emergency
emergency:緊急──頭の中でついこの前の英語の授業で習ったことを思い出した。ああ、まさにこの状態は緊急事態と言えるだろう。歩いていたら突然謎の部屋で煌びやかな服を着た紳士淑女に囲まれていた。これはあれだ、転生とか転移とかそういうやつだ。弟に勧められてそのまま結構ハマったあれだ。そのおかげと言うべきか、このなんとも奇妙且つありえない状況で私は至って冷静だった。
周囲を見渡すとこの手の話ではお決まりであろう、王らしき男や姫と思しき美女がいた。他には……と私がさらに視線を巡らせていると王らしき男が何やら合図をして騒がしかった室内がシン……と静まり返った。なんか話し出すんだろうと口を噤んで男を見上げる。
「──、────?」
……駄目だ、何を話しているのか全く分からない。これはあれかな? 魔法かなんかかけてもらって意思疎通できるようになるやつかな? 理解できないことを身振り手振りで伝えようとしたとき、王らしき男が再び話し出した。
「────。What's your name?」
どういうわけか、今聞き取れたのは間違いなく英語だった。私の終わってるリスニング力でも聞き取れた。What's your name? つまり、あなたの名前は? だ。どうか夢であって欲しい。異世界転移したら私以外全員英語話者でしたとか笑えない。ファンタジーも何もあったものじゃない。王道展開なら私は勇者だか聖女だかになって魔王とか倒して異世界人にチヤホヤされて、伝説として語り継がれるようになるはずなのに、これじゃあただの異世界に来た高校生だ。
「──、──────!」
そんなことを考えていると私の背後から若い女性の声が聞こえてきた。何を言ってるかは全く分からないが、周囲の反応を見るにそれなりに身分の高い方らしい。声の主は私の横を通過して王に近づき何やら訴えている。横目で見ただけだが黒髪ですごく美人なことはわかった。長いツヤツヤのストレートヘアが羨ましい。何を食べたらあんな美髪になるんだろう。海藻かな。わかめスープでも飲んでるのかな。
「──、────」
「へっ?」
ぼーっとしていたらいつの間にかその美女が目の前にいた。やはり何を言っているのかは分からない。返事もせずに固まっていると、美女は痺れを切らしたように私の頭を引き寄せて耳元で囁いた。
「着いてきなさいって言ってるのよ! 早くして!」
「日本ごッ──」
「黙りなさい。何か話したら、ただじゃおかないわ」
勢いよく口を塞がれて何度も首を縦に振る。美女は怖い顔のまま手を離し、扉の方へ歩いていく。衛兵らしき人に催促されて私も後に続いた。
豪華絢爛といった廊下を暫く歩き、これまた豪華な部屋に着いた。美女はひとりがけの高級そうなソファーに座り込み部屋にいた召使いたちを追い払ってしまった。
「あなた、日本人よね? 名前は?」
「えと、畠中ゆみです。……あなたは?」
「私はマリよ。サカノマリ、ここでは聖女をしているの。マリ様とお呼びなさい」
聖女という完全ファンタジーワードに思わず心が躍る。それにしても中々偉そうな態度の聖女だ。もしかして悪役ポジション? そうなると、お話のジャンルは冒険系よりは恋愛系か。嫌いじゃないけど、登場人物になるのはごめんだ。あんなキラキラは私の柄じゃない。ヒロインはどこかの貧乏令嬢かお姫様かな。婚約者が奪われそうになるタイプの──。
「──聞いていらっしゃるかしら!」
「はいっ!? 聞いてます!」
まずい、何も聞いてなかった。しかも、咄嗟に嘘をついてしまった。何を話していたんだろう。元の世界に帰りたい……とか? マリ様と私の共通点、日本人しかないし。
「とりあえず、そういうことであなたを放っておくと色々都合が悪いのよ。だから、ね?」
「え、どういう……」
完全に私のせいで意味が分からないマリ様の言葉を聞き返そうとすると、なんだか良くなさそうな甘い香りがして意識が途絶えてしまった。
「……ッ!」
飛び起きて、体が何ともないことを確認する。傷一つないし問題なく動かせる。拍子抜けするくらいになんともない。
「……夢って。はぁああ……、こういうお話がいっちばんつまんないのに、全く……」
「あら? お目覚めかしら?」
やけに聞き覚えのある声が聞こえた。でも、ありえないあれは夢だ。変な夢を見ると、幻聴まで聞こえるらしい。
「はー、やだやだ。疲れてるよ、私」
「ちょっと返事くらいしたらどうなの、ゆみさん?」
今度は嫌にはっきりと、私の右隣から声が聞こえた。ぎこちなく振り返るとあの偉そうな聖女様が立っていらした。
「えっと……」
「おはようございます」
「お、おはようございます」
どうやらあれは夢じゃなかったらしい。現に今も少し怖い表情のマリ様が私を見つめている。何をする気なんだろう。
「さっさと始めたいのだけど、よろしくて?」
「何を始めるのか、お聞きしても良いでしょうか……」
私の言葉を聞くや否や、呆れた表情を浮かべるマリ様。美女は何しても絵になる、羨ましい。
「あなた、やっぱり話聞いていなかったのでしょう? もう一度丁寧に説明してあげるから、今度はちゃんと聞きなさいよ?」
そうやって、少し面倒くさそうに説明しだしたマリ様の話によると、この世界は種族により扱う言語が異なり、人間は英語を話すが、日本語を話すのはなんでか魔物たちらしい。だから我々が日本語を話せることがバレると殺されるかもしれないんだとか。
「……まあ、そのおかげで私は聖女として軍部でそれなりの権限を持てているのだけど」
「ちなみにマリ様はなんで英語がペラペラなんでしょうか」
「元の世界では通訳の仕事してたの」
「わーお」
「で、今話した通り英語が話せないとあなたの命が危ないから、私が直々に教えてあげるわ。全力で着いてきなさい」
「お手柔らかにお願いできれば……」
「残念だけど私、学生時代からずっとスパルタで有名なのよね、私はそんなつもり全くないのだけど……」
『異世界転移したらスパルタ聖女様に英語を教わることになった件(帰りたい)』
ありがとうございました。