二話
旅人の出入りが多く、かつ警邏隊の詰め所が見えて、その上詰所から近過ぎないギリギリの位置。
そこに座り込んだ僕は石畳の凹凸にはめ込むように、折り畳み式の小さな台を置いた。
町と町を移動するにはある程度の金が要る。しかも今回の移動は帝国と仲が悪い連邦への移動だ。国境ではかなりの金額を吹っ掛けられるらしい。
僕たちは一応お尋ね者なので正規の方法で国境を通るわけではない。だからその金はいらないと言えばいらないのだが。
こっそり国境を通るのにもやっぱりお金はかかるのである。世知辛い。
僕は口の中で口上を転がしつつ、手を開いたり閉じたりする。
と、言うわけでこいつの出番だ。
何の変哲のない3枚のカードがあって、これをひっくり返して混ぜ合わせる。あたりのカードを当てたら掛け金が倍に!というお手軽に誰でも当てられるゲームである。
つまるところイカサマなのだが。
「あー惜しかったですね!」
「ちょっと・・・ずれちゃったみたいです」
「もう一回やってみます?次はきっと当たりますよ!」
僕はカードを全て裏向きにした後、首をかしげながら帰っていく男の背中を見送った。今日はなかなかに調子がいい。手のひらの小さな袋からは心地よい重さがする。
僕は少しその感触を楽しんだ後、3枚のカードをさっとそろえてカバンにそっと入れる。台をたたんでその横に突っ込む。金が入った袋を首にかけて服の中に入れる。
よし、逃げよう。
僕は警邏隊が見回りに来る前にさっさと逃げだした。
*
柱の根元の穴からネズミが顔を出したり戻したりしている。ふと、ネズミがもう一匹影から走り出てきた。パンの欠片を咥えている。そのネズミが穴に飛び込むと中からチューチューと鳴き声が聞こえてきた。まるで主の帰りを喜んでいるようだ。
僕はそこから目を離し、大通りに目を走らせる。さっきまでは聞こえてきていなかった喧騒がドッと聞こえ出した。
近くで話している2人の男の話が聞こえてくる。片方はひどく酔っており、愚痴を言っているようだ。
「あー、帝都動力機構なんてもんが出てきやがってぇ、生活がめちゃくちゃだよ、ヒヒッ、なぁ」
「ああ、その上に孤児狩りときたもんだ。やってらんねえぜ」
バンと机が叩かれる音がした。涙交じりに男はわめいている。
「俺のガキなんてなあ、孤児じゃねえのにさらわれやがったんだぜぇ。まだ8歳にもなってなかったのによ」
「おい。あんま、大声で話すと捕まるぞ。国が最近暗殺部隊を再編して秘密警察みたいなのを作ったとか噂が流れてるしな」
「あぁーーー、頼みの綱はレジスタンスしかいねえよ」
「そういえば、最近ではアッシャーってのも出てきたらしいぞ」
遺物にはたくさんの種類があるらしい。火薬を使う物よりもはるかに強力な銃に、大量の物資と人員を積んで高速で移動する列車。軍では無線機と呼ばれる遠方の人と話すことのできる装置や、そこにいない人の位置を判別する装置などが使われているそうだ。なお、遺物はこの国の貴族と軍によって独占されており、一般庶民は使えない。
ふと視界の端の方にさっきまで大通りの方へ偵察に行っていたルルがこちらに走ってくるのが見えた。
ルルは、戻ってくるなり苛立ちをぶつけるように足元の石を蹴り飛ばした。気持ちを落ち着けるように長く息を吐き出したあと、眉根を寄せてしきりに鼻をこすっている。
「・・・テル。計画の変更だ」
「どうしたの?」
「本当はこの後余裕を持たせるために旅用の物品を盗み集めるつもりだったけど、無理そう」
「じゃ、じゃあもしかして」
「ああ、もう軍が来てるみたいだ」
僕は耳を澄ませた。遠くで軍の装甲車のキャタピラーが駆動している音が反響している、気がする。スラッグたちは大丈夫だろうか。僕は通りを覗きに行こうとするも、姉ちゃんに服を引っ張られた。
「さっさと逃げるぞ!」
「わ、わかった!」
ルルはぱっと走り出した。
僕はさっと地面を見渡して数個の石を拾ってから、ルルの方に向かって走り出す。
数俊下後、背後から怒号がした気がした。
「見つけたぞ!」
ルルは舌打ちをしてスピードを上げる。
僕もルルと並び、置いて行かれないように必死で走る。角を曲がるとき、ちらりと黒い格好の兵士がこちらに走り寄ってくるのが見えた
走る。走る。走る。
腰の袋が上下にはねる。中の物品がじゃかじゃかシャッフルされていく。
足から脳髄に衝撃が鈍く伝わり、後頭部から全体にじんわりと熱がしみわたっていく。毎晩空を眺めながら飽きるほど叩き込んだ逃走ルートが、幾通りも目の奥に光り始める。この場所から最短で街を脱出するにはどこだ?どのルートが一番安全?
右。壁に特徴的な形の板が立てかけてある。現在地の把握。
左。地面に欠けたレンガがバラバラに置かれていて足場が悪い。逃走ルートの選定。
左。地面に生えている苔を使ってザーッとスライドし、滑らかに地上から50センチほどの隙間に体を滑り込ませる。抜けた先で手をつくのはあらかじめずらして設置しておいた筒状の廃材。スピードを削らないようにスライディング姿勢からスムーズにフォームを戻す。
加速。加速。加速。
「姉ちゃんこのパターンは4か5!!」
「うん、5だ!」
「了解!」
急に現れる低めの壁を片手をついて飛び越える。
死角にある先端のとがった廃材をギリギリで避ける。
補修されていない壁の穴を背面飛びで潜り抜けてショートカット。片手を地面にたたきつけて方から転がってすぐさま体勢を戻す。よし、着地もばっちり。
背筋にツーっと汗が伝い、一瞬で服に吸収される。ジャンプしたとき髪からしずくが宙に散る。
「クソが!お前ら待ちやがれ!」
さっきまでよりも怒号が近い。
一時は50mくらいあった差は気づけば10mくらいになっている。
兵士は僕たちほど小回りはきかないが、僕たちの数倍スピードがある。増援を呼ばれる前に小回りと情報量の多さで圧倒しなくてはいけない。追いつかれること、包囲されて正面戦闘になること、それらは即ゲームオーバーを意味する。いかに喧嘩自慢のルルも、本職の軍人相手に正面から戦ってしまっては勝ち目は万に一つもない。
「ふん。待てって言われて誰が待つんだよ!」
走りながらちらりと後ろをむいたルルの独り言が聞こえて、僕は走りながらこみ上げてきた笑いを押し殺す。
でも、僕の意識は寸分も切れずに周囲の情報源となりうるすべての物の間を飛び回り続ける。脳内の地図が濁流のように切り替わっていく。兵士のいる可能性のある場所をなるべく避け、不確定要素、間違いやすい箇所、その時のリカバリーも脳内でシミュレーション。
このルートの場合は―――。
ここからあと26回右で19回左!
右。飛ぶ。
右。走る。
左。曲がる。
右。跳ねる。
左。滑る。
スライディングをしている瞬間、世界がスローモーションになる。眼前すれすれをかすめていく、ひどく曲がった金属の柱の端に―――。
―――20日ほど前に書いた白点を、僕は見逃さなかった。壁の縁に小さいバツ印と、T12の文字。
「T12!」
ルルが叫ぶ。
「・・・ぁっ、わかって、る!」
負けじと僕も必死に叫ぶ。
兵士との距離はもう5メートルもない。男の荒い息遣いとガチャガチャ騒ぎ立てる武装が耳のすぐ後ろまで迫ってきている。あと少しで、ほんの少しで首筋に息がかかりそうだ。
僕たちがこの町に来て最初にしたこと。
それは、逃げ道の確保。そして、そのためのトラップの設置だ。
この町には僕たちが設置した罠が、軽く2桁くらい仕掛けられている。そして、12番目に仕込んだのはロープで発動するトラップ。
僕はさっき拾っておいた小石をポケットから取り出して握りしめる。腕がぶるぶると震えていることに今更気付いて無理やり息を吐き出した。
脇腹を抱えてうずくまりたい。
空っぽの腹に冷たい風が吹き込んでいる。着地の衝撃ごとに胃液がチャポンと跳ねる音が聞こえるようだ。一つ角を曲がるたびに、度が過ぎた腹の気持ち悪さに悲鳴を上げそうになる。昨晩あんなに食べたのにもう空腹を訴えてくる腹が恨めしい。
隣からルルが走っている足音が伝わってくる。荒い息遣いがすぐそこから聞こえてくる。隣にはルルがいる!そう念じていないと、今にも体が、気力が砕けてしまいそうになる。
僕の足首をつかんで暗い水底に引きずり込もうとする亡霊のように、背後からこちらに伸びてくる手を感じる。もうあと数秒で僕の背に兵の手が届くだろう。
手が届いたら、何をされるのか。それを考えると足が今にも絡まりそうで。頭がスパークして何も考えられなくなりそうで。
でも。
「テル!!」
ルルの声が妙に遠くで反響している。何か言っているのかもしれないが耳鳴りがひどくて聞き取れない。でも、間違いなくルルが僕の隣にいる。その事実は臆病で意気地なしの僕の心をこれ以上ないくらい奮い立たせる。汗が目に。視界がにじんでぶれる。
小石を握って振りかぶった手が一瞬兵士の手に触れた。
でも、ルルと一緒にいる。そう思うと不意に腕の震えが止まった。
馬鹿みたいに高止まりしている心拍数は、何ら結果に影響を及ぼさなくて。僕の腕は練習していた通りに動いて。
兵士の手が僕の服にひっかかるのとほぼ同時に僕の手から小石が飛んだ。
すーっと脳内で描いた通りの軌跡をなぞってまっすぐに飛んだ石は、トラップの起点であるロープの結び目に正確にぶち当たり―――。
さっと背筋に寒気が走り、僕のすぐ後ろ、僕の服を掴みかけていた兵士の脳天に、彗星のように植木鉢が着弾した。
鈍い音。
一瞬の静寂が僕とルル、兵士の間に流れた。額に流れる汗が、張り付いた背中の服が、無性にかゆく感じる。
数瞬にして数時間のような静寂の後、兵士は、僕の服を掴んだまま膝から崩れ落ちた。
ルルが深く息を吸い込む音がやけに大きく聞こえて、遠くからさっきまで聞こえてなかった喧騒が濁流のように耳に流れ込んでくる。
「っしゃビンゴ!」
そういってルルは口笛を吹いて、僕の背中をバンバン叩いた。
「い、痛いって」
僕はにやける顔を押しとどめながら震える足を曲げてかがみこむ。兵士の手に僕の荒い息がかかった。僕は爆音を鳴らしている心臓を抑え込むように体を丸め、兵士の手に引っかかっている服を外した。
「ゴーゴーゴー!」
ルルが僕の手を引っ張って立ち上がらせる。
一瞬止まっていた僕たちは走り出す。固まっていた空間が流れ出す。途端に世界が鮮やかに輝きだす。
薄暗い路地が、明るい勝利の道に見えてくる。
ルルの髪が優雅に宙を舞った。薄暗い路地裏に神様が魔法をかけてくれたようだ。可憐に流れる蒼の奔流に、一瞬目を奪われた僕は一度躓きかけ、無理やり意識を足元に戻す。
ルルが隣にいてくれるのなら、隣で走ってくれるなら、僕はなんだってできる。兵士にだって立ち向かえるし、臆病な自分にも、襲い掛かってくる奴らにも抗える。ルルがいれば詰まりそうな息も、暗闇に覆われそうな視界も気になんてならなくなる。
力強く地面を踏みしめた足が、苔むしたレンガを飛び越えた。
「姉ちゃん!このまま逃げ切れそう?」
僕の言葉を聞いて、後ろをちらっと見たルルが悪態をついた。
「あー、くそ。頑丈すぎんだろあいつ。」
後ろの方で小さく、破片がパラパラと落ちる音がした。ルルの目線の先を追うと、先ほど植木鉢がクリーンヒットしたばかりの兵士が地面に突っ伏したまま、手で頭から破片を払い落としているのが見える。ふらふらと上げられた兵士の右目の縁に、三日月のような白い傷跡があるのが、妙にはっきりと見えた。
「うそ!?」
「手元だ!」
と、僕たちが言ったのと同時に頭を振って無理やり意識をはっきりさせた兵士は、震えながらも地面に片手をつき、首にかけている笛を紐から引きちぎるように口元に当てた。大きく息を吸い込むように体が反りあがる。
「テル!!」
ルルに言われて慌てて投げた小石は、笛を持っている兵士の右手をガリッとえぐり、血をぱっと飛ばしたものの、笛は兵士の口元から張り付いたように離れず。
「あ゛―!クソがぁ!」
試合終了を告げる笛のように、終わりを告げる甲高い音がルルの怒号をかき消して路地裏に響き渡った。
*
それからは一瞬だった。
後ろを追いかけてくる兵士が1人、2人と増えていき、十字路を抜けるたびに視界の右端と左端に黒い影がちらつくようになってくる。
その影がだんだんと増えてきて、僕の視界はだんだんと黒に塗りつぶされてくる。
視界に増えていく黒の面積が、僕たちの逃げ道を、僕たちの先を、僕たちの可能性を、どんどんと覆い隠していく。
ふと養成所での授業を思い出した。全部隊の全隊員の現在地をリアルタイムで追うことによって最適化された行動を可能に。そんな風に訥々と語っていた教官の冷たい顔が脳裏に浮かぶ。そういえば僕はあの人が怖くて苦手だったのだ。
―――まずい。思考が乱れ始めている。今は、少なくとも今だけは集中しなければいけない。
大丈夫だ。確かに困難な状況だが、まったくゴールが閉ざされてしまったわけではないのだ。まだ足は動いている。まだ、今までの移動経路は全部頭に入っている。まだ、脳内の地図は明瞭に頭に浮かんでいる。
僕は胃の中身を全て吐き出すような気持ちで、じくじくと痛む足を思いっきり地面にたたきつけた。
まだ、光は残っている。まだ、僕の頭には、何事もなく逃げ切って呑気に街道を歩いているルルの背中がくっきりと浮かび上がっている。
僕は全身で泣き叫ぶように、百キロにも千キロにも思える腕を思いっきり振るった。
あと一回。一回右に曲がれば。そうすればもう、街の外だ。それで何とかして兵を巻いて、森に逃げ込んで。そうすれば―――。
視界の先にT字路の突き当りが見えた。
あそこだ。
僕は砕けそうなほど歯を食いしばる。永遠にも思える3歩を、一つずつ地面に刻む。
1歩目、あと2歩だ。
2歩目、もうあと1歩しかない。
そして―――。
「はぁ、はぁ。ここで右に抜けられれば・・・」
しゃくりあげるように、空に向きそうな顎を無理やりに下げ、右を向いた僕の視界には。
―――狭い通路いっぱいに横一列、縦3列の陣形を作った兵が、こちらに銃を向けている光景がゆっくりと現れ始めていた。
ああ、まずいなぁ。
そんな言葉がふんわりと宙を漂っている気がする。
ここを右に曲がらずに左に曲がれば、あれよあれよというまでに町の真ん中へ一直線だ。兵の密度はここの倍じゃ聞かないだろう。
ふと妙に感覚のない左足が気にかかった。そういえば昨日左の足首を痛めたんだよな。あれ、一昨日だっけ?
視界が歪んでくる。喚き散らすような耳障りな叫び声が耳元で聞こえ始める。
ここまでなのか?僕は。
ああ、捕まると僕はどうなるんだろう。敵前逃亡って確か銃殺刑だったかなぁ。
ああ、死にたくない。まだ、何も終わってないのに。まだ、何も残せていないのに。まだ、何もできていないのに。
冴えきらない頭とぼんやりとした脱力感が僕の足を引きずったのか、一瞬足が重くなる。
それは、ほんの少しの変化で。でも、その一瞬は避けがたいほど致命的で。とんっという軽い衝撃とともに、僕の視界にはもう全面に地面という名の絶望が広がり始めていた。
ああ、なんで僕はこう転ぶことが多いんだろう。ついてないなぁ。
力という力が足からことごとく抜け落ちて、でもそれはそこら辺に転がっていて、それでもそれを拾い上げることが億劫で。
僕は地面に手をつこうとすることもなく、だらんと地面に引かれて、近づく終わりに力なく瞼を閉ざそうとする。
パンと間の抜けた音がして銃弾が放たれた音がした。
どっぷりと泥に浸かっていくように、体が地面に落ち込んでゆく。あきらめという名の汚泥が僕の体をすさまじい勢いでのみこんでゆく。僕の体が今にも地面に崩れ落ちようとしていた時、僕の体にあと数瞬で銃弾が食らいつこうとしていたその時。
視界に、吹き抜けるように一筋の蒼光が差し込んできた。
ぐっと力強く手を掴まれる。
ああ、暖かい手だ。いつも僕の食べ物を奪い、僕を殴り、そして転んだ僕を支えてくれる。落ちていく僕を引っ張り上げてくれる。今もなお、あの日のように、死にかけている僕の、身体を、精神を、救い上げてくれる―――。
僕の耳の奥にあの日の雨音が反響し始めた。
*
薄膜を通したように近く遠く雨音が聞こえる。
視界の端に高いレンガ造りの建物がかすれている。
戦場から逃げ出して、追いすがる敵兵と自軍の兵から逃げて、やっとの思いで町まで逃げてきた。とっくのとうに足の感覚なんて消えてしまっている。
そういえば逃げている最中に、味方からか敵からか、足を打たれたような気がする。視界の下の縁にも、確かに投げ出された足と赤いものが見える。でも、もう何も考えられなかった。何も考えたくなかった。
僕の開きっぱなしの瞳に雨粒が一つ、二つ。落ちてくる。
息を吸うたび、喉が焼けただれたように痛んだ。少しでも熱を冷まそうとつばを飲み込もうとしたが、かすれていてもう何も出なかった。
僕は諦観とともに自分の視界に瞼を下ろそうとする。ああ、もう―――。
ふと、遠ざかっていた意識が少しだけ戻り、張り付いていた前髪が額からずれた。
『おい死にかけ。お前まだ死んでないだろ』
声。高い、女の声。目がかすんでいてよく見えないが、目の前にいる誰かが膝に手を当ててこちらをのぞき込んでいる。なんてひどい言い草だ。せっかく寝られそうだったのに。少なくとも、いまにも寝ようとしていた僕にかける言葉じゃないだろう。何か文句を言ってやろう。そう思った僕は重い口を開いた。
『―――ぁぁぅ』
ああ、喉が痛い。砂塵を吸い込みすぎたのだろうか。僕の思いつく限りの悪態を受けたであろう女は、奇妙なものを見るようなまなざしで、こちらを見ている。最後にいい憂さ晴らしができた。そう妙な納得感を得た僕の意識は、だんだんと深いところに沈んでいく。
暗くて冷たい水の中。暗い暗い闇の底。周囲の水が僕という存在を飲み込もうとのしかかってくる。凍えるように冷たい水は、僕の体からごくわずかに残っていた体温を奪い去っていく。暗くなっていく視界が、消えていく体温が、僕という存在を、削り取るように、塗りこめるように、丁寧に、入念に消去していく。
ああ、寒い。寒いなぁ。誰か、僕を。
『小さいな。こいつ』
遠くで、声が聞こえた気がした。手だ。暖かい手。そっと背中に回された手が僕の体をふわりと掬い上げる。
僕の右側がふわふわとした人肌を、触れているところから冷え切った体に、じんわりと伝わってくる体温を、感じる。なんて暖かくて、なんて安心するんだろう。
『おいお前。名前あるか?』
そんな声が聞こえた気がして。
『・・・ぇ、るぅ』
『・・・ルー、か?』
僕は細く、細く目を開ける。
灰色の空に吹き抜けるような一対の蒼が揺れているのが、見えた気が、した。
*
僕の眼が開かれた瞬間、一気に大量の情報が流れ込んできた。
蒼だ。視界がひどく蒼い。世界が一瞬静止しているような気がする。
やけに兵士たちの顔がはっきり見えた。蒼く照らされた兵の顔はそろいもそろって驚愕の表情を浮かべている。
そして掴まれた腕の先には全身から青白い輝きをほとばしらせたルルが、普段と違う蒼白く発光した瞳をこちらに向けていた。
「おいルー!コース9だ!頭の回転が止まったお前なんてミミズの糞よりも価値ねえぞ!!」
僕の停止した思考をぼろ布のように引き裂いていつも通りのルルの罵声が聞こえる。僕の手がめちゃくちゃな力で引っ張られる。
よたよたと歩を進めた僕の視界に、銃弾が、僕に向かって放たれていた銃弾がなぜか中空に静止しているのが映った。宙から縒り合されるようにして出現した白糸がその銃弾に大量に巻き付いている。
いったい何が・・・。
そう思った瞬間一気に視界が元の色に戻った。
気付けば銃弾が僕の後方に突き刺さっていて、僕たちは兵士たちと一気に距離を離していて、僕たちは町の中心に向けて走り始めていた。
僕は不意に姉ちゃんの腕がすっとすり抜けそうなほど頼りなく感じ、グッとつかみなおす。
今、一瞬姉ちゃんが半透明になったような・・・。
ぞわりともう一度世界が揺れて一気に世界が元の色合いを取り戻した。チュンッと高音を立てて再度中から打ち出された弾丸が地面に突き刺さる音がする。
僕の頭に針をさす様に兵士の怒号がワーンと頭に響いてきた。兵士たちが何かを怒鳴りあっている。
「特定個体発見!全部隊は緊急招集!3341!特定個体だ!!」
僕は一時さっきのことを考えることをやめる。とりあえずこの場から逃げないと。
『おいルー!コース9だ!』
コース9。
町の中心部から外への唯一の逃走経路。
下水路だ。中心部にある整備用の入り口から中に入ればいいのだ。いくら兵士でも市街地の地図はわかるがこの町の地下に蜘蛛の巣のように広がる水路の地理までは把握できていないだろう。そのうえ、全兵士のオペラレーションに使用している電波で各兵士の場所を割り出す遺物は地下水路内では使えないはずだ。
「こなくそぉ!こんなとこで死んでたまるかぁー!」
半分やけになって叫び声をあげた僕は、ルルを逆に引っ張る勢いで、足の回転を無理やりに上げる。
他人事のように自分の声を、ルルの声を聞きながら僕は走る。裸足で走り続けたせいで、一歩ごとに膝に、頭に、巨大な鉄塊を打ち付けられているかのように痛みが走る。死ぬ気で回し続けた頭にこの衝撃はきつすぎる。一歩ごとに左の鎖骨が悲鳴を上げるように痛むし、脇腹なんかはぱっくり割れているといわれたら信じてしまいそうなほどの激痛を発している。精も根も尽き果て、身も心もボロボロだ。
でも、それでも僕の足は止まらない。
なんで僕は忘れていたのだろう。僕の隣にはルルがいるのだ。ルルが隣で走っているのだ。
ここで、僕が、負けてたまるか。
もう音は聞こえない。下水道整備用の苔むして錆びたちっぽけな扉以外目に入らない。最初は点のようだった扉が僕の視界にどんどん、どんどん近づいてくる。
横道から兵士が飛び込んでくる。スライディングした。ここは地面に苔があるわけでもなくあらかじめ整地しておいた道でもない。とがった石が、地面から飛び出た何かの破片が、足に、地面に触れている手のひらに、幾条にも深くどす黒い筋を刻む。
もはや、痛みは感じなかった。
ただ、ひたすらに。動け、僕の足。
あと少しだけ。あと、もう少し。ほんの少しだけ。
―――動け!
目標の扉は突き当りの右の壁の下の方にある。
今、行き止まりに嬉々として駆け込んでいる僕たちを兵士はどんな気分で眺めているんだろう。うれしいのだろうか。馬鹿にしているのだろうか。それとも、ただ無感情なのか。
最後に少しだけ回転した頭が力尽きたようにそんな妄想を脳裏に浮かべた。
それでも、僕の体は練習していた時の動きをきれいに覚えてくれていたようで。気づけば僕は無意識のうちに視界に広がった小さな扉を開け、頭から飛び込んでいた。
数瞬の浮遊感、そして着水。水深が結構深い上に、体に力が入らず、しこたま口に下水が入りこんでくる。一気に吐き気が襲い掛かってきた。
すぐ隣に落ちてきた水音の主がルルであるかを確認する間もなく、もはや限界だった僕の体は意識を手放した。
*
「はぁ、はぁ」
私は暗い下水路を不確かな足取りで歩いていた。背中には意識を失ってぐったりとしているテルを背負っている。
頭がふらついてきて、視界がぶれる。足にも手にも震えが来てる。背中のテルが信じられないくらい重く感じた。ほんの5センチもないはずの水深がこんなにも足を重くさせるのか。それとも、私がそれだけ消耗しているのか。ふと、頭に名案に思える考えが浮かんだ。
そうだ、いったんテルを下ろして休もう。着水地点からここまで、600メートルは離れている。そうすぐには追手はこない、はずだ。
一度、テルをゆっくりと壁に寄りかからせて、地べたにしゃがみ込んだ。体がぶるぶる震える。服に、尻に不愉快に冷たい水がしみてくる。今になって全身の擦り傷が妙に気になってきた。
さっきの光。私の中から漏れ出てきていたあの蒼い光は、宙から私の意に添うように現れたあのねじれるような白糸はいったい―――。
そこまで考えた途端、不意に記憶がぐにゃりと揺らいで、ふっと色が消えて、わたしは一つ瞬きをした。
はたと思う。今の今まで、私は何を考えていたんだろう。考えがうまくまとまらない。思い出しかけたのに指先から零れ落ちていくナニカがあった気がしたのだけれど。
「げほっ」
咳と同時に出たべとつく何かが水に跳ねた。ああ、くそ。喉が痛い。
疲れで混乱しているのかもしれない。落ち着け私。大丈夫だ。まだ体は限界じゃない。まだ、頭も回っている。少し休んでから、テルを背負って逃げればいい。中心部から外縁へ逃げるルートを思い出すのだ。どこかで食料を手に入れて、寝床を確保して、ああ、まずは飲み水が最初だろうか。
ぱしゃり、ぱしゃりと、遠くで足音が聞こえた気がした。
ああ、と喉から声にならない声がこぼれる。逃げなくては。
まともに動かない体を叱咤し、立ち上がろうとした瞬間、足にうまく力が入らなくてテルに向かって倒れこんでしまう。
倒れた私の額に押し付けられたテルの体は冷え冷えとしていて、いつもの、体温が高めのテルとは正反対だった。
テルは同年代の少年たちと比べても背がかなり低い方だ。さっきあんなに重かったとは思えないほど、その体は小さい。本当に、小さな体だ。
テルの息が荒い、熱っぽい呼吸をしている。額に手を当ててみたが手の感覚が鈍く、よくわからなかった。
前髪を横に払い、土埃で汚れたテルの額をスカートのすそで軽く拭う。間近で見るテルの顔は眉をゆがめていてなんだか泣きそうにも見えた。
視界にちらつく邪魔な横髪を耳にかけ、額と額を合わせる。
私の心臓に痛烈に痛みが走った。
―――熱だ。
おそらく疲れと、冷たい下水に頭まで使ったことが原因だろう。体を温めようにも燃やすものが無い。飲み水も、食料も無い。下手をすると死んでしまう。
「ルー。こんなところで死なないで」
私は赤子をあやすように、なるべく優しい声で話しかけた。
ルー。なんとも懐かしい呼び方だ。でも、その声を聴いてもテルはピクリとも反応しない。
眠ったように壁に寄りかかりながら、荒く乱れた呼吸をしているテル。
昔、酒場で喧嘩を挑んで返り討ちにされた奴に、思いっきり殴られた頬は2,3日腫れが引かなかった。昔、ざっくり切った腕は治るのに半月かかった。
でも、今までのどんなケガも、テルが死ぬかもしれないと、すすり泣いている胸と比べたら霞んでしまう。
暗い下水管に一条の光りが差し込んできた。遠くから終わりを告げる死神のように、水音が近づいてくる。こちらをもてあそぶように、金属の擦れる音が聞こえる。
ああ、あの顔が見たい。いつも私の肩の下くらいをせわしなく動き回り、私に全部を預けているように笑いかけてくれるあの顔。何の目的もなく生きていた私に、生きる理由を与えてくれたあの顔。温度が無かった私の生に、いつまでも消えない灯をともしてくれた君の笑顔を。
ああ、もう一度私に向けてほしい。
今だけ。もう一度。もう一度だけでいいから。
私を暗闇から救い上げて―――。
私の耳の奥にあの日の雨音が反響し始めた。
*
私の憶えている一番最初の記憶は、蒼色の中、じっとりと沈殿してくる赤い泥濘だ。
私という存在がこの世界に出現した時、両親というものは私の周囲にはいなかった。私がこの世界に零れ落ちてきたとき、私はおそらく5歳か6歳で、私の視界は真っ暗だった。私の上に、下に、横に積みあがっている所々に蒼白い糸が巻き付いた瓦礫の山。そしてやっとの思いでそこから這い出た私の周囲に広がっていたのは一面の瓦礫の山と焼野原。私はその時しばらくの間、瓦礫か何かにえぐられた後頭部の傷と左耳の裂傷を抱えて、呆然と立ちすくんでいたと思う。遠くにひらめく炎が妙におどろおどろしく見えてひどく恐ろしく感じたことを今でも覚えている。私が私という存在をとりあえず見つけたその時、周囲の世界は何らかの破壊と火災によって壊滅していた。
つい最近聞いた話ではあるが、頭に強い衝撃が与えられると、人は記憶を忘却の彼方に飛ばしてしまうことがあるらしい。当時の状況から考えると、おそらく私は記憶喪失、ということになるのだろう。
私は当時南方大陸の北西部の端の国にいたようだ。
その後、ふらふらとさまよっていた私は見目がそれなりによかったのもあって、あっという間に人さらいにさらわれ、今いるここ、北方大陸にやってくることになる。
私が当時乗せられていた馬車には犯罪者を輸送する区画と、奴隷を輸送する区画に分けられており、そこで私は一人の女戦士と友たちになった。彼女は私に喧嘩のやり方と、世の渡り方を教えてくれた。
そんなある日、私たちの乗せられていた馬車が襲撃された。悪天候が続き、旅程が長引いていた奴隷商が業を煮やして強行軍を試みた結果、見事に盗賊にかち合ったのだ。どさくさにまぎれてそこから脱出した私はラミストレイ連邦という国に流れ着き、そこの町を転々とする生活を送るようになる。
私はそのころ、日々を生きることだけを目的として、他に何もない生活を送っていた。記憶もなく、家族もなく、手元にあるのは、ごく短い過去と、すでに先が見えている未来。きっとあのまま生活をしていたら、流行り病でぽっくり死ぬか、どこかで危ない奴に目をつけられて殺されるか、それとも逆に殺すか。その程度の未来だっただろう。当時はそれ以外知らなかったため何の問題もなかったのだが、もしそうなっていたら私の人生はひどく退屈なものになっただろう、と他人事のように思う。
私は当時からそんな自分という存在を、冷めた目で現実感無く見ていたような気がする。
強い口調でごまかして、腕っぷしをふりかざすことで、自分を強く見せようとしていた自分を心の奥底で冷笑している誰かがいた。
私は、私という存在をどこか不確かなもののように感じていたのだ。
つまるところ私は自分という存在にひどく自信がなかったのだ。
周りのどんな人とも似ていないこの蒼の髪。まるでお前は消耗品なのだと主張してくるような『A00003341』とナンバリングのつけられたこの瞳。
私は3341番目に生みだされた替えの利く存在なのだと、そういわれているような気がして。
そんな意味も、目的も、『私』という確固とした存在もなかった灰色の生活の中、私はテルに会ったのだ。
ひどく雨が降っていたあの日。
私が隠れ家に帰ろうと雨道を走っていたとき、通り道の途中、濡れた服のままで呑気に座り込んでいる人間が一人。バケツをひっくり返したような雨に打たれながら、壁に背を預けて空を見上げているのを見つけた。
開きっぱなしの瞳に雨がどんどんと降り注いで、溢れている。
どうも足を片方ケガしているようだ。
一目見たときに思った。
こいつは私の嫌いな目をしている、と。
自分には何もない、と自分を卑下することに悦に入っていて、それでいて特に何もしないやつの眼。そして、自分という存在に価値を見出せず、明日死んでも別にいい、とそんなことを本気で考えている奴の目。
ケガをして動けないこいつは、このまま放っておいたら明日には本当に死んでいるだろう、そう思った。
でも、私がそいつに抱いた感情はそれだけ。
こんな目をした奴なんてきっと掃いて捨てるほどいるだろう。それこそ、三千人でも、四千人でも。脳裏に『A00003341』というナンバーがちらつく。
昨日までいたのにいつの間にか消えていたなんて奴は、この短い人生でも飽きるほど見てきている。
きっとこいつはもう誰にも見られることなく、今日ここで死ぬのだろう。
きっと私はこいつに目もやらずに横を通り過ぎていき、雨風がしのげる場所で毛布にくるまって眠るのだろう。
そう、考えたのに、私の足は動かなかった。なぜか私の目はそいつから離れなかった。
理由はわからなかった。気づけば私はそいつの顔をのぞき込んでいた。
でも、今ならわかる。そのとき、私は。
いつも水で顔を拭うとき、何か食べられるものを探して川をのぞき込むとき、水面越しに刻み込まれるように感じていた眼。お前に価値はない、お前なんて生きていても死んでいても同じだと語ってくる大嫌いなその眼をそいつに見ていたのだ。
黒の髪、閉ざされた瞼、幼い顔立ち。心の中でじわり、じわりと知らない熱が動く。今までの記憶をさかのぼっても、同じ感触の感情はどこにも見つからなかった。
いつの間にか、私は口を開いていた。
『おい死にかけ。お前まだ死んでないだろ』
その声が聞こえたのか、そいつは閉じていた眼を少し開いて何かをつぶやいた。小さすぎて何を言っているのか聞き取れない。
なんだか私にはそいつの顔が泣き出しそうに見えて、胸がざわざわした。
何かをつぶやいた後、もう一度瞼を閉じたそいつは、なんだかすごく孤独そうに見えた。
無意識のうちに私はそいつの軽い体をそっと持ち上げていた。
冷たくて、小さい。こんな体で本当に動けるのだろうか。そいつが急に身動きをしたことに驚き、手を放しかける。私はぞわぞわする胸を、高鳴る心臓を、落ち着けることに必死になる。
私はふわっと頭に浮かんだ疑問を吐き出した。
『お前。名前あるか?』
そいつは言った。
『・・・ぇ、るぅ』
・・・ルー、か?
私は未知なる感情の濁流におぼれていくようで、胸の中にともったほのかな熱に当てられたようで、奇妙な酩酊感すら感じていた。
私に全体重を預けているルーという存在。私が手を放すだけで簡単に死んでしまうであろうちっぽけな存在。そんなものが今、私の腕に乗っかっている。
雨音が強まった気がする。
―――ひどく奇妙な気分だった。
*
ぱちゃり、ぱちゃりという音が聞こえて、はっと目を覚ました。額にじっとりとテルの服が張り付いている。こんな状況で、気絶していた自分に愕然とした。
水音がもうかなり近い。同時に金属音も着実に大きくなってきている。
追手。弱音を吐きそうになる自分を叱咤した。手をついて体を起こそうとするも震える腕はもう思ったように動かない。
近づいてくる明かりがもう、すぐそこに見える。光の奥に男の人影が揺れている。シャランと音がして、男の足取りが止まった。そのカンテラのような明かりが闇に慣れた目にはまぶしすぎて、涙が目に滲んで。
私の覚悟はもう決まっていた。
私はテルの小さな体を強く抱きしめる。私の体の奥底から、冷え切った体をいじらしく温めようとするように、じわり、じわりと熱が広がっていく。
私がテルに寄りかかっていてはダメだ。
私が。私が守らないと。私以外に誰がルーを守るんだ。
そう、自分に言い聞かせた私は体からそっと手を放し、テルを背にかばって光を見上げた。目の縁の残っていた涙が頬を伝う。
グッとこぶしを握り締める。ギリッと歯を食いしばる。
私はけほっと一つ咳をしてから、まばゆい光に目を細めて、ゆっくりとこぶしを構えた。
*
ゆらり、ゆらりと闇の中に光が揺れている。ここがどこだかわからない。ただ、周囲に誰かがいるようだ。高い話し声と、低い話し声。そしてしゃらしゃらというような金属の摩擦音のような音が聞こえる。でも、僕の意識は霞がかかったようにはっきりとしない。
・・・女の声。低くて妙に間延びした声。反響するしゃらしゃらという金属音。
「ねえ、そろそろ警戒心もうちょっと下げていいんじゃないのぉ?今まで俺なんにも変なことしてないでしょぉ?」
「私はお前なんか信用できねえって言ってんだよ」
ルルだ。ルルの声が聞こえる。
「だ、か、ら!前から言ってるでしょぉ。ちゃんと物は取ってきてもらえたんだし、俺も君たちを助けたことに見合うだけの利益はもらってるから・・・」
僕はぼんやりと身じろぎをする。
「あ、テル。起きたのか!?」
ペタペタと足音がこちらに近づいてきた。
不愉快なにおいが鼻の奥にこびりついている。そういえば今は下水道にいるのだ。壁が湾曲しており、どうにも尻の座りが悪い。
薄く目を開けた僕の視界には灰色の空間と、しゃがんでこちらをのぞき込んでいるルル、そして見覚えのない男が映っていた。
「あーおはようございますぅ」
のんびりとした声でこちらに声をかけてきたその男は、オズと名乗った。
ルルよりも背が高い。天井に頭をぶつけないようにやや、体をかがめている。20歳くらいだろうか。ガタイのわりに幼く見えるその顔にはくしゃっとした人好きのする笑みが浮かべられていて、人当たりの良さを感じさせた。終始ニコニコしているため、瞳はよく見えない。
耳の縁にはイヤーカフがついており、耳たぶには板状の金物の飾りが無数に揺れていた。揺れるたびにその飾りがこすれあって、しゃなりしゃなりと音を立てている。ボロボロのマントを纏っていて、やや黒が混じった赤髪はカンテラに照らされてその影を不規則に変えていた。カンテラの近くに置かれているモスグリーンの帽子が妙に灰色の部屋に彩を添えている。
「まあ、こいつなんかの助けを借りるのは不本意だったんだが、テルがずーっと寝てるからどうしようもなかったんだよ。おいお前!わかってるとは思うが何か怪しいそぶりをしたらすぐにぶん殴るからな!」
「おお怖い怖い。そんなことはしないよ」
「ああ?ここらで一発食らっとくか私の蹴り!?」
「いくら何でも理不尽だよぉ。しかも殴るんじゃなくて蹴りなの?」
ルルも僕と同じだけの距離、走っていたのにずいぶんと元気そうだ。オズとの間でぽんぽんと会話が進んでいく。
今になってふと気づいた。明るい。地面にカンテラが置かれている。
僕は焦って口を開ける。舌がまともに回らないし喉も感覚がおかしい。頭も口もびっくりするほど重かった。
「ぁ、かり、は、まずいん、じゃ」
ルルはそれ聞いて慌てることもなく、淡々と答える。
「ああ、もう結構な期間ここに潜伏してるんだよ。おそらく軍はとっくに私たちが下水道なんて抜けてトンズラこいたと思ってるはずだ。その証拠に一昨日は捜索隊がうじゃうじゃいたが、今日は誰一人いないし」
なんだ。大丈夫なのか。体の震えが落ち着いていく。あれ、一昨日?
「僕は、何日寝て、たの?」
「ざっと4日。まあ外に出てないから正確な時間はわかんないけど。だいたいそんなかんじ」
「4日・・・」
「君とルルさんはもうちょっと僕に感謝してくれてもいいんだよ?食料だって飲み水だって俺がせっせとここに運び込んでいたヤツを無償提供してあげてるんだし、君たちが逃げてきたときだってこの隠れ家が無けりゃあっという間に捕まってお陀仏だったんだからさぁ。」
どうも、あの時僕たちは本当にまずい状況に陥っていたらしい。僕が気を失った直後、僕たちの予想に反して即座に全下水道の出入り口に監視網が敷かれ、出るに出られない状況になってしまっていたとのこと。
「それ、は、ありがとう、ございま、す」
「ねえ、ルルさん?弟君の方がしっかりしてるのってどうかと思うけどぉ」
「ああ?知るかボケ」
そんな命の恩人相手にもルルは平常運転だ。
「ところでそろそろほとぼりも冷めてきたわけだけどぉ。君たちこれからどうするんだい?」
そういうオズに対して顔を見合わせる僕たち。
「ここから、一番近い国。ラミストレイ連邦、に、行くつもり、です」
それを聞いたオズは困ったように眉根を寄せた。
「あー。知ってるかわからないけど、最近新たに条約ができたんだぁ。第二次カルノザ条約ってやつが。君ら、そのまま連邦に行くとちょっとばかりまずいことになりそうだよぉ?」
その後オズが語った話によると、最近になって連邦とこの国、帝国はある条約を結んだらしい。今まで仲の悪かった連邦と帝国の間で電撃的に結ばれたこの条約は、双方の首都に駐屯兵を置いて、2か国にまたがる犯罪に対し刑事上の協力をするというものだという。オズの話によると、おそらく隣国に逃げてもこの国の追手は振り切れない。下手をすると連邦の兵まで捜索隊に加わりかねないという話だった。
それを聞いた僕の頭は真っ白になる。
今まで1年以上もかけて、やっとの思いで国境に一番近いこの町までやってきたのだ。当時集めた情報によれば、帝国と連邦は長年にわたり仲が悪く、亡命先として申し分ない目的地だったはず。
だが、オズの予測では、あまりにも亡命先としてそれぞれの国の犯罪者に使われすぎたせいで業を煮やした両国の官僚によって、今回の条約が結ばれてしまったのだろう、ということだった。
「ね、姉ちゃん。僕たちこの後どうすれば・・・。」
ルルは腕を組みながら下を向いて沈黙している。さすがのルルでもショックを受けているのだろうか。そんなことを考えていた時、ルルが口を開けた。
「なんでお前はそんなことを知ってる?私たちにその情報を教えてお前に何のメリットがある?」
そういって静かにオズを見つめるルルの瞳には、覚悟を決めた者特有の鈍い光が漂っている。こぶしは固く握りしめられており、爪が刺さるほど強く握られた手のひらからは薄く、血がにじんできていた。
少しの沈黙が流れる。オズはルルと僕を順に見て口を開いた。
「テル君は本当にお姉さんに愛されてるねぇ。でも、残念ながら俺は政府の回し者でもなんでもないよ」
「だったら何だよ?」
「そんなに怒らないでよ。じゃあここで問題!俺の職業、何に見える?ヒントはこんな地下水路に隠れ家を拵えてて、さっき言ったみたいな隣国の情勢が重要な仕事ぉ~」
少しの間奇妙な雰囲気があたりを流れ、その空気に耐えられなかった僕はおずおずと口を開いた。
「密、入国者?」
「惜しい!業者だよぉ。俺は密出入国業者のオズというわけさぁ」
そう言ったオズはおどけたように手をひらひらとさせた。
「・・・確かに密入国者ならこんな場所に隠れ家があってもおかしくないし、実際にここは国境に近い。けど、お前が私たちを助けることに何のメリットがあるの?それだけだとわざわざ私たちが連邦に行くのを引き留めた理由が無いだろ」
「そんなに何でもかんでもメリットばっかりだとぉ、つまらな」
「間違いなくお前は損得で動くタイプ。私たちに餌やりした上に自分の素性まで明かす理由がどこにあるんだよ!」
オズの間延びした話し方をさえぎったルルの瞳が、カンテラの明かりに照らされて蒼く輝いた。
オズは自身の頭を掻きながら困ったように言った。
「・・・うーん。そういわれたのは君で3人目だったかなぁ?ちょっとショックゥ」
「つべこべ言わずに言え」
「・・・だからさっきも言ってたでしょ?もう対価は払い終わってもらったんだから君の歌詞は完済されたの!今君たちをここにかくまっているのは、最初にした君との約束。弟君が目を覚ますまで面倒を見る、ってとこを順守してるだけなんだけどなぁ」
「ま、まあ、その話はさ。一回置いておいて、この後、どうするかを、決めない?」
僕は終わらなそうな話に口をはさむ。
確かにオズの狙いが気になる気持ちはわかるが、4日間も僕を保護してくれたという事実は動かないのだ。正直なところ、僕はそれだけでオズをそれなりには信用してもいいのではないか、とも思ってしまう。
僕が起きてからのルルは、何というか全体的にとげとげしい。どこか警戒心が強くなっているような・・・。何かあったのだろうか。
「それなら、俺のおすすめはキルマ・クリスティーナ連合公国だよぉ。今一番アツい亡命先ナンバーワン!なお、僕調べ~」
オズが一つの国名を挙げる。キルマ・クリスティーナ連合公国。連邦の反対側に位置する小国だ。つまり、ここから見ると、帝都をはさんでちょうど反対側にある。
「ふん。論外だな。こっちは帝都からここまで来るのに1年近くかかっている。しかも今回は最初から足がついてるも同然なんだ。ここから公国まで行こうとすれば、倍の2年じゃきかないだろ」
「そう~、確かにここから向こうまでは一般人が堂々と移動しても5か月以上はかかるよぉ」
「だったらなおさら論外だ」
「でもねぇ。公国はこの国との国交が無いに等しいし、そもそも君らを追っかけまわしている連中もここ周辺の国は警戒してても、反対側までは見ないと思うよぉ」
「だからと言って帝都にうかうかと行って捕まったらどうするんだよ。いくら私たちでも、国の反対側まで行くまでの道程で、全部が全部しくじらないとは限らないんだ。それこそ今回だってぎりぎりだった。いくら公国が亡命先として有力だとしても、ここからだと2年以上、下手すると3,4年もかかるうえに、公国に着くまでの長い道中、山のようなリスクを背負わなきゃいけない。公国にそこまでして目指すだけのメリットはない!」
そう怒鳴ったルルは僕の近くによってきて、隣にどかりと胡坐をかいて座った。僕の頭がガシッと掴まれ、乱暴にゆすられる。
「ちょ、それは、ほんとに、くるしい、って」
「あ、ごめん」
病み上がりの人になんてことするのだ。ルルは本当に失念していたらしく、バツが悪そうに手を離した。行き場をなくした手が宙をさまよっている。
そんな僕たちにオズが言った。
「でもさぁ」
カンテラの炎がゆらりと揺れ、オズの張り付いたように変わらない笑みの影を濃くする。
オズは子供をあやすように腕を広げて、まるで僕たちを散歩に誘うように言う。
その口から発せられた言葉は、宙をさまよっていたルルの手を打ち落とすだけの威力があった。
「もし、2週間で行けるとしたらどうするぅ?」
*
青い空。白い雲。
そんな言葉が格別に似合う、抜けるような蒼天を背景に1対のグラスが掲げられた。
グラスの中に踊る翡翠の酒は、下級の貴族では滅多に飲めないほどの高価な代物だ。
「「我らが偉大な皇帝陛下に。乾杯!」」
そう皇帝への祝辞を上げ、そのグラスを飲み干した二人の貴族は、近くに控えている給仕にそのグラスを預ける。男たちがいる場所は貴族専用の高級列車の内部で、窓の外には飛ぶように流れていく見事な草原が広がっている。もっとも、男たちはその素晴らしい景色には興味が無いようで、窓の方を見向きもしない。
グラスを置いたばかりの男の手は透き通るように白く、磨き上げられている。グラスを離した手が、列車の振動でずれた眼鏡を直した。
まだかなり若い貴族は向かいに座る自分よりもかなり年上の軍人に向けて、まるで友達に話しかけるようにしゃべり始めた。
「それにしてもこの列車はなかなかだね。グレン」
この列車の内部は完全個室性であり、格によって使用可能な席がすべて決まっている。男たちが現在座っているのは1両を丸ごと使用できる、最も高級な席のうちの1つだった。
「座席も、家具も、下手な貴族の屋敷よりよほど高品質だな」
それに答えたグレンはグラスを置いた手をそのまま顎に伸ばし、白が混じり始めているものの見事な髭をなでた。その手は線の細い文官の貴族と対照的に、使い込まれた手をしていて、その手のひらの厚い皮膚と幾つものタコが老将軍といった様相の彼にひどく似合っていた。いかめしい装いとは裏腹に自分よりだいぶ年下の貴族に呼び捨てにされたものの、気にもかけていない。実力主義の彼からしてみれば、目の前に座っている若い貴族は自分にため口を聞くのに十分すぎるほど優秀ということなのだろう。
車内はグレンが評したように、北国から輸入された最高級の木材や、はるか彼方、東方から運ばれてくる一枚で家が買えるほどの貴重なタイルなどが、ふんだんに使われており、非常にきらびやかな作りとなっていた。
そんな装飾品に反して、柱や天井、床などの列車本体部分は白一色。一種殺風景に見えるほどに無機質で均一な物質で作られている。
それもそのはず、彼らが遺物と呼んでいる列車本体の構造部分は、現在の技術力では加工はおろか、破壊することすら難しいのだ。
北方大陸南西部に位置するこのハルケギニア帝国内部には、かつて存在した神代の文明の遺物があちらこちらに点在している。その大多数はつい最近この国に一人の天才が現れるまで、あくまでも文化財的な価値しか持ち合わせていなかった。しかし、天才と、とある偶発的な出来事によって、それらは産業的にも、軍事的にも非常に大きな価値を持つようになったのだ。
だが、その大量の遺物の稼働は大きな利益をもたらすと同時に、それと同等、もしくはそれ以上に大きな犠牲を伴った。帝都動力機構は、国が要求するだけの大量のエネルギーを供給するのに、莫大な人間の命を欲したのだ。
国は自分たちの手にした圧倒的な力に目がくらんでいたのでもあるし、庶民の命に欠片も価値を感じていないのでもあった。結果として、労働力にもなりえない孤児の使用を許可する法案が正式に交付された現在、1年とたたずに帝都内の孤児は全滅し、今もなお、その犠牲者数を加速度的に増やしている。
そんな多大なる犠牲の上に君臨し、現在進行形でたくさんの生命力を吸い取り続けている列車は今、たった2人の貴族だけを載せて軽やかに疾走していた。
「最近、例の個体の発見情報があったらしいよ。もっとも、またもや捕獲に失敗したそうだけどね」
「今度はどこにいたんだ?」
「オルケミスだって」
「かなり辺境だな。このままいくと国境から連邦に抜けられるぞ」
「まあ、第2次カルノザ条約が使えるし大丈夫だよ。そういえばグレンは向こうに駐屯兵として遅らせる人員の選別は済んだ?」
グレンは何を馬鹿なことをと言わんばかりに鼻を鳴らした。胸に燦燦と輝くたくさんの勲章が彼の手腕を物語っている。少し顔を相手に近づけ、脳内の軍事用の地図をなぞるようにグレンはトントンと机を叩いた。
「そんなものはもうひと月以上前に済んでいる。それにしても向こうもよくこんな条約に乗ってきたな。条約を使って向こうに置いた駐屯兵を伏兵とし、郊外で派手に暴れさせて、その混乱に乗じて一気に首都を制圧。だまし討ちのようで気は進まないが。これであの忌々しい連邦が潰せるとなれば安いものだ。その上、遺物の力があれば速やかにかつ圧倒的な兵力差をもって簡潔に済む。だからこそ、今回の電撃作戦に使用する遺物の稼働を支えるためにも、特定個体は」
「手に入れなきゃならない、でしょ?条約に関しては僕の手腕ってやつだよ。ほめてくれてもいいよ?」
細身で色白の男は眼鏡の奥の目を細めて無邪気に笑う。
彼は名門ラドス家現当主、トルク・ラルドスという名の、この国でも最上位の貴族の一人だ。現在、弱冠30歳にして宰相を強めている帝国きっての切れ者で、国の行政を一手に握っている。皇帝の信も厚く、皇帝を除くとこの国で最高の地位にいる男といっても過言ではないだろう。そして、孤児狩りに関する法案を通したのも、長年の敵国、連邦を食い破る策を用意し、その要の条約をその巧みな手腕で結んだのも彼だった。人を人とも思わぬその残虐性と、どんな手であろうとも平気に使うその酷薄さは、無邪気な笑みと、子供のような話し方に隠されて、表には表れない。
彼は紺に染められたシルクの袖飾りを少し引っ張り、窓を軽くたたく。
「もっとも、最近は無賃乗車をする輩が増えているらしいけどね」
「ここの警備はそんなにずさんなのか?」
そういったグレンは胸の前で組んでいた手を組み替える。
トルクは卓上にうやうやしく置かれていた、平民の1か月の生活費を優に超えるほどの高級な焼き菓子を無造作に手に取り、しげしげと眺め始めた。
「さぁ、どうだろうね。町中の沿線部分は巡回の兵がいるけど、こんなだだっ広い平原の全範囲に兵力を割いている余裕などはないだろう?もっとも、最近警備が強化されたおかげで、幾人か組織的にやっていた業者が捕まったらしいけどね」
「例の組織まで巻き添えを食っていないか?下手に散らばると後が面倒だ。それと、特に連絡が無かったということは、アッシャーは今回も尻尾を掴ませなかったんだな。いつまでも目障りな奴らだ」
「組織の方は、連絡がいってるから大丈夫だよ。あと、薄汚い反社共には既に腕利きを送っておいた。たぶん今ごろは無様に地面に転がって、自分の価値のない人生を振り返ってるんじゃない?まあ、失敗しても別にいいけど。気勢を上げてても庶民風情にはどうせ何もできないよ」
そういった後、興味を失ったようにトルクは、少し空いている窓からそのひどく高価な焼き菓子を無造作にほおり捨てた。
捨てられた焼き菓子は、くるくると回りながら外に落下していく。すさまじいスピードで地面に落ちていく菓子は、もう幾秒もたたずに地面にぶつかり、粉々になると思われた。
その瞬間、上空から流れ星のように降りてきた釣り針が焼き菓子に絶妙なバランスで突き刺さった。
つり針に刺さった焼き菓子はスルスルと上に登っていき、糸を素手で巻き取っている少女の手の中に飛び込む。
釣り針から焼き菓子を外した少女の手が、急にあおられた髪をうざったく背中側に払った後、その菓子を太陽にかざした。
「っしゃ、やりぃ!」
ワクワクを抑えきれない顔をして、その菓子を品定めしている蒼黒の髪の少女を、あきれたような顔をして見ていた黒髪少年は、組んでいた胡坐を組みなおして口を開いた。
「危ないよルル。ここ、列車の上なんだよ?」
2人の間をすさまじい勢いで風が通り過ぎていく。大きくあおられた体を何とか落ち着けたルルは小言を言うテルに言い返した。
「だってもったいないだろ!」
「命の方がもったいないよ!ばれたらどうするつもりなの!?」
「捨てたはずの焼き菓子が宙に登って行った、列車の屋根を調べろ!なんていう貴族がどこにいるんだよ!」
「いるかもしれないじゃん!」
*
「「列車?」」
「そう、列車だよぉ」
灰一色の壁を背景に、カンテラに照らし出されたオズが首肯した。
「僕たちの商売にはいくつか選べるコースがあってね。ちょっと前までは列車を使って国の反対に逃げるってのが人気だったんだよ」
「でも、列車ってのは貴族サマしか乗れないんじゃねえのか?」
「僕も、名前だけは聞いたことはあるけど・・・」
オズは無知な子供をたしなめるように人差し指を左右に振った。
「もちろん密乗車だよ。最近までは倉庫とか、改造した機関部分のデットスペースとかに潜り込んでたんだけど、最近大規模な業者狩りに遭ってさぁ。使えなくなっちゃったんだよねぇ」
「そんときにお前も捕まればよかったのにな」
「そしたら君らもお陀仏だったでしょぉ?」
「ふん」
ルルがこれ以上オズにかみつく前に僕は口をはさむ。
「でも、その業者の一斉摘発で列車は使えなくなったんですよね?だったらどうやって僕たちが列車に乗るんですか?」
オズは我が意を得たり、とばかりに指を鳴らした。
「そ、普通の人なら入り込めなくなっちゃったぁ。合鍵を確保してた清掃員向けの入り口とか、こっそり仕込んでた隠し通路とかがつぶれてねぇ」
「・・・だったら」
「ダクトだよぉ」
オズは耳元の飾りを指ではじく。飾りがこすれあって、チャラチャラと音が鳴った。
「君たちはまだ子供で体が小さい。ルルさんはちょっとギリかもしれないけど、テル君は余裕だぁ。通風孔が通れれば直接ホームまで向かえるし、列車上での2週間分の物資もそこから君たちが運び込めばいい」
「なるほど、それなら」
「却下だ」
「・・・え?」
ルルが僕をかばうようにすっと立った。僕の顔にルルの形に影がかかる。
「いくら何でも話ができすぎだ。目的を言え。それでもまだ言わないって言うなら力ずくで吐かせてやってもいいんだぞ?」
そういって挑発するように腕を振ったルルを見たオズは、ため息をついた。しゃらりと耳飾りが鳴る。
「あのさぁ、ほんとに君は話を聞かないよね。はっきり言うけどさ。この状況で俺の機嫌を損ねたら困るのは君の方だってわかる?」
「・・・普通にもしゃべれるじゃねえか。そっちの方がっ」
急にルルの体が浮いた。僕の顔にルルの足がぶつかる。
オズは左手でルルの首を壁に押さえつけながら、右手で抜いたリボルバーの銃口を額に突き付けた。この状況でも崩れないオズの表情は一種狂気的にも見える。
「俺はガンマンだけど近接で14の女の子に負けるような鍛え方はしてないよ」
「ぅぅぅ!」
ルルの喉が唸る音が上で聞こえるが、声にはならない。ルルの口から垂れた唾液が僕の頬に落ちた。
頬を伝っていくそれが、妙に熱をもっているように感じる。僕は声を出そうとしたが、心臓が凍り付いたように固く、体がまったく動かない。
「君さ、俺に勝てないことくらい最初から分かってたでしょ?なのに何であんな態度なわけ?もうちょっと賢い立ち回り方があるでしょ。媚びを売るなり、期限を伺うなりさ」
オズの左手に指をねじ込んだルルが喚いた。
「うるせえ!私はルーを守らなきゃいけないんだ!目的も知れない、狙いもわからない奴をはいそうですかと信用するわけには」
どしゃり、とルルの体が僕に落ちてきた。首を抑えながらせき込んでいる。
オズは離した手を開いたり閉じたりして、初めて見るもののように目の前にかざした。
僕は何となくルルの体を抱きしめる。
「はぁ、俺も大概に甘いなぁ」
オズはため息をついた後、独り言のようにつぶやいた。
「・・・俺には昔年の離れた妹がいたんだよ。今生きてたら17か18とかの。年も違うし、性別も逆だけど君たちを見てると、なんとなく、ねぇ?」
オズはリボルバーを腰の後ろのホルスターにつっかけるように戻した。
「まあ、君がただ単にプライドを曲げられないだけのアホじゃなくてよかったよぉ。そんな馬鹿にいつまでも付きまとわれていたら弟君の方が迷惑だぁ。ま、そういうことで言いたかなかったけど、俺は自分のしょうもないセンチメンタルを慰めるために君たちに協力してあげてたってワケ。これで満足?」
オズの話を聞いていたルルは下を向いたままつぶやく。
「・・・それなら、最初っからそう言えば」
オズは已然として鋼鉄の仮面のように張り付いた笑みを崩さずに言う。
「よかったねぇ、俺が優しくて。これで俺が悪い人だったら、君は今ごろとうに殺されてるし、弟君もそのまま永眠だったよぉ」
「・・・だけど、お前が敵だった時のことも考えなきゃ」
「それだったら媚びでも何でも売っとけばいい。殊勝な態度だったのは最初だけだし。君がしてたのはどっちにしても敵を増やすだけの自殺行為なの。そこんとこわかってる?」
「・・・」
「君は確かに強いかもしれないけど、君程度の奴なんていくらでもいるんだよ。誰にでもそんな態度とってるとすぐに死ぬよ、君。大事な弟君を残して。まあ、弟君を残せたらラッキーだけどねぇ?」
「・・・るせぇ」
僕の体に乗ったままのルルの体が小刻みに震えている。顔が押し付けられている胸元が湿っていくのを感じる。ルルは僕の腕を痛いくらいに掴んだ。
「さて、ルルちゃんはこれでまた一つ賢くなれました」
オズは笑みを深めていった。
「ところで、ここから二つ先の町、ニエブに列車の発着所がある。そこまでは運んであげようと思ってたんだけどぉ・・・」
と、そこで言葉を止め、腕で目元をこすっているルルを見下ろすオズ。口元にサディスティックな笑みが浮かんでいる。
「ルルちゃーん。ごめんなさいはぁ?」
僕はいつの間にか開かれていた顎を閉じられない。さっきまでの感謝がどこかに飛んでいきそうだ。
なんというか、オズはめちゃくちゃこの状況を楽しんでいる。さっきまでの昔話よりも、オズの趣味がこの支援の理由なんじゃないか・・・。そんな考えが頭によぎった。
ルルは震えるこぶしを地面にたたきつけて勢いよくオズをにらんでから、地面にたたきつけんばかりに頭を下げた。涙の残りが勢いよく地面に飛び散る。
「・・・今までナマ言ってすいませんした。お願いします」
「はい、よくできましたぁ」
それを聞いたオズは満面の笑みを浮かべてルルが下げている頭をなでる。ルルは絶望したような顔をして、止まっていた涙を今度はまた別の理由で流し始めた。
*
「あー!むかつくあいつ!絶対途中から遊んでただろ!」
「まあ、オズって明らかにサディストっぽかったしね・・・」
「うがー!思い出したらむかついてきたー!」
そう髪の毛を掻きむしりながら、列車の天板に背中から倒れこんだルルは、足をバタバタさせながらのたうち回っている。
あのあとオズにプライドをずったずたに引き裂かれたルルは一週間ぐらいずっと機嫌が悪かった。
オズに頭を下げた後、悔しさのあまり、泣きながら寝入ってしまうくらい。
最初の三日ぐらいは特にひどかったなぁ・・・と、遠い思いで感じ入ってしまう。
結局僕たちはオズに言われ、1週間ほどの準備期間をあの部屋で過ごし(ルルはその最中さんざん弄ばれ続け)、オズの組織の手引きでニエブまで難なく到達したうえに、車上での2,3日分の物資までもらってしまった。
その間、妹に再開した気分だ、というオズに頭を常に撫でられていたルルはなんかもう、憎いとか嫌いとかを通り越してしまったらしい。後半部分はほぼ抜け殻のようになすが儘になっていた。さすがに妹の遺品だとかいう服を着せられそうになっていた時は脱兎のごとく逃げだしていたが。
それにしても、オズの組織は何だったのだろうと思う。
単に密出入国業者の組織というにはやや統制が取れすぎていたというか。しかも、オズは明らかに立場が上の方だった。いろいろな人たちがオズに指示を仰ぎに来ていたし。
遠くを高く遠く飛んでいく鳥が目に入った。2羽の鳥がつかず離れずを繰り返して列車と同じくらいの速さで飛んでいる。番だろうか。
現在は車上での旅が始まって1週間が経過したところ。
1日ごとに食べていた食料も大方尽き、本格的に車内に盗みに入らなければ、という話をしていた途中、空に浮かんでいる雲がリボルバーに見えたところからオズの話になったのだ。
いつの間にか、むくっと起き上がっていたルルは釣り針と糸を携えて先頭車両の方に駆けていく。
「ちょっとどこ行くの?」
「釣りの続き!あっちの方には食堂車とかいうのがあるらしい。行くしかないだろこれは!」
僕はルルを急いで追いかける。
「食堂車は逆だよ~!」
その後、僕たちは食堂車近くの倉庫から、添乗員用の物であろうパンと燻製肉などを盗み出し、無事晩御飯にありつけそうだという段になった後、車上で2人して肉を取り合ったり、そのせいで僕が列車から落ちかけるなどいろいろあったのだが。
食事が終わり、落ち着いた今、僕たちは車上に寝っ転がって、今までの幾晩と同じように空を見上げていた。
さっきまで残っていた夕焼けの残り香は跡形もなく消え去り、まるでルルの髪のような蒼と黒が空を覆っている。
隣からすーすーと寝息が聞こえてきた。ルルは寝つきが尋常じゃないくらい良い。いつも寝っ転がったらすぐに寝始めてしまう。僕としてはルルの寝顔は嫌いじゃないので役得なのだが。
僕は横で寝ているルルに手を伸ばした。
指先に軽く触れた手のひらが揺れている列車の振動で、離れては戻りを繰り返す。僕はぼんやりとルルの顔を見つめていた。
ちょっと煤けてはいるけれど綺麗な乳白色の肌。その頬に一筋だけ髪が乱れて張り付いている。その様子に僕の目は妙に吸い寄せられる。奇妙な渦が心に渦巻いた。
ふと思った。
僕がルルに、ルルに抱いているこの感情は何と呼べばよいのだろう。
幾つもの感情が複雑にマーブル模様を描いていて、この気持ちの正体がわからない。
憧れ、は間違いなく入っている。親愛の情、もあると思う。そして、どうしても痛いほど僕の隣にいてほしいと願うこの気持ち。僕を狂おしいほどその蒼の瞳に、蒼黒の髪にひきつけるこの感情に。
ふっと心臓を締め付けられるような気持ちがした。
―――僕は、名前を付けてもいいのだろうか。
僕は、ルルに、『ルル』にどんな存在になっていてほしいのだろうか。
いや、違う。
僕自身が、ルルにどう見てもらいたいのか。そして、どう、成りたいのか。
それに、まずは名前を付けなくてはいけないのだ。
ああ、逃げたい。この思いから逃げてしまいたい。『姉ちゃん』というぬるま湯にまだ浸っていたい。
僕はルルから目を離し、すいっと夜の空に目を寄せた。
夜空で一番輝いて見えるあの星。手を伸ばせば届きそうなあの蒼い星。
手を伸ばせば、届くかもしれない。そう思った。
でも、手を伸ばしてしまえば、届かないことに気づいてしまうかもしれない。そうも思った。
そしたら、手を伸ばさなくても、いいんじゃないかと、感じてしまう自分がいるのも確かで。
でも。
ルルは、すごく強い人だ。圧倒的に輝いていて、他を寄せ付けない存在感がある。だけれど、それと同じくらい、はかなく見えるときもあるのだ。自分の居場所が分からなくなって迷子になっている小さな女の子のように見えるときが。
僕の脳裏にふっとあの日の光景がよぎる。
蒼く凍った世界に燦燦と輝いている姉ちゃんの瞳。
中空に静止した銃弾と、空から生み出されていた青白い糸。
あの時の現象は一体何だったのだろう。僕が生み出した白昼夢か、それとも―――。
そんなどこにも行きつかない疑念の中があふれている、幻のようなあの時のイメージに、一つだけ、確かなことがある。
あの時のルルは、状況に似つかわしくないほど存在感が薄かったのだ。まるで幽霊のように。
あの時、凍った世界で文字通り蒼く光り輝いていたルルは、あの瞬間、間違いなく世界で一番存在感が強かったはずなのだ。きっとあの時裏路地にいたのが兵士でなくて、町娘でも、老人でも、猫であったとしても、あの時のルルから目を離せる人はいなかっただろう。
それでも、あの時のルルは、僕にはなんだか薄く見えた。今でも僕の記憶の中のあのルルは、妙に半透明に見えてしまう。
僕にはあの時のルルが、どうしようもなく不確かな存在に思えて仕方がない。
それはまるで、いつの間にか消えていた落とし物のように。
どこかに忘れ去ってしまった思い出のように。
いつかの夜。見上げた空に見つけられなかったテルルのように。
気付けばどこかに消え去ってしまいそうで、もう二度と会えなくなってしまいそうで、そんなマーブル模様の渦が、あの日から僕の頭を永遠に回っている。
*
ポーッとした頭に軽い振動が周期的に感じられる。まだ夜明けは遠いのに目がさめてしまったようだ。ふと横を見ると、飛び去っていく草原が黒い影に落ち込んでいるように見える。列車から漏れ出た夜間灯の明かりで、列車のすぐ近くだけ妙に明るいのが奇妙に感じた。
流れ去っていく草原と違い、空には燦燦と星が瞬いている。
星は、こんな早く動いていても、どこにもいかないんだ、とそう思った。
星たちはきっと何十年たっても私をいつまでも見ていてくれるのだろう。私は一つ息をする。
妙に目がさえてしまった。左手でぐしぐしと目元をこする。飛ぶように進んでいく列車の感覚に、ほろほろと零れ落ちていくお菓子の破片のように私の存在が夜に拡散していくような感じがする。
私は体を起こそうとして、右手に引っかかりを覚える。
寝ている間に手でもつないできたのだろうか。ふっと見た右手には縋り付くようにテルの指が引っ掛かっていた。
急に空気がはっきり感じられるようになった。急に夜風の寒さを感じるようになった。
ふっと可笑しさがこみあげてきて私はテルを起こさないようにそっと笑い声を漏らした。私をいつでも見ていてくれる存在がもういるのに、昔のように妙な気持ちになっていた自分が少し気恥しく感じて。
テルの指を、その腕を、その顔を見て、大きくなったな、と思った。
一年前出会ったときよりも、かなり成長している。腕はあの時よりも太く、体はあの時よりも随分と大きくなった。
すうっとある考えが頭にもたれかかってきた。
このまま成長すると、テルは大人の男みたいに背が高くなって、私よりも高い目線でこの世界を見回すのだろうか。私よりも力が強くなって、一人でも何でも持ち上げられるようになるのか。
不意に脳裏に浮かんだのは自分よりも大きな背中をしたテルが、私に背を向けて遠ざかっていく光景だった。
テルも大きくなったら、好きな女の子とかができて。そして、テルが私のもとから離れていって。そして、私の横にぽっかりと穴が開いて。
そこまで考えて、ふと、喉元がぎりぎりと痛んだ。胸の奥がえぐられたように悲痛なほど空虚になったように感じた。
どこにもいかないでほしい。いつまでも私のそばで、その笑顔を私に見せていてほしい。
私にその声で姉ちゃん、姉ちゃんと、いつまでも私に生きる意味を送り続けてくれたら。
他には何もいらないから。
お願いだから、私から唯一の意味を奪わないで。
『テル』の名を関したあの星のように蒼く輝いて、いつまでもずっと私のそばに。
少しだけ赤みが差してきたように思える夜空を見て、私はそう思っていた。
*
暗い森の中、ひっくり返った馬車が雨に打たれている。
オズは手元も見ずにまだ一発残っていたリボルバーのシリンダーを外して捨て、新たに全弾装填されたシリンダーをリボルバーに突っ込む。
モスグリーンの帽子から覗くこめかみから一滴血が垂れ、足元の水たまりに落ちたそれが希釈されていく。
今回は一人強い奴がいて面倒だ。
背中の樹木に寄りかかり、左手で目元の水滴を拭ったオズは目を細めて周囲を伺う。
森はいい。葉がこすれあう音、小動物や虫の気配がそこかしこに充満している。しかも今は雨も降っていて、気配を消すには絶好のロケーションだ。もっともそれは相手にも言えるのだが。
左手の手で持っている毛布のざらりとした感触を確かめ、右手でグリップを握りなおす。
金物の耳飾りが錆びたら・・・とそんなことを考える。
オズの右手に力が入り、下ろされていた銃口がゆっくりと上げられる。
ふっと水滴が全て中空で止まったような感覚。
オズは左手に持っていた毛布を宙に投げ上げ、その影に隠れて一気に後退した。帽子が頭から飛び、黒交じりの赤髪から水滴が飛んだ。地面に落ちた帽子が泥を吸って薄緑から茶色になっていく。
10歩ほど走って別の木の裏に再び隠れたオズは、大きく息をついた。
なんであの状況で玉当たるんだ。ついてない。
右腕にじんわりと熱が広がっていく。リボルバーのグリップに1筋、2筋と赤い道が刻まれていく。
結構がっつり食らってしまった。ルルちゃんの祟りだろうか。
あの2人。昔の自分を思い出させるようで、懐かしさと苛立ちが脳裏に散る。妹が消えたという噂を耳にしたときの痛みがじくりとよみがえってくるようで、気分が悪い。あれも、これも、弾を食らったせいだ。妙に感傷的になっている。
昔を振り返っても生産性はない。過去は過去でしかない。見据えるべきは今この瞬間だ。
オズは左手に銃を持ち直して、右手を上げようとし、痛みに顔をしかめた。
顔をしかめたまま、持ち直した銃の銃身で左耳の耳飾りを弾く。
しゃりん、しゃりん、と金属音が静かな森の中に響いていく。
その反響が消え去り、あたりには静寂が再び満ちた。
パタ、パタタ、と葉が水滴を弾く音だけが聞こえてくる。
閉ざされていたオズの瞳が見開かれ、開かれていた瞳孔がぐっと収縮する。その瞳にはどす黒い紅が―――。
―――静寂の中、銃声が一発轟いた。
一瞬の後、どさりと1人の体が地面に転がる。
煙を上げる銃口を下ろした人物の手が、グリップのボタン部分を押し込むと弾倉から薬莢が零れ落ち、土がむき出しの地面に跳ねた。
その後立ち上がった人影は、銃口を下ろしたまま無造作に木々を避けて、森の中を進み、転がった体に近づいていく。
額の中心には、まだ煙を上げている丸い穴1つ開いており、そこから血が一筋垂れていた。
痙攣するように瞬きをしたあと、倒れた人間は最後の言葉を絞り出した。
「ば、化け物が・・・」
「はい、お疲れ様ぁ~」
まだ少しだけ動いているその人物にそう話しかけた後、オズは残っていた弾を全弾打ち切り、シリンダーに弾を込めなおす。
壊れた馬車と、灰色で統一された服装を纏い、写し取ったかのようにそろって額に穴をあけている5体の死体。そして、めちゃくちゃに撃たれて完全に動きを止めた、まだ温かい死体がもう1体。
計6体の死体が雨に打たれながら虚ろに曇天を見上げている。
「左手で持ってるとホルスターに入れにくいんだよなぁ。結構探したのに右利き用の奴しか売ってないし。左利きの人間には不親切な世界だねぇ」
誰に言うともなくそうこぼしたオズは、ぎこちない手つきで無理やり銃をホルスターに戻した後、顔がぐちゃぐちゃになった死体の近くにしゃがみ込む。
死体のもとから慣れたしぐさで無線機を取り出したオズは、しばしそれをいじくった後、馬鹿に明るい声で話し始めた。
「はぁい、こちらオズワルド。敵さん、処るの完了~。どうぞ~」
「はいこちらジャガノート、今回も余裕だったって自慢したいんですよね?どうz
「いや、今回上手いのが一人だけいたよぉ。マント越しに右腕に当ててきた、すごいよねぇ、どうぞぉ」
「・・・オズワルドさんが玉食らったんですか?それは確かにすごいですね・・・。じゃあ、無駄話は切り上げてさっさと戻ってきてください。手当の用意をしておきます。どぅ
「あーとほかに報告は・・・あールルちゃんズは、どうせ戦力になりそうもなかったし、見逃しちゃっていいよねぇ?どうぞ~」
「・・・・・・あの!あなたにとってはそうでも、僕たち普通な人からしたらそうじゃないかもしれないでしょ!万が一レジスタンスにでも入ったら機密保持の観点上、無視できない影響があります!あと、僕がどうぞって言い終わる前に話し始めないでほし―――」
「はいはい、りょうかいりょうか~い」
そう話し続ける通話相手を無視して無理やり無線を切ったオズは、無線機をまたしばらくいじった後に、内部の部品を一つ、取り出して指で潰す。
オズはふと無線に関するある女との会話を脳裏に浮かべていた。白衣と、それと対照的な黒髪のロングヘアー。自分よりも一歳年上とは思えないほど幼い黒目黒髪の童顔の『異世界人』。
「へぇ、こんな小さな奴を壊せば、もう何をしゃべったのかがわからなくなるんだねぇ」
「そこまでは普通たどらないけど。まあ、保険として」
「いや~。詳しいねぇ」
「当然でしょ。だってこの遺物は私が生み出したも同然なんだから」
オズは死体の顔をちらりと見る。
「はぁ、いやな仕事だよ。まったく」
オズは立ち上がり、右肩を抑えつつ、森の奥にゆっくりと消えていった。
胸元から壊れた無線機が飛び出たままの死体の横には、黒表紙の手帳が開かれたまま雨に打たれており、左のページにはその死体の恋人らしき女性が幸せそうに笑みを浮かべている。
右のページには、赤いインクで事務的に刻まれたRESISTANCE、という文字が雨に濡れて滲み始めていた。
雨音が強まる。
6人の死体も、その赤文字が書かれた手帳も、どんどんと雨に濡れていき、雨が降りしきる森の中には幾つもの赤いシミが、浮かび上がっているかのように点在していた。