阿曇族の拠点の消滅
十五、阿曇族の拠点の消滅
だが、今、勝馬の地には往時の繁栄の面影が認められない。
それが、目の前に横たわる、最大の謎なのだ。
推理してみよう。
阿曇氏の拠点が消滅してしまった原因は幾つか考えられるが、拠点が放棄されたのは、かなり以前のことであろうから、その理由の痕跡を探し出すことは、困難きわまりない、或は不可能に近い作業となるだろう。
何故ならば、それは千数百年前に遡る出来事であると推察されるからだ。
だが、ここで諦めるのではなく、あえて、我が貧弱な脳細胞を振り絞って、それらしい回答を求めてみよう。
まず地勢的な理由を探ってみようと思う。
江尻川沿いの田畑のある所はかつて海であった。
そこには入り江が広がり、貝類が生息していた。
だが、現状は、勝馬の辺に入り江はない。
小さな江尻川が流れているだけである。
何故なのだ。
豪雨によって江尻川が氾濫し、上流から大量の土砂が流れて、入り江を埋め尽くしたのかも知れない。
だが、それならば、二枚貝は地中深く埋もれたであろうから、地表近くに貝殻がざくざくと見つかるのは不自然である。
或は、未曽有の大地震が発生して地形の変化が起こり、入り江が破壊されたのかも知れない。
振り返ると、二〇〇五年に発生した福岡県西方沖地震のエネルギーはすさまじく、大きな被害をもたらした上に、志賀島を五十センチ近く東へ移動させた。
それよりもはるかに激しい地震が、弥生後期の志賀島に発生して、入り江を消滅させたのであろうか。
もう一つ考えられることは、これが最も可能性としては高いと考えるのだが、時の経過とともに海水面が下降し、入り江が舟の係留地として利用できなくなったことが、最大の理由ではないだろうか.