3時間目 一夜の過ち
それから忙しなく日々は過ぎた。
この時期は毎日のように残業を頼まれる。稼ぎたい自分としては願ってもないことだ。
この日ももれなく遅くまで事務作業に明け暮れ、寮に戻ったのは消灯時間を大きく回っての時間だった。
「あ、母さん? 電話出れなくてごめん。さっきまで仕事してた。」
足音をひそめて廊下を歩きながら、ユキはずっと無視していた電話を折り返す。
「いいのよ。こっちこそごめんね。ルーちゃんが、にぃにはいつ帰ってくるのか訊いてって、もう言うこと聞かないもんだから…。」
「ははは…。相変わらずだな。」
母であるサヤの困ったような吐息に、ユキも同じように苦笑を漏らす。
働きづめだったサヤに代わってルキアの面倒のほとんどを見ていたせいか、ルキアは自分のことが些か好きすぎるようだ。高校に入学するにあたって離れて暮らさなければならないと伝えた時には、火がついたように泣き喚かれてしばらく手がつけられなかった。今は多少落ち着いたのだが、時々思い出したようにぐずって泣き出してしまうとのこと。
やれやれ。好かれすぎるのも困りものだ。
そして、それが嫌じゃないから複雑でもある。
「ルキアはもう寝た?」
「ええ。どうにかなだめたわ。」
「そっか。じゃあ明日起きたら、昼にはそっちの駅に着くって伝えておいて。」
本当はもう少しゆっくり出ようかと思っていたのだが、可愛い弟がお待ちかねとあっては仕方ない。
「分かったわ。じゃあルーちゃんとお迎えに行くから、お昼ごはんでも食べてから帰りましょうか。」
「了解。」
ユキは力を抜いて微笑む。
その後も他愛もない話をしながら自分の部屋を目指して静かな廊下を進む。
そうしていると、ふと進行方向に並ぶドアの一つが開いた。いつもそうするように少し口をつぐみ、ドアにぶつからないように廊下の端に移動する。
そうしてその部屋の前を通り過ぎようとした時、事件は起こった。
「おっわ⁉」
突然腕を引かれ、何かと思う間もなく体の平衡感覚がなくなる。
周囲に響くのは床に重いものが落ちる鈍い音と、それに掻き消されるほどに小さなドアを閉める音。
「ユキ⁉ どうしたの⁉」
電話口から裏返ったサヤの声が聞こえる。
「あてて…。大丈夫…ちょっと、物に引っかかってすっ転んだだけ。」
痛む背中に顔をしかめつつもなんとか答えるユキ。
「大丈夫? 変なとこ打ってない?」
「大丈夫、大丈夫。…じゃあ、そろそろ電話切るわ。また明日。」
心配させないように軽い口調で言い、サヤに何かを言わせる前に電話を切る。
そして。
「―――で? これはどういうつもりだ?」
自分を部屋の中に投げ飛ばした相手を睨み、ユキは地を這うように低い声で威嚇する。
遠慮なく投げやがって。とっさに受け身を取れたからいいが、受け身が間に合っていなかったら昏倒していた可能性だってあるんだぞ。
「だって、こうでもしないと話してくれないでしょ?」
床に仰向けになったユキの顔を真上から覗き込んだナギは、にっこりとその顔に笑顔を浮かべた。
相変わらず癪に障る笑顔だ。
「オレにはお前と話すことなんてない。」
ユキはすぐに体を起こし、さっさと部屋を出ようとして―――今さら色々と遅すぎることをすぐに悟った。
自分がサヤと話している間に、ナギがしっかりとドアの鍵をかけて玄関の前に陣取っていたのだ。これでは、彼を今いる位置からどかさないことには部屋を出られない。
「…………チッ。なんなんだよ、お前。」
こうなっては仕方ない。
半ば諦めがついたとはいえ、引き込まれたまま部屋に上がり込む気は皆無なので、ユキはその場で胡座をかいて前髪を掻き上げた。
「オレじゃなくたって、相手は他にいっぱいいるだろ。なんでオレにこだわるわけ? 迷惑だっつってんのに、事あるごとに絡んできやがって。そんなにオレが物珍しいか?」
どうせこの天才が自分に興味を持つ理由は、自分がその他大勢とは違う態度を取るからだろう。
その予想は決して自分を裏切ることはなく。
「そうだね。確かに珍しいかなぁ。俺、ここまで誰かに嫌われたことないもん。」
ナギはあっさりとその指摘を認めた。
「やっぱり、ユキって俺のことちゃんと見てるんだね。」
「………は?」
めんどくさいので無視しかけて、その言葉の内容にぎょっとしてナギを正面から見た。
「何言って…」
「じゃあ、ユキならこの質問にどう答える?」
ナギがにっこりと笑う。
「ユキはいつも、俺には他に構ってくれる人がいるって言うじゃん。その人たちって、ほんとに俺のこと好きなのかな? その人たちが見てるのは、俺の能力以外の何?」
「………っ!」
とっさに何も言い返せず、ユキは言葉に詰まってしまった。
「ほら。やっぱりユキは答えられない。ちゃんと俺のことも周りのことも見てるから、答えなんか分かり切ってて、逆に言えないんでしょ?」
ナギの指摘は真っ直ぐに核心を突いていた。
誰に対しても興味がない奴。
完全にそう思っていたので、まさか彼の口からそんなことを指摘される日が来るとは思ってもいなかった。
ナギは気づいていたのだ。
自分を囃し立てる人々が、彼の能力しか見ていないことを。
彼はさりげなく周りを見ているのだとして。
でも…
だったら…
「なおさら納得できねぇぞ。」
胸にせりあがってくるのは不快感。
ユキはナギをきつく見据える。
「それに気づいてるんだったら、もっとちゃんとした意味で周りを見るようにしろ。お前にとってはどいつもこいつも、お前の能力にたかるハエみたいなもんなんだろう。だけどな、その中にはちゃんと、お前自身と向き合おうとした奴らもいたんだ。オレはそういう意味も込めて、お前には他に構ってくれる奴らがいるだろうって言ったんだぞ。」
目立たないだけで、ナギに純粋な意味で近づこうとした人々はそれなりにいた。
そんな風に周りに目を向けられるなら、もう少し真剣になれば、すぐにではなくともそれに気づけたはずなのに。
なのに…
「えー。そんなの、言ってくれなきゃ分かんないよー。」
ナギの空っぽな笑顔はいつだって、そんな小さな善意を簡単に冒涜するのだ。
「いい加減にしろ‼」
堪忍袋の尾が切れて、ユキはナギの胸倉を掴んで引き寄せた。
「これだからお前のことなんか大っ嫌いなんだよ! お前のそれは分からないじゃない。分かろうとしてないだけだろうが‼ お前に構う奴らはお前の能力しか見てないって? 自惚れんな! お前がそうだって決めつけてひとまとめにしてるから、そういう奴らしか残らないだけだろう! お前は今まで、そうやってどんだけの人たちを傷つけてきた⁉」
ナギがこうなってしまったのは、決して彼一人が悪いわけではないんだろうけども。
自分はやはり、彼を容認することはできない。
「お前、考えたことあるか? 当然のように周りにあるものが、ある日突然簡単に消えちまうくらい脆いんだって。だからこそ、当たり前なものほど傷つけないように大切にしなきゃいけないんだって。」
激情のあまり、ナギの服を掴む両手が震えた。
この世に確固たるものなんてありやしない。針の上に乗せられた盤面のように、きっかけさえあればあっという間に落ちて消えていってしまう。
父が死んで、それを身に染みて理解した。
だから自分は、一つ一つの出来事を、一つ一つの出会いを、決して粗末には扱わないと決めた。
自分がナギのことを嫌うのはおそらく、周りを一切見ない彼の仕草の全てが自分の琴線に触れるからだ。
「お前見てると…マジでイライラすんだよ。」
こんな奴、大嫌いだ。
理由は色々、それこそ腐るほどあるけれど。
「………っ」
ユキは目元を険しくする。
彼を見ていると、どうしても脳裏をちらつく苦い過去があって…。
それがどうしても胸を抉るのだ。
「お前な、ちょっとは―――」
恵まれていることに感謝しろ、と。
言葉は最後まで続かなかった。
「………?」
ナギが不思議そうに首を傾げているのを見てしまったからだ。
ここまで言っても何も伝わらない。
本気で彼には分からないのだ。
人の痛みというものが。
「………」
ナギへの怒りも何もかもがすっと胸の奥へ引いていく。
プツン、と。
その時、自分の中で何かが切れてしまった。
ユキは俯き、ナギの胸倉から手を離す。
そして次の瞬間、ユキはありったけの力を込めてナギの体を突き飛ばした。
「いった…」
固い床に後頭部を打ったナギが顔をしかめる。
そんなナギの上に覆い被さり、
「―――お前、一回くらいひどい目に遭った方がいいよ。」
冷たく据わった目でユキは言い放つ。
「何? さすがにビビった? ちょっとはましな顔してんじゃん。」
そっと細い首筋に手をかけてやると、息を飲んだ喉が微かに震えたのが分かった。
茫然とこちらを見上げる茶色い双眸には、大きな混乱に紛れて少しの怯えが見て取れる。
「いい気味だ。言ったって分からないなら、めいいっぱい傷ついちまえ。」
こいつなんか大嫌いだ。
どうせこれが最初で最後。
金輪際こいつには関わらない。
なら、最後に思い切りこいつを泣かせてやりたい。
やたらと気持ちは冷静なのに、頭の中にはもうそれだけしかなかった。
静かな衝動に突き動かされるまま、ユキはナギの首にかけていた手を顎の方へと滑らせる。
そして―――抵抗を忘れているナギの唇に自分のそれを重ねた。
「……んっ⁉ ユッ、ユキ⁉」
「黙ってろ。」
低く囁いたユキは、ようやく抵抗らしい抵抗を見せたナギの両手を掴んで床に押さえつけた。
小手先の技術は敵わないが、単純な力勝負ならナギに負けない自信があるのだ。
片手でナギの抵抗を封じ、ユキは強引に彼の唇を舌で押し割った。
「わっ……んんっ、んっ…‼」
動揺で開いた歯列の隙間から口腔内に忍び込み、舌を絡めながら上顎をなでてやる。他にも華奢な体が一際反応する場所を見つけては、舌を絡め直す合間にそこを攻めてやる。
「は…あっ……」
あっという間にナギの呼吸が乱れ、頑張って抵抗しようとしていた腕からも力が抜けていく。
他愛もない。
やろうと思えば、こんなにも簡単にねじ伏せられるんだ。
「んっ……んぅ…」
ナギに呼吸をさせてやる隙を与えないように唇を奪いながら、ユキはジャージのチャックを下ろし、シャツの下に手を潜り込ませてその素肌に触れる。
「あっ」
脇腹をくすぐるようになでると、繋がった唇の隙間から熱っぽい声が漏れていった。
(ふぅん……ここ弱いんだ。)
耳に辺りに手を滑らせる度、組み敷いた体が面白いくらいに跳ねる。すでに腕の拘束は解いてやっているのに、今のナギには抵抗するだけの理性は残っていないようだ。
それならこっちはとことんやるまで。
「―――ッ! んんんーっ‼」
一番熱を持ったそこに触れてやると、あまりにも強いその刺激にナギがまた少し暴れ始めた。
だがもう遅い。
主導権なら、すでにこちらのものだ。
「ううっ……ユ、キ…んっ……」
より一層深く口づけを交わしながら、ナギの抵抗を徹底的に押さえ込む。
ここまでこれば、追い詰めるのは簡単だった。
「んっ、んっ、んんっ……―――ッ‼」
小さな体が大きくしなり、握っていた熱源が小刻みに痙攣する。
「はあっ…はっ……んっ……」
羞恥に赤らんだ顔と潤んだ瞳。
それを無感動に見下ろしながら、ユキは手をさらに奥へと伸ばす。
「………っ!」
固く閉じられたそこに軽く触れると、ナギが目を閉じて小さく肩を震わせた。
「いい様だな。」
もはやされるがままのナギを見据え、ユキはきつく眉を寄せた。
「お前なんか大嫌いだよ。ざまあみろ。」
最後の言葉は静かに、それでも強く空気を揺らした。