三話
たなびく桃で、紅で、橙の雲に寄り添うように、柔らかなルルの藍の、水の、蒼の髪が風に吹かれて幾千にも幾万にも泳いでいる。
空にはためいていたその蒼黒の髪を少し抑えたルルは、夕日の先に最終目的地の境界都市トルストを見据えて、その蒼い瞳を細めていた。
ふと、ルルがこちらに振り向く。ルルはその端正な顔に、僕に応えるように薄く柔らかな笑みを浮かべた。
いつもの無邪気な笑い方と違う、触ったら空に溶けていってしまいそうなその顔は、僕の目にあまりにも儚く映る。僕の心は一気に蒼色に染め上げられた。
僕はその顔からじわっと染み出てくるルルの暖かな想いを感じる。
ルルが僕にくれた数えきれないほどの贈り物を。
ルルが僕に向けてくれたあまりにも多くの感情を。
ルルが僕に千々に砕いてくれた心の欠片を。
初めて会った時から、今、この車上で赤く燃える焔の珠を見るまでの、短く、あまりにも大きな今までの日々を。
僕は今、瞳の奥で胸の中で心の最深で、熱いほど痛いほど狂おしいほどに感じているのだ。
いつでも、ルルは僕の隣にいてくれたこと。
どんな時でも、ルルは転びそうになった僕を助け起こしてくれたこと。
そして、僕に対してその、無邪気な笑みで、信頼した顔で、蒼く輝くその瞳で笑いかけてくれたこと。
ああ、僕は今。
そんな君に対して何ができるだろう。
僕なりの答えと、僕のすべてをもってして、君に応えたい。
君にも、僕が今味わっているような気持ちを感じてほしい。
僕が一方的に頼るのではなく、君が僕を頼ってほしい。
そして、願わくば。
君にも、僕が今君に感じている気持ちを、僕に抱いてほしい。
僕と君の関係を、今のぬるま湯のような義姉弟から、一歩踏み出し、その先へ―――。
僕は万力のような力を込めて、声が震えていないか心配になるほど、そっと言葉を紡ぎ出した。
「ねえ、ルル」
「ん?」
吸い込んだ空気が喉奥に詰まる。
「いままで、いろいろあったよね」
「うん」
しばしの沈黙が二人に流れた。ざわっと風が一陣通り抜けていき、ルルはそれにあおられた髪を手でなでつけた。
「僕。ルルに」
ギュッと喉奥が締まったように言葉が出てこない。僕は地面をのぞき込むように深く息を吸った。
「どうしたの?」
ルルは不安そうに僕の方を見ている。でも、僕は一度下げてしまった顔を上げられない。
僕は緊張で白と黒を行き来する視界と、グラグラと頼りなく思えてくる足場を、何とか抑えようともう一つ息をする。心臓が水風船のようにパチンと割れそうだ。
「その、具合でも悪かったり・・・」
僕はそっと差し出されたルルの手を押し戻す。僕が自分一人で立ち上がれないと、ルルに安心して背中を預けてもらえるような関係になれないと思ったから。
「・・・え?」
僕は一歩踏み出さなきゃいけないんだ。このまま、ぬるま湯のようなこの関係に浸っていては、きっと僕はこの先後悔する。
「テル、なんで・・・?」
僕は必死に呼吸を落ち着かせる。
すーっと、息を吸って僕は奥歯をかみしめた。
「わた、私、何かした?」
僕は尋常じゃないほど重い頭を無理やり上げ、ルルに絞り出すように言った。
ぐるっと視界が天板の色から赤と蒼に変わる。
「僕、ルルの弟から卒業―――」
その時、僕の目の前に映ったのは、僕に押し戻された手を、震える瞳で見つめるルルの姿だった。
「ぇ、テル?」
そう、泣き出しそうな顔で言ったルルの声はひどい震え方をしていた。
そう、言ったルルの瞳には大粒の涙と、それでも隠し切れないほどに自分に酔っている僕の姿が映っていた。
「ど、どういうこと?私はもういらないの?」
僕の脳は一気に凍った。僕の心が一瞬でひび割れた。
「そ、そうじゃなくて」
「・・・だって、卒業する、って、そうじゃなかったら、どんな意味な、の?」
「・・・えっと、それは」
一瞬反射的に自分を守ろうと、躊躇した僕の目に、ルルの頬を伝った涙が顎から垂れて地面に落ちたのが映った。
その瞬間だった。その瞬間間違いなくそこに生まれてしまったのは。
向こう岸が見えないほど深く、あまりにも広い裂け目が。
僕とルルの間に。
そんな状況に冷や水をさす様にバッと影が落ちた。
気づけばもう列車は、あんなに遠くに見えた城門の下を通り過ぎようとしていた。一刻も早く隠れないと、車上で立ち上がっていてはあまりにも人目に付きすぎる。
僕は逃げるように天板と同系色の布をバックから引っ張り出す。ルルは天板にしゃがみ込んでいた。
「いったん、隠れないと。見つかっちゃうから、さ」
焦って話す僕の声は自分で聞いていても早口で卑屈で、自分を隠そうとしているように汚らしく思えた。
僕は力なくしゃがんでいるルルを布の下に横たわらせて、僕もその横にもぐりこむ。
まずい、何か言わなければ、とは思うのに。
今声を出したら兵に見つかるかもしれない、というささやきに甘えてしまう。
僕はルルに背を向けて横になり、ひたすら列車の音に集中しようとしていた。
ブレーキが利く音が少しずつ大きくなって。それで、列車の振動が少し強まって。あと、それから、周囲が暗くなれば駅の中。
そう、心の中を無理やり情報で満たそうとしても、僕の指先のしびれは取れない。
背中に張り付く、服の濡れも収まらない。そして、ガンガン殴りつけられているような頭と、呼吸がうまくできない事で現実からずれていく視界は、延々と僕の脳みそに渦を巻いていた。
数百年にも数万年にも思えるその針の筵の時が終わり、その針が抜けきらないうちに僕たちは計画通り6時の鐘きっかりに列車から滑り降りていた。
どこかのタイミングで話しかけないと、そうは思うのに。逃げ切ってからゆっくり誤解を解けばいい。今は逃げるのが先決だ、という声が街中の線路の沿線に続く壁を反響している。
沿線に続く壁を、金具を先に付けたロープを引っ掻けてよじ登る。乗り越えた先に着地をしたとき、妙に足音が響いて肝が冷えた。
言えない!言えない!なんて言えば。なんて話しかければ・・・。
ルルはあれから一言も話さない。僕に顔も見せてくれない。僕はその時、人生で初めてルルに恐怖していた。
落ち着け、と僕は自分に言い聞かせる。今までだって全く喧嘩をしなかったわけじゃない。いままではどんなにひどい喧嘩をしても、一晩寝たら次の日には何事もなかったように朝食が食べられていたのだ。
だから今回もきっとそうなると、そう信じこもうとする僕をあざ笑うかのように、気味の悪い声が耳元で喚き散らしてくる。僕が耳をふさいでも聞こえてくるほどの大きな声で僕を嘲笑している。
『今回は今までのしょうもない喧嘩とは違う。全然別物だ。だってお前はルルに向けてお前なんていらないといったようなもんなんだぞ?お前なんかいらねえって、信じてた弟君から言われたルルの気持ちはどんなだったんだろうなぁ?』
僕は喉奥からこみあげてくる涙にさらなる苛立ちを覚える。この状況で僕が泣くなんて卑怯にもほどがある。原因を作ったのも、実際に行動したのも全部は僕の責任なのだ。だからここで僕が泣いていいはずがない。けど、どうしても泣きたくなってきてしまう自分が情けない。
僕はそんな声から、そんな感情から、そんな自分から逃げるようにして、ルルの後を追いかける。
考えるな。考えるな、そう自分に話しかけるようにして無心で足を動かす。
そうだ、今までの移動距離からして、あと少しでスラムのはず。何歩くらいだろう。あと数十、いや数歩ぐらいで。
そう考えたときにはもう僕たちの目の前にはこの町のスラムが広がっていた。
今までの町にあったスラムと同じように、崩れかけた家々の成れの果てのようなものが散乱している、雑多で粗野な光景にふっと、息をつく。
とりあえず今は切り換えないと。そう思った瞬間、抜けかけた僕の気を一気に締め上げるように、固く感情を滲ませないルルの声がした。いつもは話しかけられるだけでうれしくなるはずのその声も、今では兵士の怒号よりも恐ろしい。
「短剣用意しといて」
「・・・う、うん」
僕はやっとの思いでそれに返事をして、バックの中から身分証代わりの短剣を取り出す。
走りながらぐるっとあたりを見渡すと、あたりは夕日で赤に染まっていた。
西日に照らされてひび割れが濃く見える道、赤く照らされた廃墟のようなバラック群や中央で真っ二つになってしまっている柱。でも、廃墟のように見えて、今までの他の町のスラムと同じようにたくさんの人たちの生活があるはずだ。
でも、今は誰一人見えない。
大穴が開いた屋根がかかっているあばら家に、唯一の人影が見えた。僕たちはそこに向かう。
地面に僕たちの足音がなっている。
夕日が逆光になっていてあまりよく見えないその人影は、微動だにしない。僕は、やや不思議に思いながらもその屋根の下に歩を進めた。
「あの、これ・・・」
屋根で日がさえぎられ、パタリと板がひっくり返るように周囲が薄い灰色になる。僕は数度瞬きをして目が慣れるのを待つ。
じわっとにじむようにしてその人影が見えるようになる。
不意に泡立つ皮膚が僕の足を引きずった。
「ぇ?」
そこにいた人影は黒かった。
人影が黒いのは至極まっとうなことだった。全身が黒で塗り固められたような服を纏ったその人間はひどく既視感があって。
「まずっ!」
ルルがそんな言葉を言い終えるよりも早く、僕の手に鉄塊が打ち付けられるような衝撃が走った。
キッと言う耳障りな摩擦音が遅れて聞こえて、間抜けな軌道を描いた短剣が宙に舞った。
「な、なんで?」
僕の意識は再度絶対零度に叩き落される。心臓の音がうるさい。
凍り付いた視界に映ったのは、個性のない無機質な目と、獲物を視界に捕らえたというようにブワッと煙を吐き出したばかりの冷たい銃口だった。
「なんで、兵士がここに!」
僕の手が一気に引っ張られた。世界が引きずられるように残像を残して僕の体が半分中に投げ出されるようになる。
「おいテル走れ!」
そう叫んだルルの声は珍しく悲痛なほどの焦りが浮かんでいて。
次の瞬間、走り出したばかりのルルの足がつんのめるようにして止まり、僕の体が地面に投げ出された。
ガツッと音がして一瞬視界が黒くなり、一瞬意識が遠のきかけた僕は焦りに突き動かされて無理やり体を起こす。
隣ではルルが呆然としたように歩を止めていて、僕の周りに広がる世界はどす黒い漆黒に染め上げられていた。
右にも左にも黒の兵の群れ。
後ろには冷めた目の兵士と、その背後に黒雲のようにあらわれた黒の壁。
前には、背に黒い悪夢を携えて、楽し気に笑みを浮かべた貴族が、絶望を齎すように立っていた。
「やあ、初めまして。僕の名前はトルク・ラルドス。名残惜しいかもしれないけどA00003341番、君の楽しい旅はここで終了だよ?」
僕とトルクの間に必死で立ちふさがったルルが僕を守るように左手をバッと開く。
ワンピースのスカートがブワッと広がり、ルルの手から放たれた石が、コツンと音をたてて貴族の前に出現した半透明の壁に弾かれた。
パシュッと音がして、ルルの右肩に睡眠針が刺さり、一瞬してルルは地面に崩れ落ちた。
隣に倒れているルルが地面に爪を立てているのが見える。
ギロチンのようにガチャッと音がして動けなくなっていた僕に後ろ手に手枷がはめられた。
トルクはまるで楽しげなおもちゃをもらった子供のように無邪気な笑みを浮かべた。
「あらら、かわいい顔して手癖が悪いね。特定個体ちゃん?これはお仕置きしないと」
僕はこの時。
意識を失ったルルの代わりにどうやって逃げるかを考えなくちゃいけなくて。
立ち上がってくれないルルの代わりにこの兵士たちを倒さなきゃいけなくて。
脅威との間に立ちふさがってくれるルルの代わりに自分で自分を守らなきゃいけなくて。
暖かい声をかけてくれるルルの代わりに自分で自分を励まさなくちゃいけなくて。
いつも当然のように危険を避けて行って、僕にまで気を配ってくれるルルの代わりに。
僕がルルを守らなきゃいけなかったはずなのだ。
だけど、その時僕は結局何もできなくて。
薬のせいで身動きをとれないルルの腹にトルクが笑いながら蹴りを入れても。
えずいたルルがぼろ雑巾のように髪を掴まれて持ち上げられていても。
ルルに見せつけるように、僕に向かって銃弾が放たれても。
ルルが絶望したような眼をして僕の方に手を伸ばしてるのを見ても。
僕は手で自分をかばおうとすらできなかった。
ルルのためにせめて避けようとすることすらもできなかった。
あ、死んじゃう。
と、そう僕があきらめた時も。
―――僕を助けてくれたのは僕じゃなくて、ルルだった。
「ゃ、めろ!!!」
世界が蒼に凍りついた。
そうルルが声を絞り出すのと同時にルルの体を包み込むように青白い糸が濁流のように出現した。
何十、何万もの白糸が僕を守るように銃弾に絡みついて動きを止める。
ルルから流れ出すその糸に弾かれた兵士たちが地面に無様に転がる。
バチッと音がして軍事用の遺物である銃が、兵の装備が地面に墜ちる。
夕日が蒼く染まり。
ルルの瞳が、肢体が、髪の毛が蒼く発光したその時。
僕たちを馬鹿にするようにパチパチと拍手が聞こえてきた。
「素晴らしい。最高だね特定個体ちゃん!これで連邦はこんどこそ終焉を迎えるんだ。そう、僕の手によって!」
そう笑いながら言った貴族に向けて、蹴りのお礼を返すようにルルの白糸が襲い掛かった。
神速の糸の先端がその殺傷力を示す様にギラリと光る。
殺った!
そう僕が思った時、その貴族の周囲に透明な障壁が生まれた。
バチッと音がして白糸が弾かれる。
「ぁあ!!」
イラついたようにルルに叫ぶと、世界が鼓動した。
ルルを世界の心臓として、世界が震えている。
どくりと、周辺の景色が蒼く脈動した。
その鼓動に応じるように、貴族を守る障壁にグニャリと揺らぎができる。
「おっと、まずい。お~い。聞こえる?」
貴族の男はまるで遊戯に興じるように、気楽な声で無線機に向かって話し始めた。
ジジ、バチッと何度か障壁に跳ね飛ばされた後、ついに障壁の裂け目に入り込んだ白糸が貴族の額に迫る。
僕は今度こそとこぶしを握り締めた。
一瞬で糸が徹った。
余裕の表情をしていた貴族の額を、なんということもなく白糸が貫通した。
致命傷を受けた貴族に、周囲の兵があっけにとられたような眼を送る。
「「トルク様!!」」
そう兵たちが叫んだ声が僕の耳にも入ってきたころ。
「トルスト全域に、ボイドパルス発生」
そんな声が白糸を貫通させたままの貴族の口から発せられた。
トルクの幼い少年のような顔に、歪んだ弧がパックリと開いた。
今度は僕たちがあっけにとられる番だった。
「僕はこんなことじゃ死なないよ?」
ガンと銃声が鳴った。
額に貫通している白糸を、いつの間にか手にしていた白い銃で撃ちぬいたトルクは、萎れるように消えていく糸をちらりとも見ずに言った。
「言ったでしょ?君たちの楽しい旅は―――」
トルクの足元からこの世の醜悪さを煮詰め、練り固めて幾倍にも凝縮したようなどす黒い汚濁の波が湧き出てきた。
ルルを繭のように包み込んでいたやや蒼みがかった白糸が、汚泥にどんどんと汚されていく。それと同時にルルの顔が苦痛をこらえるように歪み、その体の表面に帯電したかのように紫電がバチッと走った。
「ここで終了だよ?」
ルルの体が地面に落ちた。
「ルル!」
ふっと、世界のゆがみが元に戻り。
白糸が消えて、時が流れ出す。
ルルに向かって伸ばした僕の手が、ガツンと殴られたように醜悪な流れに弾かれた。
僕はさっきまで白糸になんとか押しとどめられていた濁流に正面からなぎ倒された。
それは再び動き出した銃弾が貫通する場所を、僕の額から左耳に変え。
僕はその銃弾に鼓膜が破れるような音と、意識が飛ぶほどの衝撃を受け。
もんどりうって地面に転がった僕の意識は、一瞬で彼方に消えた。
*
いつかのあの日と同じように雨が降っている。僕はスラムの壁に背を持たれかけさせて呆然と空を見ていた。
左耳がいまだに不快な音を奏でている。肩に固まった血が気持ち悪い。
どうやってここまで来たのかも覚えていなかった。
僕は一つ瞬きをする。
■■に、謝れなかった。誤解なんだと、言い出せなかった。なんで僕たちの居場所がばれた?いつから僕たちはつけられていた?■■は何であの時。あんなにひどいことを言った後なのに。僕をいつものように守ってくれたの?
そんなすでに取り返しがつかないことへの後悔と。そんな今更どうしようもない疑念と。そんな吐き気がするほどのちっぽけで低俗でどうしようもない自分へのみじめさと、心に吹雪が差し込んでくるような喪失感とを。
ボロボロの心で感じて。
これから、僕はどうしたらいいんだろう。どうするべきなのだろうと。
空っぽの僕が頭の中に汚い泥をかき混ぜている。
ああ、頭がぐちゃぐちゃだ。もう少しで僕の体はこの雨の中にじくじくに溶かされて消えていくのだとそう感じる。
僕の前の道は、すでに消えてなくなっていた。僕の隣にあった光は、すでにそこから去っていた。暗闇の中、たった一人で立ちすくんでいる僕は。ひどく滑稽で、冷めた笑いすら出来ないほど出来の悪いジョークのようで。おかしな笑いがこみあげてきそうだったけど。そんな笑いが浮かびかけて水たまりの広がる石畳に落ちた。
姉ちゃんが、消えた。■■が、消えた。僕の大切な人が、僕が守りたかった人が、僕を守って消えた。
僕は何もできなかった。
あれほど、自分によっていて。すべてを分かった気になっていて。■■の気持ちを自分勝手に弄んで。それでいて、その■■に助けてもらった。
僕の気持ちは、僕の心は、その時ぽっきりと折れてしまったのだ。
一時的でいいから、仮初でいいから、何かに頼りたかった、すがりたかった、1つの正義を信じたかった。
目の前にふっと影がかかった。
雨は降っていたけど。僕の視界は霞んでいたけど。僕は死んでもいいと思っていたけど。
でも、いつかのあの日と違って、そこにいたのはルルじゃなかった。
ルルであるわけがなかった。
そこには、40代半ばほどに見える、サングラスをかけた白髪交じりの男が立っていた。黒いガラスの奥の目は血に染まっているように赤く、その瞳の下にはサングラス越しにでもわかるほどのはっきりとした隈が刻まれていた。
男の口から生きるのに疲れたような声が吐き出された。
「お前、国に。恨みがあるんじゃねえか?孤児狩りをしているこの帝国に」
僕はピクリともせずに一度瞬きをした。
目の前に手帳が踊っていた。
霞んだ視界に揺れる黒表紙が、未知の扉を開けるように開かれる。
右のページには事務的でいて、僕の脳髄をむしゃぶりつくすほどに暴力的な赤文字で『RESISTANCE』と書かれていた。
*
『任務開始から37分22秒。目下逃走経路の索敵中です。脱出ポイントに到達次第、一時待機してください』
耳元のインカムから事務的な女性の声が聞こえてくる。僕はその情報を聞き流しながら、暗闇の中を進んでいた。盗み出した書類が入っているバックが背中に擦れる。むき出しで地面の金属部分に触れている手のひらと膝が冷たい。何事もなく目標のポイントに到達した僕は、小さく息を吐いた。
あれからひと月ほどたった。僕はあの日、あの黒表紙の手帳を手に取ったときに決めた。
まずは■■に会おう。まず会うのだ。たとえ嫌われていても、拒絶されても。
まず会う。すべてはそこからだ、と。
僕は夜の道を拠点に向けてひた走りながら、今までレジスタンスの任をこなしながら集めてきた情報を振り返る。
あの日、あそこに兵がいた理由は、ここの構成員の人に教えてもらえた。
「俺はもともと兵士をやっていたんだが、孤児狩りに嫌気がさしてね。逃げるときにこの左耳の発信機を切り落としたんだよ。」
かなりの古株らしいその人は自分の左耳を指さした。その左耳は■■のように欠けている。
「この国はとにかく粘着気質でね。一度手元に置いた奴は絶対に離さない。実験動物、兵士見習いから、上は官僚まで。国の息がかかってる奴にはほぼ確実に場所を特定する遺物が埋め込まれてる。全部で膨大な数があるから管理が怪しくなってて多少見つかりにくい時もあるけど、結局国が本気を出したら半年くらいで見つかっちまうのがオチだ。君が1年見つからなかったってのはかなりラッキーだよ」
その人は僕の頭をぽんぽん叩いて言った。
「まあ、俺たちは見つからないさ。このレジスタンスはあの血染めの瞳のバルバロイに率いられてるからな。アッシャーとかいう混ざりものとは違って、ここは完全に国に虐げられた同志たちの集まりだ。俺たちでこのクソみたいな国を変えようぜ!」
そういって笑ったその人は一週間前から見かけていない。
この組織の創設者にしてトップ。血染めの瞳のバルバロイ。彼、バロは、僕をこの組織に引き込んだ張本人で、裏の世界では伝説的な知名度を誇っている。
創立当初は今以上に過激な計画をいくつも成功させていたらしく、3,4年ほど前には軍の中心施設にまで潜入することに成功したらしい。
しかし残念ながらその襲撃計画は最終段階手前で挫折。主要メンバーは壊滅し、バロ一人がその地獄から生還した。
現在は組織の立て直しを図り、目下潜伏中。彼の名前に誘われた志ある市民が彼のもとに集い始めていると言う訳だ。
僕はスラムのはずれの酒場に入る。店主に合言葉を伝え、カウンターの奥から地下へ階段を下る。気付けば僕の耳には僕の足音だけでなく、ざわざわとたくさんの人の声が流れ込んできていた。狭かった通路から視界が一気に開け、たくさんの人物の話し声、騒ぐ声が聞こえる。
ココがレジスタンスの拠点だ。
「おーいテルちゃん。遊ぼうぜぇ?」
そう声をかけてきたのはプルク。いつも僕に絡んでくる、右目の端の三日月型の傷が妙に印象的な男だ。
いつも通り、酒盛りをしながら仲間とカードゲームにいそしんでいる。
「ごめんなさい。今ちょっとそういう気分じゃなくて」
「つれないなぁ。俺とテルちゃんの仲じゃないか!」
そう言ったプルクは片手を強く掴んできた。
「ちょっ、痛いです。やめてください」
「おっと、こいつぁすまねえ。じゃ、また今度遊ぼうぜ」
そういってひらひらと手を振ったプルクはまた、仲間とのゲームに興じ始めた。捕まれていた腕がじんじんと痛む。かなり強くつかまれていたようだ。
なんなんだあの人は。
僕はバロに盗み出してきた書類を届けに拠点の奥に歩を進める。
バロの部屋は、実用性のみを追求したような机と椅子、書類を入れるための棚以外何も置かれていないとても殺風景な部屋だった。事務的な机の上にはたくさんの書類と、大量の手紙、そして一つだけ浮いたように置かれている写真立てがある。その写真の中では赤子と10歳くらいの少年、そしてまだ若い赤髪の女性が微笑んでいて、その女性の肩に手を回して薄く笑っている若きバロの姿が映っていた。当時のバロはつつやかな黒髪と、今でも肌身離さずしているサングラスを目に欠けた精悍な若者で、その浅黒い丸レンズの奥には血のような赤い瞳は、幸せそうに細められていた。
バロは苦労してきた年月がにじみ出るような手でその写真を無造作に横にずらし、写真と比べて白が混じり始めた髭に触れた。サングラスの奥の瞳の下には、サングラスでも隠し切れないほどの隈がのぞいている。
「任務、ご苦労だった。今日は休んでくれ」
「わかりました」
僕は一礼して部屋を出る。
僕が手を離すと同時に扉は速やかに閉まっていく。
ちらりと見えた室内のバロは写真立てを持ち、こちらに背を向けていた。
「・・・ぁない」
ドアが閉まる音に交じって、かすかに声が聞こえた。
僕は再度拠点の階段をのぼり、酒場から外に出る。またプルクに絡まれるのを覚悟していたものの、彼はいつの間にか消えていた。
あたりは既に暗くなり始めており、僕の足取りも自然と早まる。
僕は運良く見つけられた寝起きする場所へ戻ろうと、裏路地を曲がった。
しゃらん、と金属音がした。
こんな時間に珍しいな。
僕は奥からこちらに向かって歩いてくるその人影を見て思う。
外套を身にまとい、深々とフードをかぶったその人影は足早にこちらに向かってくる。カツカツと足音が刻まれるたびにやや遅れて金属がすれるような音が鳴る。
この音、どこかで・・・?
影のように近づいてくるその人物と僕がふっとすれ違った瞬間。
一瞬目があった気がした。
獲物を凍り付かせる蛇のようなその目にはどす黒い紅が―――。
とんっと体が衝撃を受けて視界がぐらっと傾く。
あ、まずい。
そんな間抜けなことを考える間もなく、僕は地面に倒れこんでいた。