泡沫の姫は王子様の夢を見ない1
ガタンガタンと一定のリズムで体が揺れる中、見慣れた景色が高速で流れていく。ふいに手にしていたスマホが震えた。
『《Re:ライブ延期》
To:八重垣 瑛梨香
From: 高橋 太一
次の公演の件了解しました。取り敢えず騒動が収まるまでは様子見ということでお願いします。』
瑛梨香は新着メールを確認してからスマホを鞄にしまう。ちょうどその時家の最寄り駅に到着するアナウンスが耳に届いた。いつもより大学の授業が終わるのが遅く夕方のラッシュ間際までズレ込んでいたためか降りたホームは大分混雑していた。若干急ぐように改札を出た所で瑛梨香の前を歩くサラリーマンが財布を落とした。迷わず拾い上げると男性の肩を叩く。
「はい?」
振り向いたところで財布を差し出すと意味が分かったようでお礼を言われた。
「おっと俺のでしたか。助かりました。ありがとうございます。」
『どういたしまして』
瑛梨香が男の目の前にARで文字を表示させると男は戸惑うような顔でもう一度頭を下げ雑踏に消えていった。いつもの反応にため息を一つしてから家路に戻る。そこではかき入れ時の飲食店が店前で宣伝を始め、大学生やスーツ姿の集団がたむろっていた。数分歩き続けようやく人通りの少ない住宅地が見えてきた。
「おい!ガキが何てことしやがる!」
いきなり聞こえた怒鳴り声の先には男の子と男性がいた。少年は小学生ほどの背丈で二十代に見える男性に怯え立ち尽くしていた。男性の方はいわゆるチンピラの様相を呈していて普段なら絶対に近づきたくない類の輩だった。周りの人間が自分に火の粉が飛ぶのを恐れて見て見ぬふりをしている中、瑛梨香はそんなこと気にもせず二人の間に割って入った。
『小さい子に向かって怒鳴らないでください』
「ああ?誰だお前?こいつの知り合いか?」
瑛梨香は思考入力で文字を打つ。男は急に現れた彼女を訝しむが怒りを鎮めることはなかった。
「それにARチャットなんて使いやがって。俺とは口が利けねってか?」
『私の事はいいです。子供相手にあなたが高圧的に接しては何も解決しないでしょう。この子が何をしたんです?』
「姉ちゃん、部外者なら黙ってくれねえかな?それともこのガキの代わりに汚した服弁償してくれるってのか?」
視線を落とすと男の白いジーパンには紫色に濡れた跡が広がっていた。後ろの少年に目を向けると飲みかけの炭酸を手にしている。状況的にぶつかってシミを作ったらしい。
『子供のやったことです。許せませんか?』
「うぜーな。こちとらこの後の予定も全てパーにされたんだ。文句も言うなってか?あ?」
そう言ってすごまれる。別に自分がクリーニング代ぐらい払ってもいい。この男の腹の虫が治まって後ろの子がこれ以上嫌な目に合わないのなら。他に考えも浮かばなかったのでそう提案しようとした。が、その前に事態が動いてしまった。
「…どっちがガキだよ。」
小さな声は後ろから聞こえてきた。そしてその声量は瑛梨香だけでなくギリギリ男の方にも届くもので…。
「このクソガキが!」
男が顔を真っ赤にしてこちらへ踏み込んできた。瑛梨香はとっさに男の子を庇う様に手を広げて腰を落とした。
「おにーさん!これなーんだ!」
緊迫した現状に合わない気の抜けるような女の声が男の背後から投げられた。
「は?…っっっ!?」
殴りかかる寸前の姿勢から振り返った男は何故か体をビクッと跳ねさせた。瑛梨香からは男の背で何が起きているのか見えない。
「け、拳銃!?」
その言葉に瑛梨香も慌てて男の脇から相手を覗き見た。そこには見覚えのある高校の制服を着た女の子が右手を突き出して立っていた。確かに男が言ったように銃を構えてる様にも見えるが実際には何も持っていない。左手にはスマホが握られ口元を隠している。
そこで瑛梨香は直感した。これはARだ。恐らく突きつけられた彼の目にだけ拳銃が映っているのだろう。瑛梨香が使うARチャットも似たシステムだから分かった。女の子は一瞬瑛梨香を見る。
『耳塞いで』
彼女からのものだろうARで書かれた指示に傍にいた男の子と目を見合わせた。そして言われるがままに耳を塞ぐ。それでも耳のいい瑛梨香には彼女の声が僅かに聞こえていた。
「せいかーい!そんな君に朗報。私通り魔。君最初のターゲット。ってことでバイバ~イ。」
「っ!?ま、まて!」
「BAAAAANG!!」
スピーカーからの大音量は静まり返った街の一角によく響いた。男は驚きのあまり腰を抜かす。凄い量の汗でポロシャツを張り付かせている。恐怖で全身の震えが止まらないようだった。少女はそんな彼の耳元で何かを呟いたあと瑛梨香達の前に立った。
「さて帰りましょうか。大丈夫。あっちのお兄さんは許してくれるそうよ。」
そう言って二人の手を取った。いきなりの展開に付いて行けないでいる瑛梨香と男の子を問答無用で歩かせる。少し行ったところで道の角を曲がりようやく手を離した。
「二人共災難だったわね。今度こそちゃんと帰るのよ。じゃあね。Bye」
それだけ言い残してサッサと行ってしまおうとする少女。瑛梨香はそれを引き留める様に袖をつかんだ。
『助けてくれてありがとう。でもARまで持ち出すのはやりすぎでは?』
あれは即興でできるものじゃない。あらかじめプリセットした映像をホログラム化する必要がある。それも対象にした人にだけ見せるなんて面倒な設定まで組み込んで…。だから目の前の少女が日常的にあんなことをしているのかと気になり聞いてしまった。
「ああ、いつもの癖で使っちゃっただけ。ここは日本だからあんまし使わないけど海外じゃあ有効な不審者撃退になるんだよ。向こうはそういうの多いからね。」
彼女は相当アクティブな趣味を持っているようだ。コロコロ笑う姿は無邪気な子供そのものだった。ただ切れ長の瞳だけはその小さい体躯に似合わず大人びた雰囲気を醸し出していた。
『あなた東華女子の生徒でしょ。こんなことして怒られないの?』
「もしかしてOGの方でした?まさかお嬢様だったとは…じゃなくてどうか内密にお願いしますね。懸念通り私は先生方に目付けられてますから…。」
苦笑いしながら頭を下げる少女の制服は二年前まで瑛梨香が着ていたものと全く同じだった。ただ中のブラウスはスカートの上からはみ出し、上もボタンが二つ開いている。色々と校則の厳しいはずのあの女子高にあるまじき着崩しに瑛梨香は呆れていた。どう考えてもお嬢様云々はこちらのセリフである。
『別にチクったりしないから安心して。ほら君も助けてもらったんだからお礼言わないと』
ずっと黙っていた少年はハッとした後満面の笑みで答えた。
「ありがとう!背のないお姉ちゃんに声のないお姉ちゃん!」
私はその言葉に息を飲んだ。子供は残酷だ。思惑の透ける大人の言動には目を瞑れる。でも悪意のない単なる事実はアイスピックのように私の心に深く突き刺さった。
無意識にこぶしを握りしめてしまう。すると突如片手に温もりを感じた。見ると私より一回り小さい少女が私の手をそっと包み込んでいた。
「ぼく?こっちのお姉ちゃんは声がないんじゃなくて隠してるだけだよ?」
「え?そうなの?」
純粋な目を向けられ私は何も応えられない。
「ぼくは人魚姫って知ってる?」
「うん!悪い魔女に自分の声と足を交換して王子様に会いに行くお話でしょ!もしかしてこっちのお姉ちゃんは人魚姫なの?」
「よく知ってるね。そうよ。このお姉ちゃんは人魚界じゃあそれはそれは有名な歌姫でね。彼女の声は魔女さえ羨む美しいものだったのさ。そして今のお姉ちゃんは地上の王子様を探すため海中に声を置いて来てるだけなの。」
「すごい!すごい!お姉ちゃん本当はお姫様だったんだ!」
彼女の勝手な作り話に興奮しながら私に尊敬のまなざしを向ける少年。私の方は何とも言えず頬を引きつらせた。
「でも声はどうなるの?そんなに綺麗なら僕も聞きたかったのに…」
「大丈夫!いつか王子様が悪い魔女やっつけて声を取り戻すからね。お姉ちゃんはいずれ人間界でも有名な歌姫になるよ。」
「おお~!!」
「だから声がないなんて言っちゃダメ。分かった?」
「うん分かった!色々ありがとう、人魚のお姫様に小人のお姉ちゃん!もう帰らなきゃだからバイバイ!」
「はいはい、気を付けて帰るのよ。」
夕暮れに消える男の子の背を二人で見守る。若干疲れたものの悪い気分ではなかった。包んでいた彼女の手は既に離れている。それでも彼女の温度はまだ残っていた。
「じゃ、ちゃんと王子様見つけてくださいね?人魚姫先輩。」
そう言って帰ろうとする後輩。色々自分勝手でマイペースな人…私にお礼と文句両方ともさせるつもりがないらしい。私は少女の肩をムズっと掴んで再び引き留めた。
『王子様ならここにいるじゃない?』
「え?」
『私は八重垣瑛梨香。物語の人魚姫は字が書けないけど、私なら自分の名前は勿論王子様を助けたのは自分であることさえ伝えられるわ。だから助けてくれたお礼に何か奢ることもできる。ということでこれから夕食でもどうかしら?』
「ええ~。」
『まさか先輩のお誘いを断らないでしょ、不良少女ちゃん?』
指で拳銃を作って見せるとずっと不敵な笑みを崩さなかった後輩が一瞬怯んだ。犯罪ギリギリなのを理解しているのだろう。そして何かを諦めた表情で答える。
「あ~~はい。では遠慮なくごちそうになります。日御碕灯です。お手柔らかにお願いしますね、八重垣先輩。」
『瑛梨香でいいわ。灯ちゃん』
私の笑顔に灯は今度こそため息をついた。




