二十五、阿曇族の出自1
二十五、阿曇族の出自1
そんな妻とのやり取りを思い出しながら金印公園の階段を下っていると、なぜか体の中の細胞が足元から順に活性化し始めて熱を帯びたような感覚に捕らわれた。
それは、西に傾きだした陽光が緑の海に反射して、私を優しく抱擁しているからであった。
足元から始まった心地よい衝撃は私の頭まで届くと、次には体中を駆けまわって、阿曇族と金印にまつわる一つの仮説が勝手に組み立てられて行くのを感じた。
中国の北の黄河流域では、例えば夏や殷や周の時代から、群雄が中原に鹿を逐い、帝位を得ようと争って、天下が大いに乱れたことは、誰もが、中学や高校の歴史の授業で学んだであろう。
また、南の長江流域でも、越王勾践と呉王夫差が国の存亡をかけて戦いを繰り返した史実は、臥薪嘗胆という諺と共にお馴染みであろう。
呉越の戦いの末に呉の国は滅び、遺臣を始め多くの民が国を捨て、長江を下り、桃源郷を求めて舟を仕立て、東シナ海に漕ぎ出した。
このように、昔から戦乱を逃れて多くの民が大陸を離れたであろう。
その殆どは航海の途上で海の藻屑となり、魚群の餌となったが、幾多の困難に耐えて運よく生き延びた人々は対馬海流に乗って縄文晩期から弥生期の倭国に次々と上陸したと思われる。
長江流域は豊かな稲作地帯であった。
勿論、難民は稲の栽培技術を有していた。
故郷を離れるにあたり、種籾を携行したのは言うまでもなかろう。
倭国に辿り付いた人々のうち一部は上陸してすぐに定住した。
他の部族は、さらに理想郷を求めて東へ移動し、それぞれ、落ち着き先を見つけては荒野を切り開き、田を作り、種籾を播いた。
倭国で稲が栽培された最初の地であるという佐賀県の菜畑遺跡や福岡県の板付遺跡は彼らが移動した道筋に残した軌跡であると考えれば納得が行く。
つまり、稲作文化は長江流域付近から海を越えて伝わったと考えるのが極めて自然な帰結である。
米、麦、粟、豆、黍、稗など、人が常食とする穀物を五穀というが、五穀のうち、中国北部の黄河流域では主として麦、江南の長江流域では主として米の栽培に収斂された。
その理由は二つある。
一つ目の理由は、
麦は寒冷地に、米は温暖地に適した穀物である。
そして、何れも種付けから生育まで水を始めとする細かな管理を必要とする。
従って、麦は北の黄河流域で、米は南の長江流域で栽培された。
二つ目の理由は、
麦と米以外の粟や稗や黍や豆等の穀物は天候不順などの厳しい環境下にあっても、比較的栽培が容易である。
それに比べると、米と麦は天候に左右され易く害虫や雑草にも弱い。
従って栽培するには多くの労働力の投入と入念な管理が必要なのだ。
それにも拘らず、黄河流域では麦の育成に、長江流域では米の栽培に、収斂したのはなぜか。
理由は極めて単純である。
他の穀物に比べて、麦と米は飛び抜けて美味いからである。
美味いものを食いたいという誘惑は誰にも止められない。
こうして、中国北部では麦が、南部では米が栽培されるようになったのは当然の帰結なのである。
ところで、稲作文化は朝鮮半島から倭国へ伝来したと称える説が一部にあるが、笑止と言わざるを得ない。
温暖な長江流域で行われた稲作が栽培に適さない寒冷地である黄河流域に伝わり、さらに中国東北部を通って朝鮮半島に伝播したとはとても考えられない。
それよりも、長江流域から倭国に伝わった稲作がさらに朝鮮半島南部に伝わったと考える方が自然でかつ整合性がある。
兎も角、倭国に辿り付いた難民の多くはさらに東へと旅を続けた。
そして、志賀島に辿り着いた部族は、彼らの辿った道程は極めて難儀を極めたであろうが、玄界灘を生活の場として生きる決心をした。
それが阿曇族なのであろう。
阿曇族は玄界灘の荒海に揉まれるうち、海人族として成長した。
恐らく、福岡平野に既にあった奴国は先進文化を有していた阿曇族を積極的に受け入れて、倭国を束ねるようになった。
それはちょうど、飛鳥時代に、半島から渡来した人々の持つ先端技術と文化を背景に大和朝廷の中で絶大な権力基盤を築いた蘇我氏の権力奪取過程と良く似ている。




