三十、邪馬台国は北部九州にあった
三十、邪馬台国は北部九州にあった
「邪馬台国は北部九州にあった」いや、「畿内大和にあったのだ」、という、所謂「邪馬台国」論争が昔から今に続いているが、邪馬台国は北部九州にあったことに疑いの余地はない。
その理由は二つある。
一つには、「三国志、魏志倭人伝」によると、魏の使者が帯方郡を発って邪馬台国へ至るには、①狗邪韓国=韓国の釜山周辺、②対馬国=対馬、③一大国=壱岐、④末盧国=松浦、⑤伊都国=糸島、⑥奴国=博多付近、⑦不彌国=宇美町、⑧投馬国そして⑨邪馬台国という行程の記述がある。
このうち、不彌国までは「=」で示した様に、現在の地名に比定できるが、その先の投馬国と、邪馬台国が分からない。
現在のソウル付近にあった帯方郡を発って、狗邪韓国から不彌国まで七つの国の存在が記されている。
だが、不彌国と邪馬台国の間にある国は、投馬国の一国のみだけである。
従って、卑弥呼の統治する邪馬台国は不彌国からあまり遠くない所にあると言って良いだろう。
邪馬台国が畿内にあったとすれば、不彌国と邪馬台国との間には、投馬国以外にもっと多くの、例えば、その代表例を言えば、瀬戸内海を行けば吉備国、山陰ならば出雲国など様々な国名が出てきて然るべきなのだ。
二つには、「魏志倭人伝」に帯方郡から女王国、つまり邪馬台国までの距離を万二千里という記述がある。
一里は約四キロメートルに相当するなどと、現在の基準で考えてはならない。
帯方郡から狗邪韓国までその距離、七千里とあることから計算してみると、一里は百メートル位だと考えて良い。
「魏志倭人伝」の記述に従って、帯方郡から不彌国までの里数を足すと一万一千里に程になる。
邪馬台国まであと千里程なのだ。
一里を百メートルとすると、不彌国から百キロのところに邪馬台国はあったということになる。
地図上にコンパスを当ててくるりと円を描いたら案外こつんと当たるのかもしれない。
これらのことから勘案すると、卑弥呼の住む邪馬台国は北部九州にあったと断言して良い。
いずれにしても、「親魏倭王」の金印あるいは難升米が下賜された「率善中郎將」の銀印もしくは都市牛利に与えられた「率善校尉」の銀印のどれかが発見されれば、そこが邪馬台国である。
論争は一挙に解決する。
危惧されるのは、志賀島の村人や心無い武士たちが一時企てたように、それらの印が、既に鋳潰され、刀の鍔などに加工されるか、あるいは、地金で売却されてしまったのではないかということである。
歴史を理解せずに銭に換えてしまおうとする人たちではなく、価値を知り、宝として将来に渡って大切に保存してくれる人間に発掘されるまで、今もどこかの地中深く眠っていることを祈ろう。




