十七、神功皇后2
十七、神功皇后2
ここで、香椎宮について、少し触れてみたい。
祭神は仲哀天皇、神功皇后、応神天皇、住吉大神である。
博多湾の香椎潟から海中を見ると、そこに御島神社がある。
神功皇后が神託を伺うため、髪を解いて海水につけると髪は二つに分かれて、皇后が神意を確認したところと言い伝えられる。
香椎潟に行くと海中に鳥居が立っているのでその場所はすぐに分かる。
そこから、香椎宮に向かって歩くと千早、続いて、と御幸町、と呼ばれる地域を通る。
千早は、「ちはやぶる」という、神にかかる枕詞を意識してつけられた名であろう。
また、御幸とは天皇や皇后が外出することを言うことから、仲哀天皇や神功皇后が外出したであろうことを忍んで名付けたのであろうが、千早も御幸町もつい最近まで海であった。
埋め立てて、まちづくりが行われたのは、昭和になってからである。
さらに進んでJR鹿児島本線の踏切を越えると、大きな鳥居がある。
そこから、香椎勅使道と呼ぶ道が続く。
天皇の勅使あるいは大宰府の長官等が参拝する際に通った道なのであろう。
勅使道に入ってすぐ脇の小高い丘には頓宮があって、そこには万葉歌碑がある。
詠み人は、大伴旅人、小野老などで、恐らく、香椎宮参拝の折に詠んだ歌であろう。
因みに、小野老の読んだ歌で、香椎宮で詠んだ歌ではないが、教科書などに出てくる有名な歌に、
「青丹よし、奈良の都は咲く花の、匂うがごとく、今、盛りなり」
がある。
勅使道の両脇にはクス並木が続く。何れも巨木である。
大正時代に皇室が参拝された折、県下の青年男女が植栽したものである。
並木が途切れるところが香椎宮となる。
鳥居をくぐって香椎宮の境内を暫く歩き、楼門を過ぎると、恐らく奈良時代に建てられたと思われる五つの標石があって、それぞれ、御休息所、御手水所、御祓所、御脱剣所、衛士居所とある。
その順序に従って歩くと本殿に至る。
本殿に至る石段の前には、「綾杉」という巨木がある。
神功皇后が三韓から帰国して、鎧の袖に挿していた杉の枝をこの地に植えたところ、それが成長したものといわれる。
皇后の神霊がこの杉に留められているとして国家鎮護の神木とされ、「綾杉」の葉は朝廷に献上されている。
また、大宰帥に任命された貴族は香椎宮に詣で、その葉を冠に挿したという。
本殿は、香椎づくりという特殊な建築様式で重要文化財となっているが、度重なる戦火に焼失した。
現在の本殿は、福岡藩第十代、黒田長順公によって、縮小再建されたものといわれる。
さて、先に述べたように、仲哀天皇は香椎宮に大本営を置いた。
つまり、香椎は、一時期、倭国の都であった。
大本営跡は古宮と呼ばれ、香椎宮本殿の更に奥である。
古宮を尋ねると、そこに棺掛けの椎と呼ばれる木がある。
仲哀天皇が亡くなって天皇の屍を収めた棺を掛けていた椎の木から芳香が発したことから、その地域を香椎と呼ぶようなったと言われるのだが、棺掛けの椎をまじまじと眺めたが、どこからどう見ても、樹齢一八〇〇年以上の巨木とは思えない。
神罰を被ることを覚悟して言えば、多分、樹齢は三十年ほどではないだろうか。
古宮に設置された説明文には、仲哀天皇は紀元二百年に亡くなられて神功皇后が天皇の事業を継いで朝鮮半島へ出兵したと記されている。
考えてみよう。
「魏志倭人伝」に、景初二年〈実際は景初三年といわれる〉、邪馬台国の女王卑弥呼は、帯方郡を経由して、魏の都洛陽に難升米等の使者を派遣した、という記述がある。
景初三年は西暦二百三十九年である。
この説明文は、「神功皇后こそが、女王卑弥呼である」と暗に主張しているようだ。
更に、古宮の少し先まで足を延ばすと、武内屋敷とその傍に不老水がある。
武内屋敷は大臣、武内宿祢が居住したと言われる屋敷で、不老水は武内宿祢
が天皇に捧げたという神水である。
武内宿祢はその神水によって三百数十年の寿命を全うし、景行、成務、仲哀、神功皇后、応神、仁徳の各天皇に仕えた。
さて、神功皇后はこの地から三韓へ出兵するのだが、途中、志賀島に立ち寄り、水先案内と兵士を、阿雲族に求めたのは間違いのないところであろう。