六話
「―――スラッグ」
僕は、ひとり。木下に立って上を見上げていた。あたりはだんだんと暗くなってきている。
幹から何条も空に広がっていく僕の首よりも一回りくらい太い枝の上に座って、木の幹に背を預けているスラッグは身じろぎもせずに青から黒へとその様相を変えていく地平線を眺めている。煮炊きの煙が一つ、二つと空に昇って行っている。
「久しぶり、っていうほど久しぶりじゃないけど。でも、この一か月で君も僕も随分と変わったよね。まあ、僕はあんまり変わっていないかもしれないけど」
「・・・」
スラッグの上半身は闇に落ち込んでいて、よく見えない。
「でもさ。僕はこの一か月でいろんなことを学んだよ。ルルがいなくても僕は一人で生きていかなきゃいけないってことも、今までみたいに漠然と他人の言うことだけを信じ込んでいたらいつまでたっても一人で生きていけないってことも。だから」
「・・・」
腕組みを解いたスラッグの手が、足先に引っかかった葉を払い落とした。
遠くで虫の声が聞こえる。僕はふっと息を吐いた。
「―――僕はもう逃げないよ」
誰もいないだだっ広い草原がザワザワとざわめいている。スラッグが身じろぎをした。
「僕は明後日の作戦に参加する。僕は、僕自身の手でルルを助け出す。それでさ」
もう、空は完全に暗くなってしまった。僕は目を凝らす。周囲が暗くなったおかげで逆にスラッグの姿が少し見えるようになった。
「それで、スラッグは・・・どうする?」
スラッグは僕を見ていた。僕が今まで見たことがない目をしたスラッグはすごく子供っぽく見えた。遊んでいる最中、友達を見失って不安なのを必死にこらえている、どこにでもいるようなごく普通の少年に。
ジワリ、ジワリとしみこむように闇が濃くなっていく。
僕はスラッグの目を見つめつつけている。
スラッグは何か言う様に口元を少し開いて、そのまま閉じた。
僕は少し逡巡してから何でもない事のように言う。
「晩御飯食べに行こうよ。きっとそろそろできてるよ」
風が吹いた。
僕が風から目元をかばうと同時にガサガサッと音がして、手を下ろした時にはすでにスラッグは僕の隣に立っていた。
「・・・いこうよ。スラッグ」
僕は数歩歩いて、ついてこないスラッグの方を振り返る。
スラッグはうつむいていた。手を体の横でぎゅっと握りこんでいる。
「どう、し・・・」
すうっと夜の闇をなぞるように、スラッグの顔から地面へ水滴が落ちた。
「・・・はっ。なんだこれ・・・」
そう吐き捨てるようにつぶやいたスラッグは、目元を乱暴に拭った。でも、何回拭ってもその流れは止まることはなく。
僕はスラッグに背を向けて歩き始めた。少ししてから引っかかるようにして止まった足をそこから動かさずにすとんと座って地面に寝転がる。
遠くの方から楽し気に食事をしている話し声や笑い声などが聞こえてきた。
スラッグは音を立てずに、夜の静寂を壊さずに、静かに、静かに泣いていた。
僕はそんなスラッグの姿を見ないように、夜空を見つめ続けていた。
今もなお、夜空に自分の存在を主張し続けているテルルから少し離れたところにある、3つ連なった星々。
2等星が一つと、3等星が二つ。
小さな三角形を形作るように光っているその3連星を僕はしばしの間眺めていた。
耳元でするざわざわという風の音に一つの足音が混ざった。
ざっざっと歩いてきたその足音の主は僕の横にどさりと座った。
僕は口を開くことなく、夜空を見つめ続ける。
先に夜の薄膜を破ったのはスラッグだった。
「お前、変わったよな。あの時と比べると随分」
僕はすこし笑って答えた。こんな風にスラッグと話すことなんて、昔の僕が聞いたらありえないって笑うだろう。
「まあ、いろいろあったんだよ。スラッグも色々あったんでしょ?」
「・・・ああ」
「じゃあ、スラッグの番だよ」
「・・・どういう意味だ?」
「僕が何があったかはだいたい聞いたでしょ。だったら次はスラッグの番。何があったのか教えてよ。僕は聞いてるから」
宵闇が透明な膜を僕らの体に張り付け始めた。それが出来上がるより早く、スラッグは一息ついてから自分の居る場所をぽつりぽつりと話し始めた。
「ルルと、いやお前たちと別れた後、結局カークはさらわれちまった。路地裏を一緒に逃げてたんだが、俺も無我夢中だったから詳しいことはよく覚えてない。途中で何回目かの角を曲がった後にカークが消えて。レグの手を引っ張って走ってる最中にどかんってアホみたいな衝撃が来て、気づいたら瓦礫に埋もれてた。その時のケガで、今でも左手の薬指と小指はうまく動かねえ」
そういってスラッグは夜空に左手を掲げた。スラッグの後ろに隠れてはあらわれる星々はちらり、ちらりと遊んでいる。
スラッグは手を開いたり閉じたりして見せるが、薬指は他の指につられて少しだけ場所がずれるだけ。小指に至ってはほとんどかけてしまっている。
「僕も」
夜空に2つ目の右手が掲げられた。小指の付け根から下がごそっとえぐり取られている僕の手をちらっと見たスラッグは、僕と示し合わせたように同時に手を下ろした。
「瓦礫の中で目を覚ました時、自分一人しかいないって気づいて、そんなわけがないって思ったよ。だってその時、手をつないで走ってたからな。吹っ飛ばされた時も俺は手は離さなかった。死に物狂いでつかんでたから離すわけがなかった。実際にその時左手には何かを掴んでる感覚があったんだよ。だから、カークがだめでもせめてレグはって思って、瓦礫を何とかずらして左手の方を見たんだ。そしたら」
スラッグは星に手を伸ばした。まるで今でもそこに誰かが手を伸ばしているのが見えているかのように。
「―――腕しか、なかったんだよ」
喉奥につっかえたものを吐き出すようにスラッグは唸った。かみしめた歯の間から絞り出すように言葉が紡がれる。
「レグの冷え冷えとした手のひらの感触。朝起きた時も、夜寝る時も、飯食ってるときも、今でも。まだ、ここにある」
身震いをしたスラッグは短く息を吐いた後に目元を右手で覆った。
「俺は、許せない。レグを、カークを殺した奴がのうのうと生きてることが。でも、一番許せないのはあの時いた軍人でも、孤児狩りを命令した貴族でもなくて」
目じりから一筋涙が落ちた。
「あのとき、何もできなかった俺だ」
堰をきったように涙がどんどんとこぼれ出てくる。鼻をすすったスラッグはぼそっと言った。
「俺はもう、あいつらみたいなやつがこれ以上増えるなんてまっぴらごめんだ」
スラッグはゆっくりと起き上がった。僕も肘をついて体を起こす。
「だから、俺は明後日の作戦に参加するよ。荷物持ちでも、何でも。じゃないと、レグとかカークに幻滅されそうだしな」
僕たちは何も言わずに立ち上がった。僕はふっとある記憶を思い出した。僕は右手をゆっくりと握った。痛い。まだ治り切ってない右手を無理に動かしたから当然だ。小指はあんまり動いてくれないし、そのせいで完全に握り拳だとはとても言えないけど、でも、僕はこぶしを握った。
ハタと止まった僕を見たスラッグはけげんな顔をして僕を見た。
「どうした?」
僕は口の中にいくつか言葉を転がしてから、息を吸った。
グッとこぶしを正面のスラッグに向けて突き出して、叫ぶ。
「スラッグ!」
「・・・なんだよ」
「明後日の作戦、足引っ張ったらぶっ飛ばすからね!」
少しの間、あっけにとられたように赤くなった目を瞬かせていたスラッグは、笑いをこらえながら自分の手を見下ろした。
「はっ。こっちのセリフだ。でも、お前程度に心配されてたらレグにもカークにもかっこがつかねえよな」
グッと感触を確かめるように自分の右手を握ったスラッグはコツント僕のこぶしに自分の手を合わせた。
「足引っ張んなよビビり」
「それこそこっちのセリフだよ泣き虫」
スラッグはまたしても目を瞬かせた。僕とスラッグは少しの間真顔で見つめあって、同時に笑い出した。
「は、はっはっは。おま、お前言うじゃねえか」
「そ、そっちこそ。うりゃ!」
僕はふざけてスラッグの頭を叩いた後に駆け出した。
「晩御飯いくよ泣き虫!」
「おいてめえ殴りやがったな!」
草原を走っていく2つの影は煮炊きのにおいがする方向へ一直線に向かっていった。
そんな2人をまぶしそうに眺めるひときわ明るい蒼い星が1つ、夜空に燦燦と輝いていた。
*
まるで命の灯を燃やし尽くす様に輝くごてごてとしたクリスタルガラスの塊の下、帝都の摩天楼の一角で将校らの懇談会が開かれていた。
そのシャンデリアが燃やしているのは蝋ではなく、人間の命。
この一晩でどれほどの命がいくらでも変わりがある薪として、動力機構へくべられたのかは定かではないが、シャンデリアが遺物に取り換えられてからこれまでに開かれた懇談会の数は片手には収まらないだろう。
その明かりの下できらびやかに飾り立てられた軍服を纏った将校らは、連邦との戦争の前祝いと銘打たれた懇親会にみをやつしていた。
防諜の一環として、この祝宴に参加している関係者各位へは半年後に電撃的に連邦内に侵攻すると計画が説明されている。
そのため彼らの会話内容は、半年後へ文字通り電撃的に決定された戦争への困惑をにじませていた。
「私ですらまったく聞いていなかった話だ。あの若造は何を考えているんだ」
「計画が全く漏れていなかったという意味ではよいのかもしれないが・・・」
そんな彼らの困惑をよそに早々に別室に移ったトルクは、計画の全貌を知りえる数少ない人物らとともに祝宴を上げていた。
「これでついに連邦はつぶれますな!」
「はっは。まったく、まったく。トルク君には頭が上がらんよ」
「いえいえー、じゃあ遺物研究の援助金を増やしてくれない・・・」
「なんじゃ。もってけもってけ。ぐはははははは!」
一通りの人物と話し終えたトルクは窓際の席にどさっと座って眼下に広がる町を眺める。
ぽつり、ポツリと大通りに整備され始めた街灯が闇に墜ちた眼下の街を2つに切り裂いている。帝都内に全部で7棟存在する高層ビルはまだこのビルしか復旧が終わっていなかった。セキュリティが破壊されていて、かつ内部の崩壊具合があるていどまし、というご都合主義の権化のようなこのビル以外はいまだ進入の目途すら立っていない。
まだ、足りない。君が、ハルカが見たかった元の世界の光景にはまだ何もかもが足りない。
もっと遺物の研究を進めて、昼夜を問わず輝き続ける不夜の街を、君が戻りたかった世界をこの帝都に作り上げよう。
その前準備として、連邦をつぶして更なる資金を手に入れるそのまえに。
君を殺したあの女が建てた組織。
アッシャーをつぶして、あの女に可能な限りの苦しみを与える。君の味わった苦しみをはるかに上回る苦痛を、痛みを、今もなおのうのうと生きているあの女に。
アッシャーからレジスタンスに当てられた例の手紙。あの情報をもとに帝都動力機構の守りはいつも以上に固められている。もちろんあの手紙の日付がずらされている可能性も考慮して。手紙の情報が手に入ってから目立ちすぎないほどにじりじりと増員を重ねてきた。
下から相手の目的は割れている。動力機構の破壊だ。
で、あればいくら守りが硬くても奴らは結局は機構のもとに来る。
つまり、そこを防いでしまえばどうしようもないのだ。
あまりにもあっけない。
今までも幾重にも照明が重ねられてきたこと。少なくとも僕の知る限りでは僕よりも頭のいい人物は存在しないというその絶対的な自負にして、至極単純な事実がそこにある。まあ、向こうについてる参謀の頭が僕よりも残念だったというだけの話だ。
ワイングラスをくゆらす。血のように赤い液体の水面が優美に揺れる。
あの異邦人の赤い眼が思い出された。血染めのバルバロイと名乗るあの男。
最近何やら怪しげな動きをしているようだ。そろそろ潮時だろうか。今までは楽をして治安維持が行えていたが、あれを処分してしまうと自然とそちらにある程度のリソースが割かれてしまう。
そして、ハルカの夢見た街の建設はまた一つ遠くなる。
連邦をつぶした後だ。そのあとにレジスタンスは潰す。アッシャーをつぶして、連邦をつぶして、レジスタンスをつぶして。その後は反抗的な貴族だ。
いらない奴は全員潰せばいい。結局誰も僕に逆らわなければ最短効率で街の建設は進む。
とはいえ、この会合の後でレジスタンスへのけん制は入れておいた方がいいだろう。
そう思って椅子から立ち上がると同時に胸元に入れてある無線機が信号を受信する音がした。
ため息を一つついてから僕は無線機を耳に当てた。
「・・・どうしたの?なにかあった?」
「トルク様!至急連絡です!先の条約に従って滞在している、現在帝都内にいる連邦の駐屯兵が―――」
声に焦りを滲ませている伝令兵の言葉を聞いた途端、一瞬トルクの思考は止まった。
「・・・は?」
「連邦の兵が反乱を起こしました!現在帝都中心部から郊外への軍事施設への攻撃を開始しています!」
遠くで、砲撃の音がした.