1,王太子は真実の愛に目覚めたようです
色鮮やかな絵画で埋め尽くされた天井からシャンデリアが下がる大広間――
きらびやかなチェンバロの音色の上で、伸びやかなヴァイオリンの旋律が歌う舞踏会のさなかに事件は起きた。
「皆の者よ、聞いてくれ! 私は真実の愛に目覚めた!」
ベネディクト王太子が、信仰告白も真っ青な真面目さで宣言したのだ。
気の利いた冗談かと勘違いした貴婦人たちは、扇子で口もとを隠しながら密やかに笑い出す。
だが王太子の婚約者であるドゥランテ公爵家の令嬢レオノーラは、王太子が洒落た台詞など言えぬ殿方であることを熟知していた。
「皆の者、茶化さないでくれたまえ。私は―― 私は出会ってしまったのだ! 地上に降り立った女神、パミーナ嬢と!」
王太子が本気だと気が付いて、着飾った人々は水を打ったように静まり返った。
王太子殿下は純粋なお心をお持ちだと聞いてはいたが、これほどとは…… いやむしろこれは純粋というよりバ……いやいやなんでも――
彫刻のほどこされた大理石の柱のうしろから、三文芝居の素人女優さながらの足さばきで、ドレスの裾をひらつかせながらパーチェ男爵家のパミーナ嬢が姿を見せた。
「ああっ、いとしのベネディクト殿下! パミーナは人生でこれほど幸せを感じたことはありません!」
「愛するパミーナ!」
「殿下!」
二人はひしと抱き合った。
(何を見せられているのかしら)
げんなりした顔で茶番劇を見守っていたレオノーラは、さすがにくらぁっとして倒れかかり、
「レオノーラ様――」
うしろに控えていた侍女に支えられた。
「これぞ真実の愛!」
王太子が高らかに表明する。
(あなたはこの国の王太子。王国の未来を背負う私たちの婚約は、『真実の愛』とかいうふんわりしたものではないのですが……)
レオノーラは呆れ果てていた。王宮で純粋培養されたベネディクト殿下が、精神年齢の釣り合うパミーナ嬢と仲良しこよしになったのは知っていた。だがまさか将来マリナーリア国王となる者が、責務と覚悟を伴う結婚をひっくり返すとは想像していなかったのだ。
(このあとの展開って大体、婚約を破棄する! って叫ぶあれよね)
皆まで聞く必要はないと判断して、レオノーラは胸元から出したハンカチで額を押さえた。
「わたくし、ちょっと気分が――」
事を荒立てずに大広間から退出しようとしたのだが――
「お逃げになるのですか!? レオノーラ様!」
あろうことかパミーナ嬢が、甲高い声で呼び止めた。
「よっぽどお恥ずかしいのですわね!」
(ええまあ、共感性羞恥とでもいうのかしら? 見ていられないわよねえ)
胸の内で返答するレオノーラは、その言葉を口には出さなかった。社交の場で男爵令嬢と口喧嘩なんて、みっともないことはできない。
「レオノーラ様! 愛とはどのようなものか僭越ながらこのパミーナ、お見せして差し上げようと思いますの!」
(はいはい)
周囲の貴公子たちが、本当に頭痛がしてきたレオノーラを支えて広間の外へ連れ出してくれる。
「真実の愛を知ったらレオノーラ様だって――」
パミーナ嬢はまだうしろで何か言っていたが、両開きの重い扉が閉まると聞こえなくなった。
翌朝、国王夫妻は昨夜の舞踏会におけるベネディクト王太子の振る舞いを咎めるため、息子を呼びつけた。
国王は苦虫を噛み潰したような表情、王妃にいたっては片手で顔を覆っていた。二人とも胸中は同じ――
(思っていた以上に我が息子はお馬鹿さんだった!)
侍従に伴われてやって来たベネディクトは、両親を前に言い放った。
「父上も母上も政略結婚でしょう? 私はお二人とは違う道を生きます! 真実の愛を見つけたのです!」
(出た、真実の愛!)
壁際に控える使用人は心の中でつぶやいた。昨日の夜会でも何度その言葉を耳にしたか知れない。
国王夫妻の説得は無駄だった。愚かなベネディクトは怒ってもなだめても耳を貸さない。ついには、
「そこまでおっしゃるなら私を廃嫡して下さい! 私には王位より大切なものがあります!」
(出るぞ、真実の愛)
使用人の予想通り、
「それは真実の愛!!」
息子の大声にくらぁっとして、王妃は椅子の背にもたれかかった。侍女が慌てて気付け薬を嗅がせる。
「私はパミーナ嬢と結婚できるなら、王位を捨てても構わない!」
恋の熱に浮かされたベネディクトは、まさかその言葉が現実になるとは、このとき微塵も考えていなかった。
結局、折れたのは国王夫妻のほうだった。ただし男爵令嬢としての教養しか身につけていないパミーナ嬢に急遽、王妃教育をほどこすという条件付きで。
口約束だけでは済まず、パミーナに念書まで書かせて、王家は男爵令嬢を受け入れることになった。
しかし、パミーナ妃の再教育は困難を極めた。
「パミーナ様、お眠りになられてはいけませんよ」
彼女の隣にはつねに見張りの侍女がはべっている。その職務は居眠りするパミーナ妃を起こすこと。教育は当然ながら教師とパミーナ妃の一対一でおこなわれる。にもかかわらずパミーナ妃はよく寝た。
とはいえ起きていれば良いかというと、そうでもない。
「グランディア帝国語では、条件法がこのように活用します」
教師が石板に活用を書き出すが、
「ねえ、条件法って何かしら?」
パミーナが隣の侍女の袖を引っ張る。侍女は気まずそうに教師をうかがいながら、
「私たちのマリナーリア語と同じですよ。条件法は条件法です」
「え、それが何かって聞いてるんだけど」
そもそも国語文法が怪しいから、外国語どころではない。
外国語は苦手そうなので、先に歴史を学ぶことにした。
「海の向こうのグランディア帝国では八百年前、現在の皇帝の始祖となる――」
「ねぇ」
一対一の授業なのに毎回侍女に私語を持ちかける。
「八百年も昔に人が住んでいたなんて、やっぱり帝国はすごいのね」
「は…… マリナーリア王国があるこの土地にも当然、人は住んでおりましたが……」
侍女の方が知識がある有り様だった。
「てへへっ そうだったわね。八百年と八千年を勘違いしてしまったわ!」
そもそも自国の歴史さえ知らなかった。
パミーナ妃のいないところで、教師役を担う法官や外交官たちは首をかしげていた。
「男爵令嬢としての教育は受けたのだろうか?」
「貴族学園に通っていたと聞いたが――」
「それが人間関係がうまく行かず、寄宿舎にこもりきりだったらしい」
「だがそれで男爵家に連れ戻されて、家庭教師がついたそうだぞ?」
「彼女のレベルに合わせて教えていたのではないか? わしも文字から教え直しておるぞ」
「実は私も大食堂の壁に並ぶ絵画を指さしながら、色の名称を確認しておる……」
「この進度では何十年かかるのだろう……」
だが彼らの悩みはあっさりと終わった。あっけなく解雇されたからだ。
「パミーナ様、分からないことは直接わたくしにお尋ねください」
侍女にばかり話しかける彼女に一回でも小言を言えば、
「え……だって……この人なんか怖い……」
侍女のほうを向いて涙ぐむ。
怖くて授業に出られないわっ! と生徒が現れないので、教師役の外交官はお役御免になった。当然彼は元の仕事に戻れることを喜んだ。
教師役を務める別の法衣貴族には、
「下々の方とは怖くてお話しできません」
と、のたまった。当然、爵位を持つ貴族である教師は、
「恐れながらわたくしは、あなたの父上と同じ男爵位を賜っておりますが――」
ついつい言葉を返してしまった。
「なんですって!? パミーナは王太子妃ですわよ? あなた、ただの男爵でしょう!?」
心底驚いた顔をする元男爵令嬢。記憶喪失にでもなったのか?
(いやお前、ちょっと前まで成り上がり男爵令嬢だっただろ!?)
自身は由緒ある男爵家出身の法衣貴族は、胸の内で毒づいた。
彼もまた、さっさと解雇されて笑顔になった。
食事のマナーを注意しても、
「パミーナを餓死させるの!?」
と、いつものおめめウルウルが始まる。
挙句の果てにはベネディクト王太子に、
「マナー講師が意地の悪い年配の女性で、パミーナに食事をさせないの」
と、言いつけた。パミーナはそう信じ込んでいるので、嘘をついたつもりは毛頭ない。だから話を聞いた王太子もそのまま信じてしまう。
悪者にされたマナー講師は解雇された。
一人、また一人と教育係や侍女が辞めていく。男爵家から付いて来た侍女は一人も残っていない。さすがの王太子も不思議に思って本人に尋ねてみると、
「侍女ですって? あの方たちは堪え性がないのですわ。仕事に対する責任感が欠如しておりますの」
王妃教育が全く進まないパミーナの口から「責任感」などという言葉が飛び出すとは! 人には言うのである。
「男爵家にいたときも、度々侍女が代わっていたのか?」
「ええ。一年に五回くらい変わるのですわ。お友達になれたと思ったらいなくなってしまって――」
きついまなざしで話していたパミーナの瞳が、急にうるみだした。
「みんなパミーナを裏切るのぉぉぉ!」
「おお、かわいそうなパミーナ!」
王太子は彼女を強く抱きしめた。
国王の執務室――
複雑な柄の絨毯に重厚な机が据えられ、向かいには金のレリーフが目を引く暖炉。その上には神話の神々を描いた華麗な絵画が飾られている。
大臣が持ってきた決裁済みの書類に軽く目を通していた国王は、ふと眉根を寄せた。
「またか」
「どうされました?」
普段、決裁書類に口をはさむことのない国王なので、大臣は少し驚いた様子。
「パミーナ王太子妃の侍女だが、先月も二人辞めて新しい者を入れていなかったか?」
「はい。そのようです」
国王は書類をめくりながら、
「誰か部下を使って調べさせてくれ。新しい人間が頻繁に王宮へ出入りするのはよろしくない」
国王は海の向こうの帝国が密偵を送り込んでいる可能性を危惧していた。マリナーリア王国は強大な帝国と向かい合って位置しているから、平和そのものというわけではないのだ。平和なのは王太子とパミーナ妃の頭の中だけである。
数日後、ベネディクト王太子は父親の執務室に呼ばれた。
「今後はお前がパミーナ妃の面倒を見なさい」
「私が愛する彼女の隣に一日中いられるということですか!?」
今までは勉強の時間、二人は引き離されていた。一緒にすると始終イチャイチャして、王妃教育どころではないからだ。
「そうだ。今まで侍女が担っていた仕事のいくつかをお前が引き継ぎなさい」
「喜んで! ありがとうございます、父上!」
「うむ、お前にしか務められん仕事だ。聞き取りをおこなった侍従の報告によると、侍女たちは夜眠れず体調を崩してしまうらしい」
「はぁ」
王太子はあいまいな返事をした。パミーナは侍女のエネルギーでも吸い取っているのだろうか?
「着替えを手伝う役目など最低限の侍女だけを残す。王妃教育にもすべてお前が付き添ってやりなさい」
「そうします!」
喜びに顔を輝かせて、王太子は新しい任務を引き受けた。これが不幸の始まりだとも知らず――
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