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8/22

7時間目 オレはどこで間違えたんだろう

 それはある日のこと。

「ねぇ、ユキ。」

「…………なんだよ。」

「なんか、最近クラスのみんなが変な目でこっち見ることがあるんだけど…なんでだろ?」

「分かってるなら、離れろー‼」

 いい加減我慢も限界で、ユキは自分のワイシャツの裾を掴むナギの手を思い切り払いのけた。

「よくよく思い出してみろ。今までオレらはどんな関係だったかね? 周りからすれば、オレがお前から逃げねぇだけで天変地異なんだよ。そりゃあ変な目も向けられるわ! ただでさえこっちは居心地悪いってのに、お前はなんなの? ヒヨコか? 子供か? 距離が近い!」

 あの日の宣言どおり、ナギのことは無視せずに必要最低限接してやっている。授業でも彼が望むなら行動を共にしているし、何故か知らないが弁当までご馳走することも増えた。おかげでナギは終始ご満悦。事情を知ったトモには腹を抱えて大笑いされた。

 確かに逃げないでいてやるとは言いましたとも。だがこうして常にぴったりと張りつくことまで許可はしていない。あまり調子には乗らないでほしい。

 突如として怒鳴ったユキに、周囲でさりげなくこちらの様子を見ていた生徒たちが若干ざわめく。

 しかし、当人はというと。

「だってぇ…ユキ、目を離すとすぐいなくなるんだもん。」

 ユキの怒りオーラなどなんのその。平然とそんなことを言ってのける。

(こらえろ…こらえろ、オレ。)

 ぐしゃりと前髪を掻き上げたユキは、腹の虫をどうにか押し殺しながら次の言葉を紡ぐ。

「あのなぁ、しつこいくらいオレについて回ってたんなら、オレの毎日がくそ忙しいのくらい分かってんだろ?」

「うん。ユキ、毎日違う先生に呼ばれて手伝いしてるもんね。その上事務のバイトなんだもん。全然話せなくてつまんなーい。やっぱり俺が―――」

 その瞬間、ユキは遠慮なくナギの頭をひっぱたく。

「その先を言ったらどうなるか、まさか学んでないわけじゃないだろうな?」

 どうせまた学校にかかる諸経費を受け持つとか、ふざけたことを言おうとしているのは明らか。

 冗談じゃない。

 どんな形であれ、こいつにだけは借りを作りたくはない。

「うぅ…殴ってから言わないでよ。」

「知るか。後先考えずに何か言おうとするお前が悪い。」

「だってつまんないものはつまんないんだもん。」

「そう言う割には、お前、オレが忙しいの見てるだけじゃねぇか。ちっとは手伝おうとか思わねぇのか。」

「え? なんで?」

 ナギがきょとんと目をしばたたかせる。

(くそ…もうすでに一発殴ってるけど……一応こらえろ…!)

 必死にそう言い聞かせるも、右手で作った拳が勝手に震えているのだが。

「…………手伝えばその分時間が空くから、話せる時間が増える。」

「あ、そっかぁ。じゃあ、今度から手伝うー。」

「ふんっ!」

 気づいた時には、拳を盛大に振り下ろした後。

「いたぁい……なんでー?」

「なんで、じゃない。分かっちゃいたけど、お前って明確な結果が伴ってないと動かねぇのな。ああ言いはしたけど、そんな即物的な理由で手伝われてもオレは嬉しくねぇ。」

「ええ……じゃあ、ユキはなんで毎日先生たちの手伝いしてるの? なんか得があるからじゃないの?」

「確かに得がないわけじゃない。まあ、得があったとしても、全体の一割程度だけどな。はっきり言って九割は損だ。だけど損得なんてどうでもいいんだよ。」

 どうせナギには分からない理屈だろうが。

 そんなことを思いながら、ユキは涙目で訊ねてくるナギに律儀に答える。

「ようは気持ちの問題だ。自分がしたことで誰かが助かるなら、多少の損くらいはなかったことにできるだろ。自分が色んな人を助けた分、自分が困った時には誰かが助けてくれることもある。人間関係ってのは、そうやって築いていくもんだ。」

「んー…?」

 やはりナギにはピンとこない理屈らしい。

 ユキは溜め息をつく。

「はいはい。特に大事な人間もいないお前には過ぎた話だったな。話したオレが馬鹿だったよ。どうせ理解できないんだから忘れちまえ。その方が効率的だろうよ。」

「うーん…そう言われると理解できないのが嫌だなぁ。」

 なんでもできる天才としてのプライドが刺激されるのか、ナギがむぅと頬を膨らませる。

 これはちょっと気分がいい。

 ユキはナギの悔しさを煽るように手をひらひらと振った。

「やめとけ、やめとけ。どうせ無理だから。」

「そんなことないもん。どうやったら分かるの、それ。」

 ナギはいつになく話に食いついてきている様子。

 これでちょっとは人間らしい思考を身につけてくれると嬉しいのだが。

 期待することだけは絶対にせず、とりあえず話にだけは乗っかってやることにする。

「さぁな。それは人それぞれだから、お前にはお前のきっかけがあるだろ。誰かを喜ばせたいとか。笑ってほしいとか。そう思える相手ができれば分かるかもな。まあ、まず周りを見ないお前には無理だと思うけど。」

「笑ってほしい……そういえばユキって、学校であんまり笑わないよね。」

「………」

 その一言に、ユキは何も言えなくなってしまう。

 さすが、人間的思考回路はお子様並み。興味の移り変わりが激しいことで。

 期待はしていなくとも、ここまで綺麗に話を変えられるとこう、腹から込み上げてくるものがあるわけで。

 黙して感情を抑えるユキに構うことなく、ナギは子供のようにユキの袖を引っ張る。

「ねーねー、なんで笑わないの? 俺、ユキの笑った顔見たーい。」

「無理。」

「えー。笑うのなんて簡単じゃん。こんな風に口角上げるだけだよー?」

 にぱっと簡単に笑うナギ。

 ユキはすっと拳を掲げる。

「お前のその顔はオレの不快感を煽るだけなんだよ。もう一回殴られたいか?」

 馬鹿と天才は紙一重というが、ナギと関われば関わるほど、彼が世を賑わす天才だとはとても思えなくなる。

「よぉ、ユキ。今日も一日ご苦労さん。」

 ふと低い声が耳朶を打ったのはその時のことだった。

「ガルム先生、どうかなさいました? 今日の仕事なら放課後のはずですよね?」

 後ろから誰かが近寄ってくるのには気づいていたので、ユキは特に動じることなくガルムに訊ねる。

「いや、お前さ…」

 ガルムはユキの体をくるりとナギから背け、内緒話をするようにユキの耳元に顔を寄せた。

「ナギをたった半日で丸め込んだお前はすげぇよ。すげぇけどな、もう少し穏やかに付き合えんもんか? お前、おれが止めなかったら絶対にまた殴ってただろ?」

「ええ、よくお分かりで。」

 思えば、ガルムはガッチリと自分の腕を押さえている。なるほど、遠慮なくナギを殴る自分を見かねて止めにきたのか。

「ナギが嫌な顔してないし、研究所との契約を続行してくれることになったから目をつむられてるがな、上の目は複雑なんだぜ? お前がどうこうされたら理事長がへそ曲げるから、マジでほどほどにしてくんねぇか?」

「はあ……間に挟まれるのも大変ですね。」

 こそこそと耳打ちしてくるガルムは、かなり本気で参っている様子。きっと校長側からは自分の行動を厳しく見張るように言われ、理事長側からは自分のフォローに回るように言われているのだろう。校長の機嫌を取りつつ自分を助けるのは大変だろうとは思う。

 だが、だからどうしたというのだ。

 ユキは眉根を寄せる。

「先生の心中はお察ししますけど、じゃあオレはどうなるんですか。オレだって普通の学生生活を送りたかったですよ。なんだってこんな学校の便利屋みたいにこき使われなきゃいけないんですか。」

「おれもお前の心中は察する。こう言っちゃ不本意かもしれんが、お前便利なんだわホントに。勉強ができる以上に物分かりと要領がいい。一を頼めば十を返してくる。滅多なことじゃへこたれない。将来有望すぎる素質を持ってる。だから今の内に苦労させてんだよ。ほら、可愛い子には旅をさせろっていうだろ? あれでも理事長、お前のこと可愛がってんだって。」

「だからって、我慢できることとできないことはありますよ。」

「頼む、どうにか聞き分けてくれ。ほどほどでいいんだ。せめておれが庇えるレベルに!」

「………」

 そこまで言われてしまうと…。

 ユキはより一層眉間に力をこめ、次に渋々といった様子で腕から力を抜いた。

「分かりました。善処はします。一応。多分。保証はできませんけど。」

「頼んだぞ。期待してるからな。」

 ガルムは力強く肩を叩いてくる。

 その期待が重い。

 ナギと騒いでいたおかけで、ただでさえ注目を浴びていた状態だったのだ。こんな状況で内緒話をする場面を大勢に見られては、またいらぬ噂が飛び交ってしまうではないか。

 入学当時は、こんなに無駄な注目を集めるつもりなんて毛頭もなかった。細々と堅実に平和に過ごしていたかったのに。

(オレは、どこで間違ったんだろう…)

 頭が痛い。

 本格的な受難はまだまだ始まったばかりのようだ。

 

 ★

 

「どこでってそりゃ、初めからかのぅ。」

 ぽつりとぼやくと、ウォルトは暢気にそう返してきた。

「初めから…。じゃあ、オレはどうすればよかったんですかね…。」

「人間関係のネットワークまで理解できる念入りな下調べと、面倒事を避けられるだけの演技。あとは簡単に利用されないだけの金と権力があればよかったかの。まあどちらにせよ、ちょっと前まで中学生だったお前さんにどうにかできたものでもない。運命だと思って受け入れるしかないのぅ。」

「マジですか…」

 持っていた箒の柄に額をつき、ユキはがっくりと肩を落とす。

「元々、誰にも放っておかれないほどの素質があったんじゃろ。それを開花させたのは、紛れもなくお前さんの努力の賜物じゃろうて。これも一つの社会勉強じゃ。今回のことについては諦めて、次に活かすことじゃな。」

「………」

「そんなふてくされるな。ほれ、差し入れにこれでもやるから。」

 ウォルトは持っていた袋をユキに見せる。

「ダニーからだ。新しい本を書いたから、もしよければと。」

「くっ…」

 ユキは思わず呻く。

 ウォルトからの差し入れなんか期待の欠片も持っていなかったが、それは―――

「欲しい、です。」

 顔をうつむけ、ユキは素直に両手を差し出した。

 ウォルトから視線を逸らしたのは、別に彼が嫌だったわけではない。

 油断すると頬が緩みそうになるので、そんな間抜けな顔を見られたくなかったのである。

「……なんで性格あんなズボラなのに、書く本はこんなに面白いんですかね、あの人。」

 非常に複雑だ。

 彼がこんなに面白い本を書く人でなければ、研究室の手伝いなんてウォルトの命令でも行かないのに。

「あれの研究は、世の中に己の経済活性化モデルを根差すまでがセットだからのぅ。より多くの人間の心を捉える才能は人一倍じゃ。あとは、あれの専攻分野が単純にお前さんの興味関心と一致しておるんじゃないか?」

「そうなんですかね…?」

「あれの本をすでに全読破しておいて何を言うか。」

「えっ、なんでそれを…⁉」

 ウォルトの指摘にユキはぎょっとする。

 セントラル大学経済学部の教授を務めるダニーの著書は、株式市場や経済モデルといった小難しい内容がほとんど。故に話が合う友人もいないので、一人でこっそりと楽しんでいたはずなのに。

「それを受け取った時にダニーが言っておったぞ。『あれは僕の本を読んでそれなりに理解してる反応だった。』と。この間手伝いにやった時、あれと何を話したのかは知らんがの。研究室を片づけながら、拾った論文も読んでおったらしいじゃないか。」

「うわぁ、見られてた!」

 別にやましいことをしていたわけではないのだが、目ざとくそんな場面を見られていたとは。あんな性格でもさすが研究者。観察力が高い。

「やっぱりダニーの助手の件、少しは真面目に考えてみてはどうじゃ? 別に大学生の間だけでもいいんじゃ。ダニーがお前さんを気に入っていて、お前さんも嫌いな分野じゃないなら悪い話ではないだろう。」

 ウォルトがそれまで止めていた手を動かして、周辺の掃除を再開する。

「そうなんですけどね……」

 同じように手を動かしながら、ユキは地面を舞う枯れ葉を眺める。

「確かにあの分野は嫌いじゃないですよ。でも、あの道に進むのは理想の安定とはほど遠い気がして、今はまだ踏ん切りがつかないんです。」

 物憂げに目を伏せるユキ。

 家のことは気にしないで、と。

 母はいつもそう言って笑うけれど。

 現実はそうじゃないと、嫌でも知っている。

「サヤさんは、お前さんがやりたいことをやればそれで十分だと思うがな。」

「分かってますって。いつも言われてるんだから。」

 どいつもこいつも言うことは同じか。

 ユキは少しうんざりとしてしまう。

「そんなに答えを急かさないでくださいよ。これでも、ちゃんと考えることは考えてますって。」

 ウォルトが隣で放つ圧力は一体何なのだ。

 この複雑な時に悩みの種なんて増やさなくてもいいのに。

「家族を助けるために安定で堅実に生きていくってのは、ちゃんとしたオレの夢なんです。嫌々掲げた夢じゃない。本気でそうなりたいと思った。だからここまで頑張ってこられた。……ちょっと興味が湧くことができたからって、すぐには方向転換なんてできないですよ。」

 自分は割と臆病な方なのかもしれない。

 いつだって、可能性よりも確実性を取ろうとする。だからこその今までの努力。競争率が高いこの学生生活で確実に生き残るために、腐るほど考えて勉強して、打てる手は全て打ってきた。

 そして、それは確実に実を結んできている自信がある。理事長であるウォルトが味方についていてくれていることが、その何よりの証拠であろう。

 そんな自分の理想では、目の前あるのは確実で作り上げた一本道だけだったはずで。

 なのに今、自分の心は確実とはいえないもう一本の道を作ろうとする。

 今はまだ、その新たな道を優先する気にはなれない。

「怖いのか?」

 端的、でも核心的な指摘。

「そうかもしれません。」

 ユキは一度目を閉じ、すぐにその瞼を開いた。

「だからこそ―――今しかチャンスはないんです。」

 力強く告げるユキ。

 その瞳に、後ろ向きな色はなかった。

「オレは一度決めたことをなかなか変えることができません。変えるんだったら、自分が納得できるだけの情報と実績が要る。悩めるのはきっと学生の内だけなんで、その間に自分の力量ってやつを見極めて判断しようと思ってます。そのためにやることも決まってはいます。ダニー教授にはその辺について、手伝いにいったついでにちょっと質問してみただけなんです。ただ…」

 そこでげんなりとするユキ。

「そのためには今よりもっと金が要るんですよね。そもそも成功するかも分からないけど…。どのみち今後のためにもう少しバイトに集中したいんですけど……なんで今このタイミングでこんな目に………」

 脳裏に鮮やかに浮かぶナギのへらへらした笑顔。

 こっちはもしかしたら人生の大きな岐路に立っているかもしれないという状況なのに、あの迷惑な天才のせいでそっちに割く時間が大幅に削られている。

 本当に、本音は許されるなら今すぐに目の前から抹殺してしまいたいくらいなのだが。

「あの馬鹿、本当に考えなしなんですよ。空気読まず思いついたことぽーんと口にして、周りがついてこれてないの気にせずにぶっ飛んだ話するんですよ。こっちはお前の言う単語の一つも理解できねえっての。研究所じゃないんだから、少しは簡単な話をしやがれってんだ。携帯で検索しながら話題についてくの、死ぬほど大変なんだぞ、マジで。しかも最近はトモと二人揃ってよく部屋に押しかけてくるし。これ以上オレの睡眠時間削らないでくれないかな、ほんとにもう。」

 一度吐き出し始めたら、次から次へと不平不満が湧いて出てくる。このまま軽く一時間は語れそうだ。口と一緒に動く手のおかげでこの辺一体の掃除が捗って仕方ない。

「……って、ウォルトさん?」

 なんだかさっきから静かだ。

 ふと後ろを振り仰ぐと、ウォルトがぱたりと手を止めてこちらを凝視している。

「なんですか。ひとの顔をじろじろと。オレ、変なこと言いました?」

 やたらと彼がダニーの助手の件をせっついてくるから、仕方なく色々と話したのに。

 ユキの質問に対し、ウォルトが薄く口を開く。

「いや、てっきり意固地になっとるもんだと思っておったから、少し驚いてな…。明らかに好きなくせに、ずっと研究室の手伝いを断っとると聞いておったし。」

 珍しく本気で驚いているのか、ウォルトの声には茫然とした雰囲気が滲んでいる。

「そりゃ断りますよ。」

 ユキはばっさりと言い切った。

「オレは周りに飲まれてなんとなく進むんじゃなくて、きちんと自分で判断して進んでいきたいんです。今なぁなぁに手伝いを引き受けてたら、そのまま成り行きに流されそうで嫌だったんです。」

 好きだと思った。

 面白いと思った。

 だからこそ、あえて自分にブレーキをかけた。

 好きだと、面白いと感じているからこそ、知識もないまま一時の高揚感で決めてはいけないと思った。

 現実を知り、先を読み、今の自分が考える安定と天秤にかけて吟味する必要がある。

 それは決して家族を楽にしなければという義務感に囚われているからではなく、遠い未来に今の自分の判断を後悔だけはしたくないからだ。

「……して、仮に己の好きな道に進むべきではないと、そう判断した時はどうするんじゃ?」

 こちらの考えを聞いたウォルトがそう訊ねてくる。

 まあ話を聞けば当然出てくる疑問だろう。それについては迷うまでもない。

「別にどうも。予定どおり安定就職して、必要な資金は確保しますよ。好きなことについては、余裕のある範囲で遊べばいいんですから。」

「遊ぶぅ?」

 ウォルトの口から妙にトーンの外れた声がこぼれる。

「諦めるわけではないのか?」

「諦める? え? すみません、何の話です?」

 話の流れがよく分からなくなり、ユキは首を捻る。するとどうしてか、その場になんとも言えない微妙な空気が流れた。

 少しの無言の時間。

 その間にここ五分ほどの話の内容を噛み砕き、

「ああ。」

 ようやく合点がいった。

「なんですか? もしかして、自分の好きなことを職にできないなら、すっぱり興味まで捨てるって思ってたんですか? さすがにそこまで頭固くないですよ。」

 いやいやと手を振ってみせるユキ。

「好きなことがあるのと、好きなことで飯を食っていけるかは別問題じゃないですか。オレはそれを見極めるために色々やろうとしてるだけです。選択肢がありふれた世の中なんだし、好きなこととの付き合い方は一つじゃないんだから、興味を捨てるなんてこと初めから考えてないですよ。」

 自分は決して夢見がちなタイプではない。現実は甘くないと考えているし、必ずしも自分が好きな分野で安定した生活ができるわけじゃないことも、常識として受け止めている。

 自分の中に生まれた好きなことを職にするのか、趣味の範囲で楽しむにとどめるのか。

 自分が学生生活で吟味するポイントはそこである。

 せっかく出会えた楽しさを捨てるつもりなんて毛頭もない。

「……ほほぅ。」

 ウォルトは興味深そうに顎髭をなでた。

「お前さん、本当に強かじゃのう。」

「そりゃどうも。図太くなきゃこんな激戦区に来ません。」

「しかし、そこまで柔軟に考えておるなら、何故ダニーの誘いを断る? それこそ学生の間だけ楽しむ選択肢もあろう。」

「もちろん、そのご厚意は嬉しいです。だけど本気で教授の専攻分野に携わるかも決めてないのに、下手に期待だけ煽るのもどうかと思うんです。あの人の……っていうか、あの研究室の方々のオレへの期待って、どうもオレが学生の間だけで収まる熱量に思えなくて。もう絶対にオレを丸め込む気満々ってのが明らかに見えてるんですよねぇ…。」

 数多いる人々の中から自分のことを気に入ってもらえたのは嬉しいし、まあ正直期待されることは嫌いじゃない。ウォルトといいダニーといい、性格には難があったりもするが、社会的地位はえらく高い。将来的に絶対に繋いでおくべき縁であることは確かだ。

 だけど。

「距離感、って…大事じゃないですか。できることなら、縁が切れたとしても〝ちょっと残念だったな〟って、そう軽く思えるくらいの距離感を保っていたいです。それくらいがきっと平和で、安定してます。」

 語るユキの瞳にあるのは、これまで多くの苦労をしてきたが故の穏やかさ。

「………」

 ウォルトはそんなユキをしばし見つめ、

「もう一皮、じゃのう。」

 ふとそんなことを呟いた。

「何か言いました?」

 声が小さくてウォルトの言葉を聞き取れなかったユキがそう訊ねる。

 そんなユキに対し、ウォルトは軽く肩をすくめた。

「いーや。なんだかお前さんの話を聞いてたら、案外ナギとは反りが合うんじゃないかと思えてきてな。」

 がらりと口調を軽くしたウォルトがとんでもないことを告げる。

「うげっ…ちょ、どういう意味ですか⁉ さすがに聞き捨てなりませんよ‼」

 掃除をして離れていた距離を慌てて戻り、ユキはウォルトの二の腕を激しく揺さぶった。

「そのまんまの意味じゃ。お前さんもナギも、互いから得るものがあるじゃろうなと思ってのう。」

「あの馬鹿から何を得ろと⁉ ってか、何を根拠にそう思ったのか、一から十まできっちり説明してくれません⁉」

 ユキは必死に詰め寄る。

 心外だ。トモだけならまだしも、経験豊富なウォルトにまでそんなことを言われるなんて。

 理由を聞かないことには気が済まない。理由を聞いたところで気が済まないかもしれないが。

 こちらは真剣だというのに。

「ほほほー。」

 ウォルトは歌でも歌うようにそう笑うだけ。

「ウォルトさん‼ はぐらかさないでもらえます⁉ オレ、割と本気で参ってるんですけど⁉」

「大丈夫じゃろ。お前さんならその内慣れるわい。」

「だから何を根拠に‼」

「はてさて…」

「ウォルトさん‼」

 頼むから答えてください。そうじゃないともやもやして眠れない。

 ユキは何度も何度もウォルトに説明を求めた。

 しかし結果として、やたら楽しげなウォルトが何かを語ることなどなかったのであった。

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