二十六、海人族(あまぞく)のリーダー荒男(あらお)
二十六、海人族のリーダー荒男
阿曇氏が海に雄飛していた事実を彷彿とさせる歌が「万葉集」にある。
「志賀の山いたくな伐りそ荒男らがよすかの山を見つつ忍ばむ」
をはじめ、十首の志賀の白水郎の歌が詠まれた。
何れも荒男を忍んで詠まれた鎮魂歌である
志賀島の海人を束ねる壮年の快男児がいた。
名を荒男といった。
誰もが慕う志賀島海人族のリーダーであり、妻子を愛する心優しき好漢でもあった。
日本古典文学大系によると、
聖武天皇の頃、対馬の防人へ兵糧を送る船の船頭を命じられた宗像郡の津麿は、思い煩った揚げ句、荒男のもとに出向き、高齢のため任を全うすることの出来ない自分に代わって、兵糧を運んでくれるよう懇願した。
郡は異なるが、同じ玄界灘を足場に海人として生きる津麿の申し出を荒男は快諾した。
荒男は肥前国松浦県、美禰良久の港から、対馬に向けて出港した。
なぜ、筑前国の博多から壱岐を経由して対馬へという最短コースを採らずにわざわざ長崎は五島列島の美禰良久の地を出発地点に選んだのか。
そこには、玄界灘の潮の流れを熟知していた荒男の知恵があったからである。
彼は、五島列島のすぐそばを北上する黒潮、対馬海流が常に一定のコースで流れているのを知っていて、海流に乗って舟を操れば、速やかに対馬まで辿り着けることを自らの経験で知っていたからである。
玄界灘を縦横無尽に飛翔していた昔に比べ、荒男が活躍した頃は阿曇族の隆盛は流石に影を潜めてはいたであろうが、海を知り尽くし、支配者として君臨した海人族の記憶を荒男が受け継いでいた証拠である。
荒男は、美禰良久の港を出発して順調に潮に乗って航海をしていたが、ある時、突然の暴風雨に見舞われた。
海の熟練者、荒男がなぜ天候を読み違えたのか、不思議でならない。
そこには、危険を承知の上で出航しなければならない訳、例えば、防人の兵糧事情が逼迫しているなど、緊急の事情があったに違いない。
多分、大宰府政庁の有無を言わさぬ、強い指示によって、危険を承知の上でやむを得ず出航せざるを得なかったのではないか。
いかな手練れの海人荒男も嵐を耐え忍ぶことが出来なかった。
稲妻が走り、雷鳴轟く黒雲を見上げながら、舟と共に逆巻く波に海中深く呑み込まれて行った心優しき快男児はどんな思いであったのだろうか。
荒男は帰らぬ人となった。
前述の歌は、当時、筑前国の国司であった山上憶良が、荒男の心意気に感銘を受けると共に、悲しむ妻子の姿に深く胸打たれて読んだ鎮魂歌である。
この歌は、阿曇族の後裔である荒男が黒潮の流れを熟知していたことを知る証拠なのだ。




