二十三、金印公園2
二十三、金印公園2
金印公園の長い石段を上り切って高台に辿り付いた時、底抜けに明るくて雄大な景色が目の前に広がり、私は自分の体が弾けるような気がした。
玄界灘と博多湾の潮流が混然と混じり合った海は深い緑を湛えていた。
湾の中ほどに浮かぶ能古島の脇を高速船ビートルが白い航跡を残して釜山へ向かっている。
もしも巨人が博多湾を抱いているとしたら、右手の先が志賀島で、左手の先が糸島半島だ。
弥生の頃、糸島半島にあった伊都国を出発して、陸路で志賀島に至るには奴国や不彌国、さらに海の中道を進まねばならない。
つまり、博多湾の縁をぐるりと巡らねばならなかった。
中国の歴史書「魏志倭人伝」は古代の日本の道路事情について「行くに前人を見ず」と記述している。
道は原始の樹や雑草が堆く茂っていたのだ。
さらに、倭国には「牛馬なし」とも記されている。
従って、交通手段はもっぱら徒歩であった。
移動はさぞかし難儀を極めたことであろう。
だが、金印公園から糸島半島を眺めたとき、あっ、と驚きの声を上げそうになった。
ここから伊都国はほんの目と鼻の間ではないか。
手を伸ばせばすぐそこに届きそうだ。
なるほど、「百聞は一見に如かず」。
これほど格言が胃の腑にすとんと落ちる経験はそう多くは無い。
伊都国と、奴国の一部であった、志賀島は、予想持上に、近接していたのだ。
恐らく、両国の人たちは、波穏やかな博多湾に小舟を浮かべ、頻繁に往来して海産物や農産物等を交換し合っていたのだ。
天明四年、田沼意次が老中の職にあった頃、福岡藩に提出された、俗に「甚兵衛口上書」と呼ぶ公式文書には、
「志賀島の百姓甚兵衛が叶の崎というところにある水田の水はけを良くするため端を切ったところ、小さな石が出てきた。それを取り除いていくうちに二人持ちほどの大きな石が出てきた。さらに、それを取り除くと、石の間に光るものがあった」
という、金印発見の顛末が述べられている。
「後漢の光武帝から金印を賜ったのは伊都国の王であって、何かの事情で伊都国の者が金印を志賀島に隠匿したのだ。従って「『漢委奴国王』とは『カンノイトコクオウ』と読む」
と、金印発見当時から、上田秋成や山片蟠桃を始め、著名な学者が主張した。
なるほど、こうして志賀島から糸島半島を望んだ時、彼らの言い分には、あるいは、傾聴に値する一分の理があるのかもしれない。
だが、邪馬台国の卑弥呼が登場する「魏志倭人伝」には、イトコクのことを「委奴国」ではなく「伊都国」と記述し、「ナコク」のことを「奴国」と、はっきり記している。
やはり、「委奴」を「イト」と読むには少なからず無理がある。
ところで、私にはどうしても合点の行かないことがある。
古来、志賀島は阿曇族の拠点であって、しかも周囲十キロ程の小さな島である。
彼らの支配は志賀島の一木一草にまで遍く行き届いていたはずではないか。
従って、島内で起こったどんな些細な出来事も阿曇族の張り巡らした網の目から逃れることは不可避であったはずだ。
そうした環境下にあって、金印が志賀島に持ち込まれたことを阿曇氏が気付かぬ訳がない。
時が移り、例えば、阿曇氏の名が歴史書に登場することが少なくなった、つまり、阿曇族の支配力が低下した奈良時代以降に持ち込まれたのならば、あるいは、あり得るだろう。
だが、金印を取得した後、七〇〇年ほど経過した後に、わざわざ、伊都国から志賀島にそれを持ち込む必然性は見つからない。
後漢の光武帝から倭国の王に金印が与えられた時から、阿曇族は金印と関わりを持っていたと見るのが自然な流れではないだろうか。
ところで、話は少し変わるが、私は弥生時代の倭国の人々は金の価値が分からなかったのではないかと思っている。
なぜかと言えば、弥生期の出土品に「漢委奴国王」の蛇印以外に金製品が見つからないからである。
当時の倭国人は、銅戈や銅剣や大刀の材料である銅や鉄、或は勾玉を作る硬玉の方が貴重であると考えていたと考えるのだが如何であろうか。
金の価値を理解するのは古墳時代に冠や指輪などの金製品が半島から伝来してからではないだろうか。
一方、古代中国では、金は貴重品ではあったがより貴重なものは石であった。
漢の印制度を見ると、それが分かる。
印は、位階によって金、銀、銅と分かれる。
勿論、最高位の位にあった者に与えられたのが金印である。
だが、それは、臣下や冊封下の国であって、天下を支配する皇帝印は玉、つまり、石を加工したものである。
つまり、玉の方が金よりも上位と見られていた証拠である。
少し脇道に逸れたが、
「漢委奴国王」という金の蛇印は後漢の後ろ盾という巨大な権力の裏打ちである
恐らく、倭の国々は、後漢の後ろ盾を得た奴国に平伏したであろう。
こうした考えをあれこれと巡らしている時、はたと思い付いた。
蛇印を後漢から持ち帰った奴国の使者は阿曇族の長ではないか、と




