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蛇印(じゃいん)  作者: 屯田 水鏡
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繋がる思索の糸

十二、繋がる思索の糸

いったい、私は今まで何を思いあぐねていたのだろう。

思わず自分の頬っぺたをつねった。

我が身の愚鈍さを今更ながら自覚せざるを得ない。

笑ってしまいそうだ。

まず、一つ目の疑問を考えてみよう。

勝馬の集落のある所から細形銅剣の鋳型が出土したことは何を意味するのか?

その答えは極めてシンプルだ。

誰かがそこで鋳型を用いて細形銅剣を作っていたからに他ならない。

恐らく、そこには、青銅器を作成する職人集団の作業場があったに違いない。

鋳型は一つだけではなく、沢山あったはずだ。

周辺をもっと広範囲に掘れば鋳型と銅剣が数多く出土するだのろう。

だが、それを証明することは出来ない。

勝馬の住民をすべて立ち退かせて大規模な発掘をすることの了解はとても得られそうにないからである。

さて、勝馬の地下には多くの細形銅剣とその鋳型と埋まっていることが予想できた。

では、その大本となる、最初の細形銅剣はどこから来たのだ?

勿論、大陸からもたらされたに違いない。

ということは、勝馬の地が「魏志倭人伝」に「南北に市糴してきす」と記述があるような、大陸や朝鮮半島と有無を交易していた海人族の拠点であったことを示している可能性は高い。

志賀島を根拠に活躍していた海人族といえば、先に述べた、神の子宇津志日金析命を祖先に持つ「阿曇族」以外にはない。

阿雲氏の斎祀る綿津見三神の祠が勝馬を海上から攻め来る敵から防護するかのように配置されていることからも、そこが阿曇族の拠点地であったことが推察される。

阿曇族はその卓越した航海術をもって玄界灘を自由に行き来して大陸との交易に勤しんだに違いない。

時には、後世の倭寇が行ったように大陸や半島で穀物や人を略奪していたのかもしれない。

阿曇族には、戦いの武器として或は綿津見三神を斎祀る祭具として多くの青銅器が必要であった。

細形銅剣だけではなく、当時の最先端機器である銅戈や銅矛、銅鏡や勾玉などの様々な青銅機器が地下に眠っているのではないだろうか。

私の頭の中で、思索の糸が次第に繋がり始めて、巨大な屏風に雄大な景色が次第に浮かび上がって行く。

それは、思いもよらない、壮大な空想の世界に私を誘って行く。



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