記憶喪失メモリーズ
この作品は、これまでのいわゆる『別人格化』系SF作品の常識を完全に覆し、何と現実性を一切損なうことなく、『記憶喪失中の別人格化』にまつわる物語を描ききってみせた、まったく新しい量子論SF小説であり、世界初の『肉体派』(⁉)SF小説である。
一、『いつかは消える定めの記憶喪失中の仮人格への憐憫』物語。
「……ごめんなさい、銀太君。私どうしても、あなたとはお付き合いできないの」
その時彼女の桃花の唇から紡ぎ出された明確なる拒絶の言葉は、二人っきりの生徒会室内に思いの外大きく響き渡り、僕のガラスのごとき繊細なるハートを粉々に打ち砕いた。
初夏のさわやかな風が吹き込んできている窓を背にした最奥の机の前にたたずみ、烏の濡れ羽色の長い髪の毛に縁取られた日本人形そのままの端整な小顔にいかにも申し訳なさそうな表情を浮かべて、僕のほうを見つめている可憐な少女。
私立伽藍杜学園第四十四代生徒会長、曼陀沙羅先輩。
我が国有数の名家の一人娘であるという正真正銘生粋の『お嬢様』であり、品行方正かつ成績優秀にしてスポーツ万能で、二年生ながらも歴史ある名門校である我が学園において生徒会長を務めているという、文字通り『完璧超人』でもあって、その上品ながらも艶やかなる美貌と一見ほっそりとしているものの出るところは出ている白磁の肢体との相乗効果により、現在彼女がまとっている極平凡なセーラーカラーの漆黒のワンピースの制服さえも、あたかも上流階級の夜会におけるパーティドレスにすら見えてくるほどであった。
しかも彼女のすごいところは、このような全校生徒の羨望の的という自他共に認める学園の中心人物としての立場を驕ることなぞ微塵もなく、生徒会長でありながらもむやみやたらとリーダーシップを発揮して他者を一方的に従わせようとはせず、万事においてあくまでも周囲との調和を重んじ物事を進めていくことを旨としていたことであった。
そんな彼女だからこそ他の生徒たちからは男女を問わず絶大なる人気を得ていて、特にこの春入学したての一年生においてはもはや『信仰』と呼んでも差し支えないまでに、熱烈なる支持を集めるに至っていた。
中には彼女と少しでもお近づきになりたいあまりに、半年後に予定されている生徒会役員選挙を待つことなしに、クラス委員や風紀委員等の常設委員もしくは学園祭や体育祭等における期間限定の実行委員になることによって、いわゆる『お手伝い要員』として生徒会に押しかけてくる剛の者たちもいるほどであった。
かく言う僕一年A組所属の海燕銀太も、クラス委員であるのをいいことにお手伝い要員として名乗りをあげて、実のところは会長に会うことこそを目的に、放課後はほとんど毎日のようにして生徒会室に入り浸っているといった有り様であったのだ。
しかも会長さんときたら、自分に会うことを目的とする不純な動機でお手伝いを買って出た僕ら一年生たちに対しても、他の役員と分け隔てなく接して懇切丁寧なる指導を行って、僕たちが生徒会内においてスムーズに活動していけるように取り計らってくれたのだ。
そのように生徒会長としても上級生としても──そして何よりも女性としても、理想的で素晴らしいことこの上ない沙羅先輩と毎日のように身近で接していて、僕は更にどんどんと彼女に惹かれていき、意外なことにも現在お付き合いしている相手がいないことを知るや、思い余って告白を敢行したのであった。
そしてその結果、けんもほろろにお断りされてしまったのである。
……いやもちろん、知り合って三ヶ月にもならない年上の女性にいきなり告白なんかをするのは、あまりに軽挙妄動に過ぎるとはわかっていたものの、沙羅先輩って美人で人気者だからうかうかしていたら他の誰かにとられてしまうかも知れないし、それに毎日のように一緒に生徒会活動をやっていてたまに二人っきりで居残り作業をする際には、マンツーマンで手取り足取り指導してもらっているうちに何となくいい雰囲気になったことも何度もあったりして、結構脈があるんじゃないかと思っていたんだけどなあ。
確かに身の程知らずの思い込みと言われればそれまでだけど、それにしても会長のまったく取り付く島のない頑なな拒みようは、いつもの温厚な彼女の態度からすれば不自然極まりなく、それゆえにどうしても納得することができず、僕はそれから後も懲りることなく、二人っきりで居残り作業をする際等折を見ては何度もお付き合いを申し込み、そのつどあえなく断られるといった、虚しい努力を繰り返していったのであった。
それでもけしてあきらめることなく、ついに本日通算二十回目の記念すべき告白タイムを敢行したわけなのであるが、冒頭に記したように例のごとくあっさりとお断りされてしまったのだ。
その結果とうとう僕は我慢の限界を迎え、我を忘れて会長に向かって問い詰めたのであった。
「──どうして、どうしてなのですか? 会長はそんなに、僕のことが嫌いなのですか⁉」
「……銀太君」
これまでは告白を断られたら未練たらしく食い下がることなくあっさりと引き下がっていた僕が、今日という今日こそは納得いく理由を聞かせてもらおうと鬼気迫る形相で食ってかかってくるものだから、心底困り果てた表情となる会長殿。
「嫌いだなんて、そんな! 銀太君は生徒会の仕事を一生懸命やってくれているし、要領が良くてどんな作業も苦もなくこなせるし、話術も巧みでいつも場を和ませてくれるし、特に今日みたいに二人っきりで一緒に作業をしている時においては何かと話が弾むことからも、お互いの趣味や好みが合うことがよくわかるし、もしもお付き合いしたらきっと楽しいと思うわ」
「………………へ?」
想い人の口から直に聞かされた予想外の高評価に、思わず呆ける下級生の少年。
「そ、そうですよ! 僕と会長は絶対に気が合うはずです! もちろん僕にはこれからもずっと、あなたのことを楽しませて幸せにする自信があります! だからお願いします! 僕と付き合ってください!」
まったく脈が無いわけではないことを知り、ここが勝負所と勇気を振り絞り、勢い任せに思いっきり頭を下げつつ右手を差し出し、再度交際を申し込む。
しかし耳に届いたのは、やはり先刻同様の、どこか申し訳なさそうな声音であった。
「……それでも、駄目なの。私は銀太君とは──いえ。他のどなたとも、お付き合いをするわけにはいかないの」
え。
「僕だけでなく、他のどなたともって………あっ。もしかしたら本来ならモテモテであっても当然のはずの会長が、いまだ浮いた話の一つも無いのって⁉」
「ええ。相手がどのような方であるかにかかわらず、お付き合いの申し入れをされた場合には、必ず無条件でお断りしているからなの」
……道理で。
そもそもこれほどまでに美人で理想的な女性である会長に、付き合っている人がいないほうがおかしかったのだ。
「……どうして、なんですか? 常日ごろはあんなに周囲に対する思いやりの深い会長が、何で自分への好意だけはこうも頑なに拒否するんですか?」
僕はなぜだかいきなりさも悲しげな表情となりうつむいてしまった会長に向かって、恐る恐る問いかけた。
「だって今の『私』には私自身に関する決定権なんかはなく、こんな『私』と付き合ったところで、近い将来その人を落胆させてしまうことになるだけだからよ」
「はあ? それっていったい……」
唐突にまったくもって意味不明な言葉を突きつけられて怪訝な表情となる僕へと向かって、その少女は続けざまに本日最大の爆弾発言を投下した。
「実は今の『私』は記憶喪失中の仮の人格に過ぎず、いつかは消え去ってしまう定めにあって、だからこんな私に思いを寄せたところで、何の意味も無いの」
──‼
☀ ◑ ☀ ◑ ☀ ◑
それは今から約半年前の、生徒会長選挙の直前のことだったという。
いまだ一年生にして現在の僕と同じくお手伝い要員でありながらも、他の正規の役員と何ら遜色なく生徒会活動にいそしみ当時の生徒会長の片腕とも呼ばれて、次期役員当選確実とまで言われていた曼陀沙羅先輩が、突然それまでの記憶を一切失ってしまったのは。
当時も今と変わらず人気者だった彼女ゆえに、周囲の者たちは誰もが同情を惜しまず大いに悲しみに暮れたものだった。
しかし彼女自身においては記憶を失っても生来の前向きの性格のほうは以前のままだったようで、どうせならこれを機にこれまでにないことに挑戦して文字通り『まったく新しい自分』になってやろうと思い立ち、本来は副会長を目指すはずだったのに何と一年生でありながら会長選挙に立候補して、その不屈の闘志に感銘を受けた周囲の応援もあって見事当選を果たしたのであった。
このように彼女自身は記憶喪失であることを別に気にしていなかったのだが、極身近な者たち──特に御両親においては話は違っていた。
何せ彼らにとって自分の娘であるのはあくまでも『半年前までの彼女』なのであり、『今の彼女』は記憶喪失中に限って存在を許される『仮の人格』に過ぎず、晴れて記憶が戻った暁には消え去ってしまうべきものでしかないのだ。
それゆえに当人たちには悪気なぞ一切無しに、事あるごとに会長に対して、今の彼女であることに同情的な言葉をかけたり、一日も早く記憶を取り戻して以前の彼女に戻れるように励ましたりといったことを、笑顔で平然と行っていったのである。
それが『今の彼女』の存在そのものを否定していることなぞ、気づきもせずに。
「……それはそうよね。あの人たちにとっては『今の私』なんて単なる偽物でしかなく、本物であるのはあくまでも『半年前までの私』なのですからね」
まさしく『今の会長』の唇からこぼれ落ちてくる、あまりにも普段の彼女には似つかわしくない、自虐の言葉。
「……会長」
「だから銀太君、あなたも私なんかに恋をしては駄目よ。この記憶喪失中の仮の人格に過ぎない『私』は、言ってみれば幻や幽霊みたいなものでしかなく、いつか記憶が戻った暁には消えゆくだけの儚き存在なのであって、本気で相手をするだけ馬鹿を見るわよ」
そのようにどこか寂しげな笑顔で言い諭すや、力なくうつむいてしまう目の前の少女。
そんな悲痛極まる姿を見ていられなくなった僕は、本心からの言葉を言い放つ。
「そんなことはない! あなたは幻でも幽霊でもありません! 間違いなく曼陀沙羅先輩そのものなのです!」
僕のいきなりの大声の宣言に、思わずのようにして顔を上げて目を丸くする会長。
「ぎ、銀太君?」
「記憶喪失だからどうしたというんですか? 他人が何を言おうが、気にする必要なんてないんですよ。人間なんて別に記憶を失ったりしなくても、常に変わり続けているんだ。僕だって数年ぶりに会った知人から、『まるで別人のように変わってしまった』と言われたことがあるけど、それがどうしたっていうんだ。僕はあくまでも僕だ、海燕銀太でしかないんだ。他人の認識なんか知ったことか。会長だって同じことですよ。小説や漫画でもあるまいし記憶喪失になったからって、その人間がまったく変わり果ててしまうことなんてあるはずがなく、現在においても会長は『曼陀沙羅』そのものでしかないのです。だから会長も、ちゃんと自信を持っていいのですよ。今ここにいる自分こそが、この世で唯一本物の曼陀沙羅だって。少なくともこの僕だけは誓ってあげますよ。もしもあなたがこのまま記憶を失っていようが、記憶が戻ってまた人が変わってしまおうが、ずっと変わらずあなたのことを愛し続けてみせると!」
そんな僕の渾身の啖呵に、呆気にとられて完全に言葉を失う年上の少女。
その宝玉のごとき黒曜石の瞳に、じわじわと涙がにじみ始める。
ただしそれはけして、哀しみの涙ではなかったのだ。
「……嬉しい。もしかしたら私、その言葉をずっと待っていたのかも知れない。──私はけして偽物でも記憶喪失中の仮の人格でもなく、本物の曼陀沙羅だって。半年前までの私ではなく、今の私そのものが好きだって!」
「──ちょ、ちょっと、会長⁉」
いきなり自分の胸元へと飛び込んできた少女の華奢な肢体を、慌てて抱き留める。
僕の腕の中で震え続ける細い肩と、かすかに聞こえてくる嗚咽の声。
だから僕は何も言わずに、いつまでもいつまでも、彼女の背中を撫で続けたのであった。
二、つくられた『彼女』。
「……まったく、困ったことをしてくれたわね。まさか君は沙羅のことを、壊してしまうつもりなの?」
………………………は?
ほんの目と鼻の先に座っている上級生の少女の鮮血のごとき深紅の唇から放たれた、あまりにも思いがけない台詞に、僕はその時完全に言葉を失い硬直してしまった。
あの告白成就の日から、すでに数日後。
御存じのようにすったもんだの末に結局のところ僕は会長とお付き合いすることになったのだが、当然ながら学園内においては僕のごときモブキャラによる学園のマドンナの奇跡的な攻略成功に対して、祝福よりもむしろやっかみムードのほうが色濃く漂っており、散々冷やかされたりするのはまだいいほうで、場合によっては嫌がらせまがいの陰口や誹謗中傷を賜ることすらもあった。
もちろん今や文字通りに幸せの絶頂にある僕にとっては、そんなことはすべて取るに足らない些細なことに過ぎず、人の噂も七十五日とばかりに、まったく相手にすることはなかった。
それに、いまだ学園外でのデートを始めとする本格的な男女交際には至っていない僕と会長にとっての、事実上唯一の『逢瀬の場』である生徒会室においては、さすがに会長と身近で接してきた人たちばかりが在籍していることもあって、実は彼女が現在記憶喪失であることにより他人からの好意に対して物怖じしていたことにも何となく気づいており、むしろ僕とのお付き合いをめでたいことと捉えていて、応援ムード主体であることがありがたかった。
だからこそ、会長の入学以来の親友であり、有能なる補佐役の副会長である、彼女──箒星一六三嬢の冒頭における辛辣なる言葉は、何よりも予想外であったのだ。
「……ええと、副会長。何ですかいったい、僕が会長のことを壊してしまうって?」
僕はおずおずと慎重に、目の前の高校には場違いなまでに小柄な少女に問いただした。
そうなのである。先ほど放課後の二人っきりの生徒会室での残務整理の作業中に、唐突にいかにも不可解な台詞を僕に突きつけてきたのは、とても上級生とは思えない小柄で華奢な肢体に、ピンクのリボンで結ばれたツインテールの茶髪と真ん丸眼鏡に覆われたつぶらな瞳という、見た目には中学生か下手したら小学生としか思えない、可憐な少女であったのだ。
しかし、その見かけに騙されてはいけない。
彼女こそは、記憶喪失になったばかりで右も左もわからなかった親友の沙羅先輩を生徒会長候補に押し立てて、二年連続の当選を狙っていた先代の会長を始めとする手強きライバルたちを押し退けて見事に当選を果たさせた立役者なのであり、二年生にして学園きっての才媛の名をほしいままにするその裏で、人気者の生徒会長である沙羅先輩を矢面に立てつつ密かに学園の実権を完全に掌握することを成し遂げているという、生徒会における真の実力者にして、自他共に認める希代の策謀家なのだ。
そんな彼女と二人っきりで居残って黙々と作業をしていた最中に、突然いかにも批判的な台詞を突きつけられたりしては、戦々恐々とした心境となって焦りまくるのも無理はないであろう。
「……もしかして、やはり副会長も僕みたいな何の取り柄もない下級生が、沙羅先輩とお付き合いをしようだなんて、身の程知らずだと思っておられるわけなのでしょうか?」
そのように恐る恐る尋ねてみたところ、案に相違して若干表情を緩めて、肩をすくめる副会長殿。
「まさか、そんなことはないわよ? むしろ密かに自分が記憶喪失であることに悩み続けていた沙羅を勇気づけて救ってくれたことは、親友である私としても心から感謝しているわ」
「だ、だったら……」
「──でも、君はやり過ぎたのよ」
え。
「……やり過ぎた、ですって?」
「現在の記憶喪失状態にある彼女を認めて自信をつけさせたことに関しては、別に構わなかったの。だけど君は記憶喪失になる前の彼女をも、受け容れるようなことを言ってしまったよね? それが余計なことだったのよ」
へ? 余計なことって……。
「で、でも、僕なんかがどうこう言う以前に、親御さんを始めとして半年前から彼女を知っていた人たちにおいては当然、『記憶喪失になる前の会長』のほうこそが受け容れられていたのであって、だからこそ『今の会長』は、ある意味自分自身に対してコンプレックスを抱くようにして、思い悩んでいたんじゃないのですか?」
「まあ、そのうち君にもわかるわよ。──自分がいったい何をしでかしたのかをね」
僕の至極当然な疑問の言葉をそんないかにも意味深な台詞であっさりと切って捨てるや、もはや話は終わりとばかりに完全に口を閉じ作業を再開する副会長。
気まずい沈黙の中で同じく粛々と作業を続けながらも、僕は胸中で自分の何が彼女の勘気に触れてしまったのかについて、考えを巡らせることを止めることができなかった。
しかし彼女の言葉の真意を思い知らされるには、それほど時を必要とはしなかったのである。
☀ ◑ ☀ ◑ ☀ ◑
「……誰だ、君は?」
その時上級生の少女の桃花の唇から発せられたのは、普段の彼女にはあまりにも似つかわしくない、冷淡極まる声音であった。
場所は今やすっかりお馴染みの、放課後の二人っきりの生徒会室。
いつものように会長に会うことを目当てにお手伝いにきてみれば、当の御本人がたった一人で所在なげになぜか会長席ではなく僕の席に座っていたので、少々疑問に思いながらも気軽に声をかけたところ、何よりも温和で親しみやすい彼女らしからぬ──ただし見方によっては名家の御令嬢としてはふさわしいとも言えなくもない、いかにも尊大なる表情と冷たい口調で、不可解な問いかけをなされたのであった。
「え、いや、誰だって言われても。いったいどうしたんです、会長? 急に変なことを言い出したりして。それに何で御自分の席ではなく、そんなところに座っているのです?」
「お手伝い要員である私が、お手伝い要員用の席に座って何が悪いと言うんだ? それより君こそどうして、私のことを『会長』などと呼ぶのだ?」
「へ?」
……いやいや。これはちょっとおかし過ぎるぞ。口調も何だか変だし。
いったい会長に、何があったというんだ?
「そんなことはともかく、君が何者であるのかを、ちゃんと答えたまえ。そもそも何の権限があって、この生徒会室に足を踏み入れたのだ? ここは部外者厳禁なのだぞ。それとも新たに選出された、クラス委員だか何らかの実行委員だかであるわけなのか?」
「ちょ、ちょっと、冗談はもうその辺でやめてください! 僕ですよ、1年A組の海燕銀太ですよ! 数日前にようやく念願叶って、あなたとお付き合いすることになった!」
「………………はあ? お付き合いって」
僕の必死の訴えに、一瞬いかにも呆けた表情となる会長殿。
「なっ、馬鹿な! 私が君なんかと…………え、いや、あれ? 君──いえ、あなたって、銀太君? あれ? 私ってば、いったい何を言って…………あれ、あれ、あれれれれ?」
急に顔を真っ赤に紅潮させて焦りまくりながら、支離滅裂なことを言い出す目の前の少女。
「ほんと私、どうしたのかしら? ──あっ、ごめんなさい。ここって銀太君の席だったわよね。あれ? 何で私、こんなところに座っていたんだろう? ……何だか、放課後になってすぐこの生徒会室に来てからの、記憶があやふやなんだけど」
──っ。
記憶があやふやって、まさか!
「か、会長! ひょっとして、記憶が戻ったんじゃないのですか⁉」
「え?」
僕の指摘の言葉にも、ただきょとんとなるばかりの沙羅先輩。
間違いなくその顔つきは、いつもの馴れ親しんだ彼女のものに立ち返っていた。
「覚えていないんですか? ほんのついさっきまで話し方といい表情といいまるで別人みたいで、僕のことさえ見覚えないみたいだったんですよ。あれってもしかして『半年前までの会長』だったんじゃないですか? ──いやあ、昔の会長って、あんなクールな感じだったんですね。あれはあれでいかにも名家の高貴なる御令嬢っぽくて、いいですねえ♡」
などと、僕がそのようにのん気に言った、
まさにその刹那であった。
「──いやああああああああああっ‼」
突然生徒会室中に響き渡る、絹を裂くかのような絶叫。
慌てて見やれば、何と会長が頭を抱えてその場にうずくまっていた。
「か、会長、どうなさったのですか⁉」
「いや、駄目、こっちに来ないで!」
咄嗟に駆け寄ろうとしたところ、ぴしゃりと突きつけられる、明確なる拒絶の言葉。
「……やっぱり、そうなんだわ。私はしょせん、そのうち消え去る定めにある『記憶喪失中の仮の人格』でしかないのよ。きっともうすぐ記憶が元に戻ってしまうに違いないわ。今のはその前兆だったのよ!」
あ。
そうか、記憶喪失が治ってしまうということは、『今の会長』が消えることにもなりかねないんだっけ。
「どのみち無理だったのよ、私なんかがあなたとお付き合いするなんて! こんないつかは消えてなくなる仮の人格ごときが、本当に人との絆を築けるものですか! もう私のことは放っておいて! これ以上近づいて来ないで! 一人にしておいて! ──このまま記憶が完全に戻って、『私』が消えてしまうその日まで!」
そのように叫び終えるや、嗚咽をもらし始める少女。
そんな彼女に対してかける言葉など何一つ見つからず、僕はただいつまでも、その場に立ちつくしていたのであった。
☀ ◑ ☀ ◑ ☀ ◑
それ以来会長はまた以前みたいに、僕のことを拒むようになってしまった。
いやむしろ、その頑なさはこれまでとは比べ物にならないほど、一層強固なものとなっていたのだ。
状況を打開するためにいろいろと話しかけようと聞く耳を持たず、果てには僕とは一切口をきいてくれなくなってしまい、まさに取り付く島もないとはこのことであろう。
しかもこれは程度の差はあるものの、他の生徒会役員を始めとする学園の生徒たちに対しても同様だったのである。
確かに以前の記憶が戻ることによって現在の『自分』というものが消えてしまうかも知れないといった状況は、恐怖以外の何物でもないだろう。
しかしそれにしても彼女の最近における、周囲に対する拒絶ぶりは尋常ではなかった。
それはまるで以前の記憶が甦ることによって、『本来の自分』を他人の目に触れさせることこそを、何よりも恐れているようでもあったのだ。
……もちろん記憶喪失になる前の『半年前までの彼女』のことなんて、それこそ半年前から彼女の周りにいた者なら当然みんな知っているのだから、今更何を恐れる必要があるのかは大いに疑問であった。
それでも僕はきっとその辺にこそ、会長が執拗に他者を──特に一度はお付き合いすることを承諾してくれたこの僕を、拒み続けている理由があるものとにらんでいたのだ。
だから僕は他の誰よりも彼女の『事情』に詳しいと思われる、あの方にすがりつくことにしたのである。
☀ ◑ ☀ ◑ ☀ ◑
「──そんなの当然でしょ? 君は今の沙羅だけを受け容れればそれで良かったのに、記憶喪失以前の彼女までも認めるようなことを言ってしまったから、たがが外れてしまったのよ。つまり君はせっかく沙羅が記憶喪失になってまでつくりあげた、『理想の自分』という仮面であり他人の心無い振る舞いに対する防波堤に、風穴を開けてしまったわけなの」
重厚でシックな調度品で飾り立てられたいかにも大人の隠れ家といった感じの喫茶店の木造りのテーブルを挟んだ向かい側の席で、その年上の少女はコーヒーカップを片手に深紅の唇に思わせぶりな笑みを浮かべながらそう言った。
沙羅会長のここ最近の不可解なる態度の急変について、彼女の一の親友であり何かと事情通の箒星一六三副会長に相談を申し入れたところ、少々込み入った話になるので他人には聞かれたくないからと、学園の生徒が近寄ることなぞほとんどない彼女御用足しの喫茶店へと連れ込まれるやいなや、一番奥手のテーブル席に着くなり開口一番思わぬことを言われ、大いに面食らう下級生の少年であった。
「は? 現在の記憶喪失状態が会長にとっての『理想の自分』であり、仮面だか防波堤だかでもあるって。しかもそれに僕が風穴を開けてしまったですって? ──いやいや。それにしても何ですか、『記憶喪失になってまでつくりあげた』って。普通記憶喪失というのは病気とか事故とかが原因でなるものであって、本人が故意になることができるものなんかじゃないでしょうが? まさかあなたこの期に及んで、会長が記憶喪失のふりをしているだけとか言い出すつもりじゃないでしょうね⁉」
そんな僕の至極もっともな疑問の言葉にも微塵も動じることなく、目の前の一見小中学生にしか見えないくせに実は誰よりも老獪なる少女は、更に平然と言を紡いでいく。
「そんなことないわよ。今回君もいわゆる『半年前までの沙羅』を目の当たりにしたことと思うけど、その時に気がつかなかった?」
「……気がつかなかったって、何にです?」
「以前の沙羅ってその振る舞いにしろ話し方にしろ、今の彼女と比べたらまるで別人じゃないかって。──そう。これでは記憶喪失というよりもむしろ、『多重人格』ではないのかって」
「──っ」
た、確かに。あの時の会長ときたら、普段の彼女からしたらまさに別人としか思えず、その変わりようは、いかにも世に言う多重人格現象そのものだったよな。
「それを踏まえてあえて聞きたいんだけど、君もよく御存じのようにSF小説やライトノベルなんかに頻繁に登場してくる、『多重人格』や『前世返り』や『人格の入れ替わり』などといった広い意味での『別人格化』現象において、主人公等の人格を乗っ取って文字通りに別人化してしまういわゆる『別人格』なんて代物は、いったいどこからやって来ているんだと思う?」
「へ? 別人格がどこからやって来ているのかって……」
何だ。いきなり妙ちきりんなことを言い出したぞ、この学園きっての才媛さんときたら。
「……う〜ん。それってあくまでも、SF小説やライトノベル等の創作物における話ですよね。だったら前世返り──つまりは突然の自分の前世としての戦国武将化や異世界人化の場合においては、過去の世界や異世界から転移してきた戦国武将や異世界人の魂に乗っ取られているんだろうし、人格の入れ替わりの場合においては言うまでもなく、誰か知り合い等の他人とお互いに人格が入れ替わってしまっているんじゃないですか?」
「ブブー、不正解。いくら小説だからって、過去や異世界から人格や魂が転移してきて現代人の身体を乗っ取ったり、この現実世界の中で他人とお互いに人格が入れ替わったりするわけないじゃないの」
「はあ? いやいや。小説だからこそ前世返りや人格の入れ替わりといった超常現象が実現し得るのであって、そんなことを言い出したらそもそもSF小説やライトノベル等の、不思議な非現実的現象を扱う創作物自体が成り立たなくなってしまうじゃないですか⁉」
「残念だけどそんな考えじゃ、今時のうるさ型の読者は誰一人納得してくれないわよ。突然の別人格化の原因を何の根拠も無しに、過去や異世界から魂が転移してきたからとか知り合いと人格が入れ替わったからとか言ったところでね。しかも開き直って『小説なんだから別に構わないではないか』などと口走ったりしたら、ネットで散々叩かれたあげくの果てに大炎上って末路をたどることでしょうよ」
「うっ」
そ、そうなのか? 何て恐ろしいんだ、今時の読者って。
これじゃおちおち、いい加減なSF小説やライトノベルなんて書いてられないじゃないか。
「……だったら副会長は、別人格がどこからやって来ていると思っているのです?」
「だから最初に言ったじゃない。つくっているのよ、それこそ本人の自前の脳みそでね」
「なっ。脳みそでつくっているですって⁉」
「そもそも何でSF小説やライトノベルの登場人物って、前世の記憶に目覚めたり他人と人格が入れ替わったりするのだと思う? ──実はね、それは何よりも、読者がそうなることを願っているからなのよ」
「……いやそんな、身も蓋もない」
「いいえ、これこそはまさしく小説における非現実的なイベントすべてについて言える、『真理』のようなものなの。君も一度くらいは思ったことはない? 他人の心のうちを読み取りたいとか、未来のことを予知したいとか、自由自在に空を飛んでみたいとか、過去や未来にタイムトラベルをしたいとか、異世界に転移してチート能力を手に入れて無双したいとか、──自分の前世が有名な戦国武将や異世界の勇者だったらいいのにとか、気になるあの子と人格を交換したいとか」
──!
「そ、そうか。つまりあなたは僕らが小説等の創作物の類いを好んで読むのは、現実の人間がけして実現し得ない非現実的な願望さえも難なく叶えることができる小説の登場人物たちに対して、いわゆる『自己投影』をしているからこそだと言いたいわけなのですね?」
「そういうこと。かように私たち人間というものは、現実の自分とは異なる『理想の自分』となることを常に夢見ていて、特にSF小説やライトノベルお得意の前世返りや人格の入れ替わりやそれに何と言っても多重人格化といった、広い意味で『別人格化』と呼び得る超常的イベントこそは、まさしくこの『理想の自分になりたい』という願望を具象化しているようなものであるわけなんだけど、別にそれこそ創作物そのままに実際に戦国時代や異世界から魂が転移してきたり知り合いと人格が入れ替わったりするといった非現実的な現象が起こる必要なんてなく、例えば自前の脳みそでそのような別人格をシミュレーションするといったやり方によって、この現実世界で実現させ得る可能性も大いにあり得るの」
「え。脳みそで別人格をシミュレーションするって……」
「実はこれは現代物理学の根幹をなす代表的な理論である、量子論に基づいた正当なる見解でもあるのよ? 我々人間を含むこの世の森羅万象の物質の物理量の最小単位である量子というもののほんの一瞬後の形態や位置を予測できないのは、量子を始めとする万物の未来には常に無限の可能性があり得るからであって、つまり我々人間にもほんの一瞬後に前世返りしたり他人と人格が入れ替わったりする可能性があるということになるの。ある意味量子を始めとして森羅万象のすべてにわたり果ては世界そのものに至るまで、一切合切が一瞬のみの存在に過ぎず、一瞬ごとに無数に存在している『別の可能性の自分』と入れ替わる可能性があって、その中には『前世に目覚めた自分』や『他人と人格が入れ替わってしまった自分』もいる可能性もあり得るというわけなのよ。──もちろん可能性は可能性に過ぎず、この現実世界で前世に目覚めたり他人と人格が入れ替わったりすることなんか原則的にあり得るはずがなく、ただひたすら現実的な日常を繰り返していくばかりなんだけど、これが夢の世界に舞台を移すだけで、話がまったく違ってくることになるの」
「へ? 夢の世界、ですか?」
「つまりは夢の世界の中なら当然のごとく『何でもアリ』なのだから、いかにも非現実的な『別の可能性の自分』となっても別に構わないってことなのよ。しかもそもそも夢の世界には基本的に時間と空間の概念自体が存在しないゆえに、自分の脳みそで無意識に創出した『理想の自分』としての戦国武将や異世界の勇者や誰か知り合い等の他人になりきって、彼らの数十年にわたる人生を一夜にして体験することによって、その記憶が脳裏に鮮明かつ鮮烈に刻み込まれてしまい、目が覚めた後もいわゆる夢の記憶を引きずる形で完全に戦国武将や異世界の勇者や知り合いそのものとなって振る舞っていって、この現実世界において実際に『前世返り』や『人格の入れ替わり』といった非現実的なイベントを実現させることすらも十分可能となるわけなの」
「──なっ⁉」
別人になる夢を見るだけで、SF小説やライトノベルそのままの超常的イベントを現実のものにできるだと⁉
「もちろんこれは前世返りや人格の入れ替わりといったいかにも非現実的なことだけでなく、いわゆる『多重人格』についても同じことが言えて、むしろ何よりも『今の自分とは異なる真に理想的な自分』になりたいがゆえに、無意識に天然の量子コンピュータとも呼び得る自前の脳みそをフル回転させて、まさしく自らの願望をそのまま反映した『別の可能性としての自分』を夢の中でシミュレートして完全になりきることで、例えばSF小説やライトノベル等の諸作品で見られるように、目が覚めた後で左利きの人間が右利きになっていたり、引きこもりの少女が学園きってのエースランナーや軽音楽部の辣腕ギタリストになったりといった、文字通り一夜にして夢を叶えることだってあり得るわけであり、そしてこれは記憶喪失についても同様なの」
「は? 記憶喪失が、前世返りや人格の入れ替わりや多重人格と同じですって?」
「ええ。少なくとも沙羅の現在の状況に関しては、そう言っても差し支えないの。何せ彼女が記憶喪失となったのは病気や事故のせいではなく、あくまでも自分の意思によるものなのですからね」
「自分の意思って、つまり会長は、わざと記憶喪失になったというわけなのですか⁉」
「そうよ。沙羅はある甚大なる精神的ショックを受けたことにより、自ら半年前までの記憶にブロックをかけてしまい、しかもその上で自前の脳みそでシミュレーションすることによって、彼女にとっての『理想の自分』である現在の人格を生み出したの。──まさしくSF小説やライトノベル等の創作物における、前世返りや人格の入れ替わりや多重人格そのままにね」
会長が理想の自分になるためにこそ、自ら記憶喪失になっただって⁉
「……何でわざわざ、そんなことを」
もはやただ呆然とつぶやくばかりの僕に対して、目の前の少女はここで突然これまでにない真剣な表情となるや、決定的な言葉を告げてきた。
「それも当然よ。何せ自分が密かに思いを寄せていた相手から、己の人格そのものを幾重の意味からも、こっぴどく否定されてしまったのですからね」
「──‼」
密かに思いを寄せていた相手だって⁉ 会長にそんな人がいたのか? しかもよりによってそいつから、人格を否定されただと?
「沙羅と私も一年生の頃は君と同じようにお手伝い要員として生徒会活動に参加していたんだけど、当時の本来の沙羅は現在の温和で協調性第一主義の彼女とは似ても似つかない、いかにも名家の御令嬢そのものの高飛車でエリート意識むき出しのとても一年生とは思えない生意気な感じだったんだけど、優秀で仕事ができるのは間違いなく、自分自身も二年生ながらに生徒会長を務めていた切れ者の先輩男子に気に入られて片腕同然に扱われていたの。沙羅もそんな彼のことに全幅の信頼を寄せてほのかな恋心すら抱いていたんだけど、ある日私と一緒にいつものように生徒会室に来た時に、扉の外で偶然聞いてしまったのよ。当時の会長が同級生の会計職の女の子に向かって、『曼陀君は部下としては頼りになるけれど、女性としてはあんな高慢ちきなお嬢様は好みじゃないね。どうせ付き合うのなら君のように控えめで常に男を立ててくれる、可愛げのある子のほうが理想的だよ』なんて、今この場にいないものと思っている沙羅の陰口をたたいているところをね」
……何、だと。
「当然それを聞くや否や、沙羅はその場を逃げ出していって、それ以来生徒会室に近寄ることがなくなったのはもちろん、学園自体にも来なくなってしまったわ。一応それから一週間ほどたってようやく登校したかと思えば、何と記憶喪失になっていて、まったく人が変わってしまっていたの。──まさしくあのクズ男の元会長が言っていたような、『控えめで常に男を立ててくれる可愛げのある女の子』そのままにね。そう。彼女は自分の想い人に気に入ってもらいたいばかりに、無意識にそれまでの記憶をブロックして本来の自分自身を捨て去って、自前の脳みそでシミュレートした『理想の自分』になりきったってわけなの。──それなのにあのクズ男ときたら、沙羅のことを一目見るなり何と言ったかわかる? 『やれやれ。君も何ともつまらない女になったものだ。これじゃ僕の片腕失格だ。今度の選挙は君でなくこっちの会計の子を副会長候補に立てて、僕自身生徒会長の再選を目指すことにするよ』なんてほざきやがったのよ。つまり沙羅は元々の人格だけでなく、あいつのためにつくりあげた新たな人格さえも、完全に否定されてしまったの」
──っ。
「その結果沙羅は今度こそ本当に絶望のどん底に陥ってしまい、すごすごと生徒会室を後にしていったんだけど、親友の私としてはこのままで済ますつもりなぞ毛頭なく、説得に説得を重ねて沙羅に生徒会長として選挙に打って出ることを決意させて、私自身も副会長候補兼参謀として共に選挙戦を闘うことにして、あえて沙羅と会長と会計の子との関係をスキャンダラスにあおり立てた噂を流して、沙羅に対する同情票を集めるとともに、会長のほうはかつて自分の右腕だった記憶喪失中の可哀想な女の子をあっさりと切り捨てた人非人として信用を失墜させて、大差をつけて選挙戦に勝利したって次第なのよ。……ふふふ。ざまあないわね。あのクズ男ったら結局会計の子にも振られて完全に学園に居場所がなくなって、泣く泣く転校していってしまったわ」
そう言って黒々としたほくそ笑みを浮かべる、学園きっての才媛にして策謀家殿。
──こ、怖っ! 女って怖っ!
僕は絶対に、女性を敵に回すようなまねはしないぞ。
しかしそんな僕の決意も虚しく、彼女の新たなる矛先は無情にも、僕のほうへと向けられたのであった。
「だからね、海燕君。君がいくら沙羅が記憶喪失中の仮人格であることに同情して力になろうとしても、まったくの無駄でしかなく、もちろん彼女の気持ちを真に理解することなぞできず、彼女から本当の意味で受け容れられることもけしてあり得ないわけなのよ」
「え。それって、どうして……」
「だってそうでしょう? 『今の彼女』という人格は、別に記憶喪失になったために偶然に生み出されたものではなく、彼女自身の意思によって自前の脳みそで創出された『理想の自分』であるからして、最近SF小説やライトノベル辺りでもてはやされている『いつかは消え去る定めにある記憶喪失中の仮人格に対する憐憫物語』なんて見当違いに過ぎず、むしろ彼女にとっては何度も自分の人格そのものを全否定されてしまったことによって生じた、他人に対する絶対的拒絶の意思の具現──いわゆる仮面や防波堤みたいなものなのであり、つまり現在の彼女には君の想いを受け容れる意思も本来の自分に戻るつもりも、毛頭ないって次第なのよ」
……何……だっ……てえ……。
「ゆえに君も私同様に、本来の彼女を含むすべての沙羅を認めてやるとか言わずに、彼女にとっての『理想の自分』である現在の沙羅だけを尊重していけばいいのよ。そうすれば彼女は心穏やかに、いつまでも理想の自分を演じ続けることができるのですからね。──そう。けして他者に本当の意味で心を開くことなく、すべての者に対して平等に一定の距離を保ちながらね」
そのように僕に向かって言い含めるようにして言葉を切るや、席を立ちそのまま会計を済ませて店を出て行く副会長。
それに対して僕のほうは完全に心ここにあらずといった体でもはや何も考えられず、いつまでもその場に座り込み続けていたのであった。
三、中身よりも外見⁉
それからというもの、沙羅会長の記憶喪失になる以前の『本来の人格』は、更にどんどんと顔を出すようになってしまったのであった。
その普段の彼女にはふさわしからぬ高飛車な言動は周囲を大いに困惑させて、今や生徒会活動に支障をきたすまでに至ってしまっていた。
当の会長自身においても、こうも頻繁に元の人格が顔を覗かせるようになったことを、記憶喪失の快復の前兆──つまりは、大嫌いな『本来の自分』が完全に復活し、現在の『理想の自分』が消え去ってしまう兆しに違いないと思い込んでいて、もはやほとんど錯乱状態となっており、僕を遠ざけようとするのはもちろんのこと、副会長を始めとする生徒会役員全員を生徒会室から締め出して、一人っきりで閉じこもってしまったのである。
むろん本来なら公共の場である学園内においてこのような暴挙が許されるはずがないのだが、前述の通り副会長は会長の気持ちが落ち着きさえすればもはや本来の人格が顔を出すことはなくなり、それ以降はずっと温和で協調性豊かな現在の人格であり続けるものと見なしているので、ここはひとまず会長の思いのままにやらせておこうという方針のようであり、その他の元々記憶喪失である会長に同情的な役員やお手伝い要員たちにおいても異論を挟む者はいなかったこともあって、とりあえずは静観することになったのであった。
ただし、この僕だけを除いて。
そうなのである。どうしても僕は、一人絶望の淵にある会長のことを、放っておくことなぞできなかったのだ。
たとえその結果彼女から、今以上に拒絶されることになろうとも。
☀ ◑ ☀ ◑ ☀ ◑
「──もう私には近づかないでって、言っているでしょう? 結局私は、つくられた偽物の人格でしかないの。そのうち跡形もなく消え去ってしまって、あの嫌われ者の『本物の私』に取って代わられるだけの運命なのよ!」
夕陽射す生徒会室内に響き渡る、悲痛なる少女の声。
およそ十日ぶりに会った最愛の女は、僕のほうを涙目で睨みつけながら、開口一番そう言った。
けれども臆してなんか、いられない。
本当にこのまま放っておいたりしたら、彼女は他人どころか自分自身すらも信じられなくなり、偽りの仮面を被ってただひたすら閉じこもり、完全に自分を見失ってしまいかねないのだ。
「だから言っているじゃないですか⁉ つくられた仮の人格であろうが元々の人格であろうが関係なく、僕はあなたのすべてを認めて受け容れているのであって、たとえこのまま記憶を失っていようが記憶が戻ってまた人格が変わってしまおうが、あなたのことを変わらずずっと愛し続けてみせると!」
「嘘よ! そんなこと信じられるものですか! 口だけなら何とでも言えるわ! あなたもその目で見たんでしょう? ──あの『本物の私』を。あんな人を人とは思わない高慢で生意気なお嬢様が、他人から受け容れられるはずがあるものですか。あなただってきっと、私のことを嫌いになるに違いないわ!」
そう言ってすべてを拒絶するかのように顔を両手で覆い隠し、うつむいてしまう少女。
だから僕はその時、自分の本心をすべて包み隠さず明かしたのであった。
「何を恐れる必要があるんです。『あの会長』だって、あなた自身ではないですか? 別に一方がもう一方を消し去るとかではなく、両方共が並び立つことができるのです。あなた自身が『あのあなた』を受け容れることさえできれば、ちゃんと共存することだって可能なのですよ。もちろん以前の自分を認めるには、それ相応の葛藤があることでしょう。──それこそ、記憶喪失になるくらいにね。そんなに簡単には、一度は切り捨てた自分を受け容れることなんかできないでしょう。だから、この僕にお手伝いさせてください! 僕ならば今のあなたと同様に、以前のあなたをも受け容れて愛することができます! これからずっと側にいて支え続けていきますので、二人でがんばって過去を乗り越えましょう!」
「……銀太君」
気がつけばいつしか会長が顔を上げて、こちらを見つめていた。
桃花のごとき唇に浮かんでいる、ほのかな微笑み。
「それ、本当?」
「ええ!」
「こんな私でも、いいの?」
「はい!」
「もしもこのままあの高飛車な『私』に戻っても、構わないの?」
「もちろん!」
「……そう」
そしてまたしても顔をうつむけて、完全に表情を隠してしまう少女。
「か、会長?」
「──うふ、うふふふふ」
その刹那、唐突に聞こえてくる、忍び笑い。
しかもそれはたちまちのうちに、さも愉快げな哄笑へと成り代わったのだ。
「ふふふ、ふふふふふふふ。くくっ、くくくくく、くくくくくくく! あはっ、ははは、わはははははははは!」
「ちょ、ちょっと、会長⁉ いったい、どうしたって……」
「──いやあ、笑わせてもらったよ」
再び少女が顔を上げた時、そこにはまったくの別人がいた。
ま、まさか、これって⁉
「たとえ記憶が戻ろうが戻るまいが、変わらず愛し続けてくれるって? ふん、とんだお笑い草だな。君が好きになったのはあくまでも、記憶喪失中の仮人格である『私』のほうだろうが? それなのに記憶喪失になる前の本来の人格であるこの私をも愛してみせるだなんて、むしろ不誠実じゃないのか? もちろん私とて、お情けで愛してもらう必要なんてないよ。馬鹿にするんじゃない!」
その人を突き放した冷たい口調と顔つきは、普段の彼女とはまったくかけ離れたものであった。
「……あなたは、もしかして」
「ああ。君にもわかりやすく言えば、『半年前までの本来の曼陀沙羅』だよ」
──っ。もはやこんなにも簡単に、人格が入れ替わってしまうようになっていたのか⁉
「さて。博愛主義の海燕銀太君としては、それでもこの私のことを愛してくれると言えるのかな?」
「も、もちろんです!」
「……ほう。まさかそこまで、面の皮が厚かったとはな。まったく別々の人格とも言える私たちを同時に愛せるなどとほざくことに、自分自身少しも矛盾を感じないわけなのかい?」
「矛盾なんてあり得ません! 僕は胸を張って、あなたのすべてを──そう。すべての人格を、等しく愛せると誓えます!」
「ふうん? だったらその根拠となるものを、私にも納得できるように説明してもらえるかな?」
「いいでしょう。簡単なことです!」
そしてついに僕は、自らの女性に対する恋愛感情における根本原理を、つまびらかにした。
「だって僕は最初からあなたの身体目当てだったのだから、人格がどうであろうが関係ないのですよ」
「…………………………………………は?」
僕のまさしく正真正銘の『本音』を突きつけられるや目を点にして、『この会長』としてはあまり似つかわしくない、いかにも呆けた表情となってしまう、目の前の年上の少女。
「──え、あの、いや。か、身体目当てって、この私のか⁉ ちょっと君、いくら何でもそれはないだろう? いきなり何てことを言い出すんだ⁉ は、破廉恥な!」
そのように顔を真っ赤にしてしどろもどろに食ってかかってきながらも、我が身を護るがごとく胸元を掻き抱くその様は、あたかも目の前の一見頼りない下級生の少年がれっきとした一匹の獣であることを再認識したかのように、怯えの色すらも垣間見えて、もはやそこには高飛車お嬢様生徒会長としての威厳なぞ微塵も存在していなかった。
「あ、身体目当てと言ってもボディだけでなく、ちゃんと顔も含まれていますからね。言わば『一目惚れ』の全身版みたいなものなんですよ」
「外見重視ということでは同じだろうが⁉ ふざけるな! だったらこの私という人格なんて、どうでもいいってことなのか⁉」
「どうでもいいだなんて、とんでもない。むしろ会長さんのようにいろいろな人格がおありのほうが、僕としてもそれぞれに楽しめてお得ですし」
「お、お得って。それではまるで人格というものが、肉体のおまけか付属物でしかないみたいじゃないか⁉」
「ええ、そうですよ? しょせん人格なんてものは、肉体によって生み出された単なる付属物に過ぎないのです。──何せ人の『本質』というものは、人格や精神や意識なんかではなく、肉体にこそあるのですからね」
「は? 人の『本質』は肉体にあるって……」
「副会長さんは記憶喪失中の仮人格のことを、SF小説やライトノベルに登場してくる多重人格等の広義の『別人格化』と同じく、本人の脳みそによって『つくられた偽物』に過ぎないなんて言っていたけど、そんなのは単なる小説の読み過ぎでしかないんだ。非常に残念なことだけど文字情報によって構成されている小説においては、どうしても人間というものをその内なる人格を主体に考えがちで、たとえ肉体がそのままであろうとも、突然前世に目覚めたり誰か他人と人格が入れ替わったりするようなことがあればそのとたん、文字通り別人になったかのように描写し始めるけれど、これは大きな間違いなのです。と言うのも、実は物理学においては現代の量子論は言うに及ばず遥か昔の古典物理学の時代から、人の人格とか精神とか意識とかいったものはその個人を決定づける絶対的に普遍なものなぞではなく、あくまでも脳みそによってつくり出されている物理的存在に過ぎず、言わば肉体にとっては単なる付属物でしかないのです。そう。元々人格や精神や意識といったもの自体がすべて肉体の付属物に過ぎないのだから、本来の人格だろうが記憶喪失中の仮人格だろうが、本物も偽物もないんですよ。よって小説に書かれていることや最近何かともてはやされている量子論なんかに惑わされずに、もっとシンプルにとにかく肉体こそを主体にして考えればいいのです。そもそも小説においては、記憶喪失や多重人格等の文字通り『人が変わってしまう』類いの非日常的イベントを展開するに当たって、人格的変化と肉体的変化とをごっちゃにし過ぎているんですよ。作品によっては左利きの人間が記憶喪失になったとたん右利きになったり、単なる引きこもりの少女が多重人格化したとたん学園きってのエースランナーや辣腕ギタリストに同時になったりすることがあるけれど、人の利き腕は先天的な脳の働きによって決まるのだから、記憶喪失になったからって変わったりすることなぞあり得ず、同様にランナーとギタリストとでは鍛えられる肉体の部位が大きく異なるのだから、多重人格化したからといって一人の人間が両方同時になれることはもちろん、その二つの人格を都合よく使い分けたりできるはずがないのです。しかも記憶喪失や多重人格が解消したとたんそれまでの経緯を一切無視して、あっさりと左利きの人間やただの引きこもりに舞い戻ってしまうことになっているけど、一度右利き用につくり変えられた脳の仕組みや、エースランナーとして鍛え抜かれた肉体や、学園屈指のギタリストとして指先にまで染みついた演奏テクニックが、跡形もなく消え去ってしまったりするものですか。これこそが肉体ではなく人格なぞといったあやふやなものを主体としている小説ならではの弊害なのであって、むしろすべては肉体こそを主体にして考えていくべきなのです。そうすればこのような初歩的な過ちを犯さずに済むし、それに何よりも肉体を主体に置くことで、単なる付属物でしかない人格のほうに関しては、いくら記憶喪失や多重人格化の前後において文字通りに別人そのものと言っていいほどの違いがあろうと、そのすべてを本人の本物の人格と見なしたところで別段構わないのですからね」
そんな僕の滔々と流れるような理路整然とした説明を聞き終えるや、目を丸くする年上の少女。
「すべての人格が、本人にとっての本物の人格だと? あの『記憶喪失中の仮人格である私』──まさしくこの本来の私とは何もかもが正反対の『私』すらも、本物の人格だと言うのか⁉」
「ええ。言うなれば人格というよりもむしろ、元々あなたの中に秘められていた性格が、前の生徒会長の心無い言葉によって傷つけられたのを契機にして顔を出したようなものなのですよ。だからどっちが本物とか偽物とかはなく、もちろんお互いに打ち消し合う関係にもないのであって、最近になってそのように本来のあなたの人格──いえ、性格が顔を出し始めたのは、記憶喪失が快復して仮人格が消え去ってしまう前兆なんかではなく、むしろ二つの性格が一つになり始めた証しだったのです」
「記憶喪失中の仮人格もけしてつくられた偽物の人格なんかではなく、元々私の性格の一つだったのであり、今まさにそれぞれの性格が混じり合おうとしているだと? こんな高飛車で人を人とも思わないことで定評がある私に、実はあんなにも温和で協調性豊かな性格が秘められていたわけなのか?」
「うふふふふ。そう思われるのも当然なことなのです。何せ人の性格なんてものは本当のところは、他人どころか自分自身にだってしかとはわかっていないのであり、それなのに『僕は君の外見でなく中身に惚れたんだ!』なんて言うのは一見誠実のようでいて、思い上がりもはなはだしい単なる戯言でしかないのですよ。もしもそんなことを言われた時には、むしろ女性としては怒るべきなのです。『あなたなんかに私の性格が、本当にわかっているとでも言うの? あなたは私のことを、わかったつもりになっているだけよ!』とね。それに対して身体目当てであるからこそ僕は、真にあなたそのものを愛していると断言できるわけなのです。だからあなたも自分の人格を卑下する必要なぞなく、自らそのすべてを認めて、他人から愛されることを当然のこととして受け容れていけばいいのですよ。──それに何より、こうして本来の人格が表に出ている時にも、記憶喪失中の仮人格のほうも完全に排除されているわけではないことは、あなた自身がよく御存じのはずですしね」
そのように延々と続いた長口上を思わせぶりな言葉で締めるや、とたんに呆気にとられた表情となる目の前の少女。
そしてすぐにその桃花の唇から、いかにも心底楽しそうな笑声がこぼれ落ちてくる。
「うふ、うふふふふ。まったく、あなたときたら」
もはやうれし涙すら浮かべ始めたその宝玉のごとき黒曜石の瞳は、僕のよく見知ったものへと成り代わっていた。
「よくわかったわね、私の中の人格が淘汰し合っていたのではなく、むしろ一つになろうとし始めていたことを」
「さっきから言っているように僕は常に肉体を主体に考えていますから、人格なんてころころ変わっても当然のことに過ぎず、しかもそのすべてが本物だと思っていますしね。だからこそ先ほどいきなりあなたの『本来の人格』が顔を出したのを目の当たりにすることによって、むしろ現在のあなたは完全に『記憶喪失中の仮人格』であるようでいて、ちゃんと同時に『本来の人格』のほうも存在していることを確信できたといった次第なのですよ」
「……でも、本当にいいの? こんな私と付き合っていったんじゃ、いろいろと面倒なことばかり起きると思うわよ?」
「別に構いませんよ。何せ僕は身体目当てなのですからね。その面倒ごとすらもひっくるめて、あなたのすべてを愛してみせますよ!」
「もう、銀太君ったら。そんなに調子のいいことばかり言ってて、もしも私のことを捨てたりしたら許さないから。けしてもう二度と、あなたのことを離しはしないわよ」
そのように冗談半分にいかにも拗ねたような表情をつくって釘を刺してくる、最愛の女。
──おおっ。会長ってば、意外と可愛いとこあるじゃん。
だから僕もおふざけ半分本気半分で、こう言ったのであった。
「うほっ。まさか『品行方正お嬢様』や『ツンデレ高飛車女王様』だけでなく、更に『ヤンデレ』の人格まで付いていたとは⁉ これは今後の展開が大いに楽しみですなあ」
お久しぶりあるいは初めまして、881374と申します。
ちなみに881374は、『ハハ、イミナシ』と読みます。
もちろんこれは本名ではなくペンネームですが、実は私はかつてニュースにしろドラマにしろテレビに名前が出てくる回数が最も多い、日本で一番有名な某お役所に勤めていた経験があったりするのですが、この881374といういかにも意味不明な数字の羅列は、その当時の激務の日々の思い出にまつわるものであります。(※あまり詮索すると、怖いおじさんたちにしょっぴかれるかも知れませんので、ご注意を!)
さて、今回の作品についてですが、アンチミステリィの最高傑作にして平成最大の奇書として各方面に物議をかもした(?)『人魚の声が聞こえない』完結後の栄えある第一作ということもあり、この勢いを殺さずに同系統の長編シリーズを続けざまに一気に投稿することも考えたのですが、何と言ってもあのような重い内容の作品が長らく続いたことでもありますので、ここら辺で比較的軽く読める短編作品をいわゆる『箸休め』的に挟んでみたわけなのですが、いかがだったでしょうか。
とりあえず本作品における最大のテーマとしての、「実は『身体目当て』というのは非常に正しく、『外見よりも中身』というのは単なる欺瞞に過ぎないのである」については、本編クライマックスにおいて主人公が微に入り細に入り散々語り尽くしておりますので、この後書きでは書くことがほとんど無かったりします。
それでも小説書きの一員としては、かくのごとく何よりも『小説の常識は現実的には非常識』であることを、これからも肝に銘じて創作活動に打ち込んでいきたいかと思っております。
それというのも本編中にも記しましたが、小説というものは文字媒体であるゆえに、主人公を始めとする作中登場人物については肉体よりも人格や精神といったものを主体にしがちで、主人公の人格が突然他人の肉体に宿るなんて非現実的なことが起ころうとも、その論理的根拠の有無を一切考慮することなく、以降はその別の人物のほうを主人公として扱っていくという、とても信じられない約束事が横行している有り様なのです。
一応本作は娯楽作品であるがために、作中においてはいかにもギャグっぽく書きましたが、むしろ『身体目当て』であることは、他者に対する好意や愛情における『真理』とも言えるのではないでしょうか。
何せ今更あえて言うまでもなく、小説のようなフィクションとは違ってこの現実世界においては、いきなりAという人物が「実は今の私にはBという人物の人格が宿っているのだ」と言ったところで信じる者なんかおらず、「馬鹿こくでねえ」の一言で済まされてしまうことでしょう。
事このように実際問題としては、その人物のアイデンティティというものは、存在自体があやふやな人格や精神などといったものではなく、あくまでも肉体を基準に判別されるものなのです。
我々小説書きはたとえそれがSF小説などという非現実的な分野の作品であろうとも、常に『常識』というものをわきまえて作品づくりを行わないと、そのうち読者様方から見放されてしまいかねないことを、けして忘れてはならないでしょう。
……とまあ、このようにくそ真面目なことをくどくどと書き続けていても、読んでおられる読者の皆様のほうはうっとうしいだけでしょうから、ここら辺で本編の裏設定などについても言及しておこうかと思います。
おそらく多くの方が本編の登場人物のネーミングの奇妙さに疑問を抱かれたことでしょうし、もしかしたら私と趣味が合う方であれば気づかれたかも知れませんが、作中の人名等の固有名詞については、基本的に第二次世界大戦中のドイツ空軍のジェット機やロケット機やその運用部隊の名称を基にしております。
・主人公の海燕銀太は、世界初の実用ジェット機Me262(俗称『銀』)の戦闘爆撃型の愛称『海燕』から。
・ヒロインの曼陀沙羅は、大戦末期に挙国一致体制で急遽大量生産されたかの有名な『国民戦闘機』である、これまた小型の単発ジェット戦闘機He162の俗称『ザラマンダー』から。
・ちなみに彼女が伽藍杜学園第四十四代生徒会長であるのは、高名なMe262の運用部隊名がJV44と言い、その部隊長が当時中将(!)にしてこれまた有名なドイツ空軍の誇るエース中のエース、アドルフ=ガランドだったから。
・沙羅の無二の親友にして希代の策謀家の箒星一六三は、世界初にして唯一の(つまりは結局使い物にならなかった)実用ロケット戦闘機Me163の愛称『彗星』(=箒星)から。
そもそもどうしてこんなマニアックなネーミングにしたかと申しますと、この作品を制作中に読んだ、『傑作なき傑作集』で有名な某SF小説年間傑作選の中の一作に、架空のジェット飛行生物の固有名に『コメット』とか名付けた馬鹿作家殿がいやがりなさったので、「彗星はロケット機であり、ジェット機なら燕か銀だろうが!」との怒りの一念で、今回のネーミングと相成った次第でした。
──それでは、次回こそ前回の『人魚の声が聞こえない』の後書きで予告した、『ツンデレお嬢様とヤンデレ巫女様と犬の僕』か『僕の可愛い娘たち』あるいは『最も不幸な少女の、最も幸福な物語』等の長編新シリーズか、今回同様に突発的新作短編作品にて、再びお会いいたしましょう。