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蛇印(じゃいん)  作者: 屯田 水鏡
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志賀島の阿曇族と綿津見三神の社

五、志賀島の阿曇族と綿津見三神の社

一方、志賀島に残った阿曇族は三神の依り処として、「沖津宮」「仲津宮」「表津宮」の三宮を結び、以後、連綿と浜辺に打ち寄せる波のように倦むことなく、怠ることなく、大切に斎祀ってきた。

なかには、阿曇氏が海神を先祖に持つなど、下らぬ戯言であって、そんな話を基に歴史を組み立てるなどあり得ない、と言って目くじらを立て、怒りをあらわにする面々もおられるかも知れない。

だが、言わせてもらえば、いずれの国においても古代の歴史に登場する人物は蛇であったり獣であったり、さもなければ狼に育てられたり、往々にして、荒唐無稽な神話から生まれるものだ。

だが、妄誕無稽な話であっても、その中では不思議なことに整合性があり、理屈に合っているものなのだ。

従って、綿津見三神の拠り所である社の数が合わないことについては、究明しなければならない。

底津・仲津・表津の綿津見三神を手厚く斎祀るには、それぞれの海神が鎮座する三つの祠が近接してあったと見るのが自然な流れなのである。

だが、勝馬には「沖津宮」と「仲津宮」の二社しかなく、もう一つあるはずの「表津宮」という社が見当たらないのは何とも妙ではないか。

「ちはやぶる鐘の岬を過ぎぬとも我は忘れじ志賀の皇神」

と「万葉集」に綿津見三神が詠まれているのをご存知の人はいるであろう。

「万葉集」は八世紀の前半以前に成立している。

従って、この歌は、綿津見三神がそれ以前、つまり、遥か昔から志賀島に鎮座していた証である。

歌の意味は、筑紫での任期を終えて都へ帰る役人が、玄界灘の難所を無事に過ぎて志賀島に鎮座する綿津見三神に感謝の意を表しているのだろう。

因みに、ここに読まれている「鐘の岬」は、今は「鐘ノ崎」と呼ばれていて福岡県の宗像市にある。

岬の沖は、潮の流れが速く、船を操るには極めて危うい難所だと地元の漁師は言う。

ちはやぶるとは、神にかかる枕詞であると共に勢いの激しい状態を表す。

「鐘の岬」は「鐘ノ崎」と、その呼び名は異なっているが、今でも、ちはやぶる、ところなのである。

さて、綿津見三神の、もう一つの社、「表津宮」は、一体何処にあるのだ。


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