4時間目 嫌じゃなかったって、どういうこと!?
(何してるんだ、オレは‼)
もう何度目かも分からない後悔が、この日も心に押し寄せる。
あの夜の後、正気に返るのは自室に戻ってから一瞬での出来事だった。
とても顔を合わせられる状況じゃなかったので、次の日には朝一で寮を飛び出し実家に逃げ帰った。
実家でルキアの相手でもしていれば、あんな記憶もその内薄れるはず。
そう思ってルキアには思う存分構ってやったし、隣町に出かけて大いに働いた。
ナギのことなど思い返す余裕もないくらいに多忙な毎日を過ごしたはずなのに、結局眠る時になるとあの時のことを思い出しては死にたくなるのだ。
(ああもう、妙な暴走することがあるって言われたばっかだったのに、オレはもう……)
あの日の自分を全力で張り倒したい。
あんな奴、一回痛い目を見ればいい。
そう思ったことは間違いない。
首に手をかけたことも、ハッタリというわけじゃなかった。
鬱陶しいし、どうせなら泣くくらいひどいことをして嫌われた方が楽だ。かといって殺したいほどの感情があるわけでもないし、殺人未遂は色々といただけない。
キレてナギを突き飛ばした刹那、考えることは考えた。
考えた上で取る行為があんなものになるなんて……
(オレは馬鹿だ…)
こんこんと涌き出る自己嫌悪。
あんなことしなければよかった。
本気でそう思うのに。
(でも、正直めっちゃ気分よかったよ‼ ちくしょう‼)
ユキは布団の中で顔を覆う。
あの時のことをなかなか忘れられない理由の一つがこれである。
あの天才を泣かせてやったかと思うと、思った以上に気分がよかった。涙を浮かべるナギの顔を見た時、本当にスカッとしたのだ。
それはもう、癖になりそうなくらいの快感で。
(くそ…オレは次からどんな顔してあいつに会えばいいんだ。)
登校前日。
ユキの夜は悶々と更けていった。
★
結局昨日は一睡もできなかった。
鈍く痛む瞼を押さえ、ユキは久しぶりに校門をくぐる。
あれこれ考えても仕方ない。幸いにも二学期が始まるまではあと一週間もあるし、いきなりナギに出くわすこともないだろう。
とりあえず新学期までの一週間は仕事に専念し、新学期が始まったらナギのことは徹底的に避ける。
そう決心していた矢先。
「ユキー‼」
無邪気に自分を呼ぶ声が聞こえた。
慌てて前を見ると、無邪気な笑顔でこちらに駆けてくるナギの姿が。
「はっ……⁉ えっ…⁉」
驚きすぎて声がうまく出ない。
待て待て待て。
これは予想外。
鉢合わせるならまだしも、何故出迎えてくる⁉
しかもそんなにきらめいた笑顔で‼
「おま……なん、で…」
ひき潰された蛙のように呻くユキに、ナギはまるでこちらの気持ちなど分かってませんとでもいうように笑いかける。
「事務の人に訊いたら、明日からシフトに入ってるから今日帰ってくるんじゃないかなって言われて。」
つまり何か?
ナギはわざわざ自分が帰る日を調べて、そしてわざわざこうして待っていたというのか。
「……、………っ」
声が出ない。
現実に頭がついていけない。
結果、ユキはナギの横を通り過ぎて脱兎のごとくそこから逃げ出した。
「あっ…ちょっと待ってよ!」
「待たない、待てない‼」
「ちょっとだけでいいからー‼」
「うるさい! 来るな! 話しかけるなぁ‼」
ユキは必死にナギから逃げた。
しかし、今回はナギの方もかなりしつこい。屋外なので全力ダッシュを決め込んでいるのに、颯爽と隣に並んで並走してくる。
「な、なんで逃げるの?」
「じゃあ逆に、お前はなんで追いかけてくる⁉ 言っとくけどな、頭おかしいのはお前の方だからな⁉」
「えー、なんで?」
「なんでって、馬鹿なのか⁉ オレがお前に何したか忘れた訳じゃないだろっ⁉ どういう神経してたら、そうやって話しかけてこれんだよ⁉」
「だって、別にそこまで嫌じゃなかったし!」
「ああ、そうかよ! ……なっ、なん…………はあっ⁉」
処理できない現実が無意識の内にブレーキをかける。
思わず立ち止まったユキに、遅れて止まったナギが様子をうかがうように小首を傾げた。
そんなナギにユキはおそるおそる訊ねる。
「お前…今なんて?」
「だから、別にそこまで嫌じゃなかったって。」
何度聞いても現実は変わらない。
「………っ」
勝手に体が震えた。
「どう? 安心し―――たっ⁉」
ユキはナギの頭をガッと片手で掴む。
「もうさぁ、お前さぁ……マジで悩みに悩んだオレの三週間返せよ、ほんとに…」
「いたたたたた‼」
ナギの頭を掴む手に容赦なく力をこめるユキ。
本当に無駄。
悩んだ時間が全部無駄。
誰のせいで寝不足になっていたのだろう。
馬鹿らしいったらありゃしない。
「え…何、そこまで気にしてたの?」
きょとんとするナギに、ユキの神経はさらに逆なでされる。
「お前には一般常識ってやつから教えなきゃいけねぇのか? 正常な良心があるなら普通気にするっての。」
「へぇ…ユキってほんと、絵に描いたように真面目だよね。」
「オレはお前の神経が理解できねえよ…。何? お前はそういうのに抵抗ないと?」
認識が噛み合わな過ぎて眩暈がしてきた。
「んー…抵抗ないというか…話だけなら散々聞いてたしなぁ。」
「話って…?」
「だって、男女共学とはいえ校舎は別々だし、ほぼ男子校みたいなもんじゃん。だから―――」
この後のナギの話は、とても他人に聞かせられる内容じゃなかった。
壊れた機械のように彼の口から飛び出してくる規制すべき単語の数々。
一瞬の内に異世界に叩き落されたような気分がして、眩暈が数倍ひどくなった。
とにもかくにも…
「待て! ストップ‼」
ユキは思わずナギの両肩を掴んで揺さぶった。
「悪かった。訊いたオレが悪かったから! 頼むからそれ以上、下品な話をしないでくれ‼」
顔だけはまあまあ綺麗なのに、その顔と語る言葉の内容が全然一致しない。
あらゆる意味でイメージをぶっ壊している。
顔を青ざめさせるユキに、ナギが何かに思い至ったように目をまたたいた。
「あ、ごめん…。そっか、ユキだもんね。友達とこんな話しないか。」
「お前はこういう話してんのかよ…」
「ううん。俺は聞いてるだけ。周りが勝手に話してるんだ。あ、でもだからって、別にそういう経験があるってわけじゃないよ?」
話を聞くだけなのと、それを実際の行動として受け入れることは次元が違う。
「もう何なんだよ、お前……」
ユキはその場にずるずるとしゃがみこむ。
もう限界だ。
とにかく今すぐ部屋に戻ってベッドに潜りこみたい。
そして許されるならこの一ヶ月の記憶を全て封印してきたい。
「俺はユキと仲良くなりたいだけだよ?」
近づいてくる人の気配。
顔を上げると、同じようにしゃがんだナギの顔が目の前にあった。
「ねぇ、どうやったら俺と仲良くしてくれるの?」
ナギはそう問うてくる。
「ユキって俺のこと嫌いなんだよね。じゃあその嫌いなところ直せばいい? それとも、何か交換条件とかある? 課題手伝う? あ、大学卒業までの諸経費を受け持つ方がいいかな?」
「―――っ‼」
その瞬間、ユキはカッと顔を赤くした。
天才という生き物は、もしかして皆こうなのだろうか。
自分の能力が絶対的であると疑わず、それで何もかもが手に入ると思っている。
なんて傲慢な押しつけだろう。
交換条件だなんて。
結局お前も他の奴らと同じで、見返りがあれば尻尾を振る駄犬なんだろうと。
暗にそう貶しているんだと、何故それに気づかない。
「…………ほんっとに、お前のそういうとこが嫌いなんだよ。」
ユキはすっくと立ち上がり、ナギをきつく見下ろした。
「何が交換条件だ。随分とふざけたことぬかすんだな。その程度のことで媚びへつらうほど、オレが安い人間だとでも?」
「そういうつもりで言ったんじゃないけど、ユキにはそう聞こえるんだ?」
ナギはただ問いかけてくるだけ。
こちらの苛立ちも何もかも、自分には関係ないとでもいうような。
そんな印象を持たせる顔だ。
「こう言っちゃ悪いけど、お前って空っぽだよな。」
積もり積もったナギへの不満が、堰を切ったようにあふれてくる。
「いっつもへらへらしてて、周りに言われたことやってるだけじゃんか。守りたいものも大事なものも、何もないだろ。ただでさえお前見てると気分悪くなるのに、そんなお前に平然と前を行かれるって本気で腹立つんだよ。お前が目に入るだけで無性に腹立って悔しくて、せめて人間性では負けてやるかって思う自分が時々子供っぽく思えて情けなくて…オレがどんだけ複雑か……。だからお前なんか嫌いなんだ。お前のこと見てたら、なんだか自分のことまで嫌いになりそうで。」
何にでも恵まれている。
人々はナギのことをそう言うし、事実そうなのだろうとも思う。
だけどナギには何もない。
全てに恵まれているから物事の尊さも知らず、何も失ったことがないから大事に思えるものもない。
それが自分から見たナギの姿だ。
こんな風に空っぽな人間になるくらいなら、絶対的な才能なんて要らない。
そう思うのに自分が向かう先にはいつだってナギがいるから、時々要らないと思う能力が羨ましくなって、そんな自分に嫌気がさすのだ。
本当はこんなこと考えたくない。
でもどんなに自分が考えないようにしたって、周囲は勝手に自分とナギを比べて物を語る。
それが癪に障って、ただでさえ嫌いなナギのことが余計に嫌いになる。
そしてまた、そんな風にナギを嫌う自分に自己嫌悪。
ずっとその繰り返しだ。
「………おい。」
興奮から肩で息をしていたユキは、ふとあることに気づいて表情を一層険しくした。
「てめぇ、何笑ってんだよ。」
こちらを真っ直ぐに見上げるナギが、やたらと嬉しそうに笑っているのだ。
「やっぱ、ユキっていいな。」
彼が放ったのはそんな一言。
「はっ…⁉」
瞠目するユキの前で、ナギは静かに立ち上がった。
「ユキの言うとおりだと思うよ。」
ナギは語る。
「俺には何もない。昔からなんでもできたから苦労とかしたことないし、ちょっといいなって思ったものは勝手に手元に入ってきたから、何かが欲しいって気持ちもよく分かんないんだよね。でもそれって悪いこと?」
空虚な笑顔とガラス玉のように無機質な瞳がユキを映す。
「俺には何もないし、みんなのことだって分かんないものは分かんない。でもまぁ、統計学や心理学的観点から、みんなが何を求めてるのかくらいは計算できるけどさ。別にそれでいいんじゃない? みんなは俺にやってほしいことをやってもらえれば、それで満足なわけでしょ? ちゃんと要求に見合った結果は出してるのに、それ以上何をすればいいの? そもそも、何かする必要性がある?」
それを聞いて、ユキはごくりと固唾を飲んだ。
今、ナギという天才に圧倒的に欠けている何かを垣間見た気がした。
到底理解はできないナギの理論。
でも、その理論に決定的な破綻はない。ナギが納得できるように論理的にそれを否定することは、自分にはできない。
でも、そういう問題じゃない。
自分が言いたいのはそういうことじゃない。
「…………可哀想な奴。」
その言葉はごく自然にこぼれていった。
なんだか怒るのも馬鹿らしくなってきて、ユキは肩を落とす。
「お前の言い分は分かった。そういう考え方もありなんじゃん? ある側面においては間違ってない。」
投げやりに言い捨て、次にそっと目を伏せるユキ。
「でも、オレはごめんだ。ただ要求を満たせればいいなら、お前になんか頼らず機械にでも頼むよ。」
自分は、人が人を頼るのは、結果以上にその結果に至る経緯で得るものが大きいからだと考える。
人と想いを共有し、時に賛同し時に反論し、そうやって新たな刺激を受けて己の糧へと変換する。そんなささやかなことがとても大切で、それがまた次の結果へと繋がっていくんだと思う。
そういう過程が要らないなら、始めから機械にでも全てを任せておけばいいのだ。
結果さえ出ればいいのなら、他人と費やす時間など無駄でしかないのだから。
「まあこれはあくまでもオレの意見だ。お前に常識だ人情だを説明したって意味ないことだけはよく分かったし、お前はそれでいいんじゃねぇの? お前はお前で、オレはオレだ。お前がそれでいいと思うなら、これからもずっとそうやって生きていけばいい。オレはオレで自分が正しいと思う生き方をする。そんで、少なくともお前よりはマシな人生を歩んでやる。」
なんだか毒気を抜かれた気分。
どうして自分はこんな奴を目の敵にしてきたのだろう。
もう認識の次元が違いすぎて、このままナギへの苛立ちも何もかも捨て去れてしまいそうだ。
……いっそのこと、そう割り切れたらよかったのに。
「だからなんでお前は笑ってんだ⁉ ぶん殴るぞ⁉」
さっきから目の前でくすくすくすくすと。
「んーん? 別に馬鹿にしてるわけじゃないよ?」
「じゃあ何なんだよ⁉」
「やっぱりユキと話すのは楽しいなって。」
返ってきた答えがこれである。
「………………お前、やっぱただの馬鹿だろ? 頭のねじイカれてんじゃねぇの?」
割と本気でそう思った。
「ふふ。ユキくらいだよ。俺にそんなこと言うの。ユキっていつもそう。いつも他の人たちとは違うよね。」
「変人に変人って言われる筋合いはないんだけど?」
「いいから聞いてよ。」
ナギは鈴のように軽やかに笑う。
「ユキ、初めて俺と面と向かって会った時のこと覚えてる?」
問われ、ユキは思い切り嫌な顔をした。
覚えているも何も最悪だ。クラス対抗の球技レクでこてんぱんにされた時じゃないか。
「そうそう。あの時も、ユキってそんな風に嫌そうで悔しそうな顔してたよね。俺がユキの名前覚えたの、その時なんだよ。」
「意味分からん。そういう顔されて嬉しかったとでも言うのかよ。」
「うん。今考えるにそうだったんだと思う。」
ナギは間髪入れずにそう頷く。
まさかそう言われるとは思ってもいなかったユキは絶句して固まる。
それが油断となって懐にナギを招き入れることになっていたと気づくのは、もう少し後のことだった。
「他の人ってさ、俺が天才だからって最初から本気になったりしないの。ユキが初めてなんだよ。あんな風に、俺に真正面から敵意ぶつけて向かってきた人。だから興味が湧いたし、ずっと見てた。俺に追いつこうってどんどん成績上げてるのも知ってる。だからいいなって思ったんだ。」
そっと伸びてくるナギの細い手。その手が頬に触れて、ようやくユキは自分が半ば呆けていたことに気づいた。
しまったと思った時には遅く、ナギの顔がすぐ目の前にまで迫る。
「ねえ、逃げないでよ。もう見てるだけなのはつまんない。俺はユキのこともっと知りたい。もっとたくさん話したい。俺に足りないものがあるって言うなら、ユキがそれを教えてよ。別に嫌いなら嫌いなままでいいし―――」
その時に感じたのは、何か柔らかいものが唇に触れる感触。
「イライラするなら、またこういうことされても俺はいいからさ。」
にっこりと微笑むナギ。
「―――っ⁉」
かなり時間を置いてから、ユキはナギを突き飛ばして自分の口を覆った。
こいつは何を…
今さらながらに顔に熱が集まっていくのが分かる。
そして、羞恥の中からそれを凌駕するほどの怒りが込み上げてきて。
「こんの…大馬鹿野郎‼」
ユキは渾身の力を込めてナギの頭を殴った。
「他人どころか自分のことすら大事にできないのか、お前は‼ そんな風に自分を粗末に扱うようなこと言うんじゃない! 何が逃げないで、だ。お前と一緒にいたらオレの精神が崩壊するわ! お断りだよ‼」
くるりとナギに背を向け、ユキは早足にそこを立ち去る。
だめだ。これ以上ナギと話していても何もいいことはない。自分の怒りゲージが上限知らずに溜まっていくだけだ。
一体どういう育ち方をしたら、あんな風に人として最低限の道徳すら知らないでいられるのだ。
絶対に関わり合いになりたくない。
あんな人間と深く関われば関わるほど、傷ついて痛い目を見るのは自分の方だ。
(嫌いだ。大嫌いだ。あんな奴、大っ嫌いだ‼)
強く地面を踏み締める度、その気持ちは津波のように心を襲った。
次の日、ユキはひどい頭痛を堪えながら仕事に従事することになった。
あまりに苛立ったせいで、結局また一睡もできなかったのである。