彼女は小さく頭を下げた。


「え、ええ……まあ……」


「当然でしょ。わたしが作ったんだから。」

さっきの小さいメイド――アビゲイルが後ろで得意げに腕を組んでいる。


「じゃ、髪結ぶわね。仕事いつからできるかしら、ご主人様に聞いといて。」


椅子に座らされ、髪を結われる。

鏡に映る私は、十歳の頃の私じゃなかった。

目つきが鋭い。

でも、どこか空っぽ。


――本当にこれが私?

――この目、こんな顔、知らない。

自分の体なのに、他人の体を着ているみたいだった。


「できた。」


髪は高い位置でまとめられ、きれいなポニーテールになった。


「本日のお仕事はアビゲイルがご案内します。どうか従ってください、お嬢様。」


「ねえ、なんで私のこと“お嬢様”って呼ぶの?」


「ご主人様のご婚約者なのでしょう?」

首をかしげながら、あくまで淡々と言う。


「は? そんなわけないでしょ! あれ本気じゃなかったんでしょ!?」


「ご主人様が軽々しく口にするとは思えませんが……人間はよく冗談を言いますから、私が間違えているのかもしれませんね。」


またそれ、人間。

まるで自分たちは違うものだと言うような言い方。


「さっ、行くわよ! さぼってる暇ないから!」アビゲイルがぱんと手を叩く。


「ちょ、ちょっとだけ聞きたいこと――」


「あとあと。今はお屋敷案内の時間。」


そう言われ、私はずるずると連れて行かれた。

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