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春きにけらし

作者: 月坂まりり
掲載日:2026/03/16

和風神様ファンタジーです。

27000字ほどありますので、お時間のある時によろしければ読んでやってください。


 これは昔々、まだ八百萬(やおろず)の神々が折々に天から地に降り立ち、人間と寄り添って在った頃のお話。


 とある険しく切り立った山の頂上で、一人の背の高い男が空を見上げていた。容赦なく吹きつける突風に身に纏った薄物の着物をはためかせながら、しかし男は寒そうな仕草一つしない。傲然と顔を上げ、ただ上空を睨みつけている。


 辺り一面を覆い尽くす雪と同じ白銀の髪と深い水の色の瞳を持つこの男はもちろん、人ではない。

 雪と氷を操り、この世を冷たく凍えさせる冬神(ふゆがみ)であった。








 天と地におわす全ての神々の父である天御中(アメノミナカ)主神(ヌシノカミ)は、この世に恵みと試練の象徴として春夏秋冬という四つの季節なるものを賜れた。


 花が咲き、若葉萌える麗らかな春。

 強烈な日差しを地に注ぎ、生とし生けるものたちが熱く滾る夏。

 枯れ葉が舞い、静かに時が移ろう秋。

 冷たい風が吹き、汚れたものも清らかなるものも白一色で覆い尽くす、冬。


 恵みに満ちた過ごしやすい季節もあれば、生き抜くことさえ難しい厳しい季節もある。寒い冬のあとに訪れる春の喜びや、灼熱の夏のあとに訪れる秋の恵み。

 辛いこともあれば喜びもある、そう教えるためにこの世の父たる天御中主神は人の世に四季を与え、それぞれの季節を司る神を置いた。


 春には春の神を、夏には夏の神を、秋には秋の、冬には冬の神をそれぞれの土地に遣わし、一年の四分の一ずつを交代で治めさせたのだ。








 今、山の頂上でこのあたり一帯を治める冬神は遥か空の彼方を見上げていた。


 暦はすでに春だった、いつもの年ならとっくに交代の春神(はるがみ)が来ている頃だ。

 しかし今年は、先触れの東風(こち)さえまだ冬神の元には届いていなかった。


 水の色の目をすがめて厚い灰色の雲に覆われた空を睨んで冬神は、その秀麗な顔を歪めてチッと憎々しげに舌打ちをした。


「あんの野郎、またさぼってやがるな」


 冬神が低い声で呟くと、その憤りが小さな竜巻となって地に積もった雪を巻き上げ天に昇った。


 冬神がこの地に留まっている限り、この辺り一帯を深く覆っている雪がとけることはない。人間たちのためにも、そして冬の間ずっと働きに働き続けていた自分のためにも早く天に帰りたいところだが、しかし交代の春神が来ないことには冬神はここを動けないのだ。


 この地方を司る春神は、腰まで届く豊かな金の髪と澄んだ菫色の瞳を持つ絶世の美女、女神であった。確かに神の力を持たない普通の人間が一目でも見ればあまりの眩しさに目がつぶれてしまうほどの美女ではあるが、しかし困ったことにこの春女神はかなりいい加減な性格で、つまりはサボり魔なのだ。

 気が向けば暖かい日差しを燦々と与えてそこかしこに美しい花を咲かせるが、しかしながら春女神の気が向くことなどたまにしかなく、そのせいでこの地方は冬が長く寒さ厳しい土地となっていた。

 その上、春女神のあとに来る夏神(なつがみ)もまた春神に負けず劣らずのいい加減な男神で、日がな一日仕事もせずに寝ていたりする。生まれ持った神通力はかなりのものらしいのに、それを発揮しようとはしないのだ。


 そのせいで、この辺りは真夏でもあまり暑くはならない。返せば涼しく過ごしやすい土地ともいえるが、畑を耕す農民たちにとってはあまりありがたいことではないだろう。


 幸いなことに夏神の後を引き継ぐ秋神(あきがみ)は真面目だけが取り柄のような男神なので、秋神の隅々まで行き届いた仕事のおかげでこの寒い地でも米や野菜を何とか収穫することができる。そして、秋神のあとを継ぐのはこれまたしっかりと己の仕事をこなす冬神であるから、作物が十分に育たなくとも人々は、冬神に守られた山で獣を追って食料の足しに出来るのだ。


 春女神と夏神には多少の問題があるものの、四人の神々に守られたこの地で人間たちは、寒さは確かに厳しいが、しかし日々の暮らしにそれほど困ることなく幸せに生きることが出来るのであった。


 しかし、春女神が来ない。


 神々は天と地上を行き来する時、それぞれ好きな姿に化身するものだが、この地を治める気まぐれな春女神はいつも美しい灰色の毛並みの猫の姿で降りて来る。


 だけど、どれほど冬神が目を凝らしても猫なんてどこにも見つけられなかった。




 いくら寒さ厳しい土地であっても、このままではふもとの村で人死にが出るかもしれない。この辺りに暮らす人々は他の地の者たちより寒さに強いが、それでも長過ぎる冬は体力の劣る弱い者から間引いてしまう。


 まずは年寄り、そして年端のいかない幼い子供たちだ。

 人間だけではない、いつまでも春が来なければ動物や植物にも影響を与えてしまうだろう。


 十分な日差しを受けることなく、ずっと根元を雪に覆われたままでは木が枯れるし、そうなればその木に生る実を糧とする小さな動物たちが飢える。そして、その小さな動物たちを糧とする大型の肉食獣たちもまた飢え、その肉食獣たちを冬の間の貴重な食料とする人間もまた飢える。


 そうなれば年寄りや子供だけでなく、壮年の者でさえ命を落とすだろう。


 自然の連鎖の一部でも壊れれば、全てが脆く崩れ去る。面倒くさかったから行きませんでした、では済まないのが神の仕事なのだ。




 チッと、また冬神が舌打ちをした。すると、先ほどより大きな竜巻がぐわっと地を舐めた勢いのまま冬神の故郷、神々たちが憩う天に向かって登って行ったその時、冬神は不意にふわりと暖かい風に頬を撫ぜられ思わず目を見開いた。


 さっきから、何か紅いものがふらふらと空を舞っているのには気づいていた。空は一面の灰色だし、地は一面の白だ。その中にあって紅という色はやたらと目立つ。


 あれは何だと気にならなかったと言えば嘘になるが、しかしあまりに小さくて冬神はあえてそれを確かめようとはしかった。いつまでも来ない春女神への憤りでそれどころではなかったのだが、しかし。


 暖かい風を頬に感じた瞬間、微かに声が聞こえた気がした。「きゃっ!」とか何とか、誰かが短い悲鳴のようなものをあげたような?

 女の声、だったような気がする。それは、冬神の近くまでようやく降りて来ていた紅色の何かの方から聞こえた。


「……何だ、あれ」


 どうやらその紅色の正体が一輪の梅の花だったらしいとわかったのは、それが冬神の怒気から生まれた竜巻に巻き込まれて一旦空の高いところまで吹き上げられ、そしてそこから勢いよく地面に叩きつけられた後だった。冬が長過ぎたせいで固く氷のようにかたまってしまった雪の上に叩きつけられた梅の花は、何故か「うううっ」と呻きながらその輪郭をにじませ始めた。


「……」


 淡い光を放ちながら、花の形が薄れて行く。やがて、梅の花が消えるのと同時に現れたのは、一人の小柄な少女だった。黒い髪を後ろでおだんごにまとめ、まとっているのは淡い桃色のひらひらとした着物だ。それに五色の豪奢な帯をしめ、着物と同じ色のうす布を肩にかけている。


 人ではない、神の身である冬神の目には、それが自分と同じものであることはすぐにわかる。

 つまり、女神だったのだ。


「……誰だ?」


 どうやら顔から落ちたらしく、ゆっくりと身を起した女神の鼻の頭が見事に赤くなっていた。痛いのだろう、口を横一文字に引き結んで目には涙を浮かべている。

 ふうっと軽く息を吐いてから、冬神は小柄な女神の鼻先に触れた。指先で痛みを吸い取ってやる、冬神にしてみれば造作もないことだ。


「ひゃっ!」


 冬神の指が鼻に触れた途端、その冷たさに驚いたのか女神が飛びあがった。だけどそんなことには構わず冬神は、「誰だ」ともう一度訊いた。その女神は見たことがない顔だったのだ、この辺りで仕事をしている神なら一通りは知っている筈なのに。

 冬神が誰だと重ねて訊くと、まだ地面に座り込んでいた女神はハッと我に返ったようで慌てて勢いよく立ちあがった。そして、これまた勢いよく冬神に向かって頭を下げる。


「失礼しました。私、香蓮(かれん)様の代理で参りました、色葉(いろは)と申します。遅れてしまって、申しわけありませんでした!」


 頭をさげたままで一息でそう言った小柄な女神を冬神はまじまじと見つめた。髪を後ろでだんごにまとめているので、そのうなじを見下ろす形だ。


「つーことはお前、春女神なのか?」

「はい」


 神々の男女比率はほぼ同じ、いや少しばかり男神の方が多いくらいなのだが、何故か春神だけは圧倒的に女神が多い。しかも、美しい女神が多いのだ。

 この土地担当の春女神である香蓮も、生まれ落ちた瞬間に美と愛の神に祝福されたことは疑いようがないほどの美女であるし、冬神がこれまで会ったことのある他の春女神たちも皆が皆すらりと背が高く、素晴らしいプロポーションで完璧に美しかった。

 しかし今、目の前で頭を下げているこの女神は美しいと言えなくないこともないような気がしないでもないけれど、だけどどちらかというと美しいと言うより可愛いと言った方がいいような気がするし、それにしても背が低い。深々とおじぎをした後に顔をあげたが、それでも冬神の胸のあたりまでしか届いていない。

 冬神を見上げている黒目がちな大きな目はキラキラと輝いていて、緊張しているのか頬は薄桃色に上気している。何よりも肌が白い、まるで雪のような白さだ。


 普通に可愛い気はする、これが人間の娘ならかなりの器量よしだろう。

 しかし、春女神の美しさではない。


 冬神は、不躾なほどに色葉と名乗った春女神を見つめた。


 この冬神もまた、生まれ落ちた時には美と愛の神に祝福された美しい男神であるので、その深い水の色の瞳に見つめられて春女神は、恥ずかしそうにうつむいて、見る見るその頬の薄桃色を濃桃色に変えた。


「……代理?」

「あ、はい。香蓮様がおめでたで、それがつい十日ほど前の香蓮様の出発直前にわかりまして、本当ならすぐに代わりの者を決めて派遣すべきだったんですが、ちょっと色々ありまして」

「おめでたってあいつ、妊娠したのか?」

「はい」

「夏神の奴、ドジりやがったな」

「はい?」


 そこで春女神は、うつむいていた顔をがばっとあげた、頭をさげる時も勢いが良かったが、今度もなかなかの勢いだ。元気が取り柄とか、そういうタイプらしい。


「香蓮様のお相手、ご存じなんですか?」

「は?」


 問われて、反対に冬神は問い返していた。この地の春女神と夏神がデキていることなど周知の事実だろうに、この女神は一体何をボケているのやら。


 しかし、冬神の呆れが混じった困惑をよそに春女神、色葉は真剣に驚いているらしい。両の手を拳に握って、何か言うたびに胸の前でそれを小刻みに振る。その子供っぽい仕草が何だかこの女神らしからぬこの女神に似合っている気がして、冬神はふっと表情を緩めた。


「香蓮様がなかなかお腹の子供の父親が誰か言わないから、春の里では大騒ぎだったんです。たまたま訪ねていらした北風の神が教えてくださったので、ようやくわかったのですけど」

「北風の神っつーと、静月(せいげつ)のおっさんか? そういや、風邪を引いたからちょっと天に戻るつってたな」

「はい、薬の女神の(らん)様を訪ねていらっしゃいました。蘭様は、病を癒すには暖かい地が良いと春の里の外れでお暮らしですから」

「成程、薬をもらいに行ったんだな。しかし、北風の神が風邪ひくなっつーんだよな」

「静月様は、お体があまり丈夫ではないそうですので」

「まあ、北風の神のことなんざどうでもいいけどな。しかし、春女神は夏神とつき合ってることを春の里では言ってなかったんだな、このあたりじゃ有名だぞ」

「そうなんですか?」

「ああ、夏神が来てもいつもすぐには帰らずに一月ばかり二人で暮らしてるらしいじゃねえか」


 普通、四季の神たちは交代の神が来るとすぐに天に帰るものだ。しかし、春女神の香蓮は何だかんだと言いわけして、夏神が来てもなかなか帰ろうとしないらしい。冬神は地上に降りない時期なのでよくは知らないが、年中この地にいる樫の木の神がいつだったかそんなことを言っていた。


「ここは寒い土地だから、香蓮さんが帰って来るのが遅いのは夏の訪れがほかの地より遅いせいだと思っていました」

「反対だ、春女神が帰らねえから夏になりきらねえんだ」

「そうだったんですね……」


 考え込むようにうつむいた色葉と名乗った春女神を冬神は見下ろした。やはり小さい、小柄と言えば聞こえがいいが、とても春女神には見えない。まだ子供なのではないだろうか、もしかしたら人手が足りずに半人前を寄こしたか。


 冬神は、先ほどの梅の花を思い出した。

 冬神の起こした竜巻にいいように翻弄されていた、あの小さな紅色の花だ。


 神は普通、天から地に降りる時、また反対に地から天に昇る時にはそれぞれ好きな姿に化身する。そのほとんどが動物だ。女神たちはしなやかな肢体を持つ美しい動物を好むし、男神たちは勇壮な姿を好む。


 例えば冬神なら龍に化身する、冬を司る神らしく白銀に輝く氷の龍だ。麒麟や不死鳥、天馬になる神も多い。冬神が毎年バトンを受け取る秋神などは、普段の気弱そうな姿からは想像も出来ないような勇壮な牡鹿になって颯爽と天に帰って行く。ちなみに春女神、香蓮とデキている例のいい加減な夏神は、白い大蛇に化身するらしい。さきほどちらっと話が出た薬の女神は、それは美しい白鳥になるとか。


 しかし神の中にも変わり者はいて、靄に化身してふわふわ漂うなんて者も確かにいるにはいるのだが、だけどあんな小さな花に化身する神など聞いたことがない。植物なんて、まだ力が安定していない子供の神が練習に化身するものだ。大人の、仕事を与えられて地に降りるような神が化身するようなものではない。


 大体、植物では飛ぶのに不便なのではないだろうか。自分の意思で動けないのだから、風に運んでもらうしかなくなる。好きで梅の花になっているのなら個人の自由だが、もしも小さなものにしか化身できないということならそれは、神の力が弱いということを意味する。同じ神の子として生まれても、誰もが強大な神通力を持っているとは限らないのだ。


「で、今年はお前がこの地の春女神なんだな?」

「あ、はい。えっと、よろしくお願いします」

「俺によろしく言っても仕方ねえよ、俺はお前と交代で天に帰るんだからな。挨拶すんなら、まずは山神だろうな。この辺りの長老だ、もっともすげえ偏屈なじーさんだから会ってくれるかどうかわからねえけどな」

「はい、わかりま……くしゅん!」


 小さなくしゃみをして口を押さえている春女神を冬神は、やはりまじまじと見つめてしまった。


 力のある神ならば、寒さなんて感じない筈だ。現に冬神も春女神のものと同じような薄物の着物を身につけているだけだが、この雪と氷に覆われた頂きに立っていても寒さなんて微塵も感じていない。それは、冬神が冬神だからではない。春女神だろうが他の神だろうが、力があれば寒さ暑さは感じないものなのだ。

 だけどこの春女神は、両腕を己の身体を抱きしめるように回して小刻みに震えている。くしゃみも僅かな間に二回、三回と連発だ。

 神であっても病気にはなる、北風の神のように風邪を引くこともあるのだ。これはこの女神のためにも早々に退散した方がいいなと、冬神は思った。冬神がいる限り、この地は寒いままなのだ。


「じゃあ、俺はこれで」

「え?」

「あっちの山な、今年はやたらと凶暴な熊が多くうろついてたから、人間が入らないよう念入りに雪を積み上げてある。あれを溶かすのはちょい骨が折れるかもしれんが、頼むな」

「え、ええ?」

「じゃ、あとは任せた」


 軽く会釈して見せてから、冬神はすっと目を閉じた。天に帰るため、化身するのだ。いつもの龍のイメージを思い浮かべてから、額の中心に力を集める。

 一旦、額に集めた力をそのまま解放すれば冬神の身体が揺らぎだす。どちらかと言うと化身は得意な方だ、もっとも不得意なことなど冬神には一つもないが。冬神の輪郭が辺りの風景に滲むように薄れ始めた、そして……。


「あのっ!」


 今にも形を崩すところだった腕を掴まれて、冬神の集中が途切れた。その途端、ぐんっと強い反動が来る。冬神は思わず顎を反らした、薄れていた輪郭がいきなり元に戻る。


「ぐっ!」


 化身を途中で止めたのだ、強い通力の衝撃が来た。大きな龍に化身しようとしていただけに、半端ない逆流が冬神を直撃したのだ。通力が叩きつけられたのと同時に、身体の中で臓器がでんぐり返りでもしたような気持ち悪さに襲われる。思わず吐きそうになったのを何とか堪えて冬神は、「おーまーえーなーぁー」と地の底を這うような低い声で唸った。


「何すんだよ!」

「ご、ごごご、ごめんなさい!」

「ごめん、じゃねえだろうが」

「うあ、あうっ、ご、ご、ごめんなさっ……」

「化身を途中で邪魔するなんて、何を考えてやがる」

「ごごご、ごめんなさいごめんなさい! 私はただ、どこに行けばいいのか訊こうと思っただけで!」

「はあ?」

「だから、えっと……か、仮宮がですね、どこにあるのかな、って……」

「……」


 またもや冬神は、春女神をまじまじと見つてしまった。今度も春女神は恥ずかしそうにうつむいた、ただし先ほどと違ってこれは美しい冬神に見つめられて恥ずかしいのではなく、仮宮の場所さえ分からないということが恥ずかしかったのだろうが。


 仮宮というのは、神々が仕事で地上に降りている間に住まう宮のことで、仮の住まいであることから仮宮と呼ばれる。神の本当の住まいは天にあるわけだからどの神であれ、例え年中地上に留まっている山神や樫の木の神でさえも地上での住まいは仮宮ということになるのだ。

 それは木の洞だったり深い沼の底だったり、つぼんだ花の中だったりと、およそ人間では想像も出来ないような場所にある。

 四季の神々は、この頂きから少しくだったところにある小さな狐の巣ほどの洞窟を仮宮としていた。人間が見てもただの洞窟にしか見えないのだが、神がその足を踏み入れれば途端にそこは広く住み心地のいい空間となる。その宮を四季の神々は、それぞれ一年の四分の一ずつ交代で使っているのだ。


「お前、そんなに力がないのか?」

「えっとぉ……」

「自分の仮宮くらい、ちょっと集中すれば見えて来るだろ?」

「……」

「お前、春女神として地上に来たのはこれが初めてか?」

「……」

「よっぽど人手が足りなかった、とか?」


 冬神の立て続けの問いかけにはほとんどまともに答えず春女神は、きゅっと唇を引き結んだ。小柄であるから幼く見えるが、子供と言う歳ではないだろう。それなのにまだ仕事をしたことがないということは、本当に力が弱いのだ。春を司る神として生を受けながら春女神になれなかった春女神、そんなところか。


「お前、大丈夫なのか?」


 冬神が眉間にぐっと皺を寄せると、うつむいていた春女神、色葉は、意を決したように顔をあげた。しかし、顔をあげはしたものの言葉が出ないのか、何か言いたげに口を開けてもすぐに閉じてしまう。大きな目が潤んでいるのは、自分の力のなさを恥じているのか。

 何度もぱくぱくと口を開けては閉じ、開けては閉じする色葉を冬神は何も言わずに根気強く待ってやった。


「こ、今年は……」

「何だ?」


 ようやく絞り出された声はか細く掠れたものだったけれど、冬神が腰を折って目の高さを色葉に合わせたので、その視線に促されるように色葉は言葉を続けた。


「今年はしゅ、出産が多くて、香蓮さんの他におめでたな女神が五人もいて、あと産後間もなくてまだ仕事に出られない女神も三人いて、他にも病気で地上に降りられない女神とかもいてですね……」

「つまり、人手不足な?」

「……はい」


 こくんと頷いた色葉に、冬神はふうっと息を吐き出した。


 本来なら地上に降りることのない力ない春女神さえ動員しなくてはならないほど、今年の春の里は人手が足りていないらしい。ここが寒い土地だから半人前でも何とかなると寄こされたのか、いやそれよりも香蓮の妊娠が突然だったから他にどうしようもなかったのか。


 多分、両方だろうなと思いながら冬神はまたうつむいてしまった色葉を見ていた。

 あんなに小さな花とはいえ、一応は化身できるのだから全く力がないというわけではないだろう。しかし、冬神の強大な神通力でもって降らせた雪を溶かせるほどの力があるかどうかは甚だ疑問だ。


「とりあえず、仮宮に案内してやる」

「……はい、お願いします」


 いつもなら仮宮まで雪雲に乗って一息に飛ぶのだが、この女神ではついて来られないかもしれないと冬神は自分の足で歩きだした。ゆっくりと歩く冬神のあとを色葉は黙ってついて来る。交代が来たらすぐに天に帰ってのんびりと休養するつもりだったのに、これはどうやらあてが外れたようだと冬神は、後ろをついて来る色葉に聞こえないようこっそりと溜息をついた。








 ******








 とりゃあーっと、やたらと威勢だけはいい掛け声と共に頭上高く掲げた手を色葉が勢いよく振りおろすと、大きな岩の上に積っていた雪がほんの少しだけ吹き飛ばされて空中でジュッと蒸発した。量にして、片方の拳に握れるほどだろうか。あまりにささやか過ぎる成果に、色葉の口の端がぴくぴくと引きつる。


「八点」

「そ、それは十点満点でしょうか?」

「いや、百点満点」

「ですよね……」


 がっくりと肩を落とした色葉に、少し離れたところで見ていた冬神は苦笑いを浮かべた。見るからにしょげているあの顔を見れば、さすがの冬神も怒る気が失せるのだ。

 毎日毎日、こんな不毛な特訓につき合わされているのに文句を言う気になれないのは、感情を素直に表に出す色葉の性格のせいだろうか。あんなにしょげてたら怒れない、なんだか可哀想で。大丈夫だ、もうちょっとで出来るようになるぞなんて、柄にもなく励ましたくなる。


 色葉が春女神としてこの地に降り立って、すでに半月が経った。しかし、辺りはまだ一面の銀世界だ。新たな雪は降らせていないが、だけど一旦積った根雪が溶けることはない。


 いつまでたっても春の兆しが見えないことに村の人間たちがそろそろ騒ぎ始めているが、肝心の春女神がこの調子ではもうしばらくは冬のままだろう。もっとも、冬神がまだ留まっているせいで雪が溶けないというのもあるのだが、だけど半人前どころか、四分の一人前にも到達していない色葉を置いて天に帰ることがどうしても出来ずに冬神は、不本意ながらこうして地上に居座り続けているという状態なのだ。


「今日はこれくらいにして、帰るか」

「ですよね……」

「今日は、お前が仮宮を開けろよ」

「あ……はい、頑張りまっす!」


 力いっぱい返事する色葉に、冬神はまたもや苦笑いだ。やる気と元気だけは一級品なのだ、この女神は。ただ、頭に超がつくくらいとんでもなく不器用で、冬神なら息をするよりも簡単なくらいの仮宮の扉を開くということすら未だに出来ないでいる。

 人間の目で見れば単なる狐穴のような小さな洞窟も、神の足で踏み込めば広くて快適な住まいとなる。それが出来ない、つまり冬神がいなければ色葉は自分の家に入ることすら出来ないのだ。


 いつものように歩いて仮宮まで戻ると冬神は、色葉の背中をぽんっと軽く叩いた。やってみろと、前に押し出す。


「はいっ、頑張りまっす!」

「だから力み過ぎなんだよ、お前は」

「はいっ!」

「だから……」


 とりゃーっと、またもや威勢のいい掛け声が雪山に轟く。普通は足を踏み込むだけで仮宮は開くのにこの掛け声だ、そして掛け声のわりに洞窟には何の変化もない。


「力抜けって」

「はいっ、とりゃー!」

「おーい」


 成り行きというか、見捨てることが出来ずに仕方なく色葉の師匠のようなことをし始めてすぐに気づいたことなのだが、色葉の神通力は決して弱くはない。ただ、不器用なのだ。稀に見る天才的な不器用とでも言ったらいいだろうか、不器用に天才的などという形容詞が許されるとしてだが。


「春の里では、力の使い方を教えねえのか?」

「教わりました、もんのすっごく!」

「それでそれかよ、どんだけだよ」

「とりゃーっ!」

「だから……」


 雪が溶かせないのはいい、よくはないけど百歩譲っていいことにする。冬神が天に帰れば、例え春神がうまく仕事をこなせなくとも日差しは勝手に緩み、ごくごくゆっくりとではあるけれど雪は溶けて行く。

 あとは新婚ほやほやの夏神を身重な愛妻から引っぺがして、いつもより早めにこの地へ送り込めば何とかなるだろう。夏神もまともに働くような奴ではないが、それでも夏神が地上にいるだけでも勝手に夏はやって来るのだから。


 ここまで冬が長引いたとなれば、もう今からどう頑張っても凶作は免れないだろうが、一年くらいなら何とかなるだろうと冬神は思っていた。悪いけど秋神には死ぬ気で頑張ってもらうことにして、そしてその後を継いで冬神も頑張れば人間たちが食べる物がなく死に絶えるなどという事態にはならないだろう。

 次の春には、無事に出産を終えた春女神、香蓮が復活する筈だ。あれはやる気さえ出せばなかなかの仕事をする女神だから、香蓮さえ復職すれば何の問題もない。来年の交代の時には、孕むなら時期を考えやがれとでも言ってやろうか。


 なので今の問題は、色葉が仮宮の扉が開けられないこと、この一点にあった。


 春女神がこの地上にいるだけで、春は勝手にやって来るのだ。例え雪が溶かせなくとも、例え花を咲かせられなくとも、何の仕事が出来なかったとしてもこの仮宮で春女神が暮らしているだけで何とかなる筈だ、多分。

 だけど色葉は、そのただ暮らすということすらできないのが現状だったりする、なんせ我が家の扉が開けられないのだから。


「……もういい」

「もう少し、もう少しで開くと思うんです!」

「いいって、無理しても成果はでねえよ」

「でも!」

「それよか、腹減った」

「でも……」


 まだ不服そうな色葉を無視して、冬神は足を一歩踏み出した。途端に周りの雪景色は消え、質素ではあるが落ち着いた雰囲気の部屋が現れた。


 仮宮の中は、住まう神によって雰囲気はそれぞれ異なる。まるで御殿か何のようにきらびやかに飾り立てる神もいるが、季節の神々の仮宮はごく質素で、ふもとの村人たちが住んでいる家と大差ない。派手好きな香蓮あたりは貧乏臭い仮宮だと文句を言うが、畳敷きで、部屋の真ん中に囲炉裏が据えられているこの仮宮を冬神はことのほか気に入っていた。落ち着いた雰囲気で、ゆっくりと身体を休めることができる。


 畳の上にどっかりと胡坐をかくと冬神は、囲炉裏に手をかざしてほんの少し力を集めて火を起した。


「茶を淹れてくれるか?」

「はい……」


 また今日もたいした進歩がなかったことにしゅんっとうなだれて色葉は、着ていた野兎の毛皮の胴着を脱いだ。寒そうにしていたから、冬神が人間から献上されていた毛皮を与えて、色葉が自分で縫ったのだ。

 冬神が守る山で獲れた物は、感謝を込めてその一部が冬神の元に献上される。肉や野菜はすぐに食べてしまうが、冬神はそれほど寒さを感じないので毛皮は使い道がなくそのままにしてあったのを色葉にやったのだ。それを色葉が徹夜して胴着に仕立てた、胸に小さな花の刺繍までほどこしてあってなかなか可愛らしい。


「……手先は器用なのにな」


 色葉が鉄瓶を取りに台所に消えたあと、冬神は畳の上にきちんとたたんで置かれた色葉の胴着を手に取った。柔らかくていい毛皮だったから縫いやすかったと言っていたけれど、それにしてもきれいに縫ってある。


 裁縫だけでなく、色葉は料理も上手い。特に野菜汁なんかは絶品で、腹が膨れればなんでもいいと、これまであまり食べることに興味のなかった冬神ですら思わずおかわりしてしまうほどの美味しさなのだ。


 色葉の胴着を元のようにたたんで畳の上に戻して、冬神は部屋を見まわした。埃一つなくきれいに掃除されているのも色葉の仕業だ、冬神が一人で暮らしていた頃の荒れ放題だった部屋の面影はどこにもない。

 正直なところ、この仮宮は色葉が来てから居心地がよくなった。きれいに掃除された部屋で毎日きちんと暖かい食事を取るなんて、物心ついた頃には母を亡くしていた冬神には経験のないことだ。


「……」


 確かに居心地はいい、だけど冬神は居心地がいいからといつまでも地上に居座っているわけにはいかない。というか、本当にもういい加減に帰らないとならないのだ。

 夏が来ても春女神がなかなか帰らないのとはわけが違う、麗らかな春が少しぐらい長引いてもどうということはないが、冬はそういうわけにはいかない。冬神がここにいる限り雪は溶けないのだ。


 胡坐に組んだ足の上に肘を乗せ、頬杖をついて冬神は考えた。仮宮の扉が開けられないのなら、出なければいいだけの話ではないだろうか。夏神が来るまで一歩も外に出るなと色葉に言い置いてから、冬神は天に帰ればいいのだ。

 そして、天に帰ったその足ですぐに夏の里に行って、狐面の夏神の尻を蹴って地上にやればいいのではないだろうか。

 色葉が春女神としてこの地に来るのもいつもの年より遅かったし、さらにそれから半月が過ぎている。それでもさすがに夏にはまだ早いが、あの狐野郎はどうせまともに働かないのでいきなり真夏になることはなく、都合がいいと言えばいい。


 少しの間とはいえ閉じ込められることになる色葉は可哀想だけれど、この宮には食べるものなら十分にあるし、例え食べるものが尽きたとしても神の身なれば空腹なんかでどうこうなることはない。ということは冬神は天に帰っても大丈夫な筈だ、そうは思うのだけど。


「あの、柿の葉茶でよかったですか?」

「ああ」


 色葉が囲炉裏に水を張った鉄瓶をかけると、瞬きをほんの数回する間にしゅんしゅんと湯が沸きだした。神の力による炎だから、人が使う炎よりも純度が高いのだ。


 色葉が沸いた湯を急須に注げば、柿の葉茶の香ばしい匂いがした。どうぞと手渡された湯飲みを受け取ってさっそく口をつけると、これがまた絶妙な味だ。濃すぎず薄すぎず、温度もちょうどいい。冬神は寒さをさほど感じないが、それでも外から帰って来て熱い茶を飲むとひと心地つける。


「これ飲んだら、すぐにお夕飯の支度をしますね」

「ああ、頼む」


 色葉は少し猫舌らしく、自分の分の湯飲みを両の手のひらで包み込むように持って、ふーふーと息を吹きかけている。背中を丸めて畳の上にぺたんと座っているから、それでなくても華奢なのにもっと小さく見える。だけど、小さいからといって子供に見えるわけではない。身体は女性特有の丸みを帯びているし、抜けるように白い肌はいかにも柔らかそうだ。

 あの肌に触れてみたいと、ふと冬神は思った。思った瞬間に固まった。ちょっと待て。俺は今、一体何を考えた?


「今日は猪肉があるので、お鍋にしようかと思うのですが」

「鍋か、いいな」

「お好きですか?」

「ああ」

「よかった」


 よかったと言って、ふふふと笑う色葉から冬神は思わず顔を反らしてしまった。何だか、夫婦みたいな会話だと思ったのだ。

 これまでずっと一人で暮らして来て寂しいと思ったことなんて一度もない、むしろ気楽でいいと思っていたのに、誰かと一緒に暮らすことがこんなに暖かいものだったのかなんて思っている自分に驚く。全く、色葉と一緒にいると調子が狂う。


「……お前、料理だけは上手いな」

「え、本当ですか!?」


 何も喋らずにいるとあらぬ想像をしてしまいそうで、何となく料理が上手いなんて言ってみたのだが、冬神に褒めらて色葉はそれは嬉しそうに瞳をきらきらと輝かせた。


「いや、料理だけじゃねえな。掃除も上手いし、裁縫もなかなかのもんだ」


 色葉があまりに嬉しそうな顔をしたので、冬神は続けてもっと褒めてみた。実際に色葉は、春女神としては役に立たないが、だけど家事は一般水準の遥か上を行く腕前ではあるのでこれくらいは言ってもいいだろう。

 すると案の定、色葉はぱっと花が咲いたような極上の笑顔を見せた。可愛いなどと思わず思ってしまって、またもや冬神は色葉から顔を反らした。鼓動がいつもより早いような気がするのは、冬神の気のせいなのだろうか。


「私、春女神としては全然ダメだから、これはどなたかいい方のところに嫁ぐしかないだろうと色々教わったんです。本当なら今頃、お見合いしている予定でした。いいお話をいただいたんです、急にこちらに来たので延期になってしまいましたけど」


 はにかみながらそんなことを言い出した色葉に、冬神は思わず身体を前へと乗り出した。何か今、嫌な言葉を聞いたような気がする。


「……見合い?」

「はい、蘭様……えっと、薬の女神様を通じてお話があったんです。秋神の萩生(はぎお)様、確かこの地方担当の秋神様ですよね?」

「あいつかよ……」


 冬神の脳裏には、金色のさらさらな髪をした細身の若い男神の姿が浮かんだ。まあまあの男前と言ってもいいだろう、少し優男だけれど。


「あの、どういう方かお伺いしてよろしいでしょうか? 蘭様からは、とてもお優しい方だとお聞きしているんですけど」

「ああ、真面目な奴だ。仕事も出来る」

「えっと、それでお優しい方ですか?」

「それは、知らん」


 冬神は秋神から仕事を引き継ぐので毎年会うには会うが、秋神は冬神が来たらすぐに天に帰ってしまうので親しいと言えるほどの間柄ではない。その仕事ぶりを見れば真面目なんだろうと推測できるが、それ以上のことは何も知らなかった。


「同じ土地を担当してるとは言っても、一緒に仕事するわけじゃねえからな」

「あ、そうですよね」


 大体、こうして二つの季節の神が一緒にいること自体がおかしいのだ。恋仲な春女神と夏神が一緒にいるならまだしも……いや、それはそれで『仕事なめとんのか!』という感じなのだが、だけど春女神が未熟過ぎて帰るに帰れない冬神の話など聞いたことがない。


 やはりここは、仮宮から一歩も出るなと言い含めて帰るべきだろうか。そして、その足で夏の里に行って、仕事なめてる夏神の尻を思う存分蹴り倒すべき、なのだろう。


 わかっている、冬神は帰るべきなのだ。このままでは、いくら寒さに強い土地だとしても村で人死にが出るかもしれない。一日も早く帰らなくてはならない、それはわかっている。だけど、この居心地のいい仮宮を離れる気になれない。明日帰るとどうしても言えないのだ。


 冬神は、お茶を熱そうにちびちびと飲んでいる色葉を見つめていた。この仕事が終わって天に帰ったら色葉はすぐに見合いするのだろうか、あの金髪さらさらな秋神と。


「……お前は、それでいいのか?」

「はい?」

「いや、つまりその……一人前の春女神になることを諦めて嫁に行って、それでいいのか?」


 そう訊くと、色葉は苦笑いを浮かべた。いつもいつも笑う時は底抜けの笑顔を見せてくれる色葉にしては、珍しい笑い方だ。


「そりゃあ、私だって悔しいですよ」

「悔しい?」

「はい、悔しいです。子供の頃から一生懸命がんばって立派な春女神になろうとしたけれど、だけどどうしても駄目だったんです。いつか香蓮さんみたいな春女神になりたかった……ううん、今でもなりたいと思ってるけど、だけどやっぱりどんなに頑張っても駄目で」

「お前、力は弱くねえぞ」

「はい、それは自分でもわかっています。でも、いくら力があってもうまく使えなかったら仕事になりません」

「まあな」


 連日繰り返されている不毛な訓練を思い出すと、冬神も苦笑いになった。色葉は一握りの雪を溶かすだけでも必死だ、あんなに頑張っているのにと思うと何だか可哀想になってくるほどに。


「だから私、考えたんです。春女神になってたくさんの人間たちのために働くのは、そりゃあとっても素敵だけど、でもどなたかに嫁いで、その方のために働くのだって素敵なんじゃないかなって」

「まあ、そういう考え方もあるな」

「でしょう? 春女神にはなれなかったけれど私、お嫁さんにはなれると思うんです。お料理もお掃除も好きだし、それに子供も好きだし」

「子供か」

「はい、いいお母さんになりたいです」

「成程な」


 それはいいなと言うと、色葉はにっこりと笑った。さっきの苦笑いとは違う、ぱっと花が咲いたような可愛い笑顔だ。水の色の目を細めて冬神は、またちびちびとお茶を飲みだした色葉を見つめ続けた。


 帰るべきだ、それはわかっている。冬神はもういい加減に天に帰るべきなのだ。だけど、この仮宮はあまりにも居心地が良すぎる……。


「あの、冬神様」


 俺は冬神失格だろうかなどと、しばしの物思いにふけっていた冬神は、色葉の呼びかけにぼんやりと顔をあげた。するといつの間にか色葉は冬神のすぐ隣までにじり寄って来ていて、両手を胸の前で祈るように組んで小首を傾げて冬神を上目遣いで見上げていた。


 うっと、思わず冬神はのけ反ってしまった。反射的に可愛いと、またもや思ってしまったのだ。

 美しさという面で色葉は、春女神の基準にはおおよそ達していない。だけど色葉には、内面からにじみ出て来るような可愛さがある。思わずのけ反ってしまうような可愛さだ。


「あのぉ、冬神様」

「な、何だ?」


 思わずどもってしまった、まともに色葉を見ることが出来ない。

 冬神に女性の免疫がないからこんな反応をしてしまうわけではない、人間の社会と同じでこれだけ美しい男神ならば寄って来る女神なんていくらでもいるのだ。それに、仕事の出来る男がいつまでも独り身でいるものではないと、お節介な先輩の神様たちが結婚話を持って来ることも少なくない。

 先輩の顔を立てる意味もあって、冬神は試しにその中の何人かの女神とつき合ってみたことがある。だけど冬神はどうも恋愛というものに向いていない体質らしく、しばらくすると面倒になって別れてしまうのだ。


 女性に免疫がないわけではない、誰もが羨む美しい女神とつき合ったこともある。だけど、いくら美しい女神を恋人にしてもそれを嬉しいと思ったことはない。それよりも面倒だった、一人の方がよっぽど気楽でいいと思った。


 だけど、色葉が来てからこの仮宮は居心地よくなった。誰かと一緒に暮らすことがこんなに暖かいことだなんて、冬神は初めて知ったのだ。


「あの……えっと、お夕飯のあとで私、ちょっとふもとの村の様子を見に行きたいのですけど」

「またかよ」

「少しだけ」

「もう日が暮れる、雀なんて飛ばねえぞ」

「でも……」


 神は天と地上を行き来する時に化身するが、人間の前に出る時にも化身することが多い。この場合は龍や麒麟などという大きなものにではなく、鳥や犬などのどこにでもいるような動物に化身するのだ。


 梅の花などという動けない植物に化身するのがやっとだった色葉だが、ここに来て冬神の助けを借りてではあるけれど、動物に化身する技をようやく身に付けた。とはいっても小さな雀に化身できるようになったというだけなのだが、それでも梅の花と違って雀には翼がある。自分の意思で空を飛べるのだから、大した進歩だと言っていいだろう。


「だって心配なんです、春の訪れが遅いせいで村人たちが困ってないかと思うと」


 雀に化身できるようになってから色葉は、日に一度はふもとの村の様子を見に行くようになった。冬神たちが治めている土地は広大なものであるから、ふもとの村だけ見て回ってもしかたないぞと冬神は言うのだが、色葉はじっとしていられないらしい。寒さのせいで誰か病気になってはいないかとか、食べるものが尽きて困っていないかと見て回るのだ。


 春が来ないのは私のせいだからと、消え入りそうな声でそう言った色葉に冬神は短く嘆息した。未だに春が来ないのは、春女神のせいだけではない。冬神が居座っているせいもあるのだ、だからこんな風に悲しそうな顔をされると弱い。


「晩飯前に行って来い、そうすれば真っ暗になる前に帰って来られるだろう」

「え……でも、お腹がおすきでしょう?」

「いい、それより早く行って来い。どうせ言い出したらきかねえんだろうが、お前は」


 そうなのだ、色葉はおとなしそうに見えて実はこれで意外と頑固者なのだ。一度言い出したら絶対に折れないところがあって、それで最初の頃は何度か言い合いになったこともある。


 人間たちのことを心配する優しさとこの頑固さ、春女神の仕事はてんで駄目なのに家事をやらせれば一級品。何とも色々な面を持ち合わせている女神だ、そのころころとよく変わる表情を見ていると本当に飽きない。


「じゃあ、お言葉に甘えさせていただきます」

「ああ」


 色葉は湯飲みを置いて立ち上がると、すっと目を閉じた。意識を集中して、雀に化身しようとしているのだ。

 冬神もまた立ち上がった、色葉の力の流れをほんの少しだけ助けて導いてやる。色葉はこれでも力が弱いわけではない、ただ天才的に不器用なだけで。その証拠にちょっと力の流れる方向を示してやるだけで、すぐに色葉の輪郭が崩れ始める。


 溶けるように色葉の姿が消えたあとには、手のひらに乗るくらいの小さな雀がいた。ちゅんと一声鳴いて、すぐに飛び立つ。


「いいな、暗くなる前に帰って来いよ」


 仮宮の扉を開けてやって冬神は、真っ直ぐにふもとの村に向かって飛んで行く茶色い雀に向かって声を張り上げた。ちゅんちゅんと今度は二度鳴いたのは、わかったと答えたのだろうか。


 雀に化身した色葉の小さな後ろ姿が見えなくなるまで見送ってから冬神は、またもやふーっと息を吐いた。

 外は相変わらずの銀世界だ。村人よりもあいつの方が風邪ひきそうで心配だよなと愚痴るように呟いて、冬神は一人苦笑いした。








  ******








 囲炉裏で炎がはぜる音がして、冬神はゆっくりと瞼を押し上げた。器用なことに、いつの間にか座ったままで眠りこんでいたらしい。冬神は胡坐に組んでいた足を伸ばすと、うーっと両手をあげた。変な格好で寝ていたせいで、身体のあちこちがぎしぎしと鳴った。


 結構な時間を寝ていたことは、なんとなくわかった。ほんの少しだけうたたねしていたくらいなら、こんなに頭が重い筈がない。冬神はこめかみにズキッと痛みが走ったのに顔をしかめながら立ち上がった、頼りない足取りで台所に向かう。


「……おい?」


 てっきり色葉が台所で夕食の支度をしていると思ったのだが、冬神の呼びかけは明かりのついていない冷えた空間に響いただけだった。慌てて窓の方へと目をやる、漆黒の闇が見えた。


 そうだった、あいつは村に行ったのだったと冬神はぎゅっと眉間に皺を寄せた。


 色葉は自分では仮宮の扉を開けられないのだから、冬神が中から開けてやらなければ入って来られない。台所にいる筈がない、まだ帰っていないのだ。どうやら少し寝ぼけていたらしい、冬神は軽く頭を左右に振った。


「……」


 冬神はもう一度、窓の外を見た。

 真っ暗だった、月は出ていないのだろう。


 雀の姿をしていても、色葉は神だ。夜目がきかないということはないし、寒さで動けなくなるということもない。少しくらい帰りが遅くても心配する必要はない、と思う。大方、村の隅々まで回っているのだろう。病人が出ていないか、食べ物がなくて困っていないかと。


 だけど、真っ暗だ。

 あのドジで不器用な春女神が、道に迷っていないとは限らない。


「……あんの馬鹿」


 小さく呟くと、冬神は駆けだしていた。

 行き違いになるかもしれない、自力では仮宮の扉を開けられない色葉のために冬神はここで待っていてやる方がいい。色葉はあれでも神だ、夜になろうが月明かりがなかろうが心配なんてする必要はない。方向音痴かどうかは訊いていないが、だけどたとえ道に迷ったとしても自分で何とか出来る筈だ。


 だけど、何故かじっとしていられなかった。

 扉を開くのももどかしく、外に飛び出す。


 身体のどこか奥底の方から冬神を突き動かす何かがある。どくどくと、心臓が早鐘を打ち始めた。気づくと冬神は、あの馬鹿、あの馬鹿と声を出さずに何度も心の中で繰り返しながら走っていた。


 外は本当に闇夜だった、月どころか星さえ見えない。冬神は雪の上を走りながら、右手を後ろから前に大きく弧を描くように振って雪雲を召喚した。その上に、ふわりと飛び乗る。


 最近では色葉に合わせて歩いてばかりいたが、冬神が雪雲に乗ればふもとの村までなんて一息で飛べる。暗闇も冬神には関係ない、あっという間に村の上空に差し掛かると、いつもは静かな村の夜が異様な緊張で包まれていることに気づいた。それぞれの手に松明を持ち、毛皮を着込んだ男どもが山の入口付近に集結している。女たちもひと固まりに固まって、男たちから少し離れたところに立っていた。


 冬神は上空に留まったままで聞き耳を立てた、口々に喋っている村人たちの声を拾った。


 どうやら村外れに住む幼い兄弟が山に入ったまま、夜になっても戻らないらしい。猟師だった父は二年ほど前に病気で亡くなり、母親と三人で小さな畑を耕して慎ましく暮らしていたのだが、秋に採れた食べ物がとうとう底をついて兄弟は、父の形見の弓矢を担いで母親には内緒で山に入ったのだとか。


 まさか東の山に入ったのではあるまいなと、絞り出すような声でそう言った立派な口髭をたくわえた大男は、冬神も何度か山で見たことのある猟師だった。東の山とは、凶暴な熊がうろついていたので人が入らぬようにと冬神が特に念入りに雪を積み上げた山だ。あの男のような経験を積んだ猟師なら、そんな冬神の無言の忠告をよく読んで決して立ち入ろうとはしない。だけど、経験なんて欠片もない兄弟にはそんなことはわからないだろう。


 神様、どうかあの子たちを助けてくださいと悲痛な叫びをあげているのは、行方不明の兄弟の母親だろうか。今にも崩れ落ちそうなのを両側から、同じような年恰好の女たちに支えられている。兄弟を探しに行くために集まった男たちが、必ず見つけて来るからと見送りの女たちに向かって任せておけとばかりに腕をあげて見せた。


 神様、どうかあの子たちを助けてください。


 母親がまた、悲鳴のような声をあげた。

 あの叫びを小さな雀に化身した色葉は聞いたのだろうか、いや間違いなく聞いたな。


 そう思った途端に冬神はくるりと方向を変え、そのまま東の山に向かって飛んだ。自分の力が足りないせいでいつまでも春が来ないことをあれだけ気に病んでいたのだから、子供が行方不明になっているなんて知ったら行かない筈がない。だけど、雪を溶かすことも出来ない春女神が行って何が出来るというのだろう?


「あの馬鹿女神が」


 今度は、声に出して呟いた。

 本当に馬鹿だと思った。色葉も、そして自分も。


 神の忠告を無視して山に立ち入った者は、どんな運命でも受け入れるしかない。それを人間たちは、天罰と呼ぶ。


 神とは、時には残酷なものなのだ。


 熊がうろつているから入らぬようにと雪を積む、だけどそれ以上は何もしない。無知ゆえに熟練の猟師たちですら入らぬ山に入った幼い兄弟を救いに行くほど、冬神は親切ではない。熊に食われようが、道に迷って凍え死のうが自業自得だ、知ったこっちゃない。


 だけど、色葉は助けに行った。そして、その色葉を心配して冬神はこうして夜空を駆けている。色葉も馬鹿なら、冬神だって馬鹿だ。


「おい、どこにいる!? 返事をしろ、おい!」


 東の山が見えて来ると冬神は、飛びながら声を張り上げた。こんな上空から叫んでも聞こえる筈はないが、それでも呼ばずにはいられない。


「どこだ!」


 神はそうそう死ぬことはない、だけど絶対に死なないわけでもない。

 神の身とはいえども病気もすれば、怪我もする。病気をすれば苦しいし、怪我をしたら痛い。そして、その果てに死に至ることだってある。それは人間と同じなのだ。


「おい、返事をしろって!」


 冬神は、必死で何度も声を張り上げた。この辺り一帯を治める冬神としては失格だろうが、行方知れずの兄弟のことは頭になかった。冬神の心を占めていたのはただ一人、天才的に不器用な春女神だった。


「おい、どこにいる?」


 どうしてこんなに心配なのか、どうしてこんなに必死になっているのか。冷静と言えば聞こえがいいが、冬神は自分が冷めた性分だと知っている。これまで何かに夢中になったことなんてない、ましてや女のために飛びまわるなんて。


「どこだ……」


 だけど、身体の奥底から突き上げて来る何かがある。その熱い何かが冬神を駆り立てる、心臓が破れそうだと思った。


「返事をしろ、色葉」


 恋をしたのだと、認めるには少しだけ勇気が必要だった。だけど、覚悟を決めて向かい合えばそれは、とても優しいぬくもりだった。


「色葉!」


 これまでに誰かの名をこんな風に呼んだことがあっただろうか? 春女神らしい、綺麗な名前だ。その響きさえ愛おしい。


 最初は、なんだこいつと思った。不器用で、本当に不器用で、仮宮の扉さえ開けられない神なんてあり得ねえだろと思った。だけど色葉は、いつだって一生懸命だった。何度失敗しても修行を怠ることはなかったし、そんなことまでする必要なんてないのに冬神に暖かい食事を作ってくれた。


 ころころとよく変わる表情、あの小さな身体のどこにあんな力があるんだろうと思うくらい元気いっぱいで。

 いつだって一生懸命、何にだって全力投球。

 こんな奴がいたのかと思った、同じ季節神なのにどうして今まで自分は色葉を知らなかったんだろうと思った。それは冬神が他の神に関心がなく、仕事以外では誰とも関わりを持とうとしなかったせいなのだろうけれど。だけど、どうしてだよと思う。どうして俺は、今までこいつを知らずにいたんだ?


 もっと見たい、ずっと見ていたい。

 一緒にいたい、だから天に帰れない。


 笑うと可愛いから、つい笑わせたくなる。しょげてても可愛いけど、やっぱり笑わせたくなる。考えてみれば、誰かを可愛いなんて思ったのは初めてかもしれない。

 冬神にとっての女は、美人かそうでないかに二分される。可愛い女なんて知らない、色葉以外には知らない。


「色葉……」


 冬神の唇が何度目かその名を呼んだ時、遠くにほのかな光が見えた。引き寄せられるように近づくと、それは一羽の雀だった。月のない闇夜に、小さな雀がほのかな光を発しながら飛んでいる。その後を雪に足を取られながらもよろよろと追いかけている二つの動くものが何なのかは、確認しなくてもわかった。


「成程、道案内くらいは出来るというわけか」


 天才的に不器用な春女神には、冬神のように雪雲を召喚して子供たちを村まで送り届けることは出来ないが、ああして道を示すことなら出来る。あまりに些細な手助けだけど、これもまた神の慈悲だ。


「そうだよな、心配することなんてねえんだ」


 色葉は、あれでも神なのだ。


 だけど、それでも放っておけないのが恋というものなのだろう。冬神にとっては初めての感覚だが、それほど嫌な感じはしない。


 冬神は、右手を軽く振って気温を下げた。子供たちは更に寒くなって気の毒だが、これは積った雪を凍らせて雪崩を防ぐためだ。この山は、他の山よりも雪を高く積んだ。そして、まともに仕事が出来ないとはいえ春女神が半月も地上に留まっていたのだから、気温は確実に緩んでいる。いつ雪崩が起こってもおかしくない、それを事前に防いだのだ。


 だけど、冬神が手助けをしたのはそれだけだ。あとは、色葉が子供たちを無事に山から降ろすまで黙って見守った。雀が力尽きたら助けに行こうと思っていたけれど、色葉は最後まで頑張り通した。








 ******








 夕食のあと、冬神は囲炉裏端でまた足を胡坐に組んでその上に頬杖をついて、眉間に皺を寄せて考え込んでいた。

 まさかとは思っていたが、どうやら自分は色葉に惚れているらしい。これまで神として生きて来た、決して短くない時間をいくら振り返ってみても冬神は誰かを恋しいと思った経験などなく、つまりはこれが初恋ということになる。


 初めてだけにたじろいでしまうが、だけどそんなことも言っていられない。色葉は、秋神の萩生と見合いすることになっているらしいのだ。

 春女神としては役に立たない色葉だから、結婚話がまとまればすぐにでも婚礼ということになるだろう。色葉が他の男に嫁いで行くのを指をくわえて見送る気は、冬神にはない。


 だけど、ということは自分は色葉と結婚したいのだろうか?


 誰かと一緒に暮らすなんて、わずらわしいだけだと思っていた。だけど色葉は違う。料理が上手いからじゃなくて、きれいに掃除するからではなくて、そんなことではなくて色葉は違う。


 色葉を見ていたい、ずっと見ていたい。笑うと可愛いとこも、意外と気が強いとこも全部、全部全部、色葉の全てを冬神は見ていたいと思う。


「あの、冬神様?」


 台所で夕食の後片付けをしていた色葉が、濡れた手を布巾でふきふき部屋に入って来た。囲炉裏を挟んで冬神の前に座ると、両手を畳について頭をさげる。


「今日は勝手なことをいたしまして、申しわけありませんでした」


 暗くなる前に帰って来いという言いつけを破ったことを詫びているのだ。おまけに、心配した冬神に村まで迎えに来させてしまったのだから、色葉は申しわけなさで小さくなっていた。


 子供たちを無事に村まで送り届けて、杉の大枝の上で羽根を休めていた色葉の前に冬神は、何も言わずに降り立った。

 怒られると思ったのか、冬神を見るや否や固まってしまった小さな雀の化身をその場で解かせて、色葉の華奢な身体を半ば強引に抱き寄せてそのまま雪雲に乗せ帰って来た。

 それから色葉が用意してくれた遅めの夕食を取り、今は一息ついたところなのだ。


 さっき抱きしめたぬくもりをまだ冬神の腕は覚えていた。色葉は背が低いからこそ冬神の腕の中にすっぽりと収まってしまう、それがひどく可愛かった。

 冬神に抱きしめられて、色葉は真っ赤になっていた。だけど雪雲を急がせたから落ちそうで恐かったのだろう、真っ赤になりながらも必死でしがみついていた。


 これまで神として生きて来た、決して短くない時間をいくら振り返ってみても冬神は誰かをこんなに愛しいと思ったことはない。幾人かの女神たちとつき合ってみたことはあるけれど、それはそれで楽しかったもののここまで揺れはしなかった。

 心の底から誰かを欲しいなんて、思ったのはこれが初めてで。


 結婚してもいいかなと、冬神は思った。

 いや、してもいいかな、ではなくて、結婚したいと思った。


 冬神はもう色葉と離れることなど考えられなかった、だったら嫁にするしかない。ということは、求婚しなければならないということだ。しかも、今すぐにだ。


 色葉が秋神と見合いする前に求婚すべきだとわかっている、秋神には悪いがこういうことは早い者勝ちだろう。そう、わかってはいるのだ。わかってはいるのだけれどつまり、どう切り出したらいいのかわからない。


「あの、冬神様……」


 眉間にぎゅっと皺を寄せて、腕組をして考え込んでいる冬神に色葉が恐る恐る呼びかけているのは聞こえていたが、冬神は返事もしなかった。どう切り出したらいいのかわからない、とりあえずさっきみたいにもう一度抱きしめたいのだけれど、雪雲から落ちないようにという言いわけなしにそんなことをしていいものかどうか。


 というわけで、難しい顔をして考え込んでいるように見える冬神の頭の中は悶々と花が咲き乱れている状態なのだが、色葉にしてみれば怒っているようにしか見えない。色葉は肩を落としてしゅんっとうなだれた、目にぐっと力を入れていないと泣いてしまいそうだった。


「ごめんなさい」


 思えば冬神は、とっくに仕事を終えて今頃は天でのんびりと過ごしていた筈なのだ。だけど、色葉が未熟なばかりにまだ地上に留まってくれている。

 目つきは鋭いし、口を開けば嫌味ばかり言うしで色葉は最初、なんて怖い神だと思っていたのだけれど、こうしてしばらく一緒に暮らしていくうちにふっと優しい目をするところを何度も見たし、とにかく口では辛辣なことを言いながらも色葉を見捨てずに根気よくつき合ってくれている。

 それに、色葉が作った食事を食べてくれる。美味いとかはそんなに言ってくれないけれど、ぬっとおかわりの茶碗を出されたら嬉しい。


 本当は、優しい神なのだとわかっている。

 だけど、いくら優しいからと言ってもいつまでも甘えていてはいけない。


 私は大丈夫ですからもう天にお帰りください、出来たら夏神様に早めにおいでくださるようお伝えいただけたら嬉しいです。


 そう言わなくてはならない、だけど。


 喉元まで来ている言葉がどうしても出て来てくれない。

 満足に仕事が出来ないのに一人で残されるのが恐いというのもあるけれど、だけど色葉は、この無愛想な神様ともっと一緒にいたいといつの間にか思うようになっていたのだ。


「色葉」

「え?」


 色葉が自分のことをそんな風に思ってくれていることなど知る由もない冬神は、ようやくこれまでに成し得たことのない難しい仕事に取り掛かる覚悟を決めて顔をあげた。

 惚れた女に愛を告白する、それはこの世を全部雪で覆うより遥かに難しい。だけどここで腹を括らねば、いつ括るというのだろうか? というか、とりあえず抱きしめたい。


「色葉」

「……はい」


 低い声で名を呼ばれて色葉は一瞬、自分のことだとわからなかった。これまで冬神は色葉のことをお前とか、でなければ『おい』なんて風に呼んでいて、こうして名前を呼ばれたのは初めてのことだったのだ。


 そんな色葉の困惑には気づきもせずに冬神は続けた、とにかく何が何でも抱きしめたいのだからここは頑張るしかない。


「俺は明日、天に帰る」

「……」


 冬神がそう言うと、色葉は膝の上で握った拳に力を込めた。

 そろそろ言われるだろうと思っていたけれど、だけど言って欲しくなかった一言を聞いて色葉の瞳には涙が盛り上がって来る。それを見せないように慌てて色葉はうつむいたのだけれど、冬神はそんな色葉の様子に気づくことなく続けた。


「天に帰ったら俺は、その足で夏の里に行く。狐野郎のケツを蹴倒してすぐにここにやるから、それまでお前はこの仮宮から一歩も外に出るな」

「狐野郎……ですか?」

「ああ、夏神だ」


 この地を担当している夏神は、見えているのかどうかわからないくらいの細い目が特徴の背の高い男神なのだ。だから冬神はいつも狐野郎と呼んでやっている、面と向かってもそう呼んでいるのだからこれは陰口ではない。


「狐野郎が来たら、お前はすぐに天に帰って来い。俺は夏の里からそのまま春の里に行って、待ってるから」

「え?」


 冬神は、相変わらず眉間に深い皺を寄せたままで怒っているような表情だ。だけど、もちろん怒っているわけではない。真剣過ぎて怖い顔になっているだけなのだが、自分がそんな顔をしていることにすら余裕のない冬神は気づいていなかった。


 冬神は、ふーっと息を吐いた。

 そうして気持ちを落ちつけてから、言葉を継ぐ。


「春神の長に、お前を貰いたいと願い出る。秋神になんてやらねえ、こういうことは先に言ったもん勝ちって決まってる」


 そう言ったきり冬神は、色葉から顔を反らしてそっぽを向いた。冬神が言った意味がすぐにはわからずに色葉は、囲炉裏越しに冬神の横顔を冬神の顔がまじまじと見つめた。


 しばしの沈黙が、二人の間に落ちて来た。だけど、その微妙な沈黙に先に耐えられなくなったのは冬神の方だった。そっぽを向いたままで冬神は、照れくさいのを誤魔化すように口を開いた。


「冬の里はちょっと寒いがお前、大丈夫だよな? 野兎の毛皮なら、いくらでもやるから」

「……」

「お前は春女神には向いてねえけど、料理も掃除も上手い。いい嫁になる、俺が保証してやる」

「……」

「俺は一年の四分の一はいねえけどお前、留守は守れるよな?」

「……」

「寂しかったら、冬の間だけ春の里に帰ってもいいし……」


 思いつくままに矢継ぎ早に言葉を繰りだしてみたけれど、色葉は一向に返事をしてくれない。冬神は、何か言えよぼそっと呟いた。これでも結構がんばっていると思うのに、色葉の反応はえらく鈍い。

 そっぽを向いていた顔をゆっくりと戻すと、色葉は鳩が豆鉄砲を食らったかのように目をまん丸にしていた。


 そんなに驚くかと、その顔を見て冬神がまたもやぼそっと呟いた。

 その途端、色葉はすっと目を細めた。


「冬神様」

「何だ?」

「もう少しわかりやすく言ってください」

「わかりやすいだろうが」

「わかりにくいです」


 いつになく座った目で睨まれて冬神は、ぐっと詰まった。だけど、すぐに姿勢を正す。

 ここで負けたら一生尻に敷かれそうな気がする、いや何となく。男としてはここは一つ、ビシッと決めるしかないだろう


「色葉、俺はお前が好きだ。俺の嫁になってくれ」

「はい」


 冬神の求婚に色葉は、即座に返事をした。

 それはもう、一瞬の迷いもない即答だった。


 そして、冬神を睨んでいた目がふいに細められて大粒の涙が一粒こぼれ落ちた。その涙を見てまた冬神は目を丸くしたのだけれど、すぐに表情を緩めた。そしてゆっくりと立ち上がって囲炉裏を迂回して色葉の側に来ると、口元を両手で押さえて涙をぽろぽろと流している色葉をふわりと抱きしめる。


「それ、嫌で泣いてんじゃねえよな?」

「当たり前です」

「それならいい」


 耳元で囁くようにそう言ってから、冬神は色葉を抱きしめる腕に力を込めた。色葉の春女神にしては華奢な身体は、やはり冬神の腕の中にすっぽりと収まる。感じるぬくもりに、愛しさが溢れだす。

 冬神はそうするのが遥か昔から決まっていたかのように、自然とその唇を色葉のそれに近づけた。初めてのくちづけに色葉が小さく身じろぐ。


「冬神様、あの……」

「なんだ?」

「あの……」


 一度、唇を解放し、もう一度味わおうと顔の角度を変えた冬神に色葉は、言い出しにくそうにパクパクと口を開けあり閉じたりした。


「どうかしたのか?」

「ですから……」


 もうこれ以上は駄目ですとか言われたらきついなと身構えた冬神の耳に、消え入りそうな小さな声でお名前は、と聞こえた。


「……は?」

「ですから、冬神様のお名前は?」

「お前、今更……」

「だ、だってだって、まだお訊きしてなかったんですもん!」


 そう言えば、半月も一緒に暮らしているのに名乗った覚えがない。色葉はずっと冬神様と呼んでいたし、元からそう呼ばれるのには慣れているので気づいていなかったけれど。


白玖(はく)だ」

「白玖様……なんだか、冬神らしいお名前ですね」

「お前の色葉ってのも、春女神らしいだろ」

「私のは、ちょっと名前負けな気がします」

「いや、似合ってる」


 白玖に似合ってると言われて色葉は、頬をほんのりと桜色に染めて嬉しそうに微笑んだ。その笑顔は、白玖の中に何か熱いものを生み出す。

 やはり可愛い。女を可愛いと思ったことなどこれまでなかったけれど、色葉は最高に可愛いと思う。


 つまりはそういうことなんだろうなと、白玖は思った。


 初めて可愛いと思った女だから自分のものにしたいのだろう、これまで誰も可愛いと思わなかったのは色葉に出会えていなかったせいなのだろう。

 

 美しいと思った女神は幾人もいた、だけど可愛いと思った女神はただ一人きりだ。

 この天才的に不器用な、春女神だけ。


「色葉」

「はい」


 名を呼ぶと、すぐに応えて笑う色葉に白玖は二度目のくちづけをした。そして柔らかなその身体を大切そうに抱きしめた。








******







 ふもとの村では昨夜、不思議な光る雀に命を救われた兄弟が両手を合わせて空を見上げていた。朝、目が覚めるなり、お前たちを救ってくれたのは神様に違いない、御礼を言って来なさいと母親に言われて家の外に出て来たのだ。

 どこに向かって御礼を言えばいいのかわからなかったので、とりあえず季節の神様たちが住んでいると言い伝えられている山に向かって手を合わせた。早朝の寒さに白い息を吐きながら、兄弟揃ってありがとうございましたと声を張り上げようと息を吸い込んだ時、四つ並んだ二人の目には白銀に輝く氷の龍が天に向かって真っ直ぐに昇って行く勇壮な姿が映った。


「兄ちゃん、あれ!」

「すげえ、本当に神様がいたんだ」


 幼い兄弟には、昨日たすけてくれた神は春女神で、いま天に帰って行ったのが冬神であることなどわからないけれど、だけどそんなことはどうでもいいことだった。


「神様、ありがとうございました」


 兄が深く頭を垂れれば、その隣で弟もまた頭を垂れた。


「神様、ありがとうございましたっ!」


 元気な声が、澄んだ朝の空気に溶けて行った。








 これは昔々、まだ八百萬の神々が折々に天から地に降り立ち、人間と寄り添って在った頃。

 人々に敬われる神様だって人の子と同じように恋をしていたという、そんなお話。





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