綿津見三神
「漢委奴国王」と篆書で陰刻された黄金の蛇印が出土したことで知られる小さな島、「志賀島」の北部に勝馬という集落がある。
農業を生業とするというが、前面に大海を望み、後方に急峻な山を背負うこの村落が古来、果たして、農作物のみで村人の胃袋を満たして来たとは、どうしても得心が行かない。
何となれば、集落を流れる江尻川の川幅は狭く、水量も乏しい。
名前を冠するほどの川ではなく、単に小川と呼べば充分である。
必然的に、流れに沿う田畑は、猫の額ほどである。
これでは、いくら頑張って栽培しても、集落の誰もが食するだけの収穫量は望む可くもない。
後年、山間部を切り開き、苺や枇杷や蜜柑などの、いわゆる、商品作物を栽培するようになってから、やっと、食えるようになったに違いない。
私の斯様な推測が的を射ているとすれば、村落の人々は、古来、何をもって生活の糧としたのだろうか。
江尻川のせせらぎが、さらさらと鼻歌交じりに、「その謎が分かるかな?」と問い掛けている。
江尻川の流れは集落を離れると、田畑の間をくねって進み、アスファルトの道路を潜って松の疎林を抜けると、舞能ヶ浜という砂浜を横切って玄界灘へ染み込んで行く。
砂浜の海岸線と平行にこんもりと盛り上がっている砂丘は、年中吹いている強い風が、気の遠くなるほど長い時間をかけて、海から砂を運び、造形したものである。
砂丘には低木が生い茂っていて、その中に、空蝉から隠棲する庵のような、祠がある。
「仲津宮」と呼ぶ。
祠の近くで古墳が発見され、須恵器や鉄器などが発掘された。
古墳時代のものだとされる。
さらに、浜辺から百数十メートルほど沖合に浮かぶ大岩の頂きの雑木の中には「沖津宮」という祠があって、満月を挟む数日、干潮時には海が割れて祠へ続く白砂の道が姿を現すのだが、参拝に訪れる人影はめったに見かけない。