勇者と醤油ラーメン 後編
それは魅惑の一杯だった。
「おぉぉ……」
アレスの口から出たのな感嘆の声のみ。
(このような美しい食べ物……王城でも見た事がないぞ?)
王城で供される食事と言えば、サラダやスープ、ソテーといったもの。確かにあれもまた一般人には縁遠い食べ物だ。
しかしこのラーメンとやらの美しさは。
透き通ったスープ。黄金に輝く麺。それを引き立てる肉片やら、黒い紙やらの具材。
アレスはホゥと一息つくと、共に置かれている白いスプーンを手に取った。
(変わったスプーンだな……)
「それはレンゲというものだ。まぁ、まずはそれでスープを一口飲むのが王道だな」
店主の勧められるがままにアレスはレンガを使ってスープをすくい、そして口に運んだ。
その瞬間
(な…なんだ!?これは!!)
口の中で、スープが一斉にハーモニーを奏で始める。
一般的な飯屋で供されるスープでは、塩味がほとんどだ。
王城で食したスープは肉を煮た煮汁を使って味付けをしていると聞いている。
飯屋の塩スープと比べると王城で供されたスープは天と地ほどあった。
だがどうだ。その王城のスープが遊びと思えるほど、このラーメンとやらのスープの奥深さは。
肉の脂のようなコッテリとした味わいはもちろん、野菜の旨みもしっかりと溶け出した極上のスープ。
一個では済まないであろう、さまざまな具材が一体となってハーモニーを奏でている。
アレスは続いて麺に目を向ける。
(これは……どの様に使うのだ?)
「あー、お客さんも箸は初めてかい。まぁ、フォークもあるけど……やはり箸で食べて貰いたいねぇ」
そう言うと店主は使い方をアレスにレクチャーする。
それを聞き、そして空で少し練習すると、アレスはゆっくりと麺を持ち上げ……静かに啜った。
「こ…これは!?」
少し硬めの麺にスープが絡み合い絶妙な味に昇華されている。
そして、ゆっくり咀嚼し、自然と喉を通過していく……
(この世にこの様な食べ物があったとは……)
目を閉じ静かに一口目の余韻に浸かる……
その時だった。
再び、店主が声をかけてきたのは。
「あー、お客さん。悪いんだけどさ。ちょっと食べ方が違うんだよな」
◆
店主の声に我に返るアレス。
(食べ方が違う?)
「こちらの世界じゃなんて言われるか知らないけどね。ラーメンはこう……音を立てて啜るものなんだよね。そうじゃないとこっちもどうにもやる気が出なくてね」
店主はそう言って笑った。
(音を立てて啜る……だと!?)
アレスはそれを聞き、静かに器をみる。
音を立てて食事をするのは、この世界においてはタブーに等しい行為だ。品のある店でその行為を行えば、恐らくはつまみ出されるだろう。
だが……
(や……やってみたい……)
やってはいけない事を行う。
勇者として、精一杯真面目に、清く正しく美しく生きてきたアレスにとってなんと魅力的な言葉なのだろう……
ゴクリ
アレスは生唾を飲み込み、そして意を決した様に、再び麺を持ち上げ……そして勢いよくそれを啜った。
ズズズズズっ
口の中いっぱいに麺が飛び込んでくる。
(こ……これは……至福…。)
その味に、そしてその行為にアレスは酔いしれる。
彼の心中にあるのは背徳感。それ以上の幸福感である。
アレスは手を止めない。
続いて今度は麺の上にある付け合わせのものを食していく。
メンマと呼ばれた野菜はシャキシャキと絶妙な歯応えをもち、飽きさせない。
緑色の薬味はスープと絡み合い、海苔という黒い紙はスープを吸った事で極上の味に変化している。
そして驚いたのはこの肉片だ。チャーシューと呼ばれる肉片を口にした瞬間……
アレスは天を思わず仰いだ。
(王城の晩餐でもこの様な肉は出てこない……)
王城の晩餐で、供してもらった肉料理。いずれも一流のシェフの絶妙な火加減で焼かれてはいたが……どれも硬く、噛み切るのに歯の力を必要とした。
そう、この世界の肉は……硬いのだ。
しかしこのチャーシューとやらはどうだ。
(口の中に入れた途端……ホロホロととろけていく……)
アレスは麺、チャーシュー、メンマにネギ。そしてスープとその味に夢中になっていた。言葉も発せず、黙って口の中に入れていく。響き渡るのは麺を啜る音のみだ。
しかし、彼はまだ知らなかった。さらに彼を驚かせるものが残っている事に。
◆
(これは……卵だよな)
少なくなった器に最後に残ったのが卵であった。
なぜ、アレスが最後まで残していたか……と言うと、単純に箸で食べにくいからである。
そして、ゆで卵はこの世界でもごく一般的であり、どこに行っても食べる事ができるからであった。
(流石にこれは驚く様なものでもあるまい)
そう思いながらゆで卵に箸を刺す。現代日本では行儀が悪い作法ではあるが、ここは異世界。店主も少し眉間に皺を寄せながらも何も言わない。
(こうすれば、これを食べる事ができるな)
そうして、アレスは卵を一口齧った。
その瞬間だった。
アレスは思わず、手に持っていた箸を落としかけた。
(なんなのだ……これは!?)
しっかりと味のついた半熟の卵。本来は無味のはずの白身についている濃厚な味。そして齧った瞬間、黄身がとろけ口の中に広がっていく。
ゆで卵とは白身も黄身も固く、塩をつけて食べるものだと思っていた。だが、このゆで卵はどうだ?
今までの常識からかけ離れた、至高のゆで卵ではないか。
(この店は……どれだけ俺を驚かせるのだろう……)
この時すでにアレスは自分が魔物との戦闘中に飛ばされた事、そしてここが森を抜けた草原であった事、未だに仲間たちは戦っており、すぐにでも戻らなければならないことなど、その全てを忘れていた。
彼は夢中になって一杯のラーメンに向き合い、そしてそれを口の中に入れていくのであった。
◆
アレスは今、一人草原を軽やかな足取りで戻っている。
身体強化を施した身体は、高速移動を可能にしており、凄まじいまでの速さで、元いた場所まで進んでいた。
しかし、先程飛ばされた時とは異なる事がある。
彼のアイテムボックスと呼ばれる持ち物袋には、先程までにはなかったものがあるのだ。
代金を支払った際、店主から貰ったのは一つのガラス玉。どういう技術をつかったかは分からないが、ほぼ正確な円球のガラス。たしかビー玉と言ったか……?
「どう言う仕掛けか知りませんがね。うちの屋台は数日に一度こちらの世界に来るらしいんですよ。で、この世界に来た時、そのビー玉が光るそうなんです。そのビー玉に……なんだっけ?魔力?とか言うのを流すとここに来れるそうですよ。って、どこぞの常連の爺さんが言っていました。その爺さんもそれを使って毎回来てるから、間違いはないと思いますよ。まぁ、気が向いたら来てください」
その言葉を思い出し、アレスはアイテムボックスからビー玉を取り出した。そしてマジマジと見つめる。
確かにごく少量だが、魔力を感じる。店主は自分で渡しながら信じてはいなかったみたいだが、おそらく彼の言ってる事は本当だろう。これは確実に
『マジックアイテム』
であり、おそらく神かなにかの祝福を受けたものだ。
(でも……そんな事はどうでもいい)
アレスは思う。
あの透き通ったスープ。それに絡まり合う麺。付け合わせの野菜にチャーシュー。そして味玉。
思い出すだけで笑みが出る。
ただひたすらと世のため人のために戦い続けている勇者にとって。
新しい『人生』の楽しみができた瞬間でもあった。
(絶対に……また行く。それまでは精一杯頑張ろう!)
こうしてアレスはまた頬を引き締めると、自らを必要としている地へ、進み始めるのであった。