十九、三番目の祠、表津宮1
十九、三番目の祠、表津宮1
ここまで考えを巡らした時、とても満たされた気分になった。
幾つかの疑問点は残るが阿曇族の盛衰に関する歴史的流れの一端を見た気がする。
私は、助手席で後頭部に手を組み、運転している妻に話しかけた。
車は国民休暇村を出て、志賀島外周道路を、時計とは逆回りに金印公園に向けて走っていた。
「ほら、左手の山の斜面にある、あの平屋の家、昔、進藤英太郎という映画俳優がいただろう。その人の別荘だったのだ」
「もうすぐ弘漁港が見えるよ。ほら、見えた。あそこの売店で新鮮なワカメとサザエが安く買えるよ」
「もう少し行ったら、蒙古塚だ。鎌倉時代の蒙古襲来は知っているだろう?その時、志賀島の近くで座礁した元軍の兵士の首を刎ねたのさ。それを不憫に思った地元の有志が五輪の塔を建てて供養したのが始まりだよ、聞いてる?」
機嫌よく話す私に妻は全く取り合わず、無言でハンドルを握っていた。
行く先々で自分の知識を物知り顔に語るのは心地良い。
だが、私の歴史に関する話を快く聞いてくれる人は少ない。
蘊蓄を傾けて話す私に、時に、あからさまな不快感を顔に浮かべる人もいる。
だが、妻は、嬉々としてとは言わないが、いやな顔をせずに話を聞いてくれる。興味深げに相槌は打たずとも、それはそれで良い。
「ただ一つ疑問なのは、綿津見三神の祠は三つあるはずなのだ。沖津宮と仲津宮があるのは確認できた。もう一つの祠、表津宮はどこにあるのだ、それが分からない、不思議だ」
と独り言を漏らす私に妻は言った。
「あなた、見なかったの?志賀海神社のパンフレット。阿曇磯良丸が表津宮を当地に遷座したと書いてあったわ」
阿曇磯良丸とは、神功皇后が三韓へ出兵したときに従ったとされる当時の阿曇族の長である。
「えっ、そうだっけ」
私はショルダーバッグから、先日、志賀海神社の社務所で貰った神社の由緒書きを急いで引っ張り出した。
なるほど、妻の言う通り、「表津宮」を島の北部から山を隔てた南部へ移したという記載がある。
「表津宮」はそれ以後「志賀海神社」と呼ばれ、底津綿津見・仲津綿津見・表津綿津見の三神を一括して祭るようになった、とある。
「うん、確かにそう書いてあるね。神社の言い伝えをそのまま信じる訳には行かないが、手掛りの一つだね」と私は嘯いた。
歴史には無知無頓着な奴だと内心優越感を覚えていた妻から、突然、核心を突かれて、自分の迂闊さに驚くと共に腹立たしさを覚えた。
あどけなく話す彼女の言葉の響きは屈託ないがゆえに猶更私の自尊心を深く傷つけた。
心の動揺を悟られてはならない。
慌てた私は意味もなく咳き込んだ。
それにしても、どうして「表津宮」を島の北部から南部に移し、志賀海神社で、綿津見三神を一括して祀る必要があったのだ。