一話
「いたっ」
ここは町のはずれのスラム街。
朽ち果てかけた廃屋のような建物がたくさん集まっている。崩れかけた屋根を倒れた街灯で何とか支えている家や、つぶれてしまった納屋の上にその残骸を使って組まれているバラック。綱が無くなっていて、石造りの井桁の横に、寂しげに滑車が転がっている井戸。そんな類の建物が、荒れ地の上に危ういバランスで数多く載っている。どこかでカラカラと物が転がっていく音が、空しく響いていた。
そんな貧民街と町の間をつなぐ裏路地の一角で、12歳くらいのみすぼらしい格好をした少年が、抱えている何かをかばうように地面に転がった。
かなりの距離を走ってきたようで息が粗く、埃っぽい黒髪から覗くうなじはうっすらと汗ばんでいる。彼が抱えている巨大なパンは、少年が小柄なのも相まって見る者の遠近感をおおいに狂わせていた。
「おい、テルてめえ逃げんじゃねえよ」
息を荒らげながら、今しがたテルを蹴り飛ばしたばかりの足を下ろした13歳くらいの少年が、転がっているテルを見下しながら怒鳴る。砂ぼこりで汚れた長ズボンから覗く裸足の足は地面を力強く踏み、テルから袋小路の唯一の逃走経路をふさいでいた。
転がっている少年の1.5倍ほどの身長とナイフのように鋭くとがった眼が特徴的なこの少年は、スラッグと呼ばれているこのスラムの住人の一人。
そして地面に転がった僕、テルはついさっき露店からかっぱらってきた大事なパンを掻き抱いてその人を見上げていた。
絶賛ピンチの僕は、最近になってこのスラムに転がり込んできた新人ストリートチルドレン。
僕の今までの人生は、ごく短い幸せな生活の後、他国から攻め込んできた兵士に親を殺されたところから始まる。その後、預けられた親戚とは折り合いが悪く、僕はその親戚に半分無理やり兵士養成所に入れられてしまった。養成所に入った当初は、これでやっとあの親戚の家から解放されると喜んでいたのだが、僕は養成所でも自分の居場所を見つけられなかった。
記憶が定かではないほど昔から、僕は自分でもあきれるほど、完膚なきまでに『戦う』ということができなかった。座学は得意だったのだけれど、実技がてんでダメ。ミジンコ程度の戦闘力もないと教官からお墨付きをもらった。どうもその苦手っぷりは養成所の歴史に残るほどの物だったらしく、教えても教えても上達しない僕にさじを投げてしまったのか、僕はほぼ何もできないままなのに、なぜか飛び級で訓練所を卒業させられてしまった。そして、ついに迎えた初陣で、接敵するや否や恐ろしくなった僕はさっさと逃げだしてしまい・・・。
現在は綱紀粛正のために追われる羽目になった逃亡兵、というわけだ。
1年ほど前から万引きやらスリやら、イカサマのまねごとやらをしつつ、軍から逃げ隠れしながらなんとかその日をやり過ごしている。
しかし、今日はまた一段とついてないなぁ。
そうぼやくような気持ちで周囲を見回してみる。
右を見ても左を見ても壁。背中には冷たい地面の感触があり、停滞している空気が逃げ込んだ場所が行き止まりであるということを主張している。
そしてたった今走りこんできたばかりの唯一の脱出口にも仁王立ちをしたスラッグがどんと構えていた。
道の方にちらりと2つの影法師が見えた気がした。いつもスラッグの周りを付きまとっている取り巻きのちびっこ2人だろうか。
そんな愚にもつかないようなことが宙にとどまって、ポンっと消える。
露店のおっちゃんからも、スラッグからも散々追い掛け回された上に、蹴り飛ばされて転ぶわ、そのせいで膝も切るわで最悪だ。
ああ、本当についてない。
そうは思うものの、僕は落ち着いた気持ちで、怒鳴り散らしているスラッグを見上げる。
そろそろ、だと思ったから。
「最近お前態度でけぇんだよ。弱いうえに新参者のてめえがでかいツラすんじゃ」
「新人で悪かったな?お前程度が私の弟に何してくれてんの?」
「姉ちゃん!」
大通りから差し込む光を、後光のように纏った人物がそこに立っていた。
すごんでいるスラッグの言葉をさえぎり、背後から彼の肩を叩いたのは、かろうじてワンピースだと判別できるようなぼろを纏った、15歳くらいの少女だった。
ミディアムロングの髪はやや傷んではいるものの、裏路地に差し込む一条の光を蒼く、黒く反射している。髪は濃い藍色で、光が当たっている部分は明るい空色の輝きを放っていた。
10人とすれ違えば10人が振り返りそうなほどの可憐な顔と、どこかはかなさを感じさせる幼い容姿。
そして、そのはかなさを打ち消してしまうほどの、吹き抜けてくるような強い意志を宿した淡い水色と瑠璃色のオッドアイ。
彼女は自分よりも頭2つほど背が高い少年相手に、まるで自分こそがこの世の王だと主張するかのように、ずかずかと詰め寄っていく。ずんずん少年に近寄っていく少女と、それと対照的にどんどんと離れていく少年。後頭部を壁にぶつけるまで後退したスラッグは万歳をするように手を上げた。
「お、おい。てめえ、今日は町の反対に遠征してるんじゃ・・・」
胸を張った少女の小さな口から、美しい声でスラムの住人らしい粗野な言葉が飛び出す。
「あー。アイツ弱すぎたから秒でボコって戻ってきたわ。あの程度で私に楯突こうなんて千年早いし」
「そ、そんなわけねえだろ!?ヴェルンはこのスラム最強の喧嘩自慢だ!いくらお前でもそんなに簡単には・・・」
「ヴェるーん」
少女がポケットから取り出した形容しがたい形の何かを見るなり、少年の顔は真っ青になり、ガタガタ震えながら滝のように汗を流し始めた。
「そ、それは・・・」
「ノリでモギッてきちゃったけど別にいらないし・・・。ほい」
少女は親指と人差し指の爪先だけでつまんだその謎物体を、ちょっと持ち上げてチラッと見た後、無造作に少年の顔に向けてほおった。
「ぎゃあああああ!」
顔にべちゃッと音を立てて着弾したそれを反射的に払い落とした少年は、必死に顔をこすりながら、脱兎のごとき勢いでどこかに逃げ去ってしまった。すさまじい勢いで遠ざかってくスラッグの足跡は、それに追従するかのような2つの小さな足音とともにすぐに聞こえなくなった。
「うえ、ばっちいな、これ」
少女はワンピースの腰回りで手を拭いたあと、ぼーっと地べたに座り込んで一部始終を眺めていたテルに声をかけた。
水と瑠璃の瞳には仕方がない奴だと嘆息するような、私がいなければいけないと胸を張るような得意げな自負がきらめいている。
「テルさ。ちょっとくらいは自分でも抵抗しようって気概とかないの?」
そういわれた僕は気まずげに目をそらす。そうはいっても無理なものは無理なのだ。
今からこの人が僕を倒そうとする。僕に痛みを与えようと、こぶしを振りかぶってこちらに近づいてくる。
そう考えるだけで僕の体はまともに動かない。胸が締め付けられて視界が狭まって足が、手が、冷たく、言うことを聞いてくれなくなる。
「ま、お前の臆病は今に始まったことじゃないし。ほら。さっさと帰んぞ」
そういって少女はテルからぷいっと目をそらし、すたすたと向こうの方に歩いて行ってしまった。
「ちょ、ちょっとまってよ。半分くらい持ってくれてもいいんじゃない?」
「えー?めんどい」
「そんなぁ」
僕の姉ちゃんは、いつもピンチになった僕を助けてくれる、絶対的な僕のヒーローだ。今も僕のことを、ちらりとも振り向かずに行っちゃうし、いつも意地悪なことを言ってくる。食べ物に意地汚くて、僕の分まで遠慮せずにとってくし、寝相が悪いせいで寝ている間にしょっちゅう蹴られる。だけど。
「あっ!」
滑り落ちそうなパンを持ち直したとたん、つま先に軽い衝撃を感じて世界がぐるっと回る。目の前に差し込まれるように地面が急に現れる。体と同じく空転する思考の中で、とりあえずパンをつぶさないように、受け身を取らなければと考えた時。
既に僕の体は姉ちゃんに支えられていた。
姉ちゃんの手を借りて体勢を立て直した僕はふと下を見る。足元の地面からはとがった廃材の破片の先がのぞいており、あのまま地面に倒れこんでいだ時の結末が、ろくでもないものであったことを主張していた。
「ほんとにテルはよくこけるよなー」
姉ちゃんはこれ見よがしに特大の溜息を吐いてから、パンを片方奪い取った。
「やっぱりテルは私がいないといけないな!」
そのパンを乱雑に肩に担いだ姉ちゃんは僕を振り向きながら笑った。
夕日に照らされた八重歯が赤く光る。
赤くなり始めている陽が暖かく照らす道を一人でずんずんと歩いていくワンピースの少女。そして少し遅れてたったったっと追いかけていく一回り小さな少年。
数週間前から見られるようになったいつもの光景だった。
*
すでに太陽は落ちきってしまい、焚火の火だけが2人の居場所を照らしている。
「うーん。うまい!」
火に照らされて闇に顔が浮かび上がる。少女の髪は夜の闇よりもなお黒く、射干玉のごとき艶めきを燦然と放っている。端正な顔はくしゃりと笑みを浮かべていて、彼女がまだ幼いことを感じさせた。
「今晩はかなり豪勢だよー」
そんな姉ちゃんの様子を見ていると、粗末な食事でも宮廷でふるまわれるようなごちそうに思えてくるから不思議だ。最も今日の食事は少量ながらためていた分を全放出したから、実際に豪華なのだが。
ついさっき盗ってきたばかりの新鮮な牛乳に、先週遠征先の町の中心で発見した形崩れのチーズの欠片が2,3個。その上、捨てられている袋の底に残っている穀類を、少しずつ集めて貯めておいたものも全投入。
鍋でぐつぐつに煮込んで、パンをスプーンに使って食べる。この町で、というより今までの旅を含めて見ても、ここ半年で一番のごちそうのはずだ。
「前から思ってたけどテルってめっちゃ料理上手いよな!」
そういって少女は上機嫌にテルに話しかける。2人が座っているところは、大人の腰ほどまでしか残っていない、家屋の石組みの基礎部分によって、コの字状に囲われており、2人はその石組みの壁に背を預けていた。
石造りの囲いの一角には、つぎはぎのぼろと廃材で作られた雨除けがかかっている。でも、そんな寝ると盛大に下半身がはみ出るほどのサイズしかないそれは、彼らにしてみれば、少しずつ端切れを拾い集めて作った一大財産だった。
現在は中央部分で焚火がたかれており、その上に燃えないように張られた縄にかろうじて引っかかるようにして固定された穴開きの鍋が、ぐつぐつと楽しげな音を立てていた。ひょいと伸びてきた白い手が、鍋の底にわずかにあった残りをきれいに掬い取り口にほおりこんだ。
「いやー、うまかった」
姉ちゃんは汚れた口元を手の甲で乱暴に拭って、胡坐をかいていた足を延ばした。
「ふう、すごく久しぶりにおなかいっぱい。でも、本当に貯めてたやつも全部使っちゃってよかったの?」
「まあ、もう明後日にはこの町を離れるからな」
こともなげにそう答える姉ちゃんに、一瞬してから僕は驚く。
「え?」
「警邏隊のやつらが言ってたんだけど、近々大規模な孤児狩りが行われるんだってさ。私たちがここにいることがばれたわけじゃないはずだけど、たぶん大勢軍人も来るからな。ここにとどまっていたら危険だし」
姉ちゃんがかざした手のひらに炎の影が揺れる。半分以上が白くなった薪がガシャリと音を立てて崩れた。
孤児狩り。
それは10年ほど前から始まった災厄だ。この国には昔から遺物というものがあった。遺物はとても貴重なダルマコル石という宝石を使って動く昔の道具のようなもので、それを参考にして現在使われている銃などは作られたらしい。でも、ダルマコル石は莫大な権力を誇る皇帝でもおいそれとは入手できないほどの希少性を持っていたため、それを湯水のように消費する遺物を使うことはまずなかった。
しかし、20年ほど前に発見された新事実により、その状況は様相を変える。人間の命をダルマコル石が持つ力に変化させられるようになったのだ。結果として貴重なダルマコル石の代わりに、大量にあふれているうえに殺しても誰にも文句を言われない孤児の命が燃料として狙われるようになってしまい、今では孤児の数は前の半分以下に減ったなどという噂がまことしやかに世を回っている。
「じゃあ、・・・。」
「前から言っていたように、ここからはもう直接ラミストレイ連邦を目指す。んだけど、ここがいくら国境に近い町と言っても、ある程度は準備を整えないといけないからさ。明日旅装を整えて明後日の早朝には出発って感じかな」
僕たちは現在、逃亡兵である僕を追ってくる軍から逃げるために、国外脱出を目指している。一年ほどかけて中央の帝都から町伝いに辺境へ、辺境へと逃げてきた僕たちは、現在ラミストレイ連邦との国境に最も近い街まで来ていた。
今までは、次の町へのルートを手に入れると、すぐに次の町に移動していたが、前回の町では僕が仕掛けた計略が見事にはまり、逃げたルートの偽造ができた、と思う。そのおかげかはわからないが、この町に滞在している数週間の間、一度も軍に遭遇していない。隣国に行った時用の物資を集めなければいけなかったため、ここに留まっていたというのもあるが、こんなに一つの町でゆっくりできたのは本当に久々だった。
「えー。また?僕この町結構好きなんだけどなぁ」
「つべこべ言うなら置いてくぞ」
「まあ、姉ちゃんが言うならついてくよ。たとえ火の中水の中!」
「ふん。じゃあ次の目的地は戦場な」
「・・・ちょっとそれは勘弁したいかも」
そう言ったものの、実際に姉ちゃんが戦場に行くと言うなら、僕はついていくのだろう。きっと隣に姉ちゃんがいるところが僕のいるところで、そして僕という世界の置き場は、そこにしかないのだ。
そう、『姉ちゃん』の隣にしか。
小さな小さなトゲが喉奥に刺さったような気がした。
*
6月ごろの夜はまだまだ寒い。
ありがたいことに今夜は晴天だから、雨除けの布にくるまることができる。腰から足先までは完全に外に出ているせいで、冷たい風をダイレクトに感じるが、これで上半身を覆えるだけでも快適さは全然違うのだ。
僕と姉ちゃんは一つの薄布にくるまり、向かい合うように寝転がっている。曲げている手を少し伸ばせば届く距離にある姉ちゃんの顔は、やっぱりいつも通りで、僕と同じように生活しているとは思えないほどきれいだ。そんな姉ちゃんの顔を見つめていると、僕の胸は奇妙に高鳴る。
姉ちゃんの顔には完璧なバランスですっと通った目鼻と、普段暴言ばかり吐いているとは思えないほど可憐な口がついている。でもそんな顔とは正反対に、姉ちゃんの左耳はかなりいびつだ。下半分がほとんどかけており、耳たぶなんかは影も形もない。
僕はふと目を姉ちゃんの後ろの夜空にやった。姉ちゃんのいびつな耳の形に切り取られた空は、どこまでも吸い込まれていってしまいそうで、怖いくらいの綺麗な色をしている。
姉ちゃんの耳の少し上に、テルルという星が見えた。太陽の尻尾、などと呼ばれているあの星はいつもきまって最初にひときわ明るく輝き始める一等星。そして、僕の名前の由来にもなっている星だ。
でも、そんなたいそうな星の名前は臆病な僕に全然あっていない。どちらかというと姉ちゃんみたいな、強くて自分の意志を強く持っている人に合っているのではないかと思う。
ふと隣で姉ちゃんが身じろぎをしたような気がして、そちらを見ると、僕の視界に先ほどまで瞼に隠されていた蒼と水の瞳が飛び込んできた。
さっきまですごくきれいだと思っていた空の美しさがかすんでしまうほどのその瞳は、いつも僕の心をとらえて離さない。選び抜かれた最高級の宝石をさらに磨き鍛え、世界一の名工がその技能を余すと来なく生かして、絢爛豪華な純金の台座にそれをあしらえるとしても、この瞳にはかなわないんじゃないか、と。見るたびに僕の魂を震えさせるその瞳は、いつも通り、吹き抜けるような強い意志の輝きを宿していて。
ぼんやりとこちらを眺めていた姉ちゃんがふっと口を開いた。
「確かテルの名前って星から来てるんだよな」
一度横になった姉ちゃんが話すのはけっこう珍しい。
「うん。テルルだよ。ほら、あそこに見えるやつ」
姉ちゃんの背中側にある星を指さす。
「ふーん」
でも姉ちゃんは僕の指先に見向きもせず、ぼーっとこちらを眺めている。
「そっちから聞いといて反応薄くない?姉ちゃんはどうなのさ」
姉ちゃんは何でもないかのように空に目をやって言葉を返した。
「私、親とかそういうの憶えてないからさ。気になって」
薄く笑う姉ちゃんはいつもと何も変わらないのにはずなのに、まるで知らない人のようで。
僕の一番好きで一番嫌いな姉ちゃんの体のパーツ。
瞳。
その水色の瞳の虹彩の周縁には、本来神聖不可侵なはずの神の御業を、素手で凌辱するかのように痛々しいほど事務的なナンバリングが刻まれている。
『A00003341』
姉ちゃんは5歳より前の記憶が無いらしい。姉ちゃんが5歳の時からついていたそのナンバリングはきっと、それより前の出来事につながるものなのだろう。
だから、姉ちゃんには名前が無い。
でも、そんな風に狭いところへ自分を押し込めるようにして、空を見上げる姉ちゃんの顔をこれ以上見ていたくなくて、ふっと思いついたことを口にした。
「だったらさ。つければいいんじゃない?今」
「え?」
ふっと、見知った姉ちゃんが僕の隣に戻ってきたような気がする。珍しくあっけにとられたような表情をして、姉ちゃんはパチリと瞬きをした。
「今つけようよ。姉ちゃんの名前」
「いや、別に・・・」
たまに姉ちゃんは何かをあきらめたかのような、自分という存在を世界から一歩引こうとするような顔をする。そんなときの顔は瞬きをすれば消えてしまいそうなほど半透明で不確かで。
僕は姉ちゃんのそんな顔が嫌いだった。
そんな顔をこれ以上見ていたくなくて、僕は口を開く。
「好きなものとかどう?自分の名前なんだしやっぱり好きなものの方がいいよ」
「・・・そうはいってもな。パンとか肉・・・?」
姉ちゃんは自己中心的なように見えて意外と自分という存在に無頓着だ。確かに食欲と睡眠欲くらいしか欲しい物が想像できない。でも、さすがに自分の名前を決めるときに出す答えにしては、ふざけすぎている。
「あのさぁ。じゃあ姉ちゃんは明日からミートパンちゃんになってもいいの?」
「ちゃんっていうな」
ノーモーションで放たれたげんこつが腹に突き刺さった。僕はちょっとせり出かけた夕飯を無理やり胃に戻してから口を開く。
「げほっ。・・・ああもう、だったら何か食べ物以外で無いの!?」
「うーん」
姉ちゃんはごろりと寝返りを打って向こうを向いてしまった。普段の姉ちゃんの背中は小さいけどすごく頼もしい。でも、今の姉ちゃんの背中は、いつもよりもずっと小さく見えた。
数時間のようで一瞬のような時が流れ、空をぼんやりと眺めていた姉ちゃんがふと口を開く。
「・・・・・・テル」
「・・・」
「の、名前の元の星」
「・・・星の方ね!テルルね!?」
一瞬跳ねた心臓が姉ちゃんに見透かされるような気がして、僕は布をはね上げて起き上がった。姉ちゃんの顔が見たくて、そして見たくない。
「あ、照れたな?お前照れたな?バーカ!」
「うるさいよ!姉ちゃんのほうがよっぽど恥ずかしいこと言ってるって!」
「はぁ!?」
しばし僕たちは取っ組み合って転げまわる。まあ、身長も僕より高くて力も僕より強い姉ちゃんに僕が勝てるわけもなく、結局いつものように一発頭にいいパンチを食らった僕が倒れて、僕はマウントポジションをとった姉ちゃんに、顔を足でぐりぐりされる羽目になった。器用に動く足に、タコみたいな口にされた僕はまともにしゃべれない。
「へっひょくははへはひょうふるの?(結局名前はどうするの?)」
僕の言葉を無視して姉ちゃんはこちらの頬をもてあそんでいる。延々と続くぐにぐにタイム。そして姉ちゃんの足についている土でどんどんと黒くなる頬。いつまで姉ちゃんは僕の顔をいじくれば気が済むのだろうか、と悟りを開いたような気持ちで考えていた時、ぱっと姉ちゃんの足が止まった。すかさず起き上がろうとした僕のおでこに、強烈なデコピンが突き刺さる。
「あでっ!」
僕がぼてりと地面に倒れ込む。
少し、時が流れた。ふっと、流れるように言葉が紡がれた。
「・・・ルルってのはどうかな?テルルのルル」
満天の星空をバックに、自分の名前をルルと名乗った姉ちゃんは、いつものお姉ちゃんとは違ってすごく普通の女の子みたいに見えた。少し頬を染めて横髪を人差し指に巻き付けているその女の子は、いつも乱暴な言葉で自分よりの背の高い男たちと怒鳴りあっている姉ちゃんと同じ人には全然見えなかったけど。
僕はそんな姉ちゃんの、そんなルル姉ちゃんの表情が全然嫌いじゃなかった。
むしろ、すごくかわいくて素敵だと。
そう思ったのだ。
だけど、そう思った瞬間僕の心に刺さっていた小さなトゲが急にうずきだした。
どこにでもいる女の子たちのように、いつかは姉ちゃんもどこかに行ってしまうのだろう。
そんなひどく当たり前の事実が、僕の胸にぐにゃりよまがった楕円を描いている。
ルルは僕の本当の姉ではない。もっと言えば、ルルと僕が出会ったのはほんの一年前に過ぎない。髪も目も肌の色も僕とは似ても似つかないルルと僕は、いうなれば一年前に僕と出会ったばかりの赤の他人でしかないのだ。
『姉ちゃん』、そう呼んでいれば今まではずっとルルは僕の隣にいてくれた。
一年前に出会った時から、ルルはずっと僕の姉ちゃんであり続けてくれた。
だけど、僕がもし、姉ちゃんじゃなくて、ただのルルとして僕を見てほしいと言えば、姉ちゃんは離れて行ってしまうのかもしれない。
そんな思いが頭を埋め尽くしているマーブル模様の渦に一筋垂れた。
僕はこちらを見つめてくるルルの蒼い瞳を見て思う。
ルルはいつか、遠い存在になってしまうのだろうか。
圧倒的な明るさで燦燦と輝いて、あまりにも明るくて手が届きそうに見えるけど、でも、絶対に届かない。
そんな、テルルのような存在に。
*
今朝の空は昨日あんなに輝いていた星たちが幻だったかのように曇っている。心なしかいつも暗い顔をしているスラムの住民の顔もいつも以上に死んでいて、こっちまで憂鬱な気分になりそうだ。
そんな曇天の路地裏の一角にて。
「おーい。そこのスヤックだかスワックだか言うやつー」
ルルが遠くでたむろしている集団に声をかけていた。集団の中心にはスラッグがいて、その周りにも僕よりもさらに年齢が低い子供たちが数人たむろしている。もっともルルが声をかけた瞬間、大部分が蜘蛛の巣を散らしたように逃げ去り、今は2人しか残っていないが。
その様子を見て、ルルは微妙にさみしそうな顔をしていた。右の眉が微妙に下がるのは残念がっているときのルルの癖だ。まあ、僕にしかわからないくらいの微妙な変化ではあるのだが。
「ああ゛!?俺はスラッグだ!朝っぱらから怒鳴らせるな!」
「知らん。お前の名前とか興味もない」
「うるせえ!それで何の用だよ!こっちも暇じゃねえんだ!」
ルルの言葉を聞くなりシュバッと効果音が付きそうな速度で振り返ったスラッグは、やや及び腰ながらも果敢に言い返すも、適当にあしらわれている。
僕たちはいつも、逃げるときに付き合いのある連中には注意喚起をしている。一言もなしに自分たちだけ逃げるのはいくらスラッグ相手でもさすがに気分が悪い。
「そーだそーだ!」
「暇じゃねえんだぞ!」
2つの甲高い声がスラッグに続いた。スラッグといつも一緒にいる取り巻きのカークとレグだ。どちらも僕よりもさらに小さい。6歳くらいだろうか?
赤髪で小さい方がカーク。大きくて茶髪の方がレグ。
2人はスラッグの腰にしがみつきながらこちらにすごんできていた。ルルを恐れているのか、視線をスラッグで遮ろうとして、スラッグを右に左に振り回している。意外なことに振り回されているスラッグはうっとおしそうにはしているものの二人を振り払ったりはしていない。
実はスラッグはちびっ子連中に妙な人気がある。ちょっと短絡的なところが玉に瑕だが、腕っぷしが強く、頭の回転もけっこう速い。そのうえ面倒見がよく、このスラムにいるたいていのちびっ子たちはみんなスラッグに助けられたことがあるそうだ。ただスラッグは臆病者が一番嫌いだと公言しており、そのせいで僕とは仲が悪く、この町にいる間はしょっちゅう絡まれていた。
「うわさくらい聞いたことあるだろ。孤児狩り。軍隊が遺物を動かすための、帝都動力機構の燃料に使えるガキ共をさらい集めてるんだよ」
「孤児狩りのうわさは聞いていたが、ガキを燃料にしてるのか?趣味わりいな」
「なんかミンチにして高圧電流をかけるんだとか」
「そ、そうか」
そういって手をわきわきさせるルルを見たカークとレグは、うげーと言わんばかりの表情をしてお互いに見つめあっている。「ミンチ?」「ミンチ!」などというささやき声が小さく聞こえてきた。
「お前は、ひき肉の素質あるから気を付けた方がいいよ。肉パサパサそうだし」
「なるほど。確かに俺の肉はパサパサってやかましいわ!」
と言って殴り掛かるスラッグをルルはさらりとよけて足を突き出す。それに見事に足を取られたスラッグはものの見事にすっころんだ。こけたスラッグの方には目もやらずにルルは続ける。
「まあ、パサパサは置いといても実際に軍は来るぞ」
「・・・まじか?」
「さっきから言ってるだろ。別に信じるかどうかはお前次第」
しばらく悩んでいたスラッグは、飽きてスラッグのズボンの裾をいじくり始めたレグとカークを見て、僕たちが肩にかけているかばんを見て、大きなため息をついた。
「はぁ。本当ならお前の忠告なんて鼻で笑ってすますところなんだが。・・・お前らが持ってるその荷物。少なくともこの町最強格のお前が逃げ出す情報だ。完全には無視できねえ」
「だったらさっさと逃げろよ。尻尾巻いてな」
「いちいち癇に障る野郎だな!まあいいぜ。俺は知り合いに知らせてから逃げる。そんであとは。・・・おい、お前名前なんて言うんだよ」
「え?」
「名前だよ。名前。お前今まで名乗ってなかっただろ。最後に教えろよ。お前ほど喧嘩が強い奴は今まで見たことねえからな。俺がお前より強くなるまで、覚えておいてやる!」
「・・・なんだそれ」
あっけにとられたような顔をしていたルルは、その後むず痒いようなくすぐったいような顔になり、空をちらっと見上げてくすりと笑った。
「・・・ふふ。私の名前はルルだよ、ルル。テルルのルル」
「ルルか。じゃあ・・・おいルル!今度会うことがあったらそん時は、俺がお前よりも強くなってるからな!ぼこぼこにしてやる!」
そういってルルに向かってこぶしを突き出すスラッグを見て、ルルは軽く吹き出してから手を上げ、スラッグのこぶしに自分のこぶしをゆっくりと合わせた。
「はっ。お前も随分というじゃん」
大通りから一条の光が差し込んでいる薄暗い路地裏で、こぶしを合わせながら邪気のない笑みを浮かべるぼろを着た裸足の少年少女。
そこがスラムの一角であることを忘れさせるほど、その光景は幻想的に見えた。
僕はそんな2人になぞらえるようにこぶしを握り締める。でも、ちょっとだけ上がった僕の手は空虚に宙に浮いただけで、誰のこぶしにも行きつくわけはなかった。
スラッグに合わせていたこぶしをおろしたルルが口を開いた。
「初めて会った時私に金的食らって無様に命乞いしてたスラッグ君?」
「ああ゛?あれマジで痛えんだぞ!?お前は女だからわからねえかもしれねえが!」
そういって、ルルの薄い胸をふにふにとつつくスラッグ。僕の喉奥で奇妙な渦を巻いた声が音にならずに外へ出ていく。
「だいたいお前なんなんだよ。女ってのはもっと上品なもんだろ。言葉遣い男みてえだし。躊躇なくスカートで飛び蹴りかましてくるし、毎回きたねえスカートの中身無理やり見せられるこっちの身にもな」
「あーうん。女だから、わかんねえ、わっ!」
「ぶごっ!」
大通りから一条の光が差し込んでいる薄暗い路地裏で、天使のような笑顔を浮かべて足を振りぬいたルルと、ピンと伸ばされたその足から放たれた全力のキックのエネルギーを全て股間で受け止めて、きりもみしながら宙を舞うスラッグ。
その光景は幻想的には、見えない。うん。
べちゃりと地面に落ちたスラッグはもはや声を出ずに、喉笛を鳴らしながら両手を股に挟んで、死んだように横たわっている。たまに腰がびくっと跳ねるものの、まともな意識はなさそうだ。
顔の穴という穴から滝のように液体を流していて、鼻も目もぐちゃぐちゃ。そんなスラッグの足と手を事務的にどけたルルは無表情で踵を振り上げる。
まずいまずいまずいまずい!
「ス、ストップ!!ストップー!!!!」
僕は間一髪のところでルルとスラッグの間に滑り込む。
「ひっ!」
じろりとこちらを見るルルの目には光が無い。
「なに?テルも私を邪魔する気?」
「まって!もうこれ以上やったら死んじゃうから!レグとカークも泣いてるし!」
レグとカークは自身の股間を抑え、うわごとのように何かをつぶやきながらすすり泣いている。
もう2人とも会話は成り立たなそうだ。二人とも首を振りながら泣き続けているせいで、スプリンクラーみたいになっている。
「ぐえっ。」
ギュンッと音を立てるようにルルに首根っこを掴まれた僕は横に放られ、建物の壁にしこたま頭をぶつけた。
スラッグ、ごめん。キレた姉ちゃんは僕にもどうしようもないんだ・・・。
「ま、レグとカークに免じて一発で許してやるよ♪」
涙でにじんだ視界の中で手も足もどけられてしまい防御の存在しないスラッグの股に、ルルの無慈悲なこぶしが突き刺さるのが見えた。
「はうっ!」
奇声を上げたスラッグはしばらく間の不気味なほど沈黙を保ち、その後2、3度不規則に腰をびくびくさせ、ピクリとも動かなくなってしまった。
その後レグとカークの必死の介抱によって復活したスラッグは、二人に支えられてよろめきつつも、内股でスラムの他の住人たちに孤児狩りの話を知らせに行った。
きっと僕たちが一人一人に話しかけるよりも、スラッグが広めた方がよっぽど確実だろう。
ルルが仕切り直すようにパンッと手を叩いた。
「さて、と。じゃあ私たちも始めるか」