繋がる思索の糸2
十三、繋がる思索の糸2
では、二つ目の疑問に移ろう。
江尻川沿いの田畑から、今なお、大量の貝殻が発見されるのはなぜか?
二枚貝の殻が田畑から出て来るということは、かつて、そこに二枚貝が生息していたことを意味している。
では、二枚貝はどこに生息するのだ?
勿論、蛤などの二枚貝は、海に生息する生き物である。
しかも、深海にはいない。
潮干狩りの出来るような砂浜に生息する貝類である。
このことから何が推測できる?
勝馬のすぐ側は海であったのか?
そう、そのとおり、しかも、干潮時には潮干狩りの出来るような渚であった。
つまり、勝馬の集落のすぐ近くは玄界灘に面した入り江であったのだ。
心地良い潮騒の音がひねもす響く白砂の渚には蛤やあさり貝などが生息し、子供たちは磯遊びと潮干狩りに興じたのだ。
貝殻が田畑の地中から大量に出てくるのはその名残であるとすれば、説明がつく。
その入り江は、玄界灘という豊饒な海に漕ぎ出すための船の係留地であったのであろう。
目を閉じると、隙間なく並んだ大小の舟に屈強な男たちが乗り込んで、老人や女や子供たちに見送られて、今まさに漕ぎ出そうとしている様子が瞼の裏に映る。
きっと、「沖津宮」や「仲津宮」などの綿津見三神を祀る祠では、神官たちが、今まさに漕ぎ出そうとする男たちの活躍と無事を祈って、幣帛を神に捧げて声高く祝詞をあげていたことだろう。
「熟田津に、船乗りせむと、月待てば、潮もかなひぬ、今は漕ぎいでな」
古代の歌集「万葉集」にあるこの歌は、斉明天皇が百済救援の軍を率いて向かう途中、熟田津〈道後温泉あたりか〉に一泊した後、出発する際に、宮廷歌人、額田王が詠んだとされる歌である。
まさに同様の光景が勝馬の入り江で繰り広げられていたと思うと、血沸き肉躍るようだ。