「令和」
「令和、だなんて素敵な言葉じゃないか。巷では色々と文句をつける輩もいるみたいだが、私は好きだよ」
先輩はそう言って足を組む。薄暗い中に伸びる真っ白い太腿が、僕の目には生々しく映っていた。
いつもそうだ。彼女はそれを見透かしているのか、それとも一切自覚していない無垢な心を持っているのか。態々僕に挑発的な言動を振り撒いては、それを見せつける用に笑っている。ほら、こんな風に。
「おや、どうしたんだい? まさか令和の意味が分からないだなんて事は言わないだろうね。……いや、皆まで言わなくていい。君のその腑抜けた阿保面を見れば予習を済ませていない事は明白だ。ふふ、やはり君はどうしようもない男だ」
良く言う。到着早々僕の口をガムテープで塞げば、話せるものも話せないに決まっているだろう。まあ、事実彼女の言う通りだから異議を唱えることも無いのだが。
「君の為に簡単に説明すると、令は令月、つまり美しい月。和は風和ぎ、つまり和やかな風の事を指している訳だ。実に美しい言葉だよ。まさしく現状に相応しい」
空に月は高く昇り、満ち満ちた黄金色の真円が穏やかに世界を照らしている。月は年を経る度に遠ざかっていると聞くが、果たして石器時代の人類が見ていた月はどれほど美しかったのだろうか。あの孔のように開いた空間は、やはり猿でも見惚れる程だったのだろうか。
「……ふふ。しかし、実際には月の表面はクレーターだらけ。醜いあばたを太陽という光で包み隠し、その欠点を見られないよう必死で地球から遠ざかっている。実に人間臭いと思わないかい? そして、そんな月に美しさを見出そうとする人類も」
……やはり、彼女が何を言いたいのかさっぱり分からない。月を褒めたかと思えば、次にはその虚飾を暴こうとする。無論、月の方も美しく在ろうとしている訳では無いと言うのに。
「万葉集の歌という訳だから、その頃にはもう月は美しい物として星空に君臨していたのだろう。それも、他の星々の輝きを差し置いて……だが、時代が進んだ事でその化粧は白日の下に晒された。必死で見られないように遠ざかった努力は、人の叡智の前に水泡と帰した訳だ。とんだ間抜けな話だろう? 美しい、美しい、もっと見たいと研究を進めた末路が、この醜い本性だというのだから」
結局、僕を夜の学校に呼びつけ、縛り付けてまで貴女の伝えたかった事は何なんだ。そんな思いを込めて彼女を睨みつける。
「まあ詰まる所、だ。想いを伝える為に『月が綺麗ですね』などと語る輩は、己を虚飾に塗れた者だと告白しているに過ぎんよ。特にそれを考え付いた文豪なんぞはね」
そう言うと、先輩は徐にスカートの裾をたくし上げる。更に白の面積が増え、肉付きの良い太腿がハッキリと照らし出された。
ああ──美しい。先の話に例えるのであれば、彼女は紛れもなく太陽だ。存在するだけで周囲を照らす、美しい太陽。少なくとも、こんな存在は生まれてこのかた見たことがないと断言できる程に。
──だが。そんな彼女を前にして、僕の心は凪のように穏やかだった。
万人が太陽を選んでも。億人が月を嫌おうとも。それでも僕は断言してみせよう。『僕は月が好きだ』と。真っ白い世界より、あばただらけの欠点に、僕はどうしようもなく恋をしている。
果たして、これは異常なのだろうか。ならば、そんな存在を追い続けた人類も皆異常ではないのか。分かった途端に手の平を返すのは、ただの薄情では無いのか。そんな疑問が頭の中をグルグルと巡っている。
一ミリたりとも動じない僕を前に、先輩の口元は三日月の如く釣り上がっていた。
以上、令和と聞いて何となく思い付いた小噺でした。